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2010/04/18

耳嚢 巻之二 供押の足輕袴を着す古實の事

「耳嚢 巻之二」に「供押の足輕袴を着す古實の事」を収載した。

 供押の足輕袴を着す古實の事

 諸大名の供足輕袴を着し、若年寄其外御旗本の足輕は袴を着せざる。寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯の足輕は何れも袴を着し、夫より若年寄に進み給ひて押足輕袴を取候事、仔細もあらん事と思ひしに、久松筑前守語りけるは、都(すべ)て諸家の足輕にて同心也。御城は圍(かこひ)御用差懸り候節は諸家へ可被仰付、其節の爲也と聞傳へし由、筑前守かたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:言い伝えの双頭の生き物が実在したように、一見理解出来ない供押足軽の袴着用にも故実としてのプラグマティックな意味があるという連関。この話柄を理解するためには、幾つかの知識が前提として必要である。まず足軽の身分である。足軽は戦時の雑兵であったが、江戸の平時に至ってお払い箱になった。以下、ウィキの「足軽」より引用する。『戦乱の収束により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった』が、『江戸幕府は、直属の足軽を幕府の末端行政・警備警察要員等として「徒士(かち)」や「同心」に採用した。諸藩においては、大名家直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用それに「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた』。『一代限りの身分ではあるが、実際には引退に際し子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であり、また薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。加えて、有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等の、ステップとしての一面もあり、中世の無頼の輩は、近世では下級公務員的性格へと変化していった』。『また、足軽を帰農させ軽格の「郷士」として苗字帯刀を許し、国境・辺境警備に当たらせることもあった。こうした例に熊本藩の「地筒・郡筒(じづつ・こうりづつ)」の鉄砲隊があり、これは無給に等しい「名誉職」であった。実際、鉄砲隊とは名ばかりで、地役人や臨時の江戸詰め藩卒として動員されたりした。逆に、好奇心旺盛な郷士の子弟は、それらの制度を利用して、見聞を広めるために江戸詰め足軽に志願することもあった』。『江戸時代においては、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役目の足軽もおり、「江戸学の祖」と云われた三田村鳶魚は、「足軽は兵卒だが、まず今日の下士か上等兵ぐらいな位置にいる。役目としても、軍曹あたりの勤務をも担当していた」と述べているように、準武士としての位置づけがなされた例もあるが、基本的に足軽は、武家奉公人として中間・小者と同列に見られる例も多かった。諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の記入はなくて、ただ人数だけが記入されているものが多い。或いはそれさえないものがある。足軽は中間と区別されないで、苗字を名乗ることも許されず、百姓や町人と同じ扱いをされた藩もあった。長州藩においては死罪相当の罪を犯した際に切腹が許されず、磔にされると定められており、犯罪行為の処罰についても武士とは区別されていた』。特に、この後半の厳然たる侍や御徒士(おかち)とは差別されていた「足軽」をここでは根岸の、と言うより当時一般の「足軽」のイメージとした方がよい。則ち、袴の着用が侍や御徒士には許されたが、足軽は通常、袴の着用はおろか、下駄や足袋を履くことも許されず、裸足で付き従ったというような軽輩の存在としての足軽の認識である。――だのに、何故、ある特定の足軽が袴を穿いているのか? 穿くことが許されているのか? 袴を穿いた足軽は何か特別上級の足軽ででもあったのだろうか? といった根岸の時代に根岸にも分からなくなっていた素朴な疑問を、この話柄は解き明かそうとするものなのだと思われる。……しかし正直言うと、どうも現代語訳をしてみても、私自身が腑に落ちない部分がある。則ち、何故、その「諸大名」「寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯の」供押えの足軽のみが袴を穿き、「若年寄其外御旗本」の足軽は袴を穿かないのかがすっきりと説明されているようには思われないからである。それらの職分と袴の足軽と非常事態宣言時の足軽江戸城警護出役義務の構造がしっかりと分からないと本話柄は完全には理解出来ないのではないか、と馬鹿な私は思うのである。「若年寄其外御旗本」は正にその命令を発する危機管理側の中枢や直接支配下にあり、幕府組織の構造上、常時、将軍と一緒に本人が警護役として存在しているから足軽出役は不要である、ということなのか? 「諸大名」及び「寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯」は緊急事態発生時に江戸城保守警備命令が下され、その際の出役義務があるから袴を穿いた足軽が必要だというのであろうか? それでもまだ疑問が残る。その際の出役方足軽が何ゆえに行列の最後の供押えの足軽でなくてはならないのか? もっと言えば、出役はそのたった1名でいいのか? そもそも「若年寄其外御旗本」と、「諸大名」及び「寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯」の間に引かれる明確な線(区別)は何なのか?……細かく考えれば考えるほど分からなくなるのである。日本史の先生にも聞いたのだが、どうも私が阿呆なために、納得できないでいる。何処かに決定的な誤解があるのかも知れないとも思う。例えば「諸家」「同心」の意味であるとか、「足軽」を総て「供押えの足軽」として解釈している点であるとか……どうか、私のこの悩みを、何方か、眼から鱗で解いては下さる方はあるまいか?……

・「供押の足輕」「供押」は「ともおさへ」と読む。本文の「供足輕」「押足輕」も同義。岩波版長谷川氏注に『行列の最後にあって、乱れを整える役の者』とある。

・「旗本」ウィキの「旗本」によれば、『歴史教科書では、江戸幕府(徳川将軍家)の旗本は1万石未満の将軍直属の家臣で、将軍との謁見資格(御目見得以上)を持つ者と定義されているが、厳密にはそう単純ではない』とし、最も広義な意味での旗本とは、大名及び大名の扱いを受ける者以外で将軍に謁見の資格を有する者を指す、とある。

・「若年寄」老中の次席で老中の管轄以外の旗本・御家人全般に関わる指揮に従事した重役。譜代大名から任命された。

・「寺社奉行」寺社領地・建物・僧侶・神官関連の業務を総て掌握した将軍直属の三奉行の最上位である。譜代大名から任命された。

・「御奏者番」江戸城城中に於ける礼式全般を職掌とした。譜代大名から任命。定員は特に定めがないが約2030名で、万治元(1658)以後はその内の4名が寺社奉行を兼任した(以上は、ウィキの「奏者番」を参照した)。

・「久松筑前守」諸注、久松定愷(さだたか 享保4(1719)年~天明6(1786)年)とする。諸注を総合すると書院番・御使番・駿府町奉行を経て、明和5(1768)年に普請奉行となり、従五位下筑前守。安永9(1780)年、大目付。根岸よりも18歳年上である。

・「同心」この同心とは幕府の役職としての同心という固有名詞ではなく、一味同心の意であろう。

・「圍御用」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『固(かため)御用』とある。緊急時の江戸城防衛のことと思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 供押の足軽だけが袴を穿くことが許されている古実についての事

 諸大名の行列の最後を行く供押えの足軽は袴を穿いており、若年寄その他、御旗本衆の供押えの足軽は袴を穿いていない。寺社奉行や御奏者番をお勤めになられる諸大名の供押えの足軽は皆、袴を穿いており、それより上、若年寄に昇進なさると、その供押えの足軽は袴を取ってしまって御座る。

 このこと、何か仔細もあるのであろうと思っていたところ、久松筑前守定愷殿が語ったところによれば、

「総ての諸家諸大名の足軽は一味同心で御座って、これ、差は御座ない。火急の節、江戸城防衛の御用が必要となって御座った折りには、諸大名へ、その旨御命令仰せ付けらるるので御座るが、その際、将軍直属の江戸城守備正規兵として登城さすべく、かの諸大名衆供押えの足軽には特別に袴の着用が義務付けられておるので御座る、と昔から聞き伝えて御座る。」

と筑前守殿のお話であった。

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