『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月21日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二回
(二)
私が其掛茶屋(かけぢやや)で先生を見た時は、先生は丁度着物を脱いで是から海へ入(はい)らうとする所であつた。私は其反對に濡れた身體を風に吹かして水から上つて來た。二人の間には目を遮る幾多の黑い頭が動いてゐた。特別の事情のない限り、私は遂に先生を見逃したかも知れなかつた。それ程濱邊が混雜し、それ程私の頭が放漫であつたにも拘はらず、私がすぐ先生を見付出したのは、先生が一人の西洋人を伴(つ)れてゐたからである。
其西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋(かけちやや)へ入るや否や、すぐ私の注意を惹いた。純粹の日本の浴衣(ゆかた)を着てゐた彼は、それを床几(しやうぎ)の上にすぽりと放り出した儘、腕組(うでぐみ)をして海の方を向て立つてゐた。彼は我々の穿く猿股一つの外何物も肌に着けてゐなかつた。私には夫(それ)が第一不思議だつた。私は其二日前に由井(ゆゐ)が濱(はま)迄行つて、砂の上にしやがみながら、長い間西洋人の海へ入る樣子を眺めてゐた。私の尻を卸(おろ)した所は少し小高い丘の上で、其すぐ傍(わき)がホテルの裏口になつてゐたので、私の凝(ぢつ)としてゐる間(あひだ)に、大分多くの男が鹽(しほ)を浴びに出て來たが、いづれも胴と腕と股(もゝ)は出してゐなかつた。女は殊更肉を隱し勝であつた。大抵は頭に護謨製(ごむせい)の頭巾を被つて、海老茶や紺や藍の色を波間に浮かしてゐた。さういふ有樣を目撃した許(ばか)りの私の眼には、猿股一つで濟まして皆(みん)なの前に立つてゐる此西洋人が如何にも珍らしく見えた。
彼はやがて自分の傍(わき)を顧みて、其處にこゞんでゐる日本人(にほんじん)に、一言二言何か云つた。其日本人は砂の上に落ちた手拭を拾ひ上げてゐる所であつたが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ步き出した。其人が卽ち先生であつた。
私は單に好奇心の爲に、並んで濱邊を下りて行く二人の後姿を見守つてゐた。すると彼等は眞直(まつすぐ)に波の中に足を踏み込んだ。さうして遠淺の磯近(いそぢか)くにわい/\騷いでゐる多人數(たにんず)の間を通り拔けて、比較的廣々した所へ來ると、二人とも泳ぎ出した。彼等の頭が小さく見える迄沖の方へ向いて行つた。夫から引き返して又一直線に濱邊迄戾つて來た。掛茶屋(かけぢやや)へ歸ると、井戶の水も浴びずに、すぐ身體を拭いて着物を着て、さつさと何處へか行つて仕舞つた。
彼等の出て行つた後(あと)、私は矢張元の床几に腰を卸して烟草を吹かしてゐた。其時私はぽかんとしながら先生の事を考へた。どうも何處かで見た事のある顏の樣に思はれてならなかつた。然し何うしても何時何處で會つた人か想ひ出せずに仕舞つた。
其時の私は屈托(くつたく)がないといふより寧ろ無聊(ぶれう)に苦しんでゐた。それで翌日(あくるひ)も亦先生に會つた時刻を見計らつて、わざ/\掛茶屋(かけちやや)迄出かけて見た。すると西洋人は來ないで先生一人麥藁帽を被つて遣(やつ)て來た。先生は眼鏡をとつて臺の上に置いて。すぐ手拭で頭を包んで、すた/\濱を下りて行つた。先生が昨日の樣に騷がしい浴客(よくかく)の中を通り拔けて、一人で泳ぎ出した時、私は急に其(その)後(あと)が追ひ掛けたくなつた。私は淺い水を頭の上迄跳(はね)かして相當の深さの所迄來て其處から先生を目標に拔手(ぬきで)を切つた。すると先生は昨日と違つて、一種の弧線を描いて、妙な方向から岸の方へ歸り始めた。それで私の目的は遂に達せられなかつた。私が陸(をか)へ上つて雫(しづく)の垂れる手を振りながら掛茶屋(かけちやや)に入(はい)ると、先生はもうちやんと着物を着て入違ひに外へ出て行つた。
[♡やぶちゃんの摑み:上記の通り、この回には最後に飾罫がない。
♡「先生」私は嘗て「先生」の年次を推定したことがある。詳しい根拠などは私のHPの『「こゝろ」マニアックス』を参照されたいが、彼が自死した明治45(1912)年当時を満35歳か36歳と推定、以下のように仮に設定してみた。
明治10(1877)年前後 新潟に生まれる。
明治34(1901)年 23歳
2月中旬 K自殺。
同年5月 奥さんとお嬢さんと共に現在の家に転居。
同年6月 東京帝國大學卒業。
同年暮れ 靜と結婚。
明治41(1908)年 31歳
同年8月 鎌倉材木座海岸にて語り手「私」と出逢う。
諸君が考えているように、「先生」は決して年老いてはいないのである。大事な点だ。Kの死後、十年以上経過している等と言うことは、現実的諸証拠から、あり得ない。そしてまた、十年以上生き永らえてしまい、「私」に逢わず、明治大帝の死と乃木大将の殉死と言う事態に遭遇しなければ、「先生」は自殺しなかった。その遺書冒頭で彼自身が記した如く、人生を「ミイラの樣に存在して行」ったに違いないのである。そうして、そうした「先生」を想像する時、私は寧ろ心底、慄っとするのである。
♡「先生が一人の西洋人を伴れてゐたから」この限定は深い意味があると考えざるを得ない。そうしてこれ以降の「私」の視線が、この西洋人の裸体の「肉」に注がれ続けることに注視せねばならない。そうしてこの視線は、或る意味、極めて同性愛的傾向を感じさせる猥雑なる視線(その猥雑さを「私」は全く意識していないのであるが)であることに気づかねばならぬ。
♡「我々の穿く猿股」猿股自体を西洋褌とも言うが、ここではよくイメージされる股引、薄い下着としての猿股よりも、やや生地の厚いものとも考えられる。明治十年代以降に海水浴で盛んに用いられるようになったパンツ式の男性用水着である。
♡「遠淺の磯近く」材木座海岸の小坪(逗子)寄りには、日本最初の人工の築港跡である和賀江ノ島があり、現在でも岩礁が残り、ごろた石も多く(北条泰時は岩石を投げ入れて港を作った)、砂浜海岸である由比ヶ浜でも、所謂、磯浜の雰囲気を今も持っている。従って私の馴染んでいる材木座海岸の表現としては「磯」は必ずしも違和感がない。但し、漱石は岩礁性海岸としての「磯」と言う語を用いているのではなく、広義の海岸の意味で、この語を用いているようには感じられる。
♡「どうも何處かで見た事のある顏の樣に思はれてならなかつた」このデジャ・ヴュ(既視感)は重要な「私」の特異的心性である。ここに小説「心」という世界は本格的に起動しているのである。
♡「一種の弧線」作品全体を支配する円形運動の最初の発現部である。勿論、現実的には、ここで「先生」は、妙な若者が自分をストーカーしていることに薄々勘づいて回避したとも言える。]
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