耳嚢 巻之二 人の心取にて其行衞も押はからるゝ事
「耳嚢 巻之二」に「人の心取にて其行衞も押はからるゝ事」を収載した。
やりたい――やらねばならない――そんなテクスト作業が内心にはある――芥川龍之介のだ――しかしそのためには自宅で丸一日の自由がなくては出来ない――でももうこの先そんな時間は当分作れそうにもないのだ――ブログ・アクセスも215000を超えたのだが――220000アクセスの記念テクストも頭に浮かばぬ……桜はもう咲いたというのに……中途半端な憂鬱ぐらい厭なものはない……誰か、僕が寝ている間に、桜の花びらで窒息させて呉れないか?……
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人の心取にて其行衞も押はからるゝ事
予が實方(じつかた)の菩提所、禪宗にて今戸安昌寺といへるが、彼寺へ詣ふでけるに、書院の床に無邪(よこしまなし)といへる二字を書し懸物あり。誰認しや見事成墨蹟故、寄て見れば綱吉と名印あり。恐れ多くも常憲院樣御墨蹟故、住僧の心得にもあらんと其席を離れ次の席に著座なしければ、無程住僧出て、こなたへと請じける故、右の御墨蹟はいかゞいたし當寺に候やと尋ければ、旦家(だんか)より納めし由を答ふ。依之申けるは、我等抔右御掛物ありては其間へ入事に非ず、其上予昔評定所を勤、寺社奉行の取計をも凡そ覺へ侍るに、御女中方其外より御紋付の水引やうの物奉納ありても、什物(じふもつ)にいたし置き平日用ゆべからずと申渡されける事也、況や御染筆等の品抔等閑に懸置て、人の咎たらんには寺の不念にもなるべし、取納め置可然と申ければ、彼僧心得申候とは申けるが、強て心に置候やうにもあらざりしに、旦家より奉納には候へども、正筆や似せ筆や知れ不申といへる故、正筆の贋筆のといへるは、其職分せる凡下の者にて世に鳴せしものの事也、將軍家の御筆などを贋(に)せ申べき謂(いはれ)なしと諭しけるが、餘りに智のなき申條哉と思ひしに、果して右住僧寺を持得ずして深川邊へ隱居しけるが、何かおかせる事有て入牢せしが、牢内にて相果てける由と此程の住僧ものがたりせしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。下ネタの次に綱吉の遺蹟の話を持って来る根岸が、私は好きだ。また、本話によって、神道贔屓である根岸の実家安生家の宗旨が曹洞宗であることが分かった。また、この注釈作業の中で、根岸鎭衞の墓が東京都港区港区六本木の善学寺という寺院にあることを知ったが、これによって取り敢えず根岸の(というより根岸家の)宗旨は浄土宗であることも判明した。現代語訳では、「心取」を際立たせるため、「寺社奉行より『住職としての役職これ不相応』の由にて」という私の創作した一文を挿入した。
・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、この場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取ることを言っているように思われる。
・「實方」実家。根岸鎭衞は元文2(1737)年に150俵取りの下級旗本安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ 延宝7(1679)年~元文5(1740)年)の三男として生れた(この父定洪も相模国津久井県若柳村、現在の神奈川県津久井郡相模湖町若柳の旧家の出身で安生家の養子であった。御徒頭から死の前年には代官となっている)。ウィキの「根岸鎮衛」によれば、『江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが、同じく150俵取りの下級旗本根岸家の当主根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として、根岸家の家督を継がせた。鎮衛が22歳の時のことである。(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であり、そのため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある。)』とある。衛規は「もりのり」と読み、宝暦8(1758)年2月15日に病没している。
・「安昌寺」台東区今戸に現存。元、曹洞宗総泉寺末寺。亀雲山と号す。起立不詳。岩波版長谷川氏注では山号を霊亀山とするのは誤りと思われる。
・「無邪」は「論語」の「為政篇」にある
子曰。詩三百。一言以蔽之。曰思無邪。
○やぶちゃん書き下し文
子曰く、「詩三百、一言(いちげん)以て之を蔽へば、曰く、『思ひ邪無し。』と。」と。
○やぶちゃん現代語訳
孔子先生が言われた。
「古えの詩篇の数は、これ三百、その三百を一言を以って言わんとすれば、『思い邪なし。』!」
と。
但し、この「思無邪」は「詩経」の魯頌(ろしょう)駉(けい)篇からの引用である(「魯頌」は魯の国の祖霊を祀る際の舞楽)。孔子の言う「詩三百」とは現存の「詩経」のプロトタイプを言うものと思われる。また、「詩経」の原詩は、この「思」の字を語調を調えるための助辞として用いている。従って原詩には「思い」という意味はない。実際、「論語」の本篇を「思(こ)れ」と訓読することも可能であり、本墨蹟もその意にとって「思」を省略したものであろう。『思い邪なし。』は訳さぬが賢明であろうが、文字通りに、ただ一途にの意の「純」の哲学の表明であろう。
・「綱吉」第5代将軍徳川綱吉(正保3(1646)年~宝永6(1709)年)。常憲院は諡名(おくりな)。
・「予昔評定所を勤」根岸は宝暦13(1763)年27歳で勘定所御勘定から評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)となり、明和5(1768)年に御勘定組頭になるまでの5年、評定所に勤務した。
・「寺社奉行の取計をも凡そ覺へ侍る」評定所留役が何故寺社奉行の細かな職掌上の細目内容まで知っているのかという疑問が生じるが、これについては、底本のここへの鈴木氏注が極めて明快にこれに答えているので、ほぼ全文を引用したい。『寺社・町・勘定三奉行の管掌にまたがる事件の場合を三手掛といって三者が評定所に集まって合議した。また寺社奉行は大名が任じられ、その事務はその大名の家臣が当り、幕府直属の与力同心は配属されていなかったため、寺社奉行が更迭すると事務が停滞し、藩士が不慣れなため能率があがらない。そこで評定所留役を寺社奉行に配置し事務に当らせた。従って、留役は寺社奉行の事務に精通』していなければならなかったのである、とある。
・「御女中方」大奥に関係する女性の総称。
・「其職分せる凡下の者にて世に鳴せしものの事也」「職分」とは文学書画美術等、贋作が作られる可能性のある分野に従事する芸術家・作家という職業のこと。「凡下」は凡俗の意味であるが、この場合は、神聖不可侵の天皇や綱吉のような将軍家を少数の権威者として上位概念に置いた上での、その下位の漠然とした民草の中でも、の意。「世に鳴せしものの事」とは、そんな『凡俗の芸術家・作家』の中でも、特に俗世に聞えた名家名人名工と呼ばれる者の作に対して、「真贋」なんどというものは用いる語である、語に過ぎぬのだ、と言っているのである。ここの訳には「耳嚢」を訳し始めて、初めてやや自信がふらついたのだが、先輩の国語教師の方の御意見も伺い、私の訳に誤りなきという確信を得た。
■やぶちゃん現代語訳
その時の人の心を読み取ることでその人の行く末もある程度は推し量り得るという事
私の実家の菩提所は禅宗で、今戸にある安昌寺という寺である。
ある時、この寺に詣でたところ、書院の床の間に「無邪」(よこしまなし)の二字を書いた掛け物が飾って御座った。
『……誰が認(したた)めしものか……いや、実に美事な墨蹟……』
と思い、近く寄って見たところが、
――綱吉――
との名印!
これ、恐れ多くも常憲院様の御墨蹟、故に、
『……これは……一つ、かく掲げておる迂闊な住僧への心得にもなろう程に……』
とその席を離れ、次の間に着座致いた。
程なく、住僧が出て参り、
「此方へ、どうぞ。」
と請ずる故、私は次の間に着座致いたまま、
「かの御墨蹟、如何なる謂われあって当寺に御座候や?」
と尋ねた。住僧はちらりと掛け物を眺めると、如何にもぞんざいに、
「……はあ? ああ、あれ……あれは檀家より納められたもんですが……」
なんどと答える。そこで私は、
「――拙者如き者、かの御掛け物あっては、とても、その座敷に入ること、出来申さぬ。――その昔、拙者も評定所に勤務致いて、寺社奉行の細かな職務内容につきても、凡(おおよ)そは弁えて御座るが、――大奥方その他のやんごとなき向きより、御当家葵の御紋の入った御進物などが社寺に御供物御香料御代(おんしろ)として御奉納なされた場合でも、誠(まっこと)有り難き什物と致いて、大切に収め置き、普段は決して用いてはならぬとの申し渡しがあったと記憶して御座る。――況や、御染筆の品なるものを、このように、いい加減に掛けた置きに致すなどということ、――これ、人に咎めらるれば、重き寺の咎として処分されてもおかしくは御座らぬ。――直ちに丁重に取り下し申し上げ、しっかりと納め置くにしかるべきものにて御座る。」
となるべく穏やかに述べた。と、かの僧は、
「……はぁ……分かり申した……」
と言うたものの、見るからに、私の言を気にもかけて御座らぬ風情。それどころかつけ加えて言うにことかいて、
「……まあ、その、檀家よりの奉納の物にては御座れど、真筆か贋作か、知れたもんでは御座らねばのぅ……」
と言い出す始末。これを聞いて、流石の私も口柄厳しく、
「――そもそも真筆だの贋作だのと申すこと――これ、芸術一般に従事する下々の者の内、特に世に聞えし名人と呼ばるる者の作に対して、言うものじゃ!――『将軍家の御筆になる』という神聖不可侵の『もの』を、『贋作』なんどと申してよいことなんど、あろうはずが、ない!」
と諭したのであるが内心、『一山の住職として、何とまあ、無知極まりなき申し条か。』と思うたままに、その場は過ぎた。……
……果たして、後日(ごにち)のこと、この住僧、寺社奉行より『住僧としての役職これ分不相応』の由にて、この寺を追放され、深川辺に隠居致いたが、その後(のち)、何やらん、罪を犯して入牢(じゅろう)、そのまま牢内にて果てた由、只今の安昌寺住職の話で御座る。