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2010/04/29

耳嚢 巻之二 猥に人命を斷し業報の事

「耳嚢 巻之二」に「猥に人命を斷し業報の事」を収載した。

 猥に人命を斷し業報の事

 寶暦末に、金森(かなもり)兵部少輔(せういう)家子細ありて斷滅しぬ。その家士の内何とかいへる者、主家斷絶の節死刑に仰付られけるが、右の者死に臨て囚獄石出帶刀(いしでたてはき)へ咄しける由。我等此度死刑に及ぶ事主人家の事に付ての事なれば強て悔き事にもあらず。我におかせる罪とても恥しと思ふ事なし。然れ共我等の死刑をもまぬがれ間數者也。一ト年在所へ罷りしに、道中泊りを同ふせし山伏一刀を見せけるが、正宗の由語りしが、いかにも見事にて甚ほしく思ひけるにぞ、金子の高を申て何とぞ我らに給はるべしとひたすら望しが、此刀は代々持傳へければ千金にも放さじと、いかに所望すれども承知せざる故思ひ留りしが、いかにしても懇望なる故、人放れの松原にてあへなく山伏を欺(あざむき)殺し右刀を奪取りしが、此恨此罪計にても死刑成べき者也といひしと、帶刀語りけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:やや情状酌量の余地のある無礼討ちの殺人から、救い難い強殺で連関。岩波版長谷川氏注には、本話柄は井原西鶴の「本朝二十不孝」二の二を初めとして類話が多いと記す。

・「寶暦」西暦1751年から1764年。

・「金森兵部少輔家子細ありて斷滅しぬ」金森頼錦(よりかね 正徳3(1713)年~宝暦131763)年)のこと。美濃八幡(はちまん)藩(=郡上金森藩)の第2代藩主。官位従五位下、若狭守、兵部少輔(しょう 又は しょうゆう:律令制の諸省の次官(=「すけ」)。大輔(たいふ)の次席。但し、勿論、ここでは江戸時代の名冠位である。)。父は八幡藩初代藩主金森頼時の嗣子であったが、37歳で早世、享保211736)年の祖父死去により嫡孫として家督を継いだ。延享4(1747)年に奏者番に任じられ、藩政にあっては目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなど、文化人としても優れていたが、『頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースのスタートであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754年)、年貢の税法を検見法に改めようとした』。検見(けみ)法とは実際にその年の作柄を調査し、収穫量を認定してから年貢額を決める方法を言う。豊凶にかかわらず一定の租率で年貢の徴収を行う定免法に対する語である。一見、こちらの方法の方が合理的でな農民には好都合に見えるが、実際には不作の際には年貢不足を補うための新たな別な負担を強いられ、豊作の際には米相場が安くなるために換算率が上昇、結局、農民にとっては増税となってしまう。そのため『これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発する。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白(いとしろ)騒動(次注参照)まで起こって藩内は大混乱し、この騒動は宝暦8年(1758年)1225日、頼錦が幕命によって改易され、盛岡藩の南部利雄に預けられるまで続いた』。これが本話柄に現われた「仔細」の真相である。その後、『嫡子出雲守頼元をはじめ男子5人は士籍を剥奪され、出雲守頼元、三男伊織頼方は改易、五男熊蔵、六男武九郎頼興、七男満吉は15歳まで縁者に預けられた。また、次男正辰は宝暦3年(1753年)に下妻藩井上家に養子に入っておりお咎めなしだった。六男の金森頼興は、明和3年(1766年)赦免され、天明8年(1788年)に1,500俵で名跡を継ぎ子孫は旗本として存続した』とある(ウィキの「金森頼錦」を参照・引用した)。

・「その家士の内何とかいへる者、主家斷絶の節死刑に仰付られける」これは感触に過ぎないが、金森御家断絶の際に死罪を申し付けられたとなると、改易の大きな主因の一つとなった石徹白(いとしろ)騒動に関わって死罪となった郡上藩の家士を見てみよう。以下、まず藩内の白山中居神社の神職の支配争いを端に発した一種の一揆である石徹白騒動について略述する(主にウィキの「石徹白騒動」と個人のHP「大名騒動録」の「宝暦郡上騒動」を参考にした)。神主上村豊前が自分の意に従わぬ神頭職(社領統治役)たる杉本家(当主杉本左近)及びその支持者や浄土真宗信徒など村民凡そ500名(当時の白川村村民の実に2/3)を宝暦5(1755)年11月の厳冬期に村外に追放、激しい吹雪の中、流浪の果てに54名が死亡した。これに際して上村豊前は郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門と結託して事を運んだであったが、杉本左近ら追放された村民は直訴状を携えて入府、宝暦6(1756)年8月に登城する老中酒井忠寄の行列に嘆願書をもって飛び込み駕籠訴を敢行、また、宝暦8(1758)年には目安箱に箱訴を4度も行った。幕府は郡上一揆の件もあり、流石に重い腰を上げざるを得なくなって、同年7月、老中酒井忠寄の命により、本格的な郡上藩詮議が開始された。その対象は老中・若年寄・三奉行など幕府役人・郡上藩主金森頼錦・藩役人・村民数百人に及んだ。裁可は10月に下された。まず幕府関係者としては、郡上藩郡代の不当な越権行為を黙認した罪や杉本左近が幕府に出した訴状を正式に受理せずに金森家に回送した背任行為等々により(以下のメンバーの殆んどが金森家と私的な懇意関係を持っていたらしい)、

老中本多伯耆守正珍     役儀取上げの上 逼塞

若年寄本多長門守忠央    領地召し上げの上 松平越後守へ永預け

勘定奉行大橋近江守     知行召し上げの上 陸奥中村相馬家へ永預け

大目付曲淵豊後守      役儀取上げの上 閉門

美濃郡代青木次郎九郎    役儀取上げの上 逼塞

郡上藩関係者では、

家老渡辺外記        遠島

家老粥川仁兵衛       遠島

江戸家老伊藤弥一郎     中追放

郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門 死罪

同人下僚 片重半助     死罪

同人下僚 黒崎佐市衛門   遠島

農民・社人では、直接の駕籠訴をした

切立村 喜四郎       獄門(獄死)

前谷村 定治郎       獄門

東気良村 善右衛門     死罪(獄死)

同村 長助         死罪

那比村 藤吉        死罪

他に、箱訴を行った剣村の藤次郎ら6人も死罪となっている。勿論、

上村豊前          死罪

であったが、不思議なことに一揆側の中心人物であったはずの人物は、

杉本左近          三十日押込

で許されている。

以上から、本話の主人公は郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門の部下であった片重半助なる人物が可能性として浮かんでくるように思われる。「主人家の事に付ての事なれば強て悔き事にもあらず。我におかせる罪とても恥しと思ふ事なし」という謂いから、主犯格の悪奉行根尾甚左衛門ではなく、その命を受けて特に大きな疑問を認識する立場になかった、忠実に事務をこなしていた下役の人物という推定からである。飽くまで、ただの想像であるが。

・「囚獄」小伝馬町牢屋敷長官のこと。牢屋奉行とも。獄舎管理・刑執行・囚人監視監督を担当した役人。

・「石出帶刀」上記小伝馬町牢屋敷長官の世襲名。以下、ウィキの「石出帯刀」から引用する(記号の一部を変更した)。『初代の石出帯刀は当初大御番を勤めていたが、徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来その職を勤めるようになった。石出左兵衛・勘介から町奉行に出された石出家の「由緒」によると、当初は本多図書常政と名乗っていた。後に在所名に因んで石出姓に改めたとされているが、現在の千葉市若葉区中野町千葉中の石出一族の出身。本来石出帯刀とは、一族の長の名である(「旧妙見寺文書」)。慶長18年9月3日(16131016日)没。法名は善慶院殿長応日久。台東区元浅草に現存する法慶山善慶寺の開基はこの初代帯刀である。石出姓は、千葉常胤のひ孫で下総国香取郡石出(千葉県東庄町石出)を領した石出次郎胤朝に由来する』。『「千葉縣海上郡誌」に三崎庄佐貫城々主・片岡常春の将として、石出帯刀五郎昌明の名が見られる。また、「天正十八年千葉家落城両総城々」という文書には『石出城石出帯刀』という名の記録が残っている。なお、足立区千住掃部宿の開発者、石出掃部介家に伝わる「由緒」には、掃部介義胤の弟として、初代石出帯刀慶胤の名が記されているが、仔細は不明である』。『囚獄は町奉行の配下に属している。その職務内容は、牢屋敷役人である同心及び下男等の支配、牢屋敷と収監者の管理、各牢屋の見回りと収監者からの訴えの上聴、牢屋敷内における刑罰執行の立会い、赦免の立会い等となっていた』。『家禄は三百俵。格式は、譜代・役上下・御目見以下であるが旗本である。禄については、後述の石出吉深が隠居した際に隠居料として十人扶持が、師深の子・左兵衛が幼年であった当時の看抱役を務めた石出勘介に十人扶持が、また常救が幼年であった当時の看抱役を務めた守山金之丞と神谷弁之助に十人扶持が、常救の長年の精勤に対する報償として常救の一代に限って十人扶持が、明治維新まで見習役を務めた直胤に役料として十人扶持がそれぞれ下されている』以下、「著名な石出帯刀」と題し、『歴代の石出帯刀のうちで最も高名な人物が、石出吉深(よしふか 号を常軒。元和元年(1615年)~元禄2年(1689年))である。囚獄としては、明暦3年の大火(いわゆる振袖火事)に際して、収監者を火災から救うために独断で「切り放ち」(期間限定の囚人の解放)を行ったことが著名な業績である。吉深は収監者達に対し「大火から逃げおおせた暁には必ずここに戻ってくるように。さすれば死罪の者も含め、私の命に替えても必ずやその義理に報いて見せよう。もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗する」と申し伝え、猛火が迫る中で死罪の者も含めて数百人余りの「切り放ち」を行った。収監者達は涙を流し手を合わせて吉深に感謝し、後日約束通り全員が牢屋敷に戻ってきたという。吉深は「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れである。このような者達をみすみす死罪とする事は長ずれば必ずや国の損失となる」と評価し、老中に死罪も含めた罪一等の減刑を嘆願、幕府も収監者全員の減刑を実際に実行する事となった』。『この処置はのちに幕閣の追認するところとなったうえ、以後江戸期を通じて『切り放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪(後に「減刑無し」に緩和された)』とする制度として慣例化されたのみならず、明治期に制定された旧監獄法を経て、現行の刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(刑事収容施設法)にまで引き継がれている』とあり、実際に『旧監獄法時代には関東大震災や大東亜戦争末期の空襲の折に、実際に刑務所の受刑者を「切り放ち」した記録が残されている』とある。『吉深は歌人・連歌師としても知られており、当時の江戸の四大連歌師の一人に挙げられている。歌集には「追善千句」「明暦二年常軒五百韻注」などがある。また著作の一つ「所歴日記」は、江戸時代初期の代表的紀行文の一つに数えられている。一方、国学者としても重要な事績を残しており、廣田坦斎や山鹿素行から伝授された忌部神道を、のちに垂加神道の創始者となる山崎闇斎に伝えている。また吉深が著した「源氏物語」の注釈書「窺原抄」について、北村季吟の「湖月抄」に匹敵すると評する国文学者もいるほどである。さらに、本邦のみならず中国の有職故実にも通じていたことも知られている』注としては大きく脱線したが、こんな凄い人もいたという興味深い話として引いておきたい。

・「我等の死刑をもまぬがれ間數者也」底本では右に『(尊經閣本「我等死刑まぬかれがたき者也」)』と注す。尊経閣本を採る。

■やぶちゃん現代語訳

 妄りに人命を断った因業による応報の事

 宝暦八年のこと、美濃八幡藩藩主金森兵部少輔家は仔細あって断絶してしまった。

 その家士の内、何某なる者、主家断絶の際、死罪を仰せ付けられた。

 この者、死に臨んで、当時の小伝馬町囚獄石出帯刀殿に次のように語ったという。

「……拙者、この度、死罪に処せらるること、主人主家に関わることなれば強いて悔むこと、これ、御座らぬ。拙者が犯したとさるる『罪』なるものに就きても、恥ずかしと存ずること、これも、全く御座らぬ。

……然れども、この身、元来、死刑をも免れがたきものにて御座る。……

……ある年のこと、八幡へ帰らんとした、その道中、宿を同じうした山伏が、その所持する一振りの刀を、拙者に見せた。

『正宗じゃ!』

という。

 これが、また、如何にも美事な刀にて……拙者、一目で欲しうなって御座った。……有り金総ての高を有り体に申し、

『何卒、我に譲り給え!』

とひたすら懇望致いたが、

『この刀は、我が家に代々伝わるものにて、千金なれども手放さざる。』

とのこと。平身低頭、如何に所望すれど、承知せず……とりあえず、その場にては諦めた。……

……なれど……

――如何にしても、欲しい!――

という欲に駆られ……翌日、二人して宿を立ち出でて暫く行くうち……人気なき松原にて……あっと言う間もなく……あっけのう、この山伏を騙し殺し……その刀……奪い取り申した……

……この恨み……この罪ばかりにても……死刑に処せらるるに相応しき者なので、御座る……」

と処刑の間際、懺悔致いて御座った、と帯刀が語った、とのことで御座る。

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