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2010/04/13

耳嚢 巻之二 會下村次助が事

「耳嚢 巻之二」に「會下村次助が事」を収載した。

 會下村次助が事

 御勘定奉行支配にて關東樋橋切組方棟梁(とひはしきりくみかたとうりやう)と也、恐多くも御目見迄なせし岡田次助といへるは、元來會下(ゑげ)村の土民なりしが、才覺ありて色々の請負などせしが、後は右の通結構に仰付られける。其始を聞に、美濃伊勢の御普請の節初て其きざしを生じけると也。美濃伊勢の國川々の御普請有りて、大名の御手傳をも仰付られければ、次助儀江戸は勿論葛西等の人足稼(かせぎ)する者へ、此度美濃伊勢の御普請に行なば金錢は摑み取なり。かゝる時節手を空しくなさんも本意なしとて、人數五六十人もかり催し、彼地へ至りて五三日逗留なせし内、御手傳方へ取入、人足賃も外よりは引下げて請負ければ、役人も其價安きに任せて申付ければ、次助面白からざる躰(てい)にて旅宿へ戻り、五六十人の者共を集め、扨々存の外の事也、御手傳方へ取入色々承合候處、美濃伊勢の人足尾張知多の人足などにて最早大方割渡し極りし故、請負べき沙汰に及ばず、是迄の路用を費として我等は是より歸り候間、各も歸り給はるべしと有ければ、人足共大きに憤り、遙々汝が誘ひに任せ來りて空敷(むなしく)歸らん樣やある、歸りの路用なき者もあればいづれとも身分のたてやういたし呉可申と罵りければ、次助申けるは、成程尤の事なれ共我迚も同じ事なり。夫を遺恨と思ひ給はゞ、次助を殺しなり共いかやうにもして各々の氣を濟し給へといひけるにぞ、五六十人の者どもすべき樣なく十方に暮ける時、次助申けるは、爰に一つの相談有、各我等共に歸りの路用を稼候と思ひ格別に安くして働なば、御手傳方へ願ひて一働いたし見可申といひければ、隨分其通りなし候樣に答ける故、心得しと御手傳より引受し金高より猶又下直(げじき)に拂ひいだしけるに、御手傳方にても彼が手先の手ばしかきに隨ひ、追々増普請等の人足を請負せけるにぞ、下拂も夫に應じ増しを遣し、此御普請にて多分の利潤を得て追々仕出ける。御用に付予が元へも來りしが、たくましきおのこにてありし。

□やぶちゃん注

○前項連関:普請御用絡みで連関。

・「會下村」武蔵国埼玉郡にあった村。近現代に至り埼玉県北埼玉郡川里村に吸収された。現在の川里村はその凡そ7割が水田地帯である。

・「御勘定奉行」勘定奉行。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。定員約4名、役高3000石。老中支配で、勘定奉行自身は郡代・代官・蔵奉行などを支配した。享保6(1721)年、財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれており、ここで言うのは勝手方勘定奉行であろう(以上はウィキの「勘定奉行」を参照した)。

・「樋橋切組方棟梁と也」底本では「也」の右に『(成り)』と注す。勘定奉行配下で河川施設や橋の建設を独占的に差配する、所謂、幕府御用達の大工棟梁。以下のブログに次のようにある(このページそのものが孫引きであるのでページ名は示さない。記号の一部を変更、改行を省略した)。『1790年、今度は松平定信による寛政の改革が行われます。この年から定請負は廃止する事になり、再び町奉行と勘定奉行の共同管理とし、町奉行の下に川定掛り(定川懸)が南北町奉行所の江戸向、本所方担当各1名の計4名が橋の管理専門の職に就くことになります。この方式は,彼らが現場を検分し、必要となれば、勘定方の普請役が金額を見積もるものの、工事は樋橋棟梁の蔵田屋清右衛門と岡田次助が担当し、入れ札を行わないと言うものです。つまり、今まで奉行所が実権を握っていたのが、橋の架け替えについての決定権を勘定方が握ることになります』。1790年は寛政2年。鈴木氏は「卷之二」の下限を天明6(1786)年までとするが、本話柄でこの「樋橋切組方棟梁」と言う呼称を用いているのは、寛政2年以降の記載であることを示すものではないか? 識者の御意見を請うものである。

・「岡田次助」上記以外にも、ネット上で管見出来る新潟大学附属図書館の越後国出雲崎湊の廻船問屋泊屋(佐野家)の文書、佐野喜平太氏コレクションの「佐野家文書目録」なるものの「K25」に古文書「御材木送リ状写シ書 佐野新田」があり、その差出人として「樋橋切組方棟梁岡田次助」の名を見出せる。

・「葛西」武蔵国葛飾郡。現在は東京都墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区それぞれの一部によって形成されている。江戸川と荒川に挟まれた地域。「葛西等の人足稼する者」という表現は、ここに特異的にそうした連中が多く居たことを示している。ここは江戸時代には江戸の辺縁部であったから、地方から流れて来た者、逆に都市部から弾かれた人々が多かったということであろうか。識者の御教授を乞う。

・「五三日」数日の意。

・「下直(げじき)に」は底本のルビ。値段が安いこと。「高値」(かうぢき)の反対語。

・「手ばしかき」「手捷し」と書く。「てばしこし」の転訛。手早い。素早い。

・「下拂」下請けへの支払。

■やぶちゃん現代語訳

 会下村次助の事

 勘定奉行配下の正式な関東樋橋切組方棟梁(といはしきりくみかたとうりょう)となり、畏れ多くも将軍家御目見得まで致いた岡田次助という者、元来は武蔵国埼玉郡会下(えげ)村の土民に過ぎなかった。

 才覚あっていろいろな幕府関連の請負工事を成し遂げ、遂には斯くの如き栄誉をも仰せ付けられるに到ったのであったが、その起立(きりゅう)を聞けば、

「……そうですなあ……美濃・伊勢の御普請が御座った折り、初めてそうした運が回ってくる兆しが御座ったと言えば、へへ、これ御座ったな……」

と……その話。――

 ……美濃国及び伊勢国に於いて川普請これあり、次助は任された大名衆の普請手伝いをするよう仰せ付けられた。次助は江戸表は勿論、郊外の葛西なんどにも足を延ばして人足稼ぎをする者たちに、

「美濃・伊勢の御普請に行けば、金銭はつかみ取りじゃ! こんな時に手を拱(こまね)いて見てる法はねえぞ!」

とぶち上げ、まんまと五、六十人の人足を刈り集め、かの地へへと乗り込んだ。――

 現地に着いてから数日の後、大名衆の御手伝方にも首尾よくとり入ることに成功したのだが、ここで更に次助は、人足の労賃も他よりひどく引き下げた値いを示し、確かにこれで請け負う旨申し出たところ、大名衆の役人、その賃金の驚くべき安さに喜び、普請仕事は総てこの次助に任すことと相成った。――

――ところが――

 ……その晩のこと、次助は、如何にも面白くないといった風体で旅宿へと戻って来て、人足を皆々呼び集めると、

「……さてさて……思いもせなんだことに相成った。……御手伝方に取り入ったまでは良かったが、そこでいろいろと訊いてみたところが……美濃・伊勢の川普請人足は、尾張・知多の人足なんどで最早、大方割り振り、これ、決まっておる故、請け負うべきものがないと、きた!…………なれば、ここまで来た路次(ろし)は捨てたと思うて……儂は、帰る!……されば、各々も、勝手にお帰りになられるがよい……」

と言ったからたまらない。人足ども大いに憤り、

「手前(てめぇ)!! 手前(てめぇ)が誘うのにまかせて、遙々名古屋くんだりまで連れ来たっといて、手ぶらで帰(けえ)れたぁ、何事でぇ!!……帰(けえ)りの路銀せえねえ奴がいる! おい! 一人残らず我らの身上(しんしょう)立つように、何とかしてくんな!!」

と激しく罵る。

 ……と、次助、

「――成る程――そりゃ尤もだ――尤もだが、そりゃ儂も同じことじゃ。――お前さん、それを遺恨とお思いなさるんなら――この次助を、殺すなり焼くなり何なり、好きにして、各々の鬱憤、お晴らしなさるがいいぜ!……」

と凄んだ。

 その切れるような眼光に五、六十人の人足どもも一時しーんとなり、ただただ途方に暮れた。――

――と――

その静寂の中、徐ろに治助が語り出す。――

「……ここに一つ……相談があるんじゃがのぅ……各々、我らと、帰りの路銀ぐらいは稼がねばという気持ちにて……格別に仕事を安うに引き受けてみるちゅうのは……これ、どうじゃ? それならば、一つ、御手伝方に何とか再び願い出て、お主らのために、一働(ばたら)き致いてみようではないか?!……」

人足どもはこれを聞くや、

「おう! それよ! 何とか上手く、その通りに、してくんない!」

と応じる。治助はにっこり笑うと、

「心得た!」――

 ……もうお分かりで御座ろう。その後、次助は、人足どもには大名衆御手伝方から引き受けた際の正規の契約賃金よりも更に低い擬装労賃を示して働かせたのであった。

 しかし、これは次助が浮いた金を懐に入れるという吝嗇臭い話なのではない。

 大名衆御手伝方連中も、次助のところの人足は、誰もが如何にも仕事が素早く順調に進む――考えてみれば当たり前で、騙されたとも知らず、人足どもは早く江戸に帰りたいがために螺子を巻いていたのだ――という訳で、追々この時の川普請で追加された増普請等の請け負いをも順次、この次助方に回されることとなった。当初は騙した人足への支払もそれに応じて増してやったれば、ますます人足たちも仕事に精を出したので御座った。

 この普請によって、次助はたっぷりと――聊かは汚いやり口では御座ったが――利潤を得、それをきっかけとして、次第に頭角を表わして御座ったのであった。

――御用向きにて、私の元で働いたことも御座った男であるが、いや、誠(まっこと)気風のいい逞しい男にて御座ったの。

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