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« 耳嚢 巻之二 事に望みてはいかにも靜に考べき事 | トップページ | 僕の脳 MRI縦断画像 »

2010/04/09

耳嚢 巻之二 瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事

「耳嚢 巻之二」に「瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事」を収載した

僕も人生の何処かでこんな風にゆっくりと誰かの面前で足袋を直したいものだ――

 瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事

 當傳右衞門親の傳右衞門は、御番(ごばん)方より御目付に被仰付、予も覺居たり。氣丈成る仁にて有りしが、御番の節町を通りしに、其頃荒ものと名に呼れし水野十兵衞は、供立等立派にて角力取などを徒(かち)に連れ候やう成奴成人なりしが、向ふより來るを見て、往來の眞中にて家來に申付、足袋をはき直居たる折から、十兵衞徒士(かち)など聲をかけれど有無の答もなく、天下の往還相互に讓合ふべし。我等足袋をはき直しける故ひらき候事成難しといゝて、聊か不動、靜に足袋をはき直しけるが、十兵衞義駕の中より振かへりく見たりしうへ、家來を差越名前を聞たる故、傳右衞門の由答へけるが、其後程なく十兵衞番頭被仰付山城守とて、殊に傳右衞門組の頭なれは、よき事はあらじと相番(あひばん)なども聞及びて評判せしゆへ、傳右衞門も不快の由にて組の引渡にも出勤なかりし。然るに山城守より度々傳右衞門事を相番へ尋し故、久敷引居(ひきをら)んもあしかるぺしと申けるに、實(げに)もとて出勤致し、則頭の宅に屆に出ければ、兼て申付置し故、座敷へ通り候樣にと家來申故、其意に任せ通りければ、間もなく山城守出て手を取て、扨々御身は御用に立べき人也、番町にての事忘れ不申、隨分見立可申間、精を出され候やう申されけるが、山城守番頭被仰付初ての組の見立には、傳右衞門を申上、所々乘廻して相願ひ、御目付被仰付けると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「親の傳右衞門」底本の鈴木氏注によれば、『瀬名義珍(ヨシハル)。享保十二年書院番、宝暦四年御徒組頭、七年目付。十一年没、五十六。その子義正は宝暦十一年書院番、安永元年七月没。四十五。当伝右衛門としるしてあるが、義正をさすのであるならば、耳袋巻二は安永元年以前に執筆されたことになる。しかし同巻には天明六年の火災の記事などもあるので、その子貞刻(サダトキ。安永二年書院番)とすべきであろう』とある。岩波版長谷川氏注でも「當傳右衞門」を貞刻を同定候補とし、先代の義正は『義珍の娘婿』と記し、その先代義珍の事蹟を示し、『親は義珍をいうか』とされる。この記載によれば生没年は、

瀬名義珍(宝永3(1706)年~宝暦111761)年)

となる。彼ならば56歳の逝去時、根岸は24歳で御勘定であった。

・「御番方」番衆とも言う。将軍の身辺警護・江戸城内警備を職掌とする者の総称。大番・書院番・小姓組番・新番・小十人組を合わせて五番方とも書く。

・「御目付」旗本・御家人の監察役。若年寄支配。定員10名。

・「御番の節町を通りしに」後文で水野がはっきりと『番町にての事』と言っている。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここも『番町』とある。役職名「御番」である「番」の字に引かれて、書写の際に脱落したものと思われるので補った。「番町」は江戸城の西側、外堀と内堀の間に広がっていた役職付きの旗本たちの住む武家屋敷町で、特に正に伝衛門ら大番士らの組屋敷があったために、こう呼ばれる。現在の千代田区市ヶ谷駅の南方部分に当る。

・「水野十兵衞」底本の鈴木氏注によれば、『実道。享保十二年御徒に召抱えられ、支配勘定に転じ、御勘定、評定所留役、大坂御金奉行をつとめ、寛延三年代官。部下の手代の者に収賄事件あり、小普請におとされ、ついで許されたが、安永四年没。六十五』とするが、岩波版長谷川氏注では、『忠英(ただふさ)。五千石。御持弓頭・百人組頭・御書院番頭・大番組頭歴任。宝暦六年没、六十歳』とする。それぞれの生没年を見ると、

水野実道(寛永201643)年~安永4(1707)年)

水野忠英(元禄101697)年~宝暦6(1756)年)

であるから、「親の傳右衞門」を瀬名義珍とする以上は水野忠英の方しかあり得ない。信濃国松本藩第三代藩主であった水野忠直六男(後、兄で忠直次男の直富の養子となった)。

・「成奴成人なりしが」底本右に『(尊經閣本「成奴なるが」)』とある。「連れ候やうなる奴なる人なりしが」という底本本文はくどいので、尊経閣本の方を採る。「奴」は俠客と同義。

・「徒」=「徒士」「徒士侍」(かちざむらい)のこと。主君の御供や行列の先導をする武士。

・「相番」同じ組で一緒に勤めをする同僚。

・「實(げに)もとて」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 瀨名伝右衛門出世致し御目付に相成るに到った顛末の事

 現・瀨名伝右衛門の親の瀨名伝右衛門は、御番方より御目付に仰せつけられ、私も記憶にある方であられる。晩年にあっても大変、気丈な御仁であられた。

 その伝右衛門殿が、未だ御番方を勤めて御座った頃のことである。

 彼が丁度、番町を通って御座ったところ、その頃、勇猛果敢の呼び名高かった水野十兵衛忠英殿が――この忠英殿も、見るからに立派で派手な御供、或いは巨体を揺るがす相撲取なんどを連れにして道をのし歩くといった、男立てで鳴らした御仁で御座ったが――真っ向からやって来るのが目に入った。

 すると伝右衛門、やおら往来のど真ん中にて、

「――足袋を、直す――」

と付き添って御座った家来の者に申し付け、足袋を履き直し始めた。

 そこに来合わせた十兵衛のお徒士(かち)なんどが、口々に、

「やい! 邪魔じゃ!」

「退(の)きゃあがれ!」

とけたたましく声を掛ける。

 が……伝右衛門、一切それには答えず、駕籠の方に言うともなく、

「――天下の大道、相互いに譲り合うべきもの――我ら、足袋を履き直して、おる!――故、道譲ること、相出来申さぬ――」

と静かに、しかし、きっぱり言い放つと、聊かも動かんとする気配なく、静かに――足袋を履き直して御座った……。

 すわ一騒ぎと言う間際、駕籠中(うち)より何やらん、制する声があって、

「……ケッ!……」

とかぶいた徒士ども、めいめい唾を吐き捨て……十兵衛の一行、道の真ん中の伝右衛門を避け……脇を抜けて通って行く……その……擦れ違う駕籠の中(うち)から、水野十兵衛、何度も何度も振り返って、伝右衛門の方を見ている視線が光った……と……もう大分行過ぎたかと思うた頃……十兵衛、家来に命じて戻って来させ、

「御主、名は何と申すか!?」

と名を質して参った。

「瀨名伝右衛門――」

と、彼は高らかに、正しく応じて御座った。――

 ――その後程なく、水野十兵衛殿は番頭を仰せつけられ、官位を授けられて山城守となられた。

 殊に、その番頭、正に伝右衛門の属して御座った組の組頭の就任で御座った。

「……いいこたぁ……なさそぅじゃのぅ……」

と例の一件を聞いて御座った同僚なんども噂しておったため、伝右衛門自身も理不尽なる扱いを受くるは不本意なればとて、病いを理由に十兵衛への組頭引継の儀をも欠勤、それからもずっと勤仕(ごんし)致さなんだ。――

 ところが――これまた、伝右衛門が同輩に山城守より度々伝右衛門出仕の趣きに付、お尋ねの儀、これあり、ために同輩も伝右衛門に、

「……長いこと、こうして引きこもって御座るのも……悪かろうってもんだぜ……こんな仮病、直きにばれようし……さすれば文句なしに小普請入じゃ……」

と申すので、伝右衛門も、

「如何にも。」

と遂に意を決して出仕、御役御免覚悟の上、直ちに頭水野十兵衛殿役宅を訪れ、初出仕の旨、届け出でたれば、

「……かねてより貴殿来訪の折りは、必ず座敷へ通すよう承って御座る……」

と家来の者が申す。

 その意に従って奥座敷に通され、着座して待っていると、間もな水野山城守殿が現れ、現われるや、伝右衛門の手を取ると、

「……さてもさても!……御身は見所ある御仁にて!……ほうれ! かの番町での事、忘れも致さぬ! 向後は大いに、拙者、後ろ盾となりましょう程に、どうか、精を出して働かれんことを!……」

と申されたとのこと。――

 その後、山城守は番頭を仰せつけられて最初の支配の組の人事にては、この伝右衛門の名を一番に挙げられ、その後も様々な場に必ず伝右衛門を供として連れ廻しては、主だった方々にお見知り置き相願い、遂には伝右衛門、御目付を仰せ付けらるるに至ったとのことで御座る

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