『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月25日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六回
(六)
私はそれから時々先生を訪問するやうになつた。行くたびに先生は在宅であつた。先生に會ふ度數が重なるに伴(つ)れて、私は益(ます/\)繁く先生の玄關へ足を運んだ。
けれども先生の私に對する態度は初めて挨拶をした時も、懇意になつた其後も、あまり變りはなかつた。先生は何時(いつ)も靜(しづか)で懇意になつた其後(そののち)も、あまり變りはなかつた。ある時は靜過ぎて淋しい位であつた。私は最初から先生には近づき難(かた)い不思議があるやうに思つてゐた。それでゐて、何うしても近づかなければ居られないといふ感じが、何處かに強く働いた。斯ういふ感じを先生に對して有(もつ)てゐたものは、多くの人のうちで或は私だけかも知れない。然し其私丈には此直感が後(のち)になつて事實の上に證據立てられたのだから、私は若々しいと云はれても、馬鹿氣(ばかげ)てゐると笑はれても、それを見越した自分の直覺をとにかく賴もしく又嬉しく思つてゐる。人間を愛し得る人、愛せずにはゐられない人、それでゐて自分の懷(ふところ)に入(い)らうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出來ない人、―是が先生であつた。
今云つた通り先生は始終(ししう)靜かであつた。落付いてゐた。けれども時として變な曇りが其顏を橫切(よこき)る事があつた。窓に黑い鳥影(とりかげ)が射すやうに。射すかと思ふと、すぐ消えるには消えたが。私が始めて其曇りを先生の眉間に認めたのは、雜司ケ谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であつた。私は其異樣の瞬間に、今迄快よく流れてゐた心臟の潮流を一寸(ちよつと)鈍らせた。然しそれは單に一時(じ)の結滯に過ぎなかつた。私の心は五分を經(だ)たないうちに平素の彈力を回復した。私はそれぎり暗さうなこの雲の影を忘れてしまつた。ゆくりなくまた夫(それ)を思ひ出させられたのは、小春の盡きるに間のない或る晩の事であつた。
先生と話してゐた私は、不圖先生がわざ/\注意して吳れた銀杏の大樹を眼の前に想ひ浮かべた。勘定して見ると、先生が每月例(まいげつれい)として墓參に行く日が、それから丁度三日目に當つてゐた。其三日目は私の課業が午(ひる)で終へる樂な日であつた。私は先生に向つて斯う云つた。
「先生雜司ケ谷の銀杏はもう散つて仕舞つたでせうか」
「まだ空坊主(からばうず)にはならないでせう」
先生はさう答へながら私の顏を見守つた。さうして其處からしばし眼を離さなかつた。私はすぐ云つた。
「今度御墓參りに入らつしやる時に御伴(おとも)をしても宜(よ)ござんすか。私は先生と一所に彼處(あすこ)いらが散步して見たい」
「私は墓參りに行くんで、步に行くんぢやないですよ」
「然し序(ついで)に散步をなすつたら丁度好(い)いぢやありませんか」
先生は何とも答へなかつた。しばらくしてから、「私のは本當の墓參り丈なんだから」と云つて、何處迄も墓參と散步を切離さうとする風に見えた。私と行きたくない口實だか何だか、私には其時の先生が、如何にも子供らしくて變に思はれた。私はなほと先へ出る氣になつた。
「ぢや御墓參りでも好(い)いから一所に伴れて行つて下さい。私も御墓參りをしますから」
實際私には墓參と散步との區別が殆(ほとん)ど無意味のやうに思はれたのである。すると先生の眉がちよつと曇つた。眼のうちにも異樣の光が出た。それは迷惑とも嫌惡とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであつた。私は忽ち雜司ケ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思ひ起した。二つの表情は全く同じだつたのである。
「私は」と先生が云つた。「私はあなたに話す事の出來ない或理由があつて、他(ひと)と一所にあすこへ墓參りには行きたくないのです。自分の妻(さい)さへまだ伴れて行つた事がないのです」
♡「然し其私丈には此直感が後になつて事實の上に證據立てられた」如何にもまどろっこしい言い方であるが、これは先生が「私」に遺書を託したこと、そのことを指しているのである。
♡「若々しい」(一)で注した通り、現在のフラットな用法とは違う。「未熟な」とか「無知な」といったニュアンスの語である。
♡「まだ空坊主にはならないでせう」前章に掲げた注の大正元(1912)年11月29日の日記に、銀杏ではないが『欅のから坊主になつた下に楓が左右に植え付けられて黃と紅との色が左右にうつくしく映る。』と記している。
♡「それは迷惑とも嫌惡とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであつた」これは美事に不達意の文章である。「それは迷惑」というのでもないが「迷惑」だというニュアンスを保持し、「嫌惡」というのでもないが「嫌惡」というニュアンスを保持し、「畏怖」というのでもないが「畏怖」というニュアンスを保持するところの、「迷惑」「嫌惡」「嫌惡」の何れにも該当しない、「微かな不安」というものに似た、しかし「微かな不安」とも言い切れないようなものであった、というのである。
♡「自分の妻さへまだ伴れて行つた事がないのです」遺書で明らかになるように、これは事実に反する。しかし先生は嘘をついたのではない。先生は靜をこのKの墓に一度連れて行ったという事実(「こゝろ」「下」五十一)を、自分の過去の記憶から消去したかったからこそ、このような錯誤・発言をしたのだと私は解釈している。なお私は、この先生に雑司ヶ谷の墓参の同行を望むも断られるというエピソードを「私」19歳、明治41(1908)年の11月下旬頃と推定している。]