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2010/05/31

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月31日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十九回

Kokoro13_11   先生の遺書

   (三十九)

 私のために赤い飯を炊いて客をするといふ相談が父と母の間に起つた。私は歸つた當日から、或は斯んな事になるだらうと思つて、心のうちで暗にそれを恐れてゐた。私はすぐ斷わつた。

 「あんまり仰山な事は止して下さい」

 私は田舍の客が嫌だつた。飮んだり食つたりするのを、最後の目的として遣つて來る彼等は、何か事があれば好(い)いといつた風の人ばかり揃つてゐた。私は子供の時から彼等の席に侍するのを心苦しく感じてゐた。まして自分のために彼等が來るとなると、私の苦痛は一層甚だしいやうに想像された。然し私は父や母の手前、あんな野鄙(やひ)な人を集めて騷ぐのは止せとも云ひかねた。それで私はたゞあまり仰山だからとばかり主張した。

 「仰山々々と御云ひだが、些とも仰山ぢやないよ。生涯に二度とある事ぢやないんだからね、御客位(くらゐ)するのは當り前だよ。さう遠慮を御爲(おし)でない」

 母は私が大學を卒業したのを、嫁でも貰つたと同じ程度に、重く見てゐるらしかつた。

 「呼ばなくつても好(い)いが、呼ばないと又何とか云ふから」

 是は父の言葉であつた。父は彼等の陰口を氣にしてゐた。實際彼等はこんな場合に、自分達の豫期通りにならないと、すぐ何とか云ひたがる人々であつた。

 「東京と違(ちがつ)て田舍は蒼蠅(うるさ)いからね」

 父は斯うも云つた。

 「お父さんの顏もあるんだから」と母が又付け加へた。

 私は我を張る譯にも行かなかつた。何うでも二人の都合の好(よ)いやうにしたらと思ひ出した。

 「つまり私のためなら、止して下さいと云ふ丈なんです。陰で何か云はれるのが厭だからといふ御主意なら、そりや又別です。あなたがたに不利益な事を私が强ひて主張したつて仕方がありません」

 「さう理窟を云はれると困る」

 父は苦い顏をした。

 「何も御前の爲にするんぢやないと御父さんが仰しやるんぢやないけれども、御前だつて世間への義理位(くらゐ)は知つてゐるだらう」

 母は斯うなると女だけにしどろもどろな事を云つた。其代り口數からいふと、父と私を二人寄せても中々敵(かな)ふどころではなかつた。

 「學問をさせると人間が兎角理窟つぽくなつて不可ない」

 父はたゞ是丈しか云はなかつた。然し私は此簡單な一句のうちに、父が平生から私に對して有つてゐる不平の全體を見た。私は其時自分の言葉使(づか)ひの角張(かどば)つた所に氣が付かずに、父の不平の方ばかりを無理の樣に思つた。

 父は其夜また氣を更へて、客を呼ぶなら何日にするかと私の都合を聞いた。都合の好(い)いも惡いもなしに只ぶら/\古い家の中に寐起してゐる私に、斯んな問を掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であつた。私は此穩やかな父の前に拘泥(こだわ)らない頭を下げた。私は父と相談の上招待(せうだい)の日取を極めた。

 其日取のまだ來ないうちに、ある大きな事が起つた。それは明治(あかぢ)天皇の御病氣の報知であつた。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡つた此事件は、一軒の田舍家のうちに多少の曲折を經て漸く纏まらうとした私の卒業祝を、塵の如くに吹き拂つた。

 「まあ御遠慮申した方が可からう」

 眼鏡を掛けて新聞を見てゐた父は斯う云つた。父は默つて自分の病氣の事も考へてゐるらしかつた。私はつい此間の卒業式に例年の通り大學へ行幸(ぎやうかう)になつた陛下を憶ひ出したりした。

Line_10

 

[♡やぶちゃんの摑み:

 

♡「明治(あかぢ)天皇」このルビの誤植は同日掲載の大阪朝日では正しく「めいじ」である。いや、凄い! 東京朝日新聞の植字工はよくぞラーゲリ送りにならなんだ!

 

♡「明治天皇の御病氣の報知」底本の本章には以下の資料を附す。

 

明治四五年七月二十日 土 官報号外

○宮廷錄事

○天皇陛下御異例 天皇陛下ハ明治三十七年末頃ヨリ糖尿病に罹ラセラレ次テ三十九年一月ヨリ慢性腎臟炎御倂發爾來御病勢多少增減アリタル處本月十四日御腸胃症ニ罹ラセラレ翌十五日ヨリ少々御嗜眠ノ御傾向アラセラレ一昨十八日以來御嗜眠ハ一層增加御食氣減少昨十九日午後ヨリ御精神少シク恍惚ノ御狀態ニテ御腦症アラセラレ御尿量頓に甚シク減少蛋白質著シク增加同日夕刻ヨリ突然御發熱體溫四十度五分ニ昇騰御脈百○四至御呼吸三十八囘、今朝御體溫三十九度六分御脈百○八至御呼吸三十二囘ニシテ今二十日御前九時侍醫頭醫學博士男爵岡玄卿、東京帝國大學醫科大學敎授醫學博士三浦謹之助拜診ノ上尿毒ノ御症タル旨上申セリ

 

と当時の報知内容を伝える。明治451912)年7月20日の漱石の日記には、

 

○七月二十日〔土〕晩天子重患の號外を手にす。尿毒症の由にて昏睡狀態の旨報ぜらる。川開きの催し差留められたり。天子未だ崩ぜず川開を禁ずるのなし。細民これが爲に困る者多からん。當局者の沒常識驚くべし。演劇その他の興業もの停止とか停止せぬとか騷ぐ有樣也天子の病は萬臣の同情に價す。然れども萬民の營業直接天子の病氣に害を與へざる限りは進行して然るべし。當局之に對して干渉がましき事をなすべきにあらず。もし臣民中心[やぶちゃん注:ママ。「衷心」の誤記。]より遠慮の意あらば營業を休むとせば表向は如何にも皇室に對し禮篤く情深きに似たれども其實は皇室を恨んで不平の内に蓄ふるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に釀すと一般也(突飛なる騷ぎ方ならぬ以上は平然として臣民も之を爲べし、當局も平然として之を捨置くべし)。新聞紙を見れば彼等異口同音曰く都下寂火の消えたるが如しと。妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聽す。天子の德を頌する所以にあらず。却つて其德を傷つくる仕業也。

 

という有名な聡明なる文章が載る。昭和天皇の御異例の際、種々のイベントが中止延期されたのを思い出す。グラサンの井上陽水が疾走する車のウィンドウを降ろして「みなさ~~~ん、お元気デスカ~~~?」とやらかすCMから、突如音声が消えた――天皇が御病気なのに「お元気デスカ~~~?」は不謹慎だ、というのである――これが糞の日本である。何にも変わっちゃいない日本なのである。――更に、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注によれば、『東京や大阪では天皇重態の号外は明治四十五年七月二十日に出ている』。当時は既に鉄道輸送による新聞の地方発送が始まっており、『私の家のある地域の人々も一日遅れくらいでこの報に接したと思われる』とある。]

2010/05/30

芥川龍之介 ひよつとこ (■初出稿及び□決定稿)

芥川龍之介「ひよつとこ (■初出稿及び□決定稿)」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。実は、先に掲げた芥川龍之介書簡は、この冒頭注を書いているうちに、紹介したくなったものなのである。

漱石の「こゝろ」を髣髴とさせる手紙

イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出來ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出來ない イゴイズムのない愛があるとすれば人の一生程苦しいものはない

周圍は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかもそのまゝに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は惡むべきも嘲弄だ

僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふことがある 何故 こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に對する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある

僕はどうすればいゝのだかわからない(中略)しかし僕にはこのまゝ囘避せずにすゝむべく強ひるものがある そのものは僕に周圍と自己とのすべての醜さを見よと命ずる 僕は勿論亡びる事を恐れる しかも僕は亡びると云ふ豫感をもちながらも此ものの聲に耳をかたむけずにはゐられない。

(中略)何だか皆とあへなくなりさうな氣もする 大へんさびしい

 

 

大正4(1915)年2月28日附

井川恭宛芥川龍之介書簡(旧全集一五一書簡)

 

井川恭は京都帝国大学学生となっていた一高時代の親友。後に恒藤姓となる。法哲学者。後、大阪市立大学初代学長。

芥川龍之介の初恋の破局後の一通である。

芥川龍之介の初恋の相手は同年の幼馴染み(実家新原家の近所)であった吉田弥生(明治25(1892)~昭和48(1973)年)である(父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた)。当時、東京帝国大学英吉利文学科1年であった芥川龍之介は、大正3(1914)年、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して正式に結婚を申し込んだ。しかし、この話は養家芥川家の猛反対にあい、翌大正4(1915)年2月頃に破局を迎えることとなる。吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系)、弥生が同年齢であったこと等が主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があった)。

井川恭宛同年2月28日附書簡(旧全集一五一書簡)で芥川はその失恋の経緯を語り、「唯かぎりなくさびしい」で擱筆、激しい絶望と寂寥感、人間不信(弥生をも含めた)を告白している。それに次ぐ書簡が表記のものである(底本は岩波版旧全集を用いた)。

 

芥川龍之介22歳。

前年の夏、発表された「心」がまさかここまで己れに投射されることになろうとは、一年前の芥川自身は、思っていなかったような気がするのである。

「耳嚢 巻之二 福を授る福を植るといふ事 / 耳嚢 卷之二 全訳注完成

「耳嚢 巻之二」に「福を授る福を植るといふ事」を収載、本話を以って「耳嚢 卷之二」100話全訳注を完成した

本来なら、直ちに「卷之三」に入るところであるが、今は「心」同日掲載プロジェクトになるべく専心していたいと思っている。「卷之三」の開始は7月下旬から8月上旬を予定している。その時まで、「耳嚢」ファンの皆様、随分、御機嫌よう――。

 福を授る福を植るといふ事

 

 勢州高田門跡(もんぜき)の狐、京都藤の森へ官に登るとて、或村の者にとり何て、口ばしりて一宿を乞ける故、安き事也迚赤の飯油揚やうのもの馳走して、扨狐は稻荷のつかはしめ、福を祈れば福をあとふると聞及びし故、何卒福を與へ給へと願ければ、右狐付答て言し。我々福を與へるといふ事知らず、人の申事也。都(すべ)て頑を植るといふ事有、是を傳授すべし、都て人の爲世の爲に成る事心懸け致すべし、しかしかゝる事したりと聊も心に思ひよりては福を植るにあらず、無心に善事をなすを福を植るといふ也、且我々福分を授る事成難しといへども、善事有人へは、或は盜難あるべきは我等來りて枕元の物を落し、又強き音などさせて眠を覺し其難を免れしめ、或は火災あらん節も遠方の親族知音(ちいん)へも知らせて人を駈付させて、家財等を取退などする事あり、則福を與ふるといふものならんと語りしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ぶっとんだ禪僧の道歌から自力作善を戒める真宗坊主染みたぶっとびの稲荷神の説法で面白連関。根岸は余り、他の巻や諸本を見ても、根岸は特に最終話ということを考えて配しているようには思われない。

・「福を植る」読みは「植(うゑ)る」。この語は特定の宗教に限定されない形で、現在も用いられている。心の田圃に福を植える、といった感じである。幸田露伴のエッセイに「努力論」というのがあり、そこで彼は惜福・分福・植福という三つの福を説き、その実現によって世界の幸福が到来するとも述べている。どっかのポールとか、どっかの国のこっぱずかしい政党の名みたような話だな。

・「勢州」伊勢国。

・「高田門跡」現在の三重県津市一身田町(いっしんでんちょう)にある、現在の真宗教団連合を構成する浄土真宗十派の一つである真宗高田派の高田山専修寺(せんじゅじ)。「門跡」は門跡寺院のことで、皇族や摂家が出家出来る位の高い特定寺院の称。浄土真宗には五門跡あり、本専修寺の他、東本願寺・西本願寺・佛光寺・興正寺である。これらは「五門徒」とも称せられる。以下、ウィキの「専修寺」より引用する。『浄土真宗の開祖親鸞が、関東各地の教化に入って十余年、真岡城主大内氏の懇願により建てられた寺院と伝えられる。1225年(嘉禄元年)、親鸞53歳のとき明星天子より「高田の本寺を建立せよ」「ご本尊として信濃の善光寺から一光三尊仏をお迎えせよ」との夢のお告げを得て、現在の栃木県真岡市高田の地に専修念仏の根本道場(如来堂)を建立したのが起源とする。その際、善光寺の本尊である秘仏を模造した一光三尊仏を本尊に迎え安置、親鸞門弟の中のリーダーであった真仏が管理に当たっていたものと推定されている』。『建立の翌年には、朝廷から「専修阿弥陀寺」という勅願寺の綸旨を受け、親鸞の教化活動は遊行から本寺中心に変わり、建立後約7年間この寺で過ごしたとしている。このように、本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たした寺である』。『真仏を中心とした門徒衆は、関東各地の門徒が作る教団の中で最も有力な教団(高田門徒)となり、京都へ帰った親鸞からしばしば指導の手紙や本人が書き写した書物などが送られている』。『その後、この教団は次第に発展し、「高田の本寺」と呼ばれて崇敬を集めるようになっていた。そんな中で、同じ浄土真宗である仏光寺派教団が京都を中心に発展する。親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を覚如が寺格化した「本願寺」も、一旦は衰退するものの15世紀半ばごろに蓮如によって本願寺教団として次第に勢力を拡大していく。それに対して高田派教団はむしろ沈滞化の傾向にあったが、それを再び飛躍させたのが、東海・北陸方面に教化を広めた十代真慧(しんね)であった』。『本寺専修寺は戦国時代に兵火によって炎上し一時荒廃したが、江戸時代に入って再建されており本尊の一光三尊仏は今もここに安置されている』。『現在の三重県津市一身田町にある専修寺は、14691487年に真慧(しんね)が伊勢国の中心寺院として建立した。当時この寺は「無量寿院」と呼ばれており、文明10年(1478年)には真慧は朝廷の尊崇を得て、「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨(専修寺文書第29号)を得ることに成功した。高田の本寺が戦国時代に兵火によって炎上したことや教団の内部事情から、歴代上人がここへ居住するようになり、しだいにここが「本山専修寺」として定着した。数多い親鸞聖人の真筆類もここへ移され、親鸞の肖像をはじめ、直弟子などの書写聖教など貴重な収蔵品を多数保持している。阿弥陀如来立像を本尊とする。本山専修寺の伽藍は二度の火災に遭ったが再建されている。浄土真宗最大宗派の東西本願寺に匹敵する広大な境内を持ち、周囲は寺内町を形成している。その集落は現在もはっきり見分けることができる。地元では「高田本山」と呼ばれている』。底本注によれば下野国芳賀郡高田にあったものを伊勢国奄芸郡(あんげ・あんき)郡津一身田に真慧が移した年を寛正(かんしょう)6(1465)年とする。この時、真慧が乞うて『後柏原天皇皇子常磐井宮が入室、その後も伏見宮貞致親王の王子が入室して法燈を継い』(底本注)で門跡寺院となっている。最後に以下、ウィキの補足事項の内容が「歎異抄」フリークの私には興味深いので、引用しておきたい。『真宗高田派専修寺(およびその末寺)では歎異抄を聖典として用いていない(否定しているわけではないことに要注意)。これは「専修寺には親鸞聖人の真筆文書が多数伝来しており、弟子の聞き書きである歎異抄をあえて用いる必要性が薄い」との考えによるものである。なお、専修寺は現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、これは東西本願寺よりも多い数である』。なーむ、じゃない、なーるほど、ね。

・「京都藤の森」先行する「小堀家稻荷の事」の注をそのまま引く。現在の京都府京都市伏見区深草鳥居崎町にある藤森(ふじのもり)神社。境内は現在の伏見稲荷大社の社地で、ウィキの「藤森神社」によれば、『その地に稲荷神が祀られることになったため、当社は現在地に遷座した。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した』とある。底本の鈴木氏注には、「雍州府志」(浅野家儒医で歴史家の黒川道祐(?~元禄4(1691)年)が纏めた山城国地誌)によれば、『弘法大師が稲荷神社を山上から今の処へ移した時、それに伴って藤杜社を現在地へ遷したものであるといい、稲荷と関係が深く、伏見稲荷に詣れば藤森にも参詣するのが例であった』と記す。伏見稲荷は正一位稲荷大明神である狐=稲荷神の本所である。

・「官に登る」狐に関わる説話にしばしば現われる狐の官位なるものは、伏見から授けられるという広範な民間伝承があったことが分かる。

・「都(すべ)て」は底本のルビ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「福を授かる」と「福を植える」の謂いの違いについての事

 

 伊勢国は高田門跡の狐が、ある村人に取り憑いて、

「――!――官位を得て昇進致いたによって京都の藤の森に登る! ついてはここに一夜を乞う!――」

と威丈高に家人に口走った。

 家人は驚きながら、

「……?!……へえ、それはた易きこと……」

と、とりあえずは奉っておくに若くはなしとて、赤飯や油揚げといったお狐さまの好物を馳走致いた上、ことは序でと、

「お狐さまはお稲荷さまのお使い、福を祈れば福を与えると聞き及んでおりますれば、何卒、福をお与え下さいませ。」

願い出てみる。

 すると、その狐が憑いた村人が答えて言うことには、

「……我々が『福を与える』ということは、無知な人間どもが勝手に申しておることじゃ。……我らにあるは『福を植える』ということのみじゃ。一宿一飯の恩義もある。一つ、これを授けて遣わそうぞ。……さてもじゃ……何より万事、人のため世のためになることを心がけて致すが、よい。……しかしじゃ、己(おのれ)はかくかくの良きことを致いた、なんどと、些かもでも鼻にかけることあらば、それは最早、『福を植えた』ことには、ならぬ……何事も、無心に、善事を善事と思わず善事を為すこと、これ、『福を植える』と、いうのじゃて。……且つまた、その方どもの請うところの、そのほうどもの考える『福分』なるものを授くることは、我らには出来ぬ……出来ぬ、が……今、言うた通りに善事善行を積むことの出来た人間へは……或いは、盗人ある時には、我ら来たりて、その方らの枕元に物を落とし、また大きな物音なんどをさせてその方らの眠りを覚ませてその危難を免れしめ、……或いは火災なんどがあらん折りには、遠方の親族・知音(ちいん)へも我らが虫の知らせで伝えては、人を駆けつけさせて家財なんどを運び出させたりなんど、することがある。……まあ、言うなら、これ即ち、その方らが言うところの、『福を与える』ということになろうか、の……」

と語った、とか。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月30日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十八回

Kokoro13_13   先生の遺書

   (三十八)

 私は母を蔭へ呼んで父の病狀を尋ねた。

 「御父さんはあんなに元氣さうに庭へ出たり何かしてゐるが、あれで可(い)いんですか」

 「もう何ともないやうだよ。大方好(よ)く御なりなんだらう」

 母は案外平氣であつた。都會から懸け隔たつた森や田の中に住んでゐる女の常として、母は斯ういふ事に掛けては丸で無知識であつた。それにしても此前父が卒倒した時には、あれ程驚ろいて、あんなに心配(しんばい)したものを、と私は心のうちで獨り異な感じを抱いた。

 「でも醫者はあの時到底六づかしいつて宣告したぢやありませんか」

 「だから人間の身體ほど不思議なものはないと思ふんだよ。あれ程御醫者が手重(ておも)く云つたものが、今迄しやんしやんしてゐるんだからね。御母さんも始めのうちは心配して、成るべく動かさないやうにと思つてたんだがね。それ、あの氣性だらう。養生はしなさるけれども、强情でねえ。自分が好(い)いと思ひ込んだら、中々私のいふ事なんか、聞きさうにもなさらないんだからね」

 私に此前歸つた時、無理に床を上げさして、髭を剃つた父の樣子と態度とを思ひ出した。「もう大丈夫、御母さんがあんまり仰山過ぎるから不可ないんだ」といつた其時の言葉を考へて見ると、滿更母ばかり責める氣にもなれなかつた。「然し傍(はた)でも少しは注意しなくつちや」と云はうとした私は、とう/\遠慮して何にも口へ出さなかつた。たゞ父の病の性質に就いて、私の知る限りを教へるやうに話して聞かせた。然し其大部分は先生と先生の奧さんから得た材料に過ぎなかつた。母は別に感動した樣子も見せなかつた。たゞ「へえ、矢つ張り同なじ病氣でね。御氣の毒だね。いくつで御亡くなりかえ、其方は」などゝ聞いた。

 私は仕方がないから、母を其儘にして置いて直接父に向つた。父は私の注意を母よりは眞面目に聞いてくれた。「尤もだ。御前のいふ通りだ。けれども、已(おれ)の身體は必竟已の身體で、其已の身體(からだ)に就いての養生法は、多年の經驗上、已が一番能く心得てゐる筈だからね」と云つた。それを聞いた母は苦笑した。「それ御覽な」と云つた。

 「でも、あれで御父さんは自分でちやんと覺悟丈はしてゐるんですよ。今度私が卒業して歸つたのを大變喜こんでゐるのも、全く其爲なんです。生きてるうちに卒業は出來まいと思つたのが、達者なうちに免狀を持つて來たから、それで嬉しいんだつて、御父さんは自分でさう云つてゐましたぜ」

 「そりや、御前、口でこそさう御云ひだけれどもね。御腹のなかではまだ大丈夫だと思つて御出(おいで)のだよ」

 「左右でせうか」

 「まだ/\十年も二十年も生きる氣で御出なのだよ。尤も時々はわたしにも心細いやうな事を御云ひだがね。おれも此分ぢやもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、御前は何うする、一人で此家に居(ゐ)る氣かなんて」

 私は急に父が居なくなつて母一人が取り殘された時の、古い廣い田舍家を想像して見た。此家から父一人を引き去つた後(あと)は、其儘で立ち行くだらうか。兄は何うするだらうか。母は何といふだらうか。さう考へる私は又此處の土を離れて、東京で氣樂に暮らして行けるだらうか。私は母を眼の前に置いて、先生の注意―父の丈夫でゐるうちに、分けて貰ふものは、分けて貰つて置けといふ注意を、偶然思ひ出した。

 「なにね、自分で死ぬ/\つて云ふ人に死んだ試はないんだから安心だよ。御父さんなんぞも、死ぬ死ぬつて云ひながら、是から先まだ何年生きなさるか分るまいよ。夫よりか默つてる丈夫の人の方が劒呑(けんのん)さ」

 私は理窟から出たとも統計から來たとも知れない、此陳腐なやうな母の言葉を默然と聞いてゐた。

Line_12

 

[♡やぶちゃんの摑み:

 

♡「手重く」重大である、容易でない、の意。

 

♡「已」父の台詞に現われるこれら4箇所は総て「己」の誤植。

 

♡「御腹のなかではまだ大丈夫だと思つて御出(おいで)のだよ」単行本「こゝろ」もママであるが、ここは恐らく「こゝろ」で校正漏れした箇所と思われる。ここは恐らく次の次の母の台詞「まだ/\十年も二十年も生きる氣で御出なのだよ」から考えて、「御腹のなかではまだ大丈夫だと思つて御出(おいで)なのだよ」の「な」の脱落である。

 

♡「尤も時々はわたしにも心細いやうな事を御云ひだがね。おれも此分ぢやもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、御前は何うする、一人で此家に居る氣かなんて」という母の台詞からは、本来なら「私」は先生と靜との最後の相同的会話を直ちに想起するはずである。しない方がおかしい。にも拘らず、ここで「私」の意識はそこに繋がらない。ここに凡庸な父と先生とを人間として同列に置いたり同一視出来ない私の無意識的な自己思考の遮断が垣間見られる。

 

♡「默つてる丈夫の人の方が劒呑さ」この母の不吉な謂いがツボに当たることとなる。先生は正に実に「默つてる丈夫の人」であった。]

2010/05/29

耳嚢 巻之二 一休和尚道歌の事

「耳嚢 巻之二」に「鼬の呪の事」及び「一休和尚道歌の事」を収載した。

「卷之二」、残す話柄一話のみ。これは明日、二篇纏めて公開しようと思っていたのであるが、内容的にどうみても『夜間限定R指定』の注になったので、急遽、今夜の公開とした。


 一休和尚道歌の事

 山村信濃守物がたりに、此ほど一休の墨蹟とて持參の者ありしが、面白きものとて見せ給ひぬ。

Ikkyuu  

  老の身の賴べきもの撞木杖鉦をたゝかば後の世の爲

   おつや殿へ

 此如あり。老女へ一休の贈りし物ならん。面白き文なれば爰に記ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:何やらん効果があるかなきか分からぬ意味不明のまじない歌から何やらん有難い意味があるのやらないのやらよく分からぬ道歌と、四項前の「志す所不思議に屆し事」の登場人物山村十郎右衞門良旺(たかあきら)でも連関する。

・「一休」一休宗純(応永元(1394)年~文明131481)年)。室町時代の臨済宗の禅僧。宗純は諱。他に狂雲子とも号した。出自は後小松天皇の落胤という。6歳で臨済五山派の名刹京都安国寺に入って周建と名乗った。以下、平凡社「世界大百科事典」より引用する(一部の記号や文字表記を変更、ルビを省略した)。『周建は才気鋭く、その詩才は15歳のときすでに都で評判をえた。だが、その翌年、周建は権勢におもねる五山派の禅にあきたらず、安国寺を去り、同じ臨済でも在野の立場に立つ林下(りんか)の禅を求めて謙翁宗為(けんのうそうい)、ついで近江堅田の華叟宗曇(けそうそうどん)の門に走った。宗為も宗曇も、林下の禅の主流である大徳寺の開山大灯国師宗峰妙超』の禅をついでいた。一休はこうして大灯の禅門に入った。五山の禅とちがって、権勢に近づかず、清貧と孤高のなかで厳しく座禅工夫し、厳峻枯淡の禅がそこにあった。宗為から宗純なる諱を、宗曇から一休という道号を与えられた。一休なる道号は、煩悩と悟りとのはざまに〈ひとやすみ〉するという意味とされ、自由奔放になにか居直ったような生き方をしたその後の彼の生涯を象徴するようである』。『一休青年期の堅田での修行は、衣食にもことかき、香袋を作り雛人形の絵つけをして糧をえながら弁道に励んだという。そして、27歳のある夜、湖上を渡るカラスの声を聞いたとき、忽然と大悟した。この大悟の内容はいまとなってはだれにもわからない。やがて一休は堅田をはなれ、丹波の山中の庵に、あるいは京都や堺の市中で、真の禅を求め、あるいはその禅を説いた。つねに清貧枯淡、権勢と栄達を嫌い、五山禅はもとより同じ大徳寺派の禅僧らに対しても、名利を求め安逸に流れるその生き方を攻撃した。堺の町では、つねにぼろ衣をまとい、腰に大きな木刀を差し、尺八を吹いて歩いた。木刀も外観は真剣と変わらない。真の禅家は少なく、木刀のごとき偽坊主が世人をあざむいているという一休一流の警鐘である。一休は純粋で潔癖で、虚飾と偽善を嫌いとおした。かわって天衣無縫と反骨で終始した。きわめて人間的で、貴賤貧富や職業身分に差別なき四民平等の禅を説いた。これが彼の禅が庶民禅として、のちに国民的人気を得る理由となった。壮年以後の一休は、公然と酒をのみ、女犯(にょぼん)を行った。戒律きびしい当時の禅宗界では破天荒のことである。いく人かの女性を遍歴し、70歳をすぎた晩年でさえ、彼は森侍者(しんじしゃ)と呼ばれた盲目の美女を愛した。彼の詩集「狂雲集」のなかには、この森侍者への愛情詩が多く見いだされる。1456年(康正2)、一休は山城南部の薪村(たきぎむら)に妙勝寺(のちの酬恩庵)を復興し、以後この庵を拠点に活躍した。この間、74年(文明6)勅命によって大徳寺住持となり、堺の豪商尾和宗臨(おわそうりん)らの援助で、応仁の乱で焼失した大徳寺の復興をなしとげた。酬恩庵の一休のもとへは、その人柄と独特の禅風に傾倒して連歌師の宗長や宗鑑、水墨画の曾我蛇足(そがじゃそく)、猿楽の金春禅竹や音阿弥(おんあみ)、わび茶の村田珠光(むらたじゅこう)らが参禅し、彼の禅は東山文化の形成に大きな影響を与えた。彼自身も詩歌や書画をよくし、とくに洒脱で人間味あふれた墨跡は当時から世人に愛好された』(本文中の「弁道」とは、仏道修行に精進することの謂い)。『「昨日は俗人、今日は僧」「朝(あした)には山中にあり、暮(ゆうべ)には市中にあり」と彼みずからがうそぶくように、一休の行動は自由奔放、外からみると奇行に富み、〈風狂〉と評され、みずからも〈狂雲〉と号した。だが、反骨で洒脱で陽気できわめて庶民的な彼の人間禅は、やがて江戸時代になると、虚像と実像をおりまぜて、とんちに富みつねに庶民の味方である一休像を国民のなかに生みだした。彼自身の著とされるものには「狂雲集」「自戒集」「一休法語」「仏鬼軍(ぶつきぐん)」などがある』(冒頭省略、以上藤井学氏記載部分。)。以下、「一休像の形成」という記載。『一休の洒脱な性格とユーモラスな行状に関する伝承が近世に入ってから多くの逸話を作りあげた。その話は、実話もあろうが創作もあり、他の人の奇行やとんちに関する話を一休の行跡に仮託したものが多い。万人周知の多彩な一休像が世に伝えられる基本になったものは、1668年(寛文8)に刊行された編著者不明の「一休咄」4巻である。この本は刊行後たちまち評判となり、翌年に再版となった。1700年(元禄13)には5冊本があらわれ、さらに版を重ねた。「一休咄」では、高僧としての一休禅師よりも頓智頓才の持主としての一休の〈おどけばなし〉が主体となっている。小僧時代の一休さんのとんち話は巻一の「一休和尚いとけなき時旦那と戯れ問答の事」に記され、有名な一休和尚の奇行譚は各巻に見える。軽口問答や狂歌咄もある。地蔵開眼のときに小便をかけたり、魚に引導をわたしたりする話などは、近世以降広く人々に知られた。かくして一休は問答を得意とする風狂的な禅僧としてのイメージを強くし、江戸時代における人気は絶大なものとなった。「一休咄」以後、「一休関東咄」「二休咄」「続一休咄」「一休諸国ばなし」などが生まれ、ついに60余点にものぼる一休の逸話に関する本が出版されるに至った』(後略。以上関山和夫記載部分。全体の著作権表示(c 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

・「道歌」短詩形文学としての短歌ではなく、仏道の教えや禅僧の悟達・修業の摑みを分かり易く詠み込んだ和歌を言う。岩波版では「返歌」とあるが、これはカリフォルニア大学バークレー校版の書写時の誤りか、誤りでないとしたら、以下に注するように根岸が「返歌」として勝手に読んだ内容を筆写者が汲んで変更したものとも思われるが、私は単純な書写時の誤りと見る。

・「山村信濃守」山村十郎右衞門良旺(たかあきら:享保191734)年~寛政9(1797)年)。前出「志す所不思議に屆し事」の岩波版長谷川氏注によれば、『宝暦三年西丸御小納戸、同八年本丸御小納戸。明和五年(一七六八)目付、安永二年(一七七三)京都町奉行、同年信濃守、同七年勘定奉行。』とある。勘定奉行は天明4(1784)年までで、同年から寛政元(1789)年まで南町奉行を勤めている(根岸の4代前である)。

・「見せ給ひぬ」底本ではここに注して、『尊経閣本「見せぬ」とあり、次行に』(ここに二段階で折れ曲がる稲妻状の小さな図が入る)『とある。』とする。この図は適切なものと思われない。幸い、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版のものがあるので、当該個所にその図像(一休墨跡)を補った。因みに、既に著作権の消滅した絵画図像等を平面的に撮った写真には著作権は発生しないという文化庁の見解をここに示しておく。

・「老の身の賴べきもの撞木杖鉦をたゝかば後の世の爲」「撞木杖」とは頭部が一休の先の図のように握り手の付いた杖を言う。撞木はT字型をした鉦を叩くための仏具であることから、後生祈願の鐘叩きを引き出すのである。

○やぶちゃんの通釈:とりあえず道歌として解釈しておく。

 老いの身の――頼むべきもの――撞木杖……その杖先に何(な)して撞木が付いとるか?……撞木の御座るは鐘叩くため――鐘を叩くは後生のため――

これは撞木杖をその「おつや」なる女に請うているものであろう。根岸は勝手に「老女」としているが、私は老女とは限らぬという気がする。根岸が「老女」としたのは、この歌が撞木杖と一緒に贈られた歌と考えているからかも知れない。但し、それはあくまで解釈の可能性の一つであって、私は採らない。それは先に示した撞木杖のデフォルメと思しい一筆書きがあるからである。これは正に『こんな杖が欲しい』という図示であろうと思われる。

……さらに言えば……私はこの歌や墨痕にはもっと何かセクシャルな意味合いが隠されているように思う……撞木がファルスの象徴で、鐘叩きの音はチンチンで、「鉦をたゝかば」という動作自体がコイッスを言いかけているような……『修行』が足りないために見抜けない。識者の御教授を是非とも願うものである。思い過ごしだって? そう思われる方は……一休のこの手の露骨な一休の表現の凄さをご存じないと言わざるを得ぬ……一休は、「セックス」という語を授業で三回は連呼するといういわれなき伝説の猥褻教師の私でも、お手上げの猛者なんである……一つだけ、ご紹介しておこう……「狂雲集」所収の七絶……

美人陰有水仙花香

楚臺應望更應攀

半夜玉床愁夢顏

花綻一莖梅樹下

凌波仙子繞腰間

○やぶちゃんの書き下し文

美人が陰(ほと)に水仙花の香有り

楚臺應に望むべし さらに應に攀(よ)ずべし

半夜の玉床 愁夢の顏

花は綻(ほころ)ぶ 一莖の梅樹の下(もと)

凌波(りようは)仙子 腰間を繞(めぐ)る

○やぶちゃんの現代語訳

[やぶちゃん注:不許可! 映倫カット! とっても訳せません!]

……題からしてスゴいな。楚は古来、美人の多い国で勿論、「楚臺」は征服すべき女体山…「一莖の梅樹」とは一休禪師、バッキンバッキン怒張の図…「凌波仙子」は水仙の別名で、曹植の「洛神賦」に現れる波上を軽やかに歩む洛水の神女に因む名とされるが、「凌波」は激しく波立つ様を言うから、『その』場面の相応なビジュアル的暗示としても掛詞的に激効果的……そうね、水仙の香り、なんだ……

・「おつや」不詳。前注で示した通り、老女とは限らぬ。山村や根岸が老女としたのは、この撞木杖を一休がおつやなる「老女」にこの杖を授けたという理解からの言であろうが、これはどう見ても一休の杖を呉れろという手紙である。更に、一休の女犯は確信犯で厳然たる事実、老いてなお「一莖の梅樹」としてそそり立っていたであろうことは、40歳の森侍者が一休に近侍した文明31471)年頃、彼は既に78歳であったことからも分かる(森侍者の実在と年齢の正当性は大徳寺真珠庵に残る一休の十三回忌及び三十三回忌の奉加帳に森侍者慈栢の名が載ることで証明されている)。

■やぶちゃん現代語訳

 一休和尚の道歌の事

 山村信濃守と話す内、

「……この程、一休禪師の墨蹟とか申し、持参致いた者が御座った。面白い代物じゃ。……」

と見せて下さった。

  老いの身の頼むべきもの撞木杖鉦をたたかば後の世の為

 おつや殿へ

 かく如くある。知れる老女へ一休が贈った歌らしい。面白い手紙なれば、ここに記しおく。

芥川龍之介 青年と死と

「心」連載終了直後に書かれた芥川龍之介の「青年と死と」をやぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

何故……今……この作品、なのか?

何故……僕がカテゴリ「こゝろ」に、この作品、を入れたのか?

……では一つ……冒頭に記した僕の注から一部引用しておこう。……そうすると、このあなたの知らない芥川の初期作品が……俄然、読みたくなるはずである……

本作は芥川龍之介の初恋と深い関係を持っている著作である。彼の初恋の相手は同年の幼馴染み(実家新原家の近所)であった吉田弥生である(父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた)。当時、東京帝国大学英吉利文学科1年であった芥川龍之介(23歳・満22歳)は、大正3(1914)年7月20日頃~8月23日 友人らと共に千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して二度目のラブレターを書いており、その後、正式に結婚も申し込んでいる。しかし乍ら、この話は養家芥川家の猛反対にあい、翌年2月頃に破局を迎えることとなる。吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系)、弥生が同年齢であったこと等が主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があった)。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、大正4(1915)年4月20日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来た。丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いた。4月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をしたともある。鷺只雄氏は河出書房新社1992年刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。正にこの弥生への強烈な恋情の炎の只中に書かれたのが、避暑から帰った直後の大正3(1914)年9月1日『新思潮』に発表した、この「青年と死と」なのであった。(中略)

 最後に。この「青年と死と」の最後に記された日付に注目されたい。

『(一五・八・一四)』というクレジットは西暦

1914年8月15日

という意である。

夏目漱石の「心」の『東京朝日新聞』の連載終了

は、正にこの4日前

1914年8月11日

のことであった。

芥川龍之介は当然、「心」を読んでいたと考ええてよい。読まぬはずがない。――とすれば――

――この「青年と死と」という、如何にも意味深長な題名の作品は、一つの――

――芥川の、漱石の「心」への答え――

として読むことが可能、ということである……。

耳嚢 巻之二 鼬の呪の事

「耳嚢 巻之二」に「鼬の呪の事」を収載した。

 鼬の呪の事

 金魚船又は無據(よんどころなき)品などに鼬の懸りて難儀せんには、左のごとく書て札を建ぬれば、其邊へは鼬かゝらざるものゝ由、老人のかたりぬ。

  鼬の呪はたかんなのねぢきり也、是五大明王のしるし候らん

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸お得意の呪(まじな)いシリーズである。

・「鼬」食肉(ネコ)目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela。『』「イタチ」の語は元来、日本に広く棲息するニホンイタチ Mustela itatsi を特に指す語であり、現在も、形態や生態のよく似た近縁のチョウセンイタチ M.sibirica coreana を含みながら、この狭い意味で用いられることが多い。また、広義にはイタチ亜科(あるいはイタチ科)の動物全般を指すこともあるが(イタチ亜科の場合、テンやクズリなどの仲間も含まれる)、ここではイタチ属のイタチ類について記す。

ウィキの「イタチ」より引用する(記号やフォントの一部を変更した)。『直立したイタチイタチ属の動物は、しなやかで細長い胴体に短い四肢をもち、鼻先がとがった顔には丸く小さな耳がある。多くの種が体重2kg以下で、ネコ目(食肉類)の中でも最も小柄なグループである。中でもイイズナ Mustela nivalis はネコ目中最小の種であり、体重はアメリカイイズナ M.n.rixosa 3070g、ニホンイイズナ M.n.namiyei 25250g である』。『イタチ類は、オスに比べメスが極端に小柄であることでも知られ、この傾向は小型の種ほど顕著である。メスの体重は、たとえば前述のアメリカイイズナやチョウセンイタチ M.s.coreana ではオスの半分、ニホンイタチではオスの3分の1である』。『小柄な体格ながら、非常に凶暴な肉食獣であり、小型の齧歯類や鳥類はもとより、自分よりも大きなニワトリやウサギなども単独で捕食する。反対にイタチを捕食する天敵は鷲・鷹・フクロウと言った猛禽類とキツネである』。以下、「日本に棲息するイタチ類」の記載。『イタチ属 Mustela に属する動物は、日本には58亜種が棲息する。このうち、アメリカミンクは移入種であり、在来種に限れば47亜種となる』。『比較的大型のイタチ類(ニホンイタチ、コイタチ、チョウセンイタチ)に対して、高山部にしか分布しないイイズナ(キタイイズナ、ニホンイイズナ)とオコジョ(エゾオコジョ、ホンドオコジョ)はずっと小型であり、特に、ユーラシア北部から北米まで広く分布するイイズナは、最小の食肉類でもある』。『4種の在来種(ニホンイタチ、チョウセンイタチ(自然分布は対馬のみ)、イイズナ、オコジョ)のうち、ニホンイタチ(亜種コイタチを含む)は日本固有種であるが、前述のように、特に海外では、(チョウセンイタチと同じく)大陸に分布するシベリアイタチの亜種とされることもある。また、亜種のレベルでは、本州高山部に分布するニホンイイズナとホンドオコジョが日本固有亜種であり、これにエゾオコジョを加えた3亜種は、環境省のレッドリストで NT(準絶滅危惧)に指定されている』。以下、「日本のイタチ一覧」。

   《引用開始》

ニホンイタチ(イタチ) Mustela itatsi 【北海道・本州・四国・九州・南西諸島/日本固有種】 シベリアイタチの亜種とされることもある。北海道・南西諸島などでは国内移入種。西日本ではチョウセンイタチに圧迫され、棲息域を山間部に限られつつある一方で、移入先の三宅島などでは、在来動物を圧迫している。屋久島・種子島の個体群は、亜種コイタチ M.i.sho として区別される。

(シベリアイタチ(タイリクイタチ、チョウセンイタチ) M.sibirica ,Kolinsky

シベリアイタチ(コリンスキー レッドセーブル、コリンスキーセーブル、レッドセーブル、シベリアンファイアセーブル)の尾毛は、画筆や書筆の高級原毛として使われる。弾力がありしなやかで、揃いが良く、高価。

チョウセンイタチ(亜種) M.s.coreana 【本州西部・四国・九州・対馬】 対馬には自然分布、それ以外では移入種。ニホンイタチより大型。西日本から分布を広げつつあり、ニホンイタチを圧迫している可能性がある。

(イイズナ M.nivalis

キタイイズナ(亜種、コエゾイタチ) M.n.nivalis 【北海道】 大陸に分布するものと同じ亜種。

ニホンイイズナ(亜種) M.n.namiyei 【青森県・岩手県・山形県?/日本固有亜種/準絶滅危惧(NT)(環境省レッドリスト)】キタイイズナより小型であり、日本最小の食肉類である。

(オコジョ M.erminea

エゾオコジョ(亜種、エゾイタチ) M.e.orientalis 【北海道/準絶滅危惧(NT)(環境省レッドリスト)】日本以外では、千島・サハリン・ロシア沿海地域に分布。平地では国内移入種のニホンイタチ・移入種のミンクの圧迫により姿を消す。

ホンドオコジョ(亜種、ヤマイタチ) M.e.nippon 【本州中部地方以北/日本固有亜種/準絶滅危惧(NT)(環境省レッドリスト)】

アメリカミンク(ミンク) M.vison 【北海道】 北米原産の移入種。毛皮のために飼育されていたものが、1960年代から北海道で野生化した。平地でエゾオコジョ・ニホンイタチを圧迫している。養魚場等にも被害がある。

   《引用終了》

以下、利用法。『イタチの毛を使った毛筆は高級品とされる。価格を抑えるために、中心の長い部分だけにイタチの毛を使う場合もある』。以下、妖怪としてのイタチについて。『日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた。江戸時代の百科辞典「和漢三才図会」によれば、イタチの群れは火災を引き起こすとあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を、6人で臼を搗く音に似ているとして「鼬の六人搗き」と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。人がこの音を追って行くと、音は止まるという』。『またキツネやタヌキと同様に化けるともいわれ、東北地方や中部地方に伝わる妖怪・入道坊主はイタチの化けたものとされているほか、大入道や小坊主に化けるという』。

♡「鼬の呪はたかんなのねぢきり也、是五大明王のしるし候らん」「たかんな」は筍のこと、「ねぢきり」は土から出た筍の螺子状の形状を言うのであろう。「五大明王」とは不動明王を中心とし、東に降三世(ごうざんぜ)明王、南に軍荼利(ぐんだり)明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王に配した明王群の総称で、この明王群は如来の真意を奉持し、霊的な力で悪を砕く役目を持つため、通常、激しい忿怒相を示している。以下の「是五大明王のしるし候らん」は、

――イタチのまじないは、それ、そこここに生えおる螺子切りのような筍じゃ!――筍の螺子切りのような形――それは悪を滅する忿怒の相の、かの畏るべき五大明王さまの呪印で御座るぞ!――

という言いか。例えば五大明王中、最もポピュラーな不動明王の場合、左手の薬指を右手の中指で握り、右手の薬指を左手の中指で握って、両手の親指・人差し指・小指を合わせたものが『不動明王の呪』であるという記載がネット上にあった。これは如何にも筍に似ているように思われる(『不動明王の印』の方はもっと単純で、両手を合わせ、蕾を作るように膨らませ、人差し指と小指を離した形とも、一部のネット画像ではもっとシンプルに親指を掛け合わせ人差し指のみを伸ばした形ともある。どちらも筍に似ていると言えなくもない)。また、私がずっと以前、鎌倉のとある寺で私の守護仏に相当するという不動明王の札を受けたことがあるが、そこに押された火炎をデフォルメした印(マーク)があたかも筍の如く見えたことも付け足しておこう。何れにせよ、呪いなれば、凡俗には意味は分からぬ、ということで〆にしたい。

因みに、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースに愛媛大学農学部付属農業高等学校郷土研究部フィールド・ワークの採取として、鼬が道を横切った際、

イタチが道切る 血道切る おれがさき切る アビラウンケンソワカ

と誦える、とある。これは鼬が行く道を横切ることが不吉なことであり、それを予防する呪言とも思われるが、それは恐らくそこを二度と鼬が横切らないようにするための呪法と相同と考え得る。但し、「オンアビラウンケンソワカ」は大日如来の真言である。このような妖怪としての鼬に関わる呪いとしては、チャンネル福岡に、

イタチ・ミチキリ・チミチキリ

という言葉が民話番組欄に紹介されている。福岡県東区蒲田地区に伝わるその民話の中に上記の鼬除けの呪いが用いられるとし、『イタチが人をハンミョウという虫にしてしまう』伝承があり、この呪文を誦えると、その難から逃れられるという言い伝えが民話になっているそうである。更に鼬除けのはっきりした呪物としては、個人の方のHP「かたつむりの館」の「神聖な生き物5 ◆アワビ(鮑)貝の魔よけ」のページに山口県小郡町の例として『子供の流行病(はやりやまい)やヘビ・イタチを鶏舎から追い払うまじない、牛や馬などの家畜から病魔を追い払うまじない、家庭円満の守護』としてアワビを軒下に飾るケースが紹介されている。神聖な鏡(光を反射させる光沢)や神の眼(呼吸孔)としてのアワビのアイテムを実際の写真で確認出来る。是非、御覧あれ。

■やぶちゃん現代語訳

 鼬除けのまじないの事

 金魚を飼って御座る槽(おけ)や、又は、殊の外、そのようなことから如何にしても守らねばならぬような品なんどに、鼬が侵入して悪さを致いて何かと難儀をする折りには、そこに左の如く書いた札を立てれば、その辺りへは鼬は入らなくなるとの由、古老の話で御座った。

  鼬の呪はたかんなのねぢきり也、是五大明王のしるし候らん

夏目漱石 心 先生の遺書(一)~(三十六)  附♡やぶちゃんの摑み―― (単行本「こゝろ」「上 先生と私」相当パート ) 全公開

夏目漱石「心」の「先生の遺書」(一)から(三十六)まで、単行本「こゝろ」の「上 先生と私」相当パートの同日公開を昨日順調に終えることが出来たことを記念して、

 

心 先生の遺書  (一)~(三十六) 附♡やぶちゃんの摑み――(単行本「こゝろ」「上 先生と私」相当パート)

 

を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。

……今日これを成した私には或大きな感慨があるのです。貴方にはその感慨とやらが明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の持つて生まれた性格の相違と云つた方が確かも知れません。記憶して下さい。私は斯んな風にして私の殘る余生を生きて見たいのです。……

 

 

*業務連絡

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『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月29日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十七回

Kokoro13_9   先生の遺書

   (三十七)

 宅(うち)へ歸つて案外に思つたのは、父の元氣が此前見た時と大して變つてゐない事であつた。

 「あゝ歸つたかい。さうか、それでも卒業が出來てまあ結構だつた。一寸(ちよつと)御待ち、今顏を洗つて來るから」

 父は庭へ出て何か爲てゐた所であつた。古い麥藁帽の後(うしろ)へ、日除のために括り付けた薄汚ないハンケチをひらひらさせながら、井戶のある裏手の方へ廻つて行つた。

 學校を卒業するのを普通の人間として當然のやうに考へてゐた私は、それを豫期以上に喜こんで吳れる父の前に恐縮した。

 「卒業が出來てまあ結構だ」

 父は此言葉を何遍も繰り返した。私は心のうちで此父の喜びと、卒業式のあつた晩先生の家の食卓で、「御目出たう」と云はれた時の先生の顏付とを比較した。私には口で祝つてくれながら、腹の底でけなしてゐる先生の方が、それ程にもないものを珍らしさうに嬉しがる父よりも、却(かへつ)て高尙に見えた。私は仕舞に父の無知から出る田舍臭い所に不快を感じ出した。

 「大學位卒業したつて、それ程結構でもありません。卒業するものは每年何百人だつてあります」

 私は遂に斯んな口の利きやうをした。すると父が變な顏をした。

 「何も卒業したから結構とばかり云ふんぢやない。そりや卒業は結構に違ないが、おれの云ふのはもう少し意味があるんだ。それがお前に解つてゐて吳れさへすれば、‥‥」

 私は父から其後を聞かうとした。父は話したくなささうであつたが、とうとう斯う云つた。

 「つまり、おれが結構といふ事になるのさ。おれはお前の知つてる通りの病氣だらう。去年の冬お前に會つた時、ことによるともう三月か四月位なものだらうと思つてゐたのさ。それが何ういふ仕合せか、今日迄斯うしてゐる。起居(たちゐ)に不自由なく斯うしてゐる。そこへお前が卒業して吳れた。だから嬉しいのさ。折角丹精した息子が、自分の居なくなつた後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに學校を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだらうぢやないか。大きな考を有つてゐるお前から見たら、高が大學を卒業した位(くらゐ)で、結構だ/\と云はれるのは餘り面白くもないだらう。然しおれの方から見て御覽、立場が少し違つてゐるよ。つまり卒業はお前に取つてより、此(この)おれに取つて結構なんだ。解つたかい」

 私は一言(いちごん)もなかつた。詫(あや)まる以上に恐縮して俯向いてゐた。父は平氣なうちに自分の死を覺悟してゐたものと見える。しかも私の卒業する前に死ぬだらうと思ひ定めてゐたと見える。其卒業が父の心に何の位(くらゐ)響くかも考へずにゐた私は全く愚ものであつた。私は鞄の中から卒業證書を取り出して、それを大事さうに父と母に見せた。證書は何かに壓し潰されて、元の形を失つてゐた。父はそれを鄭寧(ていねい)に伸した。

 「こんなものは卷いたなり手に持つて來るものだ」

 「中に心(しん)でも入れると好かつたのに」と母も傍(かたはら)から注意した。

 父はしばらくそれを眺めた後、起つて床の間の所へ行つて、誰の目にもすぐ這入るやうな正面へ證書を置いた。何時もの私ならすぐ何とかいふ筈であつたが、其時の私は丸で平生と違つてゐた。父や母に對して少しも逆らう氣が起らなかつた。私はだまつて父の爲すが儘に任せて置いた。一旦癖のついた鳥の子紙の證書は、中々父の自由にならなかつた。適當な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢を得て倒れやうとした。

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[♡やぶちゃんの摑み:本章の重要な小道具である卒業証書については、先行する(三十二)の私の冒頭注を参照されたい。

 

♡「鳥の子紙」奉書紙と共に代表的な和紙の名。平安期には斐紙(ひし)と呼ばれたが、後、筆運びの滑らかさと色(赤味を帯びた鶏の卵に似る)から「鳥の子紙」と呼称されるようになった。紙質が滑らかで書き易く且つ耐久性に富み、虫害を受け難いため、長期に保存に耐えるというメリットを持つ。現在、手漉きの鳥の子は「本鳥之子」と呼ばれ、高級品。一般に言われる現在の鳥の子紙は「新鳥の子紙」で本来の風合いに似せてパルプで作った洋紙である。

 

♡「適當な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢を得て倒れやうとした」是非とも1955年市川昆監督作品「こころ」のこの場面を見て、笑おう! スタッフが糸で操作して如何にもな感じでこれでもかって倒れる様が、完全に笑える! 因みに「私」は「日置」という姓で安井昌二(「チャコちゃん」のお父さんと言う方が僕の世代には通りがよい)が演じ、その父は鶴丸睦彦、母はあの北林谷栄であった。大好きな北林さんのあの声で――「中に心でも入れると好かつたのに」――シビレます。あの時、まだ北林さんは44歳だった。僕より十近く若かったんだなぁ……感慨……。以下、みんな、北林さんの声で読みましょう!]

2010/05/28

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月28日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十六回

Kokoro13_8   先生の遺書

   (三十六)

 私は其翌日も暑さを冐(をか)して、賴まれものを買ひ集めて步いた。手紙で注文を受けた時は何でもないやうに考へてゐたのが、いざとなると大變億劫(おくくふ)に感ぜられた。私は電車の中で汗を拭きながら、他の時間と手數(てすう)に氣の毒といふ觀念を丸で有つてゐない田舍者を憎らしく思つた。

 私は此一夏を無爲に過ごす氣はなかつた。國へ歸つてから。日程といふやうなものを豫(あらかじ)め作つて置いたので、それを履行するに必要な書物も手に入れなければならなかつた。私は半日を丸善の二階で潰す覺悟でゐた。私は自分に關係の深い部門の書籍棚(しよせきたな)の前に立つて、隅から隅迄一册づつ點檢して行つた。

 買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟であつた。小僧にいふと、いくらでも出しては吳れるが、偖(さて)何れを選んでいゝのか、買ふ段になつては、只迷ふ丈であつた。其上價が極めて不定であつた。安からうと思つて聞くと、非常に高かつたり、高からうと考へて、聞かずにゐると、却つて大變安かつたりした。或はいくら比べて見ても、何處から價格の差違が出るのか見當の付かないのもあつた。私は全く弱らせられた。さうして心のうちで、何故先生の奧さんを煩はさなかつたかを悔いた。

 私は鞄を買つた。無論和製の下等な品に過ぎなかつたが、それでも金具やなどがぴか/\してゐるので、田舍ものを威嚇(おど)かすには充分であつた。此鞄を買ふといふ事は、私の母の注文であつた。卒業したら新らしい鞄を買つて、そのなかに一切の土產ものを入れて歸るやうにと、わざ/\手紙(てかみ)の中に書いてあつた。私は其文句を讀んだ時に笑ひ出した。私には母の料簡が解らないといふよりも、其言葉が一種の滑稽として訴へたのである。

 私は暇乞をする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立つて國へ歸つた。此冬以來父の病氣に就いて先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、何ういふものか、それが大して苦にならなかつた。私は寧ろ父が居なくなつたあとの母を想像して氣の毒に思つた。其位だから私は心の何處かで、父は既に亡くなるべきものと覺悟してゐたに違ひなかつた。九州にゐる兄へ遣つた手紙のなかにも、私は父の到底故(もと)の樣な健康體になる見込のない事を述べた。一度などは職務の都合もあらうが、出來るなら繰合(くりあはせ)て此夏位一度顏丈でも見に歸つたら何(ど)うたと迄書いた。其上年寄が二人ぎりで田舍にゐるのは定めて心細いだらう、我々も子として遺憾の至りであるといふやうな感傷的な文句さへ使つた。私は實際心に浮ぶ儘を書いた。けれども書いたあとの氣分は書いた時とは違つてゐた。

 私はさうした矛盾を汽車の中で考へた。考へてゐるうちに自分が自分に氣の變りやすい輕薄ものゝやうに思はれて來た。私は不愉快になつた。私は又先生夫婦の事を想ひ浮べた。ことに二三日前晩食(ばんしよく)に呼ばれた時の會話を憶ひ出した。

 「何(ど)つちが先へ死ぬだらう」

 私は其晩先生と奧さんの間に起つた疑問をひとり口の内(うち)で繰り返して見た。さうして此疑問には誰(たれ)も自信をもつて答へる事が出來ないのだと思つた。然し何方(どつち)が先へ死ぬと判然(はつきり)分つてゐたならば、先生は何うするだらう。奧さんは何うするだらう。先生も奧さんも、今のやうな態度でゐるより外に仕方がないだらうと思つた。(死に近づきつゝある父を國元に控へながら、此私が何うする事も出來ないやうに)。私は人間を果敢(はか)ないものに觀じた。人間の何うする事も出來ない持つて生れた輕薄を、果敢ないものに觀じた。

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[♡やぶちゃんの摑み:

 

♡「國へ歸つてから。日程」は「國へ歸つてからの日程」の誤植。

 

♡「丸善の二階で潰す覺悟でゐた。私は自分に關係の深い部門の書籍棚の前に立つて、隅から隅迄一冊づつ點檢して行つた」このシーンは明治451912)年の7月であるが、丸善はその2年前、明治431910)年5月に日本橋区通町3丁目に新社屋を落成している。赤煉瓦4階建の日本最初の鉄骨建築であった。丸善は国内刊行物も扱ってはいたが(但し一階)、二階は洋書売り場で、後半の「隅から隅迄一冊づつ點檢して行つた」というのも和書ではなく、その棚の本総てが洋書であった故のニュアンスを感じるところである。和書ならば専門書でも「一冊づつ點檢」するという大仰な言葉遣いを私ならしないからである。また、ここでは、文学書や文学系研究書ではなく、冷徹に「一冊づつ點檢」しなくてはならないという点、俄然、心理学・哲学の専門書の印象が強いとも言える。

♡「半襟」掛け襟の一つ。襦袢(じゅばん)の襟の上に重ねて掛ける飾り襟。当時は贈答品としてよく用いられた。

 

♡「金具やなどがぴか/\してゐるので、田舍ものを威嚇かすには充分であつた」この鞄の購入指示は母からであったが、ここに言う田舎者をビビらせてやるに足る金ピカ、とほくそ笑んでいるのは「私」であることに注意。既に見てきたように、作中、こうした田舎者への徹底した差別意識は多くの登場人物に反映されている。「坊つちやん」漱石の拭い難いトラウマなのである。

 

♡「見に歸つたら何うた」の「何うた」は「何うだ」の誤植。

 

♡「さうした矛盾」ここは私には少々読みにくい(論理的にすっきりしない)部分である。「私」は、当然、致命的な病に罹患している父を「一番心配しなければならない地位にありながら、何ういふものか」直近に迫りつつあるはずの父の死という事実を真剣に実感することが出来ず、それどころか「大して苦に」さえ「ならなかつた」。いや、それどころか不謹慎にも「寧ろ父が居なくなつたあとの」ことに専ら思いを馳せ、父を失った「母を想像して氣の毒に思つた」りした。即ち、「私は心の何處かで、父は既に亡くなる」ことが決まったもの、そのようなものとして諦め、残った者達の未来を考えるのが最も適切な「ものと覺悟してゐたに違ひなかつた」。

――ところが――(と私なら逆接の接続詞で繋げたいところなのである)

同じ頃、「九州にゐる兄へ遣つた手紙」では(「のなかにも」が私にはおかしな表現に思える)、「私は父の到底故の樣な健康體になる見込のない事を述べ」、「一度などは職務の都合もあらうが、出來るなら繰合て此夏位一度顏丈でも見に歸つたら何う」だ「と迄書いた」りしたのである。「其上年寄が二人ぎりで田舍にゐるのは定めて心細いだらう、我々も子として遺憾の至りであるといふやうな感傷的な文句さへ」も「使つ」て不実な兄を暗に責め、故郷への帰還要請さえ仄めかしたりした。いや、その筆を染めていた時は「私は實際」に「心に浮ぶ儘を書いた」のである。嘘はなかった。「けれども」その手紙を書き終えた途端、「氣分は」あっという間に「書いた時とは違つ」たものになっていた。即ち、元の木阿弥、「死に近づきつゝある父を國元に控へながら、此私」は「何うする事も出來ない」、出来ないんだからあれこれ悩んでもしようがない、生きている人間の方が死んだ――死につつある、死ぬことが定まった――人間より大切だ――という感懐に「私」は捕らわれ、「さうした矛盾を汽車の中で考へ」ているのである。しかし、問題はここからであって、「考へてゐるうちに自分が自分に氣の變りやすい輕薄ものゝやうに思はれて來た。私は不愉快になつた」という部分にこそ、そのような(正に先生と同じく)『矛盾な存在』である自己の内実に、「私」が覚醒しつつあるのだということに気づかねばならぬ。]

2010/05/27

耳嚢 巻之二 寺をかたり金をとりし者の事

「耳嚢 巻之二」に「寺をかたり金をとりし者の事」を収載した。

 寺をかたり金をとりし者の事

 駒込にて越中屋とて有德の者あり。或夏の暮に門へ床机(しやうぎ)を並べ、あたりの者四五人一同涼みて咄居たりしが、菩提所出家壹人來りて門口へ見廻り、越中屋を見て大きに肝を潰し、御身は死し給ふ由故、頭剃(かうぞり)に來りたりと言ければ、越中屋大きに驚き、扨/\忌はしき坊主哉とて、其所に有し者も、仔細こそ有らんとて大に笑ひ、いづれ唯にても歸されず、酒にても呑て參るべしと、何れも祝ひ直しに一盃呑めくと、其席の者を皆々呼入て酒など呑ける上にて、彼出家を尋しに答けるは、昨日の晝過(すぎ)て一僕連し侍來りて御身の一類の由、御身病死に付家内は上下歎き沈みぬれば取しきり世話する者なし、我等ゆかりゆへに來りて寺の取置の事も談じ侍る、是より歸りには何か調物(ととのへ)もいたしける由をいひけるにぞ、人の死せしに僞りもなきものなれば、誠の事と心得、右侍に支度など出し饗應しけるに、物くひ酒呑みて硯紙など借りて、金子二三兩懷中より出し、色々勘定の躰(てい)故、何ぞ用(よう)有(あり)哉(や)と和尚尋ねければ、是々の品をも調候積りなるが、少し金子不足と思へば勘定いたし申也、何れにも今晩申付ざれば明日の葬送も調ひがたし。若(もし)手元に有合(ありあへ)ば二三兩借し給へといひし故、其樣疑ふべき人品(じんぴん)にもあらざれば、金子三兩借(かし)遣しけるが、扨は右金子はかたられ、馳走は仕損(しぞん)也とかたりけれは、一座大笑ひをなせしと、その最寄の人語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。先行する話柄にもしばしば見られた奇略の詐欺犯罪シリーズである。

・「越中屋」「有德の者」とあるからには豪商であろうが、不詳。

・「頭剃(かうぞり)」これは出家して僧となるために剃髪することを言うが、また、しばしば死者に戒をさずけると同時に髪を剃ることをも言った。

■やぶちゃん現代語訳

 寺を騙してまんまと金を奪取した者の事

 駒込に越中屋という豪商がいる。

 ある夏の夕暮れ時、門口の辺りに床机を並べ、近所の者四、五人と涼んで世間話なんど致いておったところへ、越中屋菩提寺の僧が、一人袈裟を抱えて汗だくになりながらやって来、床机に座った越中屋を見るやいなや、吃驚仰天、

「……お、御身は……ご逝去なされた由……聞き及ぶによって、今日は……頭剃(こうぞり)に参ったのじゃが?……」

と言うので、越中屋も吃驚り。

「さてさて! 縁起でもない冗談を申す坊主じゃ!」

それを受けて、その場におった者どもも、

「はっ! はっ!……こりゃまた、何やらん、仔細があろうってもんだぜ!」

と大笑い。越中屋も、

「ともかくも、非礼なる振る舞い。いずれこのまま、ただでは帰されんぞ!……まあ、酒でも呑んで行かれるがよかろうぞ。……いずれにせよ、験(げん)直しの祝い直しじゃ! 皆の衆! 宅(うち)へ入(い)って一杯呑んでっておくんな!」

とそこにおった僧や男どもを、みんな呼び入れ、酒なんど酌み交わしつつ、かの僧に謂れを訊くと――

「……昨日の丁度、昼過ぎ、下僕を一人連れた侍が当寺を訪れたんじゃ。……そうして御身の親類の由申し、

『越中屋儀、急の病いにて、これ卒(しゅ)っして御座った……越中屋家内(いえうち)は火の消えた如、すっかり嘆き沈んで御座れば、葬儀万端、これ、取り仕切り世話する者とて御座らぬ。……我ら越中屋が縁なる者なれば、取り急ぎ越中屋へ参り、とりあえず、寺への埋葬の段等も御相談致そうと存じて参った。……(独白ながら僧に聞えるように)これより帰る途中は……そうそう、何かと葬儀のために買い調えておくものも御座ったのぅ……』

とのこと。……いや! 人が死んだと言うを……まさか、偽りなんどとは思いもせねば……当然、誠のことと思うて……昼も食せず取り急ぎ参ったというこの侍に、膳などを出だいて饗応致した。……すると、この侍、早朝、遠方より徒歩(かち)立ちにて出で、いっさんに参ったればとか何とか申しての、……まあ、食うわ食うわ、呑むわ呑むわ、……鱈腹食うた後、……硯と紙を所望、金子二、三両を懷から出だいて……何やらん、いろいろ勘定し思案致いている様子なれば、

『……御仁、どうか致されたか?』

と拙僧が訊ねたところ、

『……いやさ、これこれの葬儀の物、これより買い調えて帰らんとするものなれど、……少々、金子が足らぬように思うに付、勘定致いており申した。……何れにせよ、今晩申し付けて用意致さねば、明日の葬送も間に合いそうも御座らぬ。……もし、和尚、手元にあらばの話しで御座るが……二、三両、都合して頂けると助かるので御座るが……』

と申す故……いや! もう、その立ち居振る舞いから人品、卑しからざる風体(ふうたい)にて御座ったれば、……金子三両を貸した――

――糞! さてはかの金子、騙し取られた! 出した馳走も! 糞! 食われ損じゃが!!」

と糞にされた坊主は糞踏むように地団駄踏んで、一座の者ども、大笑い致いたとのこと。

 その越中屋の近隣に住む者の話しで御座る。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月27日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十五回

Kokoro13_7   先生の遺書

   (三十五)

 私は立て掛けた腰を又卸(チろ)して、話の區切(くきり)の付く迄二人の相手になつてゐた。

 「君は何う思ひます」と先生が聞いた。

 先生が先へ死ぬか、奧さんが早く亡くなるか、固より私に判斷のつくべき問題ではなかつた。私はたゞ笑つてゐた。

 「壽命は分りませんね。私にも」

 「是ばかりは本當に壽命ですからね。生(うまれ)た時にちやんと極つた年數をもらつて來るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同(おん)なじよ、あなた、亡くなつたのが」

 「亡くなられた日がですか」

 「まさか日迄同なじぢやないけれども。でもまあ同なじよ。だつて續いて亡くなつちまつたんですもの」

 此知識は私にとつて新らしいものであつた。私は不思議に思つた。

 「何うしてさう一度に死なれたんですか」

 奧さんは私の問に答へやうとした。先生はそれを遮つた。

 「そんな話は御止しよ。つまらないから」

 先生は手に持つた團扇(うちわ)をわざとばたばた云はせた。さうして又奧さんを顧みた。

 「靜、おれが死んだら此(この)家(うち)を御前に遣らう」

 奧さんは笑ひ出した。

 「序に地面(ちめん)も下さいよ」

 「地面(ちめん)は他(ひと)のものだから仕方がない。其代りおれの持つてるものは皆(みん)な御前に遣るよ」

 「何うも有難う。けれども橫文字の本なんか貰つても仕樣がないわね」

 「古本屋に賣るさ」

 「賣ればいくらになつて」

 先生はいくらとも云はなかつた。けれども先生の話は、容易に自分の死といふ遠い問題を離れなかつた。さうして其死は必ず奧さんの前に起るものと假定されてゐた。(無論笑談(ぜうだん)らしい輕味(かるみ)を帶びた口調ではあつたが)。

 奧さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答へをしてゐるらしく見えた。それが何時の間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。

 「おれが死んだら、おれが死んだらつて、まあ何遍仰しやるの。後生(ごしやう)だからもう好(い)い加減にして、おれが死んだらは止して頂戴。緣喜(えんぎ)でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思ひ通りにして上げるから、それで好いぢやありませんか」

 先生は庭の方を向いて笑つた。然しそれぎり奧さんの厭がる事を云はなくなつた。私もあまり長くなるので、すぐ席を立つた。先生と奧さんは玄關迄送つて出た。

 「御病人を御大事に」と奧さんがいつた。

 「また九月に」と先生がいつた。

 私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄關と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐやうに、夜陰(やいん)のうちに枝を張つてゐた。私は二三步動き出しながら、黑ずんだ葉に被はれてゐる其梢を見て、來るべき秋の花と香を想ひ浮べた。私は先生の宅と此木犀とを、以前から心のうちで、離す事の出來ないものゝやうに、一所に記憶してゐた。私が偶然其樹の前に立つて、再びこの宅の玄關を跨ぐべき次の秋に思を馳せた時、今迄格子の間から射してゐた玄關の電燈がふつと消えた。先生夫婦はそれぎり奧へ這入たらしかつた。私は一人暗い表へ出た。

 私はすぐ下宿へは戾らなかなつた。國へ歸る前に調のへる買物もあつたし、御馳走を詰めた胃袋にくつろぎを與へる必要もあつたので、たゞ賑やかな町の方へ步いて行つた。町はまだ宵の口であつた。用事もなささうな男女(なんによ)がぞろ/\動く中に、私は今日私と一所に卒業したなにがしに會つた。彼は私を無理やりにある酒塲へ連れ込んだ。私は其處で麥酒(ビール)の泡のやうな彼の氣焰(きえん)を聞かされた。私の下宿へ歸つたのは十二時過であつた。

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[♡やぶちゃんの摑み:先生と「私」の最後の別れのシーンである。木犀の樹下に来るべき秋に思いを馳せる「私」――その瞬間、「今迄格子の間から射してゐた玄關の電燈がふつと消えた」――この映像は一読忘れ難い。そうしてこれは後の(四十一)(=「こゝろ」「中 兩親と私」の五)の明治天皇崩御の直後の叙述、

 

 私は又一人家のなかへ這入つた。自分の机の置いてある所へ來て、新聞を讀みながら、遠い東京の有樣を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、何んなに暗いなかで何んなに動いてゐるだらうかの畫面に集められた。私はその黑いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火の如くに先生の家を見た。私は其時此燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其灯も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控えてゐるのだとは固より氣が付かなかつた。[やぶちゃん注:下線部やぶちゃん。]

 

という痛恨の心象シークエンスへの強い伏線として機能することになるのである。

 

♡「卸(チろ)して」ルビ「おろ」の誤植。

 

♡『「壽命は分りませんね。私にも」/「是ばかりは本當に壽命ですからね。生(うまれ)た時にちやんと極つた年數をもらつて來るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同(おん)なじよ、あなた、亡くなつたのが」』「心」自筆原稿でもこの通り(前者が「私」の、後者が靜の台詞)であるが、単行本「こゝろ」ではこの台詞が、

 

「壽命は分りませんね。私にも是ばかりは本當に壽命ですからね。生(うまれ)た時にちやんと極つた年數をもらつて來るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同(おん)なじよ、あなた、亡くなつたのが」

 

と一体になってしまい、すべてを靜の台詞として処理している。確かに、直前で「私はたゞ笑つてゐ」るだけだから、応答しないというのは自然だと言われればそれまでだが(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は「こゝろ」本文の方が適切と思われると注される)、私には「壽命は分りませんね。私にも」は男の台詞に感じられ、また「私にも是ばかりは本當に壽命ですからね」は「私にも」という条件が下位の文脈を規定出来ず、宙ぶらりんにしか読めない。かつて授業で朗読しても、常に間違えるところで、「私」の台詞と思って読んでしまい、読み直したこと、何度あったか知れないのである。私は断固として、この初出形が正しいと思う。

 

♡「先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同なじよ、あなた、亡くなつたのが」以下によって、先生の父母は流行性伝染病により亡くなったらしいことが類推されるようになっている。(五十七)=「こゝろ」「下 先生と遺書」三で腸チフスであったことが示される。

 

♡「横文字の本」先生の書斎にある相応な量の蔵書の半数以上(大半かも知れない)が洋書であることが分かる。この辺りは漱石の専門であった英文学を想起させるところであるが、以前の注でも記したように心理学や哲学は、当時、新思想や新学派がみるみる勃興し、その多くは西欧から数多く発信されたものであった。

 

♡「(無論笑談らしい輕味を帶びた口調ではあつたが)。」これは同日連載であった大坂朝日新聞版では「(無論笑談らしい輕味を帶びた口調であつたが)。」と「は」がなく、更に単行本「こゝろ」では珍しく全部が完全に削除された上、改行せずに次の段落と繋がっている。即ち、

 

 先生はいくらとも云はなかつた。けれども先生の話は、容易に自分の死といふ遠い問題を離れなかつた。さうして其死は必ず奧さんの前に起るものと假定されてゐた。奧さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答へをしてゐるらしく見えた。それが何時の間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。

 

と続いて、靜のセンチメンタルでやや悲壮さを持った強い口調(靜の先生へのものとしては特異点であると言ってよい)が引き出されるのである。確かにこの丸括弧は言わずもがなで、靜の内なる先生へのディレンマを殺いでいるように思われる。

 

♡『「また九月に」と先生がいつた。』先生の遺書で((百九)=「こゝろ」「下 先生と遺書」五十五)、

 

 記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散步した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後には何時でも黒い影が括ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を步いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、噓を吐いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度會ふ積でゐたのです。

 

と先生が語る通り、この時点で先生は必ず「私」と逢おうと、逢いたいと思っていたのである。先生は「私」と必ず逢いたかったのである。そこを押えておいて、「私」に逢わずに亡くなった先生の、その「心」を、考えねばならぬのである。

 

♡「木犀」被子植物門双子葉植物綱ゴマノハグサ目モクセイ科モクセイ属 Osmanthus に属する常緑小高木の総称。中国原産。中国名桂花。本邦ではギンモクセイ(銀木犀) Osmanthus fragrans var. fragrans ・キンモクセイ(金木犀) Osmanthus fragrans var. aurantiacus ・ウスギモクセイ(薄黄木犀) Osmanthus fragrans var. thunbergii 三種の総称であるが、単に「木犀」と言った場合、ギンモクセイを指すことが多く、先生の玄関先のこれもギンモクセイと考えてよいであろう。中秋、香気の強い星形の4弁の小花が数多く咲く。雌雄異株であるが、本邦には雄株しかないと言われている(以上は主にウィキの「モクセイ」に依った)。古来、中国の美女はその花を浸した酒を口に含んで、花の香をさせながら恋人に逢ったという。花言葉はモクセイ全般に「謙遜・真実」、金木犀は「あなたは高潔です」、そして銀木犀は――「初恋」――である。]

2010/05/26

耳嚢 巻之二 義は命より重き事

「耳嚢 巻之二」に「義は命より重き事」を収載した。短い話し乍ら、絶望的で一読、忘れ難いのだ……僕の前世はこの非人だったのかも知れない……僕にはこの浪人が子を川へ投げ捨て、欄干を自ずとまたぐのを見た記憶が、確かにあるからである……

 義は命より重き事

 近き頃の事とや。いか成者の身の果なるや、兩國橋にて袖乞(そでごひ)しける浪人、四五才の子をつれて往來へ合力(かふりよく)を願ひけるが、或日往來の情(なさけ)もなくて一錢も貰ひ得ざりしに、其子空腹に成しや頻りに泣て不止、親も不便に思ひて辻に出し餠賣に、此者空腹とて歎けども未一錢も貰ひ得ず、後程貰ひなば可遣間、一つ商ひ呉候樣に申ければ、餠賣聞て、我等も今朝より商ひなし、難成よしつれなく申ければ、いとゞ其子は泣さけびけるに、側に居(をり)し雪踏直しの非人、有合(ありあひ)の錢を少々遣し、甚(はなはだ)の御難儀也立替進ずる由申ければ、忝(かたじけなき)由厚く禮いふて彼餠を調へ其子へあたへ、往來へ願ひ錢を乞受(こひうけ)かの非人へ戻し、其子を橋の上より川中へ投入、我身もつゞきて入水(じゆすい)して果しと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。しかし余りと言えば余りの悲惨な話ではないか。これが「命」より重い「義」か? 餅売りが餅を与えていたら、この浪人も子も入水しなかったと考えた時、ますます私の憂鬱は完成するのだ。――「好死不如惡活」(好死は惡活に如かず)(清・「通俗編」巻三十八)――この話、一読、酷く哀しい。その情景が私には見てきたように眼前に浮かぶのである。

・「袖乞」行く人の袖を引いて物を乞うこと。物乞い。

・「合力」経済的援助。

・「雪踏直しの非人」「雪踏」は雪駄。草履の一種で竹皮で丁寧に編んだ草履の裏面に獣皮を貼って防水機能を与えたもので、皮底の踵(かかと)部分には後金を打って保護強化されている。特に湿気を通し難い構造になっている。「雪駄直しの非人」江戸の非人は、全国の被差別部落に号令する権限を幕府から与えられていた穢多頭(えたがしら)であった浅草矢野弾左衛門(歴代この名を襲名した)の統轄下に置かれていた。町外れや河原の非人村の小屋を居住地とし、大道芸・罪人市中引廻しや処刑場手伝い・町村の番人や本話のような各種の卑賤な露天業・雑役、物乞いを生業(なりわい)としていた。ウィキの「非人」には更に、『死牛馬解体処理や皮革処理は、時代や地域により穢多』『との分業が行われていたこともあるが、概ね独占もしくは排他的に従事していたといえる。ただしそれらの権利は穢多に帰属した』と記す。この見かねた非人――先行する「卷之二」の「非人に賢者ある事」を参照されたい。このような真心を持った人々が社会の底辺にいた、いや、底辺にこそ、いるのである。

■やぶちゃん現代語訳

 義は命より重いという事

 近き頃のことである。

 如何なる武士のなれの果てか、両国橋にて、物乞いをする浪人――四、五歳の子を連れていた――、往来の者に施しを願ってその日暮しをしていた。

 ある日のこと、往来の情けに恵まるること、これなく、日がな一日経っても、一銭も貰うこと、出来なんだ。

 その子、腹がへってどうにもならずなったか、頻りに泣いて止まぬ。

 親たる浪人も不憫に思うて、傍らに辻に出張っておった餅売りに、

「……この者、空腹故、泣いて御座るが、今日は未だ一銭の施しさえも得ること、これ、御座らぬ。……後程、貰ろうたれば、必ずお返し致すによって、……餅を一つ、売って下されよ……」

と申した。しかし餅売りはそれを聞いても、

「我らも今朝から、いっちょも売れず、商売上がったり。お断りだね。」

とけんもほろろに断った。

 ――ますます、子は泣き叫ぶ――

 ――と、その時、たまたま側にいた雪駄直しの非人、あり合わせの銭を少々浪人に差し出だいて、

「……畏れながら、甚だ難儀のご様子。……賤しき者ながら、拙者が立て替えて進ぜましょうぞ。」

と申したので、浪人は、

「……!?……か、忝(かたじけな)い!…………」

と厚く礼を言うて金子を受け取ると、それで餅売りから餅を買い、子に与えた上、再び往来に立って銭を乞うた。

 ――暫くして、餅代に叶う幾足りかの施しを貰ろうた。

 ――すると浪人は、その立て替えて分の銭を非人に戻すと――

 ――橋の上より子を川に投げ入れ、我が身も後に続いて――入水し果てて御座った。――

2010/05/25

耳嚢 巻之二 志す所不思議に屆し事

 

「耳嚢 巻之二」に「志す所不思議に屆し事」を収載した。

 

 

 志す所不思議に屆し事

 

 山川下總守いまだ御小納戶勤ける時、同役の山村十郞右衞門差料の鍔(つば)の形甚(はなはだ)面白きとて、其形を以て新規に打せ度(たく)望(のぞみ)なれば、則(すなはち)十郞右衞門鍔をはづして下總守方へ送りけるに、其職せる者の方へ右の鍔を持せ遣しける路にて、右使の者いづちにや彼鍔を落しける由。其僕の無念(ぶねん)を吞めぬれども、人の祕藏の鍔を紛失せし事の氣の毒さに、色々右途中其外搜しぬれども行方なければ、詮方なくて山村へ詫けるに、山村も落し候上は是非なしとて其儘にて事過ぬ。され共下總守心には、何卒右鍔を尋、似たる品也共買得て戾しなんと常に心にかゝりしが、山村は京都町奉行に成て上京し、下總守は御目付へ出て、一と年久能御普請に御作事奉行代りを勤(つとめ)駿州(すんしう)へ參りつるが、其時御目付代りにて御使番より小長谷(こながや)喜太郞駿府へ行て同じく御普請の掛りなしけるに、喜太郞が方へ下總守至りし時、茶など運びし喜太郞家來の帶しける脇差の鍔を見るに、先達(せんだつ)て失ひし鍔にまがふかたなければ、夫(それ)となしに所望して能々見るに、聊違なかりける故大に悅びて、喜太郞家來へ相應の挨拶謝禮して申請、御用濟て歸府の上、早速山村方へ登せけるに、兩三年の事なれ共、下總守へ通し候節鍔をはづしたる儘にて有し故、仕合見(しあはせみ)しに少しも違はざりしと。信濃守後に御勘定奉行に成りて語りしが、山川も同く咄ける。今に山村信濃守にて都返(みやこがへ)りとて祕藏なしけるよし。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:酒への執心、紛失した鍔への執心で連関。

 

・「山川下總守」(享保一七一七三二)年~寛政二(一七九〇)年)岩波版長谷川氏注によれば、『貞幹(さだもと)。宝暦三年(一七五三)西丸御小納戸、同十年本丸御小納戸。安永三年(一七七四)御徒歩頭、同四年目付、同年久能普請に関与。』とある(下線部やぶちゃん)。

 

・「御小納戶」将軍側近の小姓に準じて常に将軍に伺候し、小姓の下で将軍の食事膳方・居室や御庭の管理清掃・理髪・手水・時計管理・老中及び若年寄登城報告等、極めて煩瑣な身辺雑用御用全般を担当した。

 

・「山村十郞右衞門」山村良旺(たかあきら 享保一九一七三四)年~寛政九(一七九七)年)。岩波版長谷川氏注によれば、『宝暦三年西丸御小納戸、同八年本丸御小納戸。明和五年(一七六八)目付、安永二年(一七七三)京都町奉行、同年信濃守、同七年勘定奉行。』とある。勘定奉行は天明四(一七八四)年までで、同年から寛政元(一七八九)年まで南町奉行を勤めている(根岸の四代前である)。この人物、相当に有能な人物であったことを、この大抜擢の経歴が物語っている。

 

・「京都町奉行」寛文八(一六六九)年、京都に設置された遠国奉行の一。老中支配ながら実務上は京都所司代の指揮下で職務を行った。東西奉行所が設置されて江戸・大坂の町奉行と同様、東西一ヶ月ごとの月番制であった(但し、奉行所名は東御役所及び西御役所と呼称された)。京都の行政・裁判に加え、周辺四ヶ国の裁判・天領の行政及び門跡寺院を除いた寺社領の支配を職掌とする多忙な重職であった(以上はウィキの「京都町奉行」を参照した)。

 

・「御目付」旗本・御家人の監察役。若年寄支配。定員名。

 

・「一と年」後述する小長谷喜太郎の事蹟からこれは安永五(一七七六)年であることが分かる。

 

・「久能御普請」「久能」は現在の静岡県静岡市駿河区にある久能山東照宮のこと。晩年を駿府で過ごした徳川家康は元和2(1616)年死去後、その遺命によって、この地に埋葬された。元和三(一六一七)年、第二代将軍秀忠によって、社殿が造営された。後、第三代将軍家光が造営した日光東照宮へは、ここから御霊(みたま)の一部が移された。「久能御普請」とはこの久能山東照宮の50年に一度の社殿及び付属諸建物の漆塗り替え、及び、補修普請のことを言っているものと思われる。

 

・「御作事奉行」幕府関連建造物の土木・造営・修繕を掌った。特に木工仕事が主業務で、大工・細工・畳・植木・瓦などの部署をも統括していた。

 

・「駿州」駿河国。現在の静岡県の大井川左岸の中部と北東部域に相当する。

 

・「御使番」若年寄支配。目付に従って二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの遠国奉行や代官といった地方で職務を執行する幕府官吏を監察する業務に従事し、江戸市中火災時に於ける大名火消・定火消の監督なども行った。元来は戦国時代、戦場に於ける伝令・監察・使者を務めた役名に由来する(以上はウィキの「使番」を参照した)。

 

・「小長谷喜太郞」小長谷政房(元文五(一七四〇)年~安永九(一七八〇)年)。底本鈴木氏注によれば、明和四(一七六七)年御小姓、安永三(一七七四)年御使番、同五(一七七六)年、『久能山御宮修補のことをつとめ黄金十枚賞賜さる』。同七(一七七八)年、寄合。やや生き急いだ感じの人物である。美少年だったのかなあ……。

 

・「駿府」駿河国国府。明治になって現在の静岡市に改称。

 

・「兩三年の事なれ共」の言葉により、本話柄の前半は安永二(一七七三)年の山村十郎右衞門良旺が京都町奉行になる直前の出来事であったことが分かる。

 

・「御勘定奉行」勘定奉行。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。定員約四名、役高三千石。老中支配で、勘定奉行自身は郡代・代官・蔵奉行などを支配した。享保六(一七二一)年、財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれた(以上はウィキの「勘定奉行」を参照した)。

 

・「都返り」京都に江戸から齎された帰って来た鍔――京都町奉行時代の多忙な日々の思い出に、勘定奉行に昇進して帰府した記念として名付けたもののようである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 一心の思いの不思議に届くという事

 

 山川下総守貞幹殿が、未だ御小納戸役を勤めて御座った頃、同僚の山村十郎右衛門良旺殿の差料の鍔(つば)を見て、

 

「その御鍔の姿、甚だ面白う御座る。それを型と致いて、以って、新たに打たせてみとう御座るが、如何か?」

 

と望んだ故、その日の内に、山村殿、快く、かの鍔を外して下総守殿屋敷に送って御座った。

 

 そこで下総守殿も直ぐに家来の者に命じ、出入りの彫金職人の元へ、この鍔を見本の型として届けさせたところが、この使いの者、一体、どこでどうしたものか、その途次、大事な鍔を紛失してしもうたのであった。

 

 下総守殿はこの下僕の不注意を急度(きっと)叱りつけてはみたものの、ないものは、ない――他人から借りた大事な鍔を紛失したというこの余りのなさけなさに――さんざん人を遣わしては、かの職人方への道すがらなんど、目ぼしい所を随分と探させては見たけれども、ないものは、ない――結局、見つからず仕舞いで御座った。

 

 詮方なく、下総守殿は山村殿に正直に事実を述べ、深く詫びて御座ったが、山村殿も、

 

「いや、後家来衆が落といたとなれば、これ、是非もないこと。諦めましょうぞ。」

 

と、惜しみ気にする風情もなく、至って温和に受け流して、その場はこともなく過ぎて御座った――。

 

 ――そうは言うものの、下総守殿、内心には、

 

「……何卒、かの鍔、必ずや尋ね求め……せめてかの面影に似た品なりとも買い求め、山村殿へお返しせずんば申し訳が立たぬ……」

 

と――いつまでも、その心のどこかに、この鍔が――かちり――と引っ掛かって御座ったのであった。

 

 しばらくして、安永二年に山村殿は京都町奉行と相成られて上洛、下総守殿は同二年に御目付へ昇進なされた。

 

 

 そんな、安永五年の年、下総守殿、久能山御普請に当たって幕府御作事奉行代行として駿州へと参上致いたのだが、その時、やはり御目付の代行として御使番を勤めて御座った小長谷喜太郎殿が駿府に行き、同じく普請監督の係りに就いて御座った。

 

 喜太郎殿宿所へ下総守殿が訪ねた折りのこと、茶などを運んで参った喜太郎殿御家来が腰に帯しておるところの脇差の鍔が、たまたま下総守殿の目に入った。

 

 すると――それは!――

 

 先に紛失致いた、あの鍔にまごうかたなきものにて御座った――。

 

 下総守殿が、落ち着きを装いつつ、それとなく所望致いて、間近によくよく見てみたところが――やはり!――聊かの違いも、これ御座ない。

 

 下総守はもう、芝居もばれる大喜び――喜太郎殿に礼を正して正直に訳を話し、その家来へも相応の謝礼を成して、何事もなく気持ちよく鍔を譲渡して貰った。

 

 下総守、普請御用が済んで江戸に帰府後、直ちに京都の山村殿の元へ右鍔を送らせたところ――山村殿方からの返し、

 

『もうあれから三年も経って御座ったが、下総守殿に鍔を遣わしたる節、かの差料は、鍔を外したままにして今も御座った故、送って下された鍔を、それに合わせてみたところが、いや! ぴたりと嵌まって少しも違わざるものにて御座った。』

 

とのことであった。

 

 これ、信濃守殿が、後に御勘定奉行となられた折りに私に語られた話にて御座る。

 

 同じく私の知り合いで御座る山川下総守殿も全く同じように話しておられた。

 

 いまも山村信濃守の家内(いえうち)に『都返り』と名付けられて秘蔵されておるとのことで御座る。

2010/05/24

耳嚢 巻之二 好む所左も有べき事

「耳嚢 巻之二」に「好む所左も有べき事」を収載した。

 好む所左も有べき事

 予が知れる人に山本左七といへるあり。飽迄酒を好みける。人の進めによりて、屋鋪(やしき)の地面藤によかるべしとて、藤を植て棚などよく拵けるが、藤は酒を根へかけて土かひぬれば格別によしと人のいひける故、酒を取寄せけるが先(まづ)一盃呑て、かゝる酒を藤に呑せんも無益也、隨分あしき酒を取て可然とて、又別段に酒壹升價ひ鐚(びた)にて五六十文の酒を取寄、藤に懸(かく)べしと思ひしが、去にても百文の内の酒も香るものやとて、則(すなはち)先少給見(たべみ)しに、百文の内には下料(げりやう)なる物なり、是にても酒は酒なりとて壱升を何の事なく呑て、迚も酒にては藤に振廻(ふるまひ)がたしとて、酒の糟を買ひて土に交(まぢへ)て、藤の根かひしけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:「飽迄かたましき」不受不施派は気持ち悪いが、こんな「飽迄かたましき」者はちと可愛いで連関。

・「山本左七」諸注注せず、不詳。

・「藤は酒を根へかけて土かひぬれば格別によし」岩波版長谷川氏注に『水に酒を加えて活けると長くしおれず、しおれた藤に酒を注ぐと生きかえる。また、実を煎って酒に入れると腐らぬなどという。』とあり、ネット上にも現在でも藤の肥料として酒粕を実際に用いて効果がある由、記載がある。

・「鐚」鐚銭(びたせん)。室町から江戸初期にかけての永楽銭以外の銭又は一文銭の寛永鉄銭の称。ここでは銭単位の一文。ここから本邦では「鐚」は粗悪な、最低の金の意となった。宝暦明和年間(17511771)は小売価格で米一升100文、掛蕎麦一枚が16文であった。 

・「なる物なり」底本には右に『(尊經關本「成奴なるが」)』とある。これで採る。

・「藤の根かひしける」底本では「かひ」の右に『(飼)』と注す。

■やぶちゃん現代語訳

 好きで好きでしようがない事にはさもあらんという事

 私が知っている人に山本左七という者がおる。あくまで酒が好きな男である。

 人が、彼の住む屋敷の土地には藤がよい、と薦めるので、藤を植えて棚なんども上手く拵えたりして御座った。

 また、藤は酒を根へかけて土を肥やせば格別によい、と人が言うので、ある時、酒を取り寄せてはみたものの、まずはと、一杯呑んで見たところが、左七、独白(ひとりご)ちて、

「……!……このような良き酒、藤に呑ますこと、これ、無益な! もっと悪い酒を取り寄せて撒くに若くはなし!……」

と、また別に、一升当り鐚銭(びたせん)五、六十文という安酒を取り寄せて藤にかけることと致そうと思った。

 さて、その酒が来たところが、左七の独白ちて、

「……それにしても……百文もせぬ酒というものにても……これ、酒の香の、あるものにても御座ろうか?……」

とて、そこはまずは、と少しばかり呑んで見たところが左七の独白ちて、

「百文もせぬ酒とは、これ、安物なるもの……もの乍ら……これにても、酒は、酒じゃ!」

とて、その一升、何なく呑みてからに、

「……さても酒は藤に振る舞えんのう……」

と、酒糟を買(こ)うて土に混ぜ、藤の根の肥やしと致いた、という話。

2010/05/23

耳嚢 巻之二 不受不施宗門の事

「耳嚢 巻之二」に「不受不施宗門の事」を収載した。

 不受不施宗門の事

 

 日蓮宗に不受不施といふ事あり。往古御施物(せもつ)を不受事に付御科(とが)を蒙り、夫より一流停止(ちやうじ)の宗派也。理り成事也。右不受不施の派を守るものは飽迄かたましき者也。予評定所留役を勤ける頃、懸りにはあらざりしが聞及びしは、評定所或日立會の日に一人の僧駈込て、不受不施の宗派を保し者也、遠嶋を願ふ由は、遠嶋被仰付けるが、其後上總國南飯塚村にて右宗派を保し者あり。予が懸りにて追々糺(ただ)しけるが、いかにもかたましく思ひ込たるものに有りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:日蓮絡みで連関。日蓮宗嫌いダメ押しのダメ押し。まあ、禪天魔、念仏無間と言われた日にゃ、本家禪宗(曹洞宗)で養家浄土宗、本人は神道へシンパシー旺盛の鎭衞、日蓮は、さぞ、お嫌いじゃろうて。

・「不受不施」ウィキの「日蓮宗不受不施派」から引用する。『日蓮を宗祖とし、日奥を派祖とする、日蓮門下の一派で』、『桃山時代に関白豊臣秀吉が亡き母大政所の回向のための千僧供養に日蓮宗の僧侶も出仕を命じる事件が起きた(1595年)。このとき日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派と、出仕を拒み不受不施義の宗規を守ろうとする不受不施派に分裂した。そして京都妙覚寺の日奥がただ一人出仕を拒否して妙覚寺を去った。さらに徳川家康は大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論させ(大阪城対論)、権力に屈しようとしない日奥を対馬に流罪にした(1599年)。日奥は13年後赦免されて妙覚寺に戻った』。『江戸時代に入ると身延山久遠寺(受不施派)の日暹は、武蔵国池上本門寺(不受不施派)日樹が身延山久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え(1630年)、幕府の命により両派が対論する事件が起きた(身池対論)。しかしこのとき身延山久遠寺側は本寺としての特権を与えられるなど、幕府と強いコネクションをもっていたことからそれを活用し、結局政治的に支配者側からは都合の悪い不受不施派側は敗訴し、追放の刑に処されることになった。このとき日奥は再び対馬に配流されることになったが、既になくなっており、遺骨が配流されたとされる』。『そして幕府は、寺領を将軍の寺に対する供養とし、道を歩いて水を飲むのも国主の供養であるという「土水供養論」を展開し不受不施派に対し寺請(寺請制度参照)も認めない(不受不施派寺請禁止令)など、禁制宗派とした(1665年)。このとき安房小湊の誕生寺など一部のグループは寺領を貧者への慈悲と解釈して表向き幕府と妥協する「悲田派」と称する派をたて秘かに不受不施の教義を守っていたが、これも発覚し関係者は流罪に処せられた(1691年)』。『不受不施派の信者は日蓮の地元であった上総国、下総国、安房国や室町期に日蓮宗勢力が拡大した備前国、備中国(岡山藩)に多く潜伏していた。彼らは厳しい摘発を受け、隠れキリシタンのように刑罰を受けるか、改宗の誓約書を取られるかした。不受不施派の信者は、他宗他派に寺請をしてもらうが内心では不受不施派を信仰する「内信」となる者が多く、一部の強信者は他宗他派への寺請を潔しとせず無籍になって不受不施派の「施主(法立)」となった。また不受不施派の僧侶は「法中」と呼ばれ、それを各地の「法燈」が率いた。そして不受不施派では教義上「内信」は不受不施の信者とは一線を画され直接「法中」に供養することが出来ず、「施主」がその間を仲介するという役割を果たした。この信者同士の絆が強固な地下組織を形成し、この時代を生き抜いた。またこの時期岡山の不受不施派では、法立が導師を務めることが出来るか否かをめぐり導師不導師の論争が起こり岡山だけではなく不受不施派全体の問題となった。そして、日向に配流中の日講を中心とする不導師派(講門派)と讃岐に配流中の日堯を中心とする導師派に分かれ、前者が不受不施日蓮講門宗の系統となり後者が日蓮宗不受不施派の系統となった』。近世、『相模国(神奈川県)では鎌倉の妙本寺を中心に広がりを見せ』、『1667年の「不受不施帳」によれば』鎌倉の『本興寺(大町)・妙典寺(腰越)・本竜寺(腰越)・仏行寺(笛田)・妙長寺(乱橋)・円久寺(常盤)』を始めとして相模国だけで26ヶ寺を数えた。『これは1633年の「本末帳」に照らすと末寺の68%にあたるという。(鎌倉市『鎌倉市史・近世通史編』吉川弘文館、1990年、p353参照。)』。『明治維新を迎えると、政府は釈日正を中心とした不受不施派から宗派再興、派名公許の懇願受け、信教の自由の名の下明治9年(1876年4月10日)、不受不施派の宗派再興、派名公許を布達した。これにより同年、釈日正は岡山県岡山市に竜華教院を創建し、その後日奥の京都妙覚寺の名をとり日蓮宗不受不施派の本山とした(1882年)』。――要は純粋に祖師の教えを守らんとするのである。日蓮宗以外の者から施しを受けず、日蓮宗以外の僧侶に施しをしないという、極めて分かり易い、言わば日蓮宗のファンダメンタリズムの一派である。いや、日蓮個人の思想から言えば、彼等こそ正しく宗祖の教えを守っていると言えると私は思う(勘違いされては困るが、私は日蓮宗不受不施派にては、これ御座らぬ)。天皇を日蓮宗化することを下げちゃったり、教団を作ることが本来の信仰を危うくすると明確に考えていた親鸞の教えを語らずにとんでもない教派集団を作って大枚の金を搾取している集団に比べたら、私はずっと共感出来るね。

・「予評定所留役を勤ける頃」根岸が評定所留役であったのは宝暦131763)年から明和5(1768)年で26から31歳迄の間であった。

・「書役」評定所で文書の書写・浄書をした書記。現在の裁判所書記官相当であるが、底本の鈴木氏の注によると、文書の草案を作成したり、記録書類の作製は書物方という別職で、その書物方の上役に書類整理の総括者として改方という上席があったとある。

・「評定所或日立會の日」「評定所立合」で評定所の定期会合の一つを指す語である。毎月61425日に三奉行(寺社・町・勘定奉行)と大目付・目付が出席して評議(評定ではない)を行う。式日寄合(彼等による定例日評定)に対する語。

・「由は」底本には右に『(一本「よしにて」)』と注す。これで採る。

・「上総国南飯塚村」現在の千葉県山武(さんぶ)郡大網白里(おおあみしらさと)町南飯塚。九十九里浜から8㎞ほど内陸に入ったところにある。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 日蓮宗不受不施派の事

 

 日蓮宗に不受不施という教えがある。その昔、頑固に施物を受けようとせぬため、御公儀から厳しく罰せられ、以来、宗派としての活動は禁じられておる。

 この御禁制の儀、私は至極尤もなことと存じておる。

 何せ、この不受不施の派を守る者、心底、心がねじくれておるからで御座る。

 私が評定所留役を勤めて御座った頃――直接の担当ではなかったのであるが――以下のような話を聞いた。

 ある日の評定所立合の日、一人の僧が突如駆け込んで来ると、

「不受不施の宗派を信ずる者である。どうか、遠島を、願う!」

と不遜に吐き捨てるように申す。――評定所も、この尊大なる態度に即座に遠島仰せ付けた。

 ――かく厳しく致すに、またしてもその後、上総国南飯塚村にこの派を信ずる者あること、これ露見致し、その度は私が実際の担当となって時間をかけ、本人の棄教・反省なんどのあればこそと、それなりの思いを以って種々糺問訊問を致いたが、――いや、もう話にならぬ――如何にも幾重(いくえ)にもねじ歪んだ、異様に思い込みの激しい者にて御座った。

「心」同日連載同日休止之報知

明日五月二十四日自同二十六日至三箇日の間、過日大正三年四月九日に崩御せられし

明治天皇皇后昭憲皇太后御大葬之儀二十四日代々木葬場殿之御儀二十五自二十六日至兩日伏見桃山東陵斂葬之御儀が爲本部録具「鬼火日々之迷走」連載中なる「心」連載は本年同日中同じく休止とせることを報知す。

因みに、現在、第(五十四)章までの作業を終了した。「心」(五十四)とは「こゝろ」の「中 兩親と私」の最終章、即ち、

今、我遂ニ先生ノ遺書ニ突入ス……トトトトトトトト……

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月23日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十四回

Kokoro13_4   先生の遺書

   (三十四)

 私は其夜十時過に先生の家を辭した。二三日うちに歸國する筈になつてゐたので、座を立つ前に私は一寸暇乞の言葉を述べた。

 「又當分御目にかゝれませんから」

 「九月には出て入らつしやるんでせうね」

 私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て來る必要もなかつた。然し暑い盛りの八月を東京迄來て送らうとも考へてゐなかつた。私には位置を求めるための貴重な時間といふものがなかつた。

 「まあ九月頃になるでせう」

 「ぢや隨分御機嫌よう。私達も此夏はことによると何處かへ行くかも知れないのよ。隨分暑さうだから。行つたら又繪端書でも送つて上げませう」

 「何(ど)ちらの見當です。若(も)し入(い)らつしやるとすれば」

 先生は此問答をにや/\笑つて聞いてゐた。

 「何まだ行くとも行かないとも極(き)めてゐやしないんです」

 席を立たうとした時に、先生は急に私をつらまへて、「時に御父さんの病氣は何うなんです」と聞いた。私は父の健康に就いて殆ど知る所がなかつた。何とも云つて來ない以上、惡くはないのだらう位に考へてゐた。

 「そんなに容易(たやす)く考へられる病氣ぢやありませんよ。尿毒症が出ると、もう駄目(ため)なんだから」

 尿毒症といふ言葉も意味も私には解らなかつた。此前の冬休みに國で醫者と會見した時に、私はそんな術語を丸で聞かなかつた。

 「本當に大事にして御上げなさいよ」と奧さんもいつた。「毒が腦へ廻るやうになると、もう夫つきりよ、あなた。笑ひ事ぢやないわ」

 無經驗な私は氣味を惡がりながらも、にや/\してゐた。

 「何うせ助からない病氣ださうですから、いくら心配したつて仕方がありません」

 「さう思ひ切りよく考へれば、夫迄ですけれども」

 奧さんは昔同じ病氣で死んだといふ自分の御母さんの事でも憶ひ出したのか、沈んだ調子で斯ういつたなり下を向いた。私も父の運命が本當に氣の毒になつた。

 すると先生が突然奧さんの方を向いた。

 「靜、御前はおれより先へ死ぬだらうかね」

 「何故」

 「何故でもない、たゞ聞いた見るのさ。それとも己(おれ)の方が御前より前に片付くかな。大抵世間ぢや旦那が先で、細君が後へ殘るのが當り前のやうになつてるね」

 「さう極(きま)つた譯でもないわ。けれども男の方は何うしても、そら年が上でせう」

 「だから先へ死ぬといふ理窟なのかね。すると己も御前より先にあの世へ行かなくつちやならない事になるね」

 「あなたは特別よ」

 「さうかね」

 「だつて丈夫なんですもの。殆ど煩つた例(ためし)がないぢやありませんか。そりや何うしたつて私の方が先だわ」

 「先かな」

 「え、屹度先よ」

 先生は私の顏を見た。私は笑つた。

 「然しもしおれの方が先へ行くとするね。さうしたら御前何うする」

 「何うするつて‥‥」

 奧さんは其處で口籠つた。先生の死に對する想像的な悲哀が、ちよつと奧さんの胸を襲つたらしかつた。けれども再び顏をあげた時は、もう氣分を更へてゐた。

 「何うするつて、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定(らうせうふぢやう)つていふ位(くらゐ)だから」

 奧さんはことさらに私の方を見て笑談(ぜうだん)らしく斯う云つた。

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[♡やぶちゃんの摑み:この第三十四回まで、一日の不掲載もなく連載は続いていたが、翌日5月24日(日曜日)より5月26日(火曜日)までの3日間、「心」の連載は休止している(勿論、私の連載もそれに合わせる)。理由はこの連載の直前、4月9日に崩御した明治天皇皇后昭憲皇太后(旧名・一条美子(はるこ) 嘉永2(1849)年417日~大正3(1914)年)の大葬の儀のためである。24日に代々木葬場殿の儀、2526日の両日に渡って桃山斂葬の儀が執り行われ、伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)に葬られた。死を語り合う先生と靜――昭憲皇太后斂葬の儀……偶然ではあろうが、何やらん、不思議な因縁を感ずるところではある……。

 

♡「私は其夜十時過に先生の家を辭した」という文頭で始まり乍ら、実際に「私」が「先生の家を辭」すのは実に次章の後半である。漱石はここで先生と「私」とを永遠に訣別させることに決しているものと思う(次注で示すように先生がそう決している『わけではない』)。そしてまた、この辺りで漱石はオムニバス・スタイルを断念して長篇への覚悟をしたもの、とも判断するのであるが、如何?

 

♡「私達も此夏はことによると何處かへ行くかも知れないのよ」……以下について、私は以前2009年9月30日のブログに次のように書いた。引用しておく。

   *

 今日の今まで、気づかなかった――これは極めて意味深長な会話ではないか! 「先生」は叔母の病気の看病が落ち着いて家に戻った靜と旅に出たのではなかったか? そうして――そうして、そこで「先生」は自死を決行したのではなかったか? その楽しい旅の中の、不意の蒸発=失踪こそ、正に「頓死」したかのような、「氣が狂つたと思はれ」るようなシチュエーションを導きは、せぬか? いや、何より「必ず九月に出て來る必要もなかつた」九月に、彼は正にやってくる――しかし、先生も靜も、実は、そこには、居ないのではなかったか? 僕はもう大分以前から、真剣に――「こゝろ」の「中 十九」以下の続きの詳細なシークエンスを描いてみたい悪魔的誘惑にかられているのである――

   *

そして、「先生は此」二人の「問答をにや/\笑つて聞いてゐ」るのである。そして「にや/\笑」いながら、「何まだ行くとも行かないとも極めてゐやしないんです」と言う。そして、「私」が暇するために「席を立たうとした時に、先生は急に私」の腕(であろう)をぎゅっと「つらまへて」引き止め、以下の父の病気から死の話へと雪崩れ込む。この腕を摑むシーンは実景として映像を想定してみると、如何にも妙な感じが――その奥底には、最早、「私」とは永遠に逢えぬという鬼気迫るような不気味ささえ含んだものが――私にはあるように思われてならないのだが、如何? 但し、遺書によれば先生は「私」に逢って過去を開示する積りでいたと語っているから、ここで確信犯として先生がそのような行動に出たわけではないであろう。これは一種の霊感的描写であるように思われる。

 

♡「尿毒症」腎機能低下により惹起される多様な変化を腎不全或いは尿毒症と呼ぶ。ここで先生が言わんとするところは慢性腎不全、所謂、ネフロン数が減少して老廃物の対体外排泄が不全になることで、糖尿病・糸球体腎炎に多く見られ、慢性腎盂腎炎・先天性腎尿路奇形・痛風・ネフローゼ・各種腎炎・腎硬化症・悪性高血圧等を病因とする。尿毒症とは腎機能の高度な悪化から生じる全身性の重篤な変化を言う。以下、医療介護健康総合サイト・ウエブ・ドクター」の「腎不全と尿毒症」より引用する。

   《引用開始》

 急性腎不全の際、また慢性腎不全の末期状態に、腎機能が大きく低下していることから下記のような変化を生じます。

  1)神経、精神症状

不眠、頭痛、傾眠、不眠、痙攣、昏睡、うつ状態、不安感、錯乱その他。

  2)内分泌、代謝異常症状

無月経、高脂血症、生殖能低下、低栄養状態その他。

  3)末梢神経系症状

知覚異常、麻痺、筋力低下その他。

  4)循環器症状

高血圧、心膜炎、心筋炎、貧血、尿毒症性肺その他。

  5)消化器症状

口臭、悪心、嘔吐、食欲不振、口内炎、腸炎、消化管潰瘍その他。

  6)眼症状

網膜症、角膜症その他。

  7)皮膚症状

貧血状、色素沈着、皮膚掻痒感、皮下出血その他。

  8)電解質異常症状

血清ナトリウム、カルシウム、三酸化水素値の低下、血清カリウム、マグネシウム、四酸化リン値の上昇その他。

  9)造血器症状

貧血、出血傾向その他。

   《引用終了》

靜の言う「毒が腦へ廻るやうになると」というのは、脳神経が侵されることによる『1)神経、精神症状』や『3)末梢神経系症状』及び『4)循環器症状』等を言うものと思われる。当時は腎臓炎による死亡率が高まっており、明治天皇も、その死因について一般には心臓麻痺とされているものの、現在では尿毒症であった可能性が高いし、連載直前に崩御したその皇后(後の昭憲皇太后)も慢性気管支カタルと腎臓炎による狭心症から、尿毒症を併発して亡くなっている(直接の死因は狭心症発作と心臓麻痺とされる)。従って、本作の関係者の多くが腎臓病で亡くなっているという設定は必ずしも不自然なものではない。

 

♡「老少不定」老人だからと言って早く死ぬ訳ではなく、少年だからと言って長生きする訳ではない、人間何時死ぬかは分からぬということ。人の死期は予知不能で、儚く定め難いことを言う。寛仁元(1017)年に書かれた源信の「観心略要集」に依る故事成句。]

2010/05/22

耳嚢 巻之二 其法に精心をゆだねしるしある事

 

「耳嚢 巻之二」に「其法に精心をゆだねしるしある事」を収載した。

 

 

 其法に精心をゆだねしるしある事

 

 或人の語りけるは、日蓮いまだ初學の時、建長寺の開山大覺禪師は老分にて其德も勝れたれば、日蓮も親しみて隨心なりけるが、或時日蓮へ雨乞の事命ありければ、右禪僧へ向(むかひ)て「かく/\の事也、我行力(ぎやうりき)にて雨降んやと申ければ、隨分捨身だにして一途に祈らんに、行法空しかるべき樣なしと答ふ。日蓮も始て覺悟して其寺に戻り、一七日斷食して一室にとぢ籠(こもり)、命をかけて祈ける。若(もし)雨を祈得ずば立所に死(しな)んと念じければ、果して感應(かんのう)の雨を得けるにぞ、都鄙(とひ)其行法を稱しける故、壇を下りて直に右禪僧へ至りて其禪師を尋しに、彼禪師は未一室に入てありし故かくかくと語りければ、彼禪師悦びて立出ぬるが、是も七日斷食をなして行法なしける故、日蓮其やうを尋ければ、御身は雨乞の命を受たれば命に代りて祈らんはさら也、我は命を不請(うけず)といへども、百姓の愁ひを救ふは宇宙に生ずるものいかで等閑(なほざり)にせん、御身の行力は雨乞得んなれども、もし乞(こひ)得ざる時の爲に我も祈りしとなり。日蓮も生涯右禪師の徳を耕稱し感嘆なしけると也。故人はかく難有心も有りし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。以前にも示したが、鎭衞の実家安生家の宗旨は禅宗の曹洞宗、根岸鎭衞の墓は東京都港区港区六本木の善学寺という寺院にあることから、根岸家の宗旨は浄土宗であることが判明している。今までの複数の記事から、根岸が日蓮宗が特にお嫌いであること、これ最早、ダメ押しで明白。

・「日蓮いまだ初學の時」「初學の時」とある以上、日蓮(貞応元(1222)年~弘安5(1282)年)が日蓮宗を開宗する以前である。日蓮は天福元(1233)年に天台宗(後に日蓮宗に改宗)清澄寺(現在の鴨川市在)の道善に入門、暦仁元(1238)年出家後、仁治元(1240)年に比叡山及び高野山に遊学、建長5(1253)年の清澄寺帰山直後の4月28日早朝、日の出に向かって「南無妙法蓮華経」を十度唱えて立教開宗、この日の正午には清澄寺持仏堂にて初説法を行ったとされている。後に鎌倉に渡り、文応元(1260)年には「立正安国論」を著して北条時頼に提出、他宗を厳しく排撃、幾多の法難を受ける。その後、文永5(1268)年蒙古の襲来によって「立正安国論」の予言的中を訴え、幕府及び建長寺蘭渓道隆、極楽寺忍性等に十一通の日蓮宗への改宗を促す書状を認めている。しかし、その修行時代に日蓮が蘭渓道隆に接心したとしてもおかしくない。寧ろ「立正安国論」の外患の予告は修行時代に接心したかも知れない渡来僧蘭渓からの情報であったと考えてもよいように思われる。但し、ここにあるような密接な関係や雨乞いの事実については私の鎌倉郷土史研究の中では出逢ったことはない。日蓮の雨乞いの法力は夙に著名で、鎌倉では文永8(1271)年の旱魃の折りに極楽寺の忍性(にんしょう)と雨乞い法力を競い勝ったとする伝承が知られ、その際、法を修したという池が七里ヶ浜近くの山上にある霊光寺内に残っている。本話柄は後世に忍性との勝負譚をベースに非日蓮系の仏教徒によって偽造された作話であろう。「老分」と言うが、仮に日蓮開宗の直前で20代後半、蘭渓道隆は未だ40歳前である。

・「建長寺」臨済宗建長寺派大本山巨福山建長寺。鎌倉五山第一位。建長5(1253)年創建。本尊地蔵菩薩、開基鎌倉幕府第5代執権北条時頼(嘉禄3(1227)年~弘長3(1263)年)、開山蘭渓道隆(次注参照)。

・「開山大覺禪師」蘭溪道隆(建保元(1213)年~弘安元(1278)年)。南宋西蜀(現在の中国四川省)から渡来した禪僧。「大覺禪師」は諡(おくりな)。蘭渓は道号、道隆は諱(いみな)である。以下、ウィキの「蘭渓道隆」から引用する。『13歳で出家し、無準師範、北礀居簡に学んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぐ。1246(寛元4年)33歳で、入宋した泉涌寺僧、月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日』し、『筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼』が深く帰依し、招かれて北条氏の個人的な祭祀寺院として創建された建長寺開山となった。一時期、元の密偵の嫌疑を懸けられたり、讒言を受けたりして伊豆や甲斐国(現・山梨県)に身を置いた時期もあるが、京都の建仁寺や鎌倉の寿福寺等を経て、最後は建長寺に戻って没した。建長寺西来庵に現存する木造蘭渓道隆像は私の好きな鎌倉芸術(造像は室町時代)の一つである。

・「一七日」衍字、若しくは「一(ひと:一週)七日」の意か。七日で採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 その法に一心を委ねれば効験のある事

 

 ある人が語った話。

 日蓮がまだ学僧であった頃、建長寺にその開山であった大覚禅師とかいう出家が御座った。徳も優れて御座った老僧で御座ったれば、日蓮も日頃より親しく教えを請うておった。

 あるとき、その日蓮に雨乞いの命が下った。日蓮はこの大覚禅師に対面(たいめ)し、

「我ら、雨乞いを命じられ申した。我が法力にて、これ、雨降りましょうや!?」

と申し上げたところ、

「一途に捨身(しゃしん)致いて一心に行じたらんには、その行法、空しくして験(げん)あらざるなんどということ、これ、なし!」

と答えた。

 日蓮はこれを聞きて始めて覚悟致いて、己(おの)が寺に戻ると七日断食して一室に閉じ籠もり、命を懸けて祈ったのであった。

「――もし雨を祈り得ざれば、直ちに死なん!」

と念じて修したところ、果たして法力に感応して雨を得た――と思うた――。

 京・鎌倉と言わず、鄙と言わず、世の人々は、こぞって日蓮の法力を褒め讃えた。

 ――さて、雨乞いに成功するや、日蓮は法を修して御座った壇を下りると、真っ先にかの建長寺に駆け込んで、禪師を訪ねたところ、かの禪師は一室に籠もって御座った故、日蓮が、

「禪師! 雨、これ、降り申した!」

と告ぐると、かの禅師、満面の笑みを浮かべ、部屋を出て来たのであったが――聞けば、禪師もまた、七日断食致いてある行法を執り行っておったとのこと。

 日蓮が、

「何の行法をなされて御座ったのですか?」

と訊ねたところ、

「――御身は雨乞いの命を受けた。なればこそ一命に代えて祈らんは当然のことじゃ。――拙僧は命を受けては御座らねど、民百姓の愁いを救うは、これ、この宇宙に生を享けた者として、何故、等閑(なおざり)にすること、これ、出来ようか?! 御身の法力にては雨を乞い得るであろうこと必定――なれども――万が一、乞い得ざる折りのため、我も祈って御座ったのじゃ――」

とのお答であったと。

 これに日蓮も感涙に咽び、生涯、この禪師の徳を讃え感嘆致いた、ということで御座る。

 古えの人には、かく有り難いありがたい誠心、これ、あったことで御座る。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月22日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十三回

Kokoro13_3   先生の遺書

   (三十三)

 飯になつた時、奧さんは傍(そば)に坐つてゐる下女を立たせて、自分で給仕(きふし)の役をつとめた。これが表立(おもてた)たない客に對する先生の家の仕來(しきた)りらしかつた。始めの一二回は私も窮屈を感じたが、度數の重なるにつけ、茶碗を奧さんの前へ出すのが、何でもなくなつた。「御茶?御飯?隨分よく食べるのね」

 奧さんの方でも思ひ切つて遠慮のない事を云ふことがあつた。然し其日は、時候が時候なので、そんなに調戯(からか)はれる程食慾が進まなかつた。

 「もう御仕舞。あなた近頃大變小食になつたのね」

 「小食になつたんぢやありません。暑いんで食はれないんです」

 奧さんは下女を呼んで食卓を片付(かたつ)けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子(みづくわし)を運ばせた。

 「是は宅(うち)で拵へたのよ」

 用のない奧さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふだけの餘裕があると見えた。私はそれを二杯更(か)へて貰つた。

 「君も愈(いよ/\)卒業したが、是から何をする氣ですか」と先生が聞いた。先生は半分緣側の方へ席をずらして、敷居際で脊中を障子に靠(も)たせてゐた。

 私にはたゞ卒業したといふ自覺がある丈で、是から何をしやうといふ目的(めて)もなかつた。返事にためらつてゐる私を見た時、奧さんは「敎師?」と聞いた。それにも答へずにゐると、今度は、「ぢや御役人?」と又聞かれた。私も先生も笑ひ出した。

 「本當いふと、まだ何をする考へもないんです。實は職業といふものに就いて、全く考へた事がない位なんですから。だいち何れが善(い)いか、何れが惡いか、自分が遣つて見た上でないと解らないんだから、選擇に困る譯だと思ひます」

 「それも左右ね。けれどもあなたは必竟財產があるからそんな呑氣な事を云つてゐられるのよ。是が困る人で御覽なさい。中々あなたの樣に落付いちや居られないから」

 私の友達(ともたち)には卒業しない前から、中學敎師の口を探してゐる人があつた。私は腹の中で奧さんのいふ事實を認めた。然し斯う云つた。

 「少し先生にかぶれたんでせう」

 「碌なかぶれ方をして下さらないのね」

 先生は苦笑した。

 「かぶれても構はないから、其代り此間云つた通り、御父さんの生きてるうちに、相當の財產を分けて貰つて御置きなさい。それでないと決して油斷はならない」

 私は先生と一所に、郊外の植木屋の廣い庭の奧で話した、あの躑躅の咲いてゐる五月の初めを思ひ出した。あの時歸り途に、先生が昂奮した語氣で、私に物語つた强い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは强いばかりでなく、寧ろ凄い言葉であつた。けれども事實を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあつた。

 「奧さん、御宅の財產は餘ツ程あるんですか」

 「何だつてそんな事を御聞になるの」

 「先生に聞いても敎へて下さらないから」

 奧さんは笑ひながら先生の顏を見た。

 「敎へて上げる程ないからでせう」

 「でも何の位あつたら先生のやうにしてゐられるか、宅へ歸つて一つ父に談判する時の參考にしますから聞かして下さい」

 先生は庭の方を向いて、澄まして煙草を吹かしてゐた。相手は自然奧さんでなければならなかつた。

 「何の位つて程ありやしませんわ。まあ斯うして何うか斯うか暮して行かれる丈よ、あなた。―そりや何うでも宜(い)いとして、あなたは是から何か爲さらなくつちや本當に不可せんよ。先生のやうにごろ/\許りしてゐちや‥‥」

 「ごろ/\許りしてゐやしないさ」

 先生はちよつと顏丈向け直して、奧さんの言葉を否定した。

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[♡やぶちゃんの摑み:

 

♡『奧さんは「敎師?」と聞いた』底本注に10年前に当たる明治351902)年の東京帝国大学卒業生雇用形態調査報告が載り、首位が官庁技術者1,068人、次点が教職員で890人とある。その中で『文科大学の卒業生は三〇九人である。そして文科大学の卒業者は五三一人であるから、半数以上が学校教職員になったことになる。』とある。漱石自身も明治261893)年に帝国大学を卒業後、高等師範学校・愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現・松山東高校)・第五高等学校(現・熊本大学)の英語教師を勤め、明治331900)年5月から明治361903)年12月迄のロンドン留学を挟んで、明治361903)年には第一高等学校及び東京帝国大学講師として招聘されている(その授業は総体に不評であったことはよく知られるところである)。明治401907)年のに朝日新聞社に入社し専業作家になるまで実に約11年間(留学を除く)教職にあった。但し、もし「私」が哲学かであったとすると、教職は極めて困難であったものと思われる。何故なら、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」によれば、『哲学科の出身者は、教職免許科目が、ほとんど無用の長物の「修身」しかとれず(成績が優秀だと英語の免許も取れた由)、いっそう就職に苦慮したという。ちなみに修身はたいていは校長か教頭が担当したので、新人教員などは必要ではなかったのである。』とあるからである。

 

♡『今度は、「ぢや御役人?」と又聞かれた。私も先生も笑ひ出した』私は今までこの笑いには一種の先生と「私」の役人に対する鋭いアイロニーのみを認めていたのであるが、前掲藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」には違う解釈が示されているので引用しておく。『行政官吏、司法官吏への就職は、法科大学出身者が他を圧倒していた。行政官吏の場合で言うと、大正八年までの統計で、法科出身者の一六〇〇余名に対して、私が在学すると思われる文科出身者はわずかに二二名(『東京大学百年史 通史二』)。したがって、ここではその実現性の乏しさが、一面では先生や私の笑いを誘ったとも見られる。』]

2010/05/21

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月21日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十二回

Kokoro13_2   先生の遺書

   (三十二)

 私の論文は自分が評價してゐた程に、敎授の眼にはよく見えなかつたらしい。それでも私は豫定通り及第(きふたい)した。卒業式の日、私は黴臭くなつた古い冬服を行李の中から出して着た。式塲にならぶと、何れもこれもみな暑さうな顏ばかりであつた。私は風の通らない厚羅紗の下に密封された自分の身體(からだ)を持て餘した。しばらく立つてゐるうちに手に持つたハンケチがぐしよ/\になつた。

 私は式が濟むとすく歸つて裸體(はだか)になつた。下宿の二階の窓をあけて、遠目鏡(とほめがね)のやうにぐる/\卷いた卒業證書の穴から、見える丈の世の中を見渡した。それから其卒業證書を机の上に放り出した。さうして大の字になつて、室の眞中に寐そべつた。私は寐ながら自分の過去を顧みた。又自分の未來を想像した。すると其間に立つて一區切を付けてゐる此卒業證書なるものが、意味のあるやうな、又意味のないやうな變な紙に思はれた。

 私は其晩先生の家へ御馳走に招かれて行つた。是はもし卒業したら其日の晩餐は餘所で食はずに、先生の食卓で濟ますといふ前からの約束であつた。

 食卓は約束通り座敷の緣近くに据ゑられてあつた。模樣の織り出された厚い糊の硬(こは)い卓布(テーブルクロース)が美くしく且淸らかに電燈の光を射返してゐた。先生のうちで飯を食ふと、屹度(きつと)此西洋料理店に見るやうな白いリン子ルの上に、箸や茶碗が置かれた。さうしてそれが必ず洗濯したての眞白なものに限られてゐた。

 「カラやカフスと同じ事さ。汚(よご)れたのを用ひる位なら、一層始から色の着いたものを使ふが好(い)い。白ければ純白でなくつちや」

 斯う云はれて見ると、成程先生は潔癖(けつへき)であつた。書齋なども實に整然(きちり)と片付(かたつ)いてゐた。無頓着な私には、先生のさういふ特色が折々著るしく眼に留まつた。

 「先生は癇性ですね」とかつて奧さんに告げた時、奧さんは「でも着物などは、それ程氣にしないやうですよ」と答へた事があつた。それを傍(そば)に聞いてゐた先生は、「本當をいふと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考へると實に馬鹿々々しい性分だ」と云つて笑つた。精神的に癇性といふ意味は、俗に神經質といふ意味か、又は倫理的に潔癖(けつへき)だといふ意味か、私には解らなかつた。奧さんにも能く通じないらしかつた。

 其晩私は先生と向ひ合はせに、例の白い卓布(たくふ)の前に坐つた。奧さんは二人を左右に置いて、獨り庭の方を正面にして席を占めた。

 「御目出たう」と云つて、先生が私のために盃(さかづき)を上げて吳れた。私は此盃に對して夫程嬉しい氣を起さなかつた。無論私自身の心が此言葉に反響するやうに、飛び立つ嬉しさを有つてゐなかつたのが、一つの原因であつた。けれども先生の云ひ方も決して私の嬉しさを唆(そゝ)る浮々した調子を帶びてゐなかつた。先生は笑つて杯(さかづき)を上げた。私は其笑のうちに、些(ちつ)とも意地の惡いアイロエーを認めなかつた。同時に目出たいといふ眞情(しんじやう)も汲み取る事が出來なかつた。先生の笑は、「世間はこんな場合によく御目出たうと云ひたがるものですね」と私に物語つてゐた。

 奧さんは私に「結構ね。嘸(さぞ)御父さんや御母さんは御喜びでせう」と云つて吳れた。私は突然病氣の父の事を考へた。早くあの卒業證書を持つて行つて見せて遣らうと思つた。

 「先生の卒業證書は何うしました」と私が聞いた。

 「何うしたかね、―まだ何處かに仕舞つてあつたかね」と先生が奧さんに聞いた。

 「えゝ、たしか仕舞つてある筈ですが」

 卒業證書の在處(ありどころ)は二人とも能く知らなかつた。

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やぶちゃんの摑み:私の仮に措定する明治45(1912)年の東京帝国大学の卒業式は7月10日(水)であった。但し、この後の郷里での叙述を見てゆくと第(四十一)章(「こゝろ」「中 兩親と私」の「五」相当)に「私が歸つたのは七月の五六日」という叙述が現われるので、漱石は作中設定としては7月1日(月)から3日(水)頃に卒業式を設定しているものと思われる。

 一部の比較的若い教え子の中には、私がこの冒頭2段落分と「こゝろ」「中 両親と私」の「一」の後半分、郷里に持ち帰った卒業証書を父に見せるシーンを併記して、

【○】以下の文章は、[A]が主人公の学生の卒業式の日の場面(上三十二の冒頭)、[B]がその卒業の直後、学生が郷里に帰郷した場面(中一の末尾)である。この二つの卒業証書に描写に象徴させて漱石が示そうとした比喩的な意味について、[A]と[B]を対比しながら、段落を作らずに三百字以上で自由に論ぜよ。[30点+α]

という小論文問題を私の試験で解かされた嫌な思い出を想起した者もいるであろう。いや、この卒業証書の遠眼鏡というのは、それ程に(高校2年生の試験問題に出せる程に)如何にも分かり易い象徴表現であるということである。回答例? よろしい、私の稚拙なそれをお見せしておこう。言っておくが、これは全く私のオリジナルな問題だから、どこかの高校の国語教師に試験問題公開しては困ると文句を言われる筋合いは全くない。私が作成した「こゝろ」の問題の中では結構気に入っている問題でもある。採点基準と返却時に示した回答も添えておく。

【採点基準】

・三百字を越えていないものは×。(段落を作った者は、空欄部を詰めて計算し、二百に満たなければ×、満ちていれば○とする)

・文末不成立はマイナス2点。(文末に赤で×)

・文脈がおかしい部分(意味が通らない)はマイナス2点。(該当部分に赤波線で×)

・記載内容の明確な誤り(学生を先生と取り違えていたり、季節を錯誤した解答等)はマイナス3点。(該当部分に赤波線で×)


【やぶちゃんの回答例】

 帝大卒は、この時代にあっても近代的知識人としてのステイタス・シンボルであった。[B]で、その卒業証書をありがたがる父母を見るまでもなく、それは明白である。[A]で、その証書を遠眼鏡のようにして、世間を見渡すという私の行為は、帝大卒という資格によって、またそこで得たアカデミズムの知識や理論によって、この現実の世界の真実を分析し、見極めることが出来るかどうか、ということを比喩していよう。しかし、私はそれを「放り出し」、「変な紙」としか感じない点で、その有効性に対し、極めて否定的であると言える。それは[B]の、床の間ですぐ倒れる証書にも、薄っぺらい紙のような力のない学問という皮肉としても表現されているようにも見える。しかし、この[B]場面は、寧ろ、もはや「父の自由にはならな」い存在となった――新しいものの見方や考え方を身につけた――私を象徴するものとして、それとは別に読み解く方が自然に思われる。(実字数399字)

♡「裸體になつた」今の私には――これが(二)で先生の連れの外国人が「純粹の日本の浴衣を着てゐた」のを「床几の上にすぽりと放り出し」て「猿股一つの外何物も肌に着けてゐな」い姿で「腕組をして海の方を向て立つてゐ」る姿と妙な相似性を持ってダブって見えて仕方がないのである――。

♡「リン子ル」「リンネル」と読む。

「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用ひる位なら、一層始から色の着いたものを使ふが好い。白ければ純白でなくつちや」言わずもがなの伏線である。「私はたゞ妻の記憶に暗黒な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい」という遺書の叙述(「こゝろ」「下 先生と遺書」五十二)への伏線である。漱石は極めて数学的な合理性を尊ぶ人物だったのかも知れない。ここは後に「上 先生と私」となる(三十二)まで数えて5章目に当るが、「こゝろ」五十二から最終章までは――やはり丁度、5章なのである。

♡「癇症」には「ちょっとした刺激にもすぐ怒る性質。激しやすい気質。また、そのさま。」という意味と、「異常に潔癖な性質。また、そのさま。神経質。」という意味がある。「私」は後者の意味を更に二分しているが、その謂いは分からぬではない。漱石は前者であったが、この先生は明らかに後者の性質である。そしてここでの先生自身の言いは勿論、「倫理的に潔癖」であるという謂いである。そして「私には解らなかつた。奧さんにも能く通じないらしかつた」と言う「私」と「私」に観察される靜――その観察が正鵠を射ているとすれば。勿論、射ていると私は思う――は、二人とも致命的に鈍感である、と言わざるを得ない。

♡「アイロエー」「アイロニー」の誤植。

♡「卒業證書の在處は二人とも能く知らなかつた」「私」が卒業証書に象徴される大学卒と言うステイタスに意味を見出していないのと同様に、先生も、そうして靜もさして価値を見出していないことを示している。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」でも、ここに注して、私と同様の解釈をされている。が、藤井氏はその後に、その前に靜が「結構ね。嘸御父さんや御母さんは御喜びでせう」と言っているのは、『おそらく「世間はこんなときに」という先生の愛想なしの発言をとりつくろうためであったろう。これに対して、「早くあの卒業証書を持つて行つて」と考える私のほうは、徐々に先生によって洗脳されつつあったとはいえ、まだまだ世俗的な価値観・常識を保持していた。』と記される。この引用の後半は肯んずるものである(しかし、注するに必要な注釈かと言えば微妙に留保したい)が、前半はとんだ勘違いをなさっている。先生は「お目出たう」と言った後、杯を上げて笑い、その笑いの中に「世間はこんな場合によく御目出たうと云ひたがるものですね」という意味合いを含ませて、黙って笑っていたのであって、こんな文句を直に言ったのではない。また、百歩譲ってそのような意味合いを靜が夫の笑みに中に看取したとしても、そのために、夫のやや醒めた含みの笑みを「とりつくろうため」に「結構ね。嘸御父さんや御母さんは御喜びでせう」と言っているのでも、ない。これは極めて自然で心からの女=母としての心情の発露の表現である。私には藤井氏が妙な拘りの中でこの部分の注をお書きになっているように思われてならない。]

 

2010/05/20

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月20日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十一回

Kokoro13   先生の遺書

   (三十一)

 其日の談話も遂にこれぎりで發展せずにしまつた。私は寧ろ先生の態度に畏縮(ゐしゆく)して、先へ進む氣が起らなかつたのである。

 二人は市(し)の外れから電車に乘つたが、車内では殆んど口を聞かなかつた。電車を降りると間もなく別れなければならなかつた。別れる時の先生は、又變つてゐた。常よりは晴やかな調子で、「是から六月迄は一番氣樂な時ですね。ことによると生涯で一番氣樂かも知れない。精出して遊び玉へ」と云つた。私は笑つて帽子を脫つた。其時私は先生の顏を見て、先生は果して心の何處で、一般(ぱん)の人間を憎んでゐるのだらうかと疑つた。その眼、その口、何處にも厭世的の影は射してゐなかつた。

 私は思想上の問題に就いて、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。然し同じ問題に就いて、利益を受けやうとしても、受けられない事が間々(まま)あつたと云はなければならない。先生の談話は時として不得要領に終つた。其日二人の間に起つた郊外の談話も、此不得要領の一例として私の胸の裏(うら)に殘つた。

 無遠慮な私は、ある時遂にそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑つてゐた。私は斯う云つた。

 「頭が鈍くて要領を得ないのは構ひまんせんが、ちやんと解つてる癖に、はつきり云つて吳れないのは困ります」

 「私は何にも隱してやしません」

 「隱してゐらつしやいます」

 「あなたは私の思想とか意見とかいふものと、私の過去とを、ごちや/\に考へてゐるんぢやありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏(まと)め上げた考(かんが)へを無暗に人に隱しやしません。隱す必要がないんだから。けれども私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それは又別問題になります」

 「別問題とは思はれません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私には殆ど價値のないものになります。私は魂の吹き込まれてゐない人形を與へられた丈で、滿足は出來ないのです」

 先生はあきれたと云つた風に、私の顏を見た。卷烟草を持つてゐた其手が少し顫へた。

 「あなたは大膽だ」

 「たゞ眞面目なんです。眞面目に人生から教訓を受けたいのです」

 「私の過去を訐(あば)いてもですか」

 訐くといふ言葉が、突然恐ろしい響を以て、私の耳を打つた。私は今私の前に坐つてゐるのが、一人(ひとり)の罪人であつて、不斷から尊敬してゐる先生でないやうな氣がした。先生の顏は蒼かつた。

 「あなたは本當に眞面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけてゐる。だから實はあなたも疑つてゐる。然し何うもあなた丈は疑りたくない。あなたは疑るには餘りに單純すぎる樣だ。私は死ぬ前にたつた一人で好(い)いから、他(ひと)を信用して死にたいと思つてゐる。あなたは其たつた一人になれますか。なつて吳れますか。あなたは腹の底から眞面目ですか」

 「もし私の命が眞面目なものなら、私の今いつた事も眞面目です」

 私の聲は顫へた。

 「よろしい」と先生が云つた。「話しませう。私の過去を殘らず、あなたに話して上げませう。其代り‥‥。いやそれは構はない。然し私の過去はあなたに取つて夫程有益でないかも知れませんよ。聞かない方が增(まし)かも知れませんよ。それから、―今は話せないんだから、其(その)積(つもり)でゐて下さい。適當の時機が來なくつちや話さないんだから」

 私は下宿へ歸つてからも一種の壓迫を感じた。

Line

 

やぶちゃんの摑み:先生が「私」に過去を語ることを約束する重要なシーンであるが、3段落目から4段落目へのジョイントはかなり強引で唐突、全体も如何にもコマ落としの感を免れぬ。おまけに漱石は二人の会話の背後の景色を一切描いていない。読者には勢い、「今私の前に坐つてゐる」辺りからも、件の会話が先生の宅で行われたと思うしかない。にも拘らず、室内を全く描かず、カメラは先生の煙草を持つ手の震えのアップのみというのも、先の郊外の植木屋でのシーンが極めて情景描写に富んでいただけに、如何にも植木屋の潅木に竹製の煙管を接いだみたような妙な感じである。第一、ここが先生の宅である以上、「私」の急迫と先生の過去の秘密の暴露に関わる言明を、靜や下女が『聞いていない』ということ(要は靜や下女が屋内にいないこと)を示す描写設定が実は必要不可欠であるはずである。それが全くない。どうも漱石は、短気で辻褄合わせが大嫌いな漱石は、読者にこうした肝心の部分を説明するのが、最早、面倒になってしまったのではなかろうか? この日は連載から丁度ぴったり、一箇月目なのである。漱石はもしかするとこの時まだ、複数短編でこの「心」構成するという予定を実行する気でいたのではなかったか? そんなくだくだしい説明をしていたら何時まで経っても終わらん、早いとこ切り上げないとオムニバスにならんぞ、と焦ったのかも知れないという気さえしてくるのである。

 

「二人は市の外れから電車に乘つた」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注及び「電車を降りると間もなく別れなければならなかつた」の注が明解に物語ってくれている。染井が前段の同定地として正しければ、染井通りを山手線を跨ぐ染井橋まで戻って右折、中山道に出れば『白山方向から来た市営の路面電車に乗ることができ』る。「電車を降りると間もなく別れなければならなかつた」という表現は二人の自宅の『最寄りの停車場が同じであったらしいことがわかる』。「私」が帝国大学近くに下宿していることは昼飯を食いに帰った箇所で述べたから(藤井氏同様に私もそう考えた)、『先生宅も本郷周辺ということがここからも推定できる。巣鴨からの路線だとすると、春日町かその一つ手前あたりで降りれば、本郷通りまでは歩いても五分とかからない。』と記されておられる。

 

「裏(うら)」のこの「う」のルビは上を左にして転倒している。

 

「話しませう。私の過去を殘らず、あなたに話して上げませう。其代り‥‥。いやそれは構はない。然し私の過去はあなたに取つて夫程有益でないかも知れませんよ。聞かない方が增かも知れませんよ。それから、―今は話せないんだから、其積でゐて下さい。適當の時機が來なくつちや話さないんだから」先生が「私」に自己の過去を完全に開示することを言明する大切な台詞であるが、私は永くこの「其代り‥‥」のリーダー部分が気に掛かってしょうがないのである。このリーダーの復元は思ったより簡単ではない。何故なら、まず直後の「いやそれは構はない」の「それ」が指示する内容の問題がある。普通に読み過せば『過去をこの「私」に総て告白すること』は「構はない」のだと読んでしまう。しかし、果してそうか? 「然し」以下の文脈は「私」が圧迫を感ずるほどに、強い不分明な警告として読者に示されるものの、本作をこの後、読み解いてゆくことになる読者にはさほど「不得要領」なもの、総てを読み終えた読後にも残るような不可解さとして残るようなものではなく、寧ろ遺書の提示によって分明なものとなるはずのものである。しかし、今の私はそこで立ち止ってみたいのだ。そうしてこの瞬間の先生の心の底の『顔』を見極めてみたいのだ。この「其代り‥‥」の部分は、直に「其代り、私の過去はあなたに取つて夫程有益でないかも知れませんよ」と繋がるものでは、ない、と言いたいのである。ここで、先生はもっと別なある謂い・表現を言わんとしたのではなかったか? 即ち、ある驚天動地の言明である。例えば(これはあくまで指示語の関係を示すための例であって私の考える復元案ではない)「其代り、――其代り私はこの自身の命を絶たねばならないことになります。いやそれは構はない。……」といった文脈である。私が言いたいのは、この「いやそれは構はない」に現われた「それ」が指す内容が、例えば「私はこの自身の命を絶たねばならないことにな」る、を指すという可能性である。そこのあるのは先生の過去を知ることによって生じる未来の「私」の決定的な人生行路の変容予言かも知れない。何らかの自身の死に拘わる言明やそれを暗示する比喩かも知れない。いや、遺書の最後に示されるのと類似した何か具体的なある種の禁止を含む命令(それは不作為を命じるものかもしれないし、作為を命じるものなのかも知れない)。「其代り‥‥」のリーダー部分にこそ、「それ」の指示内容が隠されている、それを受けたモノローグのようなものが「いやそれは構はない」という台詞である、という読みが可能であるということを言いたいのである。そうすると、この「‥‥」の復元が、ここでの一つの先生の覚悟の決定的本質を復元する作業になる、ということを言いたいのである。何も出てこないかも知れない。何かが垣間見えるかも知れない。それは分からぬ。しかし、そうした推察の作業を疎かにした時、私は遂に先生がKの「覺悟、――覺悟ならない事もない」の台詞を読み違えた失敗を、あの瞬間のKの『顔』を先生が見逃したのと同じ痛恨の失敗を、我々自身が繰り返す虞れがある、と言いたいのである。]

2010/05/19

耳嚢 巻之二 上州池村石文の事

 

 

耳嚢 巻之二」に「上州池村石文の事」を収載した。「卷之二」余すところ、9話。完遂間近!

 

 

 上州池村石文の事

 

 淺間山燒の節關東村々を廻村せしに、長崎彌之助知行上州片岡郡(こほり)池村に石碑あり。世に陸奧の坪壺の石碑を古物(こぶつ)とて人の稱しけるに、池村の碑を稱する事を聞(きか)ず。其土俗に聞くに、和銅二年上野國(かうづけのくに)甘樂(かんら)郡緑埜(みとの)郡の内をわりて片岡の郡として、羊太夫といふ者に給りし碑の由。文を見しに其通也。則石摺として持歸りしが、碑面いかにも古物にて文字も能書也。左に其銘を書留ぬ。

 

弁官符上野國片岡郡緑野郡甘

 

良郡并三郡内三百戸郡成給羊

 

成多胡郡和銅四年三月九日甲寅

 

宣左中弁正五位下多治此真人

 

大政官二品穗積親王左大臣正二

 

位石上尊右大臣正二位藤原尊

 

上野多胡郡碑石高四尺濶

 

二尺八寸蓋方三尺

 

按ニ日本紀云和銅四年三月

 

辛亥割上野国甘良郡織

 

裳韓級失田大家緑野

 

武美片罡郡山※六郷[やぶちゃん字注:「※」=「寺」に(くさかんむり)。]

 

別置多胡郡ト云々始此國ニ

 

多胡郡ヲ置タル時始テ建

 

立セル碑也其文至テ讀カ

 

タキニヨリ土人誤テ羊太夫

 

ノ碑トス羊ハ半ノ字ノ誤ナ

 

ラン三郡ノ内三百戸ノ郡ト

 

ナシ給ヒ半ヲ多胡郡ト成ト讀テ其義通スヘシ

 

   文政十一戌子年四月十七日書以贈示于 美濃部先生 法眼栗本瑞見

 

●1 カリフォルニア大学バークレー校版画像[やぶちゃん注:既に著作権の消滅した絵画や平面図像等をそのままただ平面的に撮った写真には著作権は発生しないという文化庁の見解をここに示しておく。]

 

〈HPとの差別化を図るため、省略。〉

 

●2 銘及び注整序版[やぶちゃん字注:「※」=「寺」に(くさかんむり)。]

 

弁官符上野國片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣左中弁正五位下多治此真人大政官二品穗積親王左大臣正二位石上尊右大臣正二位藤原尊

 

上野多胡郡碑石高四尺濶二尺八寸蓋方三尺

 

按ニ日本紀云和銅四年三月辛亥割上野国甘良郡織裳韓級失田大家緑野武美片罡郡※六郷別置多胡郡ト云々始此國ニ多胡郡ヲ置タル時始テ建立セル碑也其文至テ讀カタキニヨリ土人誤テ羊太夫ノ碑トス羊ハ半ノ字ノ誤ナラン三郡ノ内三百戸ノ郡トナシ給ヒ半ヲ多胡郡ト成ト讀テ其義通スヘシ

 

   文政十一戌子年四月十七日書以贈示于 美濃部先生 法眼栗本瑞見

 

●3 銘及び注整序やぶちゃん訓読版[やぶちゃん字注:誤字である「失」は「矢」に直した。「※」=「寺」に(くさかんむり)。]

 

弁官の符、上野の國片岡郡・緑野郡・甘良郡并びに三郡の内三百戸、郡を成し、羊に給ひ、多胡郡と成す。和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)、宣す。左中弁(さちうのべん)正五位下多治此(たぢひの)真人(まひと) 大政官(たいじやうかん)二品(にほん)穗積親王 左大臣正二位石上尊(いそのかのみこと) 右大臣正二位藤原尊(ふじはらのみこと)

 

上野多胡郡碑石は、高さ四尺、濶(ひろ)さ二尺。八寸の蓋(かさ)、方(はう)三尺。

 

按ずるに「日本紀」に云ふ、『和銅四年三月辛亥(かのとゐ)、上野の国甘良郡の織裳(をりも)・韓級(からしな)・矢田・大家(おほやけ)・緑野の武美(むみ)・片罡(かたをか)の郡の山※の六郷を割て別に多胡郡を置くと云々』。始て此の國に多胡郡を置たる時、始て建立せる碑なり。其の文、至て讀がたきにより、土人誤て、羊太夫の碑とす。「羊」は「半」の字の誤ならん。『三郡の内、三百戸の郡となし給ひ、半を多胡郡と成す。』と讀みて其の義、通ずべし。

 

   文政十一戌子(つちのえね)年四月十七日書して以て美濃部先生に贈り示す

 

                      法眼(ほうげん)栗本瑞見(ずいけん)

 

●4 やぶちゃん製図碑模式図

 

〈HPとの差別化を図るため、省略。〉

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。浅間大噴火後巡検エピソード・シリーズの一つであるが、特に噴火との関連はない点で、特異。この頃になって根岸も忌まわしい噴火後の悲惨以外の、その折りの個人的な関心事を思い出せるようになったものか。PTSDとは言わないまでも、その噴火直後ではないものの、その惨禍の衝撃的印象は根岸にとっても強烈なものであったであろうと私は思うのである。なお、先に「左に其銘を書留ぬ。」の注を御覧頂くようお願いする

 

・「上州池村」上野国多胡郡池村。旧群馬県多野郡吉井町。現在は高崎市吉井町池字御門。

 

・「石文」は石碑・金石文の意。実は現在は、ここに記されたような栗本瑞見の誤読説ではなく、やはり「羊」太夫人名説が真説であるという考え方が支配的であるため、やや長くなるが、ウィキの「多胡碑」から引用する。『碑身、笠石、台石からなり、材質は安山岩、碑身は高さ125センチメートル、幅60センチメートルの角柱で6行80文字の楷書が丸底彫り(薬研彫りとされてきたが、近年丸底彫りであることが判明した)で刻まれている。笠石は高さ25センチメートル、軒幅88センチメートルの方形造りである。台石には「國」の字が刻まれていると言われるが、コンクリートにより補修されているため、現在確認できない。材質は近隣で産出される牛伏砂岩であり、地元では天引石、多胡石と呼ばれている』。『その碑文は、和銅4年3月9日(711年)に多胡郡が設置された』『際の、諸国を管轄した事務局である弁官局からの命令を記述した内容となっている。多胡郡設置の記念碑とされるが、その一部解釈については、未だに意見が分かれている』。『特に「給羊」の字は古くから注目され、その「羊」の字は方角説、人名説など長い間論争されてきた。現在では人名説が有力とされている。また人名説の中でも「羊」氏を渡来人であるする見解が多く、多胡も多くの胡人を意味するものではないかとの見解もある。近隣には高麗神社も存在することから、この説を有力たらしめている』(下線部やぶちゃん)。『多胡碑は現在「御門」という地名に所在するが、この地名は政令を意味する事から「郡衙(ぐんが)」が置かれた場所だと推定されている。郡衙とは郡の役所の事である。多胡碑と性格が類似する多賀城碑が多賀城南門の傍らに建っていた事から、多胡碑も多胡郡衙正門付近、つまり建碑当初からこの地に存在した可能性が高いと考えられている』。『8世紀後半に建碑されたと考えられる多胡碑だが、9世紀後半頃からの郡衙の衰退、その後の律令制の崩壊と共に、多胡碑も時代の闇の彼方に消え去った。再び所在が明らかになるのはおよそ700年後の建久6年(1509年)に連歌師宗長によって執筆された「東路の津登」まで下る。この約700年間、多胡碑がどのような状態で存在したのかを知りえる資料は存在しない。しかしながら碑文の保存状態が良好な事から、碑文側を下にして倒れていた、土中に埋もれていた、覆堂の中で大切に保護されていた、などある程度良好な環境に存在したと推定される。その後約200年の間を空けた後、伊藤東涯により執筆された盍簪録、輶軒小録の二書を皮切りに数多くの文化人を通し、多胡碑は全国に知れ渡っていく』。(以下、近代の興味深いエピソードが続くが中略する)また『書道史の面から見ると、江戸時代に国学者高橋道斎によってその価値を全国に紹介され、その後多くの文人、墨客が多胡碑を訪れている。筆の運びはおおらかで力強く、字体は丸みを帯びた楷書体である。北魏の雄渾な六朝楷書に極めて近く、北魏時代に作成された碑の総称である北碑、特にその名手であった鄭道昭の書風に通ずると言われる。清代の中国の書家にも価値が認められ、楷書の辞典である「楷法溯源」に多胡碑から39字が手本として採用された』とある。この高橋道斎(享保3(1718)年~寛政6(1794)年)は上野国の出身で、農業と醸造業を生業(なりわい)としつつ、井上蘭台に儒学を学んで、詩文・俳諧・書道にもその才能を発揮した人物である。根岸の実見が天明3(1783)年であることを考えると、恐らくこの高橋道斎が本邦自在な多胡の碑の筆致を世に紹介したのを、根岸が聞き知って、特に立ち寄って実見を望んだもののように思われる。現在は写真撮影が許されていない。しかしその美事な筆跡をMAG氏の「くるまでルンルン」のこのページで鑑賞出来る。――のびのびとした、いい字だなあ!――

 

・「淺間山燒の節關東村々を廻村せし」根岸は浅間大噴火後の天明3(1783)年、47歳の時に浅間復興の巡検役となった。そして、その功績が認められて翌天明4(1784)年に佐渡奉行に抜擢されている。浅間大噴火関連話柄は幾つも既出する。

 

・「長崎彌之助」岩波版長谷川氏注に、『長崎元居(もとおき)。安永八年(一七七九)家を二十五歳で継ぐ。千八百石天明五年(一七八五)小性組。』とある。

 

・「陸奧の坪壺の石碑」飛鳥から奈良時代の8世紀前後にかけて造立されたもので、書道史上極めて重要とされている三つの碑(金石文)として栃木県大田原市の那須国造碑・宮城県多賀城市の多賀城碑及び本話柄の多胡碑を日本三古碑と呼称するが、その中の多賀城碑を言うものと思われる。ウィキの「多賀城碑」から引用する。『碑身は高さ約1.86m、幅約1m、厚さ約50cmの砂岩である。その額部には「西」の字があり、その下の長方形のなかに11140字の碑文が刻まれている』。『天平宝字6年(762年)12月1日に、多賀城の修築記念に建立されたと考えられる。内容は、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩(朝獦)によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれる』。『現在は多賀城跡内の覆堂の中に立つ。江戸時代初期の万治~寛文年間(16581672年)の発見とされ、土の中から掘り出されたとか、草むらに埋もれていたなどの説がある。発見当初から歌枕の一つである壷の碑(つぼのいしぶみ)であるとされ著名となった。俳人松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に訪れたことが『奥の細道』で紹介されている』。この碑への偽作説江戸時代末期からあったが、『明治時代に真偽論争が活発になった。現在では真作説が有力である』。なお、岩波版長谷川氏注では、別説として『都母(つも)(青森県北郡天間林(てんまばやし)村)にあった坂上田村麻呂の建てた碑とも』と記す。因みにこの都母(つぼ/つも)の石文(いしふみ)とは桓武天皇による平安遷都の直後、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷首領アテルイを鎮圧するため東北に赴いた都母‘現在の青森県上北郡天間林村大字天間館坪。旧名を坪村という)にて、そこにあった転石に弓の筈(はず)で『日本中央』と書いたとされる伝説の石碑である。西行の歌にも歌われているものの、実体が知られなかった。ロマン性としては此方を採りたいが、近世・近代通して不明で、昭和241949)年に突如発見という現在の石は……聊か、ね……。

 

・「和銅二年」西暦709年。これは口承伝授の内容なので後に示す碑銘等とは若干事実とずれているか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここは『和銅三年』となっている。

 

・「上野國甘樂郡緑埜郡」以下の碑文の注に譲る。

 

・「片岡の郡」同じく以下の碑文の注に譲る。

 

・「左に其銘を書留ぬ。」の後に底本では『(底本、次ニ七行分空白アリ)』とあって本話は断ち切れられている。そこで、ここは底本の脱落を岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の画像から読み取ったもので補い、更にバークレー校版画像に附帯する附加文を追加した。即ち、碑文銘及び根岸のこの記載に対して、後年、幕臣栗本瑞見が注した文章である。それに際しては画像の文字列通りに復刻、その後に、

 

●1 カリフォルニア大学バークレー校版画像〈HPとの差別化を図るため、省略。〉

 

●2 銘及び注整序版

 

●3 銘及び注整序やぶちゃん訓読版

 

●4 やぶちゃん製図碑模式図(実測値については後注を参照のこと)〈HPとの差別化を図るため、省略。〉

 

を配して読みの便宜を図った。なお、碑銘の「真」及び瑞見の注記の「上野国」の「国」はどちらもママである。

 

・「弁官符」「弁官」は太政官と諸官司・諸国との間にあって行政指揮運営の実務を掌った事務次官級実務官。左弁官・右弁官に分かれ、それぞれ更に大・中・少の弁(べん/おおともい)があった。「弁官符」は官宣旨(かんせんじ)又は弁官下文(べんかんのくだしぶみ)のこと。太政官が弁官を通じて諸国諸司・諸社寺等に下した公文書。 

 

・「和銅四年」西暦711年。

 

・「左中弁正五位下多治此真人」多治比真人三宅麿(たじひのまひとみやけまろ 生没年不詳)。飛鳥時代の官人。父は多治比彦王。母は不明。兄弟に左大臣多治比嶋がいる。真人は姓(かばね)。宣化天皇玄孫。大宝3(703)年、東山道巡察使となって東国に下った。慶雲4年10月には文武天皇大葬御装司となり、後、催鋳銭司(さいじゅせんし:銭貨鋳造担当官。)・造雑物法用司(ぞうざつぶつほうようし:延喜式の造雑物法に記載された食品等の製造管理担当官か?)を歴任。霊亀元(715)年左大弁、養老3(719)年、河内国摂官、養老5(721)年には正四位上に叙せられたが、翌6年1月に藤原不比等を非難した謀反誣告罪により斬刑の判決が下されたが、皇太子首皇子(おびとのみこ:後の聖武天皇。)の奏により死一等減じられて伊豆配流(一説に三宅島はその名を冠したとも)となった。因みに「真人」とは天武13684)年に天武天皇が制定した八色姓(やくさのかばね)の「貴人」(うまひと)で、継体天皇以降の天皇の皇子の子孫に与えられた姓(かばね)である。

 

・「大政官二品穗積親王」(天武2(673)年?~霊亀元・和銅8(715)年)。天武天皇皇子(第8皇子とも第5皇子とも)。妻の一人は大伴坂上郎女であったことが知られている。万葉集には4首が載る。高市皇子妻但馬皇女との密通事件で冨に知られる人物。「品」(ほん)は品位(ほんい)で、本邦で親王及び内親王に与えられた位階で一品から四品まであり、無位の者は無品(むほん)とよばれた。

 

・「左大臣正二位石上尊」石上麻呂(いそのかみのまろ 舒明天皇12640)年~霊亀3(717)年)。物部氏。白鳳元(672)年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)側につき、皇子の自殺にも立ち会ったが、後、赦されて、和銅元(708)年、藤原不比等とともに正二位に叙せらて、左大臣に登りつめた。「竹取物語」のかぐや姫に求婚する五人の貴公子の一人「石上まろたり」は彼がモデルと言われる。

 

・「右大臣正二位藤原尊」藤原不比等(斉明天皇5(659)年~養老4(720)年)。藤原鎌足次男。息子四兄弟と共に藤原黄金時代を最初に創生した人物。草壁皇子の子軽皇子(文武天皇)擁立に功あり、その後見人として政界に勢力を拡大、文武天皇外戚となり、後の聖武天皇の外祖父ともなって、権力を恣にした。

 

・「上野多胡郡碑石高四尺濶二尺八寸蓋方三尺」ここを例えば岩波版では「濶(ひろ)さ二尺八寸。蓋し方(ほう)三尺」と訓読している。私も当初そう読んだのであるが、どうも「蓋し」(思うに)という推量の語がここにどうもしっくりこない気がした。更に、調べるうちに、この訓読では種々のサイトにある多胡の碑の拓本や写真を見て計測してもぴったりこない。遂に古墳研究家である吉田氏のHPにある「群馬藤岡白石古墳群」に記された同碑の詳細データに、『群馬県吉井町池にある多胡(たご)記念館に保存された碑は、高さ125cm幅60cm4角柱上に高さ25cm幅88cm方形の笠石が乗っている。近くで採れる牛伏砂岩(天引石、多胡石)に彫られてい』るという数値を見るに及び、はたと思い当たったのである。どこも「二尺八寸」に相当・適合しないとすれば――これは「二尺八寸」ではないのではないか? という疑義である。そこで考えたのが最初の違和感である「蓋し」であった。これは「蓋し」ではなく、「蓋」(がい)=「笠」ではないかという発見であった。即ち「八寸の蓋(かさ)、方(はう)三尺。」という訓読である。すると、「● やぶちゃん製図碑模式図」中の〈 〉内に示した吉田氏のデータと、美事にそれぞれの数値が近似値になるのである!――こういうの、私は何だかとっても楽しくなってしまうのです!

 

・「日本紀」「日本書紀」の続編「続日本紀」五の「元明天皇和銅四年三月六日」の条に、ほぼこの碑と同文の『上野國甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等の六郷を割きて別に多胡郡を置く。』とある。

 

・「織裳」現在の吉井町の折茂(以下「片罡郡山等」までの地域同定は川守氏のHP「多胡の碑と三宅麻呂」で推定されているものを参照させて頂いた。この多治比真人=三宅麿の同定作業は緻密で手堅い労作である)。

 

・「韓級」現在の辛科神社のある上神保周辺地域。

 

・「矢田」現在の吉井町矢田。

 

・「大家」多胡の碑のある現・池地区の御門周辺地域。

 

・「緑野武美」緑野郡の武美は、現在の入野中学校校庭付近か。

 

・「片罡郡山※」[「※」=「寺」に(くさかんむり)。]「片罡郡」=片岡郡の「山等」とは、片岡郡山名で、現在の馬庭から山名にかけての地域。なおネット上には「山※」を「山寺」とする一部の資料があるが、採らない。当初「等」で「など」の意かとも思ったが、これは明らかに「山※」という固有名詞である。読みは不明である。

 

・「羊ハ半ノ字ノ誤ナラン」先のリンク先で拓本を見て頂きたい。これはどう見ても「羊」であって「半」では、ない。「千蟲譜」の栗本瑞見先生は私の好きな博物学者であるが、これはいけません! 断ずる前に、実物を見に行くべき、せめて知る人がりに頼んで拓本をとって実地に検証すべきでしたね、瑞見先生!

 

・「三郡内三百戸郡成給」川守氏のHP内「多胡の碑と三宅麻呂」には、以上のそれほど広くはないと思われる三地域『に三百戸の人家があったとすると当時としてはかなりの人口密集地だった』と思われると記されている。これらの地名には、素人である私でも一見して何か異質な非日本的雰囲気が濃厚である。冒頭のウィキの記載を待つまでもなく、多胡とは「胡人(中国で北方異民族を指す語。日本語では広く渡来人を言う)が多い」という意味であろう。562年に伽耶国(かやこく)を新羅が滅ぼして、大和朝廷が新羅と親密な関係を持つようになると、本邦には百済や高句麗から多くの渡来人が移入するようになった。金属精錬等の特殊職能集団や有力な豪族となった秦氏のような帰化人勢力が着実に拡大してゆくが、天武・持統帝(673年~大宝2702)年)の頃になると、朝廷はそうした有意に増えた渡来人を意図的に遠隔地に集団移住させる方策を採った。これには大宝律令で国外の使節団が往復する主要街道周辺には外来人を居住させない決まりがあったこと以外に、鉱脈探査や関東等の辺地開拓を彼等に役することをも目的としていたものと思われる。その一つが、この新羅系渡来人を構成員とする多胡郡や未開の武蔵国への新羅郡の設置であったのである。

 

・「『三郡の内、三百戸の郡となし給ひ、半を多胡郡と成す。』と讀みて其の義、通ずべし」と言うのであるが、辻褄の合う現代語訳には苦労した。

 

『三郡の内、それぞれを三百戸の郡として再編成なさり、そこから外れた丁度半ば程の残りの戸を合わせて多胡郡とする。』

 

これでは意味が分かったような分からないような、まどろっこしい拙劣訳だ。そこで、

 

『三郡の中の三百戸を一郡として再編成なさり、そこから外れた丁度半ば三百程の残りの戸を合わせて別な一郡である多胡郡とする。』

 

という裏技で訳してみる。瑞見先生、そういう意味? それとももっとシンプルに、

 

『三郡を三百戸の一郡相当と、まずなさった上で、その丁度半分を多胡郡とする。』

 

ということか? でもだとすると「の内」というのは如何にもおかしい。とりあえず最後の訳を用いたが、ともかく、瑞見先生、現代語訳も苦しいですよ。やっぱり、先生、「半」じゃない「羊」でんがな(どなたか目から鱗の訳仕方があれば、御教授あれ)。

 

・「美濃部先生」岩波版長谷川氏注は美濃部『茂資(もちすけ)、五百石御所院番。茂嘉(しげよし)五百石同。義求(のりまさ)、百五十俵。何れに当るか未詳。』とする。

 

・「法眼」本来は「法眼和尚位」の略で、法印に次ぐ僧位の名称であったが、中世以後は僧に準じて医師・絵師・仏師・連歌師などに称号として与えられた。栗本の場合は医官。

 

・「栗本瑞見」栗本昌臧(まさよし 宝暦6(1756)年~天保5(1834)年)。通称。瑞見。日本で最初の昆虫図説として名高い彩色写生図集「千蟲譜」(リンク先は私の電子テクスト目次。「栗本丹洲」のところをご覧あれ水族パートを翻刻してある)で知られる医師・本草学者。田村藍水次男であったが幕府医官栗本昌友養子となった。寛政元年奥医師として医学館で本草学を教える傍ら、昆虫・魚介類等の研究を行い、日本の博物学史に重要な足跡を残した人物である。この時、既に何と73歳。

 

・「文政十一戌子年」西暦1828年。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 上州池村石碑の事

 

 浅間山大噴火の際、その巡検役として関東の村々を巡って御座ったが、その折り、長崎弥之助殿知行所上野国(こうづけのくに)片岡郡池村にとある石碑があった。

 

 世に陸奥の壺の石碑が古物(こぶつ)とて、世間でも話題になって御座るが、この池村の碑が噂に上ること、これ、聞かぬ。

 

 その土地の者に訊いたところが、

 

「和銅二年に上野国甘楽(かんら)郡・緑埜(みとの)郡を分けて新たに片岡郡として、羊太夫と申す者にその地を給わったことを記念して御座る碑にて御座います。」

 

とのことで御座った。

 

 実見し、読んでみたところ、正にその通りで御座った。

 

 石刷りにして持ち帰ったが、碑面、如何にも古物にして、その字も能書にて御座る。左にその銘を書き留めおく。

 

   弁官の符

 

上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡並びに三郡の内三百戸を新たな一郡として編成し直し、羊なる者にこれを給い、それを多胡郡と呼称する。

 

    和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)の日、これを宣言する。

 

    左中弁 正五位下 多治此真人(さちゅうのべん しょうごいげ たじひのまひと)

 

    大政官 二品   穂積親王(たいじょうかん にほん ほずみしんのう)

 

    左大臣 正二位  石上尊(さだいじん しょうにい いそのかみのみこと)

 

    右大臣 正二位  藤原尊(うだいじん しょうにい ふじわらのみこと)

 

[栗本瑞見注:

 

 上野多胡郡の碑石は碑面の高さ四尺・幅二尺。それに高さ八寸で三尺四方の蓋(かさ)を配す。

 

 按ずるに「続日本紀」の和銅四年三月辛亥(かのとい)の条に『上野国甘良郡の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田・緑野武美(みとのむみ)・片岡郡の山※の六郷を分割再編し、別に新たに多胡郡を置く。云々」とある。初めてこの上野国に多胡郡を配置した際、それを記念して初めて建立した碑である。その文字は至って読み難いために、土地の者はこれを誤って「羊太夫の碑」としてしまった。この「羊」の字は「半」の字の誤りであろう。『三郡を三百戸の一郡相当と、まずなさった上で、その丁度半分を多胡郡とする。』と読んだならば、その文意が通ずるように思われる。

 

   文政十一戌子(つちのえね)の年四月十七日に書き記して以って美濃部先生に贈る。

 

           法眼(ほうげん)栗本瑞見]

 

[やぶちゃん字注:「※」=「寺」に(くさかんむり)。]

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月19日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十回

Kokoro13_9   先生の遺書

   (三十)

 其時の私は腹の中で先生を憎らしく思つた。肩を並べて步き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにゐた。しかし先生の方では、それに氣が付いてゐたのか、ゐないのか、丸で私の態度に拘泥(こだわ)る樣子を見せなかつた。いつもの通り沈默がちに落付き拂つた步調をすまして運んで行くので、私は少し業腹(ごうはら)になつた。何とかいつて一つ先生を遣つ付けて見たくなつて來た。

 「先生」

 「何ですか」

 「先生はさつき少し昂奮なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでゐる時に。私は先生の昂奮したのを滅多に見た事がないんですが、今日は珍らしい所を拜見した樣な氣がします」

 先生はすぐ返事をしなかつた。私はそれを手應(てごたへ)のあつたやうにも思つた。また的が外れたやうにも感じた。仕方かないから後は云はない事にした。すると先生がいきなり道の端へ寄つて行つた。さうして綺麗に刈り込んだ生垣の下(した)で、裾をまくつて小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやり其處に立つてゐた。

 「やあ失敬」

 先生は斯ういつて又步き出した。私はとう/\先生を遣り込める事を斷念した。私達の通る道は段々賑やかになつた。今迄ちらほらと見えた廣い畠の斜面や平地(ひらち)が、全く眼に入らないやうに左右の家並が揃つてきた。それでも所々宅地の隅などに、豌豆(ゑんどう)の蔓(つる)を竹にからませたり、金網で鶏を圍ひ飼ひにしたりするのが閑靜に眺められた。市中(しちう)から歸る駄馬が仕切(しき)りなく擦れ違つて行つた。こんなものに始終氣を奪られがちな私は、さつき迄胸の中にあつた問題を何處かへ振り落して仕舞つた。先生が突然其處へ後戾りをした時、私は實際それを忘れてゐた。

 「私は先刻(さつき)そんなに昂奮したやうに見えたんですか」

 「そんなにと云ふ程でもありませんが、少し‥‥」

 「いや見えても構はない。實際昂奮するんだから。私は財產の事をいふと屹度昂奮するんです。君には何う見えるか知らないが、私は是で大變執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから」

 先生の言葉は元よりも猶昂奮してゐた。然し私の驚ろいたのは、決して其調子ではなかつた。寧ろ先生の言葉が私の耳に訴へる意味そのものであつた。先生の口から斯んな自白を聞くのは、いかな私にも全く意外に相違なかつた。私は先生の性質の特色として、斯んな執着力(しふぢやくりよく)を未だ嘗て想像した事さへなかつた。私は先生をもつと弱い人と信じてゐた。さうして其弱くて高い處に、私の懷かしみの根を置いてゐた。一時(じ)の氣分で先生にちよつと盾を突いて見やうとした私は、此言葉の前に小さくなつた。先生は斯う云つた。

 「私は他(ひと)に欺むかれたのです。しかも血のつゞいた親戚のものから欺むかれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であつたらしい彼等は、父の死ぬや否や許しがたい不德義漢(ふとくぎかん)に變つたのです。私は彼等から受けた屈辱と損害を小供の時から今日(けふ)迄(まで)脊負(しよ)はされてゐる。恐らく死ぬ迄脊負(しよ)はされ通しでせう。私は死ぬ迄それを忘れる事が出來ないんだから。然し私はまだ復讐をしずにゐる。考へると私は個人に對する復讐以上の事を現に遣つてゐるんだ。私は彼等を憎む許りぢやない、彼等が代表してゐる人間といふものを、一般(はん)に憎む事を覺えたのだ。私はそれで澤山だと思ふ」

 私は慰藉(ゐしや)の言葉さへ口へ出せなかつた。Line_9

 

[♡やぶちゃんの摑み:先生が自身の過去を始めて具体的に開示する場面である。先生が自身の口から具体的な過去を語るのは実はここだけで、後は遺書まで待たねばならぬ。そういう意味で、この章は重要視されてきた。しかし、今回、私はその台詞のプレ場面に着目した。例えば、こんなのはどうだ?

   *
 その時の僕は胸の内で彼女を憎らしく思ったさ。だから仲良く肩を並べて歩き出してからも、少し意固地になって僕の聞きたい事をわざと聞かずにいた。だけど彼女の方は、それに気づいてるのか、いないのか、まるで僕の不機嫌な態度に拘る様子すら見せないんだ。彼女はいつもの通り言葉少なに、ちょっとつんとしたような、何でもないわといった感じの歩調を、すましたまんま運んで行く――僕は少し腹が立ってきたんだ。何とか何か言いかけて、一つ、彼女を困らせてみたくなったんだ。
 「ねえ、君?」
 「何?」
 「君、さっき少し――昂奮――したよね。ほら、あの植木屋の庭で休んだ時さ。僕は君の昂奮するのってさ――滅多に見たこと、ないよ。――今日は珍らしいところを見せてもらったよ。……」
 彼女はすぐには返事をしなかった。僕はそれを――手応えあったか? とも思った。また、こいつもいつもと同(おんな)じで的が外れちまったのかなあ? とも感じた。――だからやっぱり、張り合いがないので、仕方ないから後はもう何にも言わないことにしたんだ。

   *
これはもう、少しばかり拗ねてしまった恋人同士の会話以外の何ものでも、ない。そうして先生の放尿を経て、「私」にとって驚天動地の開示が始まるのである。先生に開示を促したのは何であったか? それは、とりも直さず、この今まで従順だった「私」の掟破りの意地悪い行動と言辞に触発されたものと見なくてはならぬ。さらにそこに挟まる形の立小便が開示の覚悟の禪機となっていることにも着目せねばならぬ。
 即ち、先生はここで求めようとするものを与えてくれない拗ねた「私」に、逆に、真に自分(先生)を『愛している「私」』を確認し得たのではなかったか?
 そして先生は考えたのだ。
――真に『愛する』ということをこの「私」に教えねばならない!――
――『愛する』ということはそんな拗ねた意地悪な会話によっては決して成就せぬ!――
――そのためには――真に人を『愛する』ためには――私がこれからするように、誰も知らない自身のおぞましい過去を語る『覚悟』がなくてはならぬ!――
と。でなくて、どうして先生は過去を開示しよう!
 勿論、親戚の者に裏切られた結果、更に『何かがあったために』人間全体を憎悪するようになったというそれは半公的に知られた過去が大半を占めるのではあるが、お分かりの通り、「然し私はまだ復讐をしずにゐる。考へると私は個人に對する復讐以上の事を現に遣つてゐるんだ。私は彼等を憎む許りぢやない、彼等が代表してゐる人間といふものを、一般に憎む事を覺えたのだ」という言明(ディスクール)部分こそがここでの核心・摑みなのである。そこで先生は「私」に『何かがあったために』の部分を意味深長に暗示的に開示したのである。これは先生が「私」を、「私」だけには過去を語ってよいであろう(ここでは未だ可能性可・可能性大の初期レベルではあるが)と決意した証し以外の何ものでもない。
 そして、そう考えた時、「すると先生がいきなり道の端へ寄つて行つた。さうして綺麗に刈り込んだ生垣の下で、裾をまくつて小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやり其處に立つてゐた。」『「やあ失敬」』「先生は斯ういつて又歩き出した。私はとう/\先生を遣り込める事を斷念した」の部分は禪の公案のスタイルであることが判明する。即ち、それ風に言うなら、

   *
 弟子曰く、
「師、既に昂奮す、作麼生(そもさん)、之れ、如何。」
と。
 師、默して道側に寄り、墻下(せうか)に放尿す。
 弟子、膝下に拜せり。

   *
である。この小便の「びゅっ」と飛ぶ勢い、「じゃあじゃあ」という音、その濛々たる湯気――いや、これこそ禪気ならぬ禪機なのである。師の過去を知ることは師の生死更には弟子の生死をも支配することを、この立小便は一瞬にして示した――。
 嘗て、私はこれをフロイト的に解釈しようと試みたことがある。即ち、見えざる先生の男根(ファルス)の出現である。放尿は性行為と創造の象徴であり、ここで父権的超自我存在としての先生が「私」をレイプし、性的社会的人生的な意味での処罰と支配が行われ、その代償として、支配者(神)とまぐわった者の特権として過去の開示の占有が示されるという図式であるが、フロイトへの興味が薄れつつある今の私には、これは、小便が臭うぐらいに如何にも臭いという気がしている。今私はここを矢張り、禪機ととるのである。以下、言いたいことはほぼ言ってしまったので、個々の「摑み」は簡単に済ませる。


♡「君には何う見えるか知らないが、私は是で大變執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから」という部分では、先生の自己評と「私」の先生の性格の認識の落差を押さえておく必要がある。この台詞の後で「私」が語るように、この先生の自己観察は、「私」にとって意外中の意外であって、私は先生を「もつと弱い人と信じて」おり、その「弱くて高い處に」一種の共感を持っていたのだと言う。ということは先生は殊更に、自己の性情を「私」に隠していたということになるのだが、そうではない。先生は「大變執念深い男」としての自分を生来の自分とは認識していない。「私」の前では、いや、「私」の前だけで、先生は本来の自身の「弱くて高い」性質(たち)を安心して示し得たのであった。

 

♡「個人に對する復讐以上の事を遣つてゐる」この意味不明の文句、更にそこから脈絡不明の「人間といふものを」憎むようになったという言説が示され、吐き捨てるように「私はそれで澤山だと思ふ」が来る(この語気は先生の台詞の中で最も憎悪に満ちた部分で朗読では最も注意を有するところだ)。これが美事に本作を推理ドラマに仕立て上げる。「こゝろ」の「上」パートはあらゆるシークエンス・シーンが典型的な探偵小説の手法を用いていると言ってもよいと思われる。]

2010/05/18

耳嚢 巻之二 國によりて其風俗かわる事

「耳嚢 巻之二」に「國によりて其風俗かわる事」を収載した。

 國によりて其風俗かわる事

 佐州に有し時、其土俗物さはがしくしどなき者を、むじな付のやう也といふ。いかなる事と尋しに東都其外にて狐付といへる事のよし。諺にいふ三郡に狐なしと傳へし通(とほり)、佐渡國には狐なきよし。しかし他國にてむじな狸の人に付し事を聞(きか)ざるが、佐州にてはむじなも人に付しやと尋しに、間々むじなの人に付事ありとかたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:貧乏神を祭祠する奇矯から、狢や狸が人に憑く奇矯へ連関。最初に狸憑きの総論としてやや長いがウィキの「狸憑き」を引用しておく(記号の一部を変更した)。タヌキが人に憑依するという民間伝承は『四国や佐渡島の他、青森県や岩手県などに伝えられている』。『タヌキに憑かれた際の症状は様々だが、よく言われるのは大食になるというもので』、『食べ物の栄養分がタヌキに奪われるのか、腹が膨れるのとは逆に本人は衰弱し、やがて命を落とす』とか、『原因不明の病気や、憂鬱状態や饒舌状態になったり、わけもなく暴力をふるったり性行動に走ったり、腐敗した物を食べるといった異常行動をとるようになるともいう』[やぶちゃん注:これらは毒キノコの中毒症状に似ているように思われる。]。『狸憑きの原因は、多くはタヌキが人間にいたずらをされたり、巣を荒らされたりしたためという。これは、山伏などの行者の祈祷よってタヌキが退治され、憑きものから逃れた者が後から語るためにわかることである』。『憑き物に特有の憑きもの筋(憑き物の憑いている家系)と呼ばれるものは狸憑きには少ないが、香川県高松市にはオヨツさん、岡山県にはトマコ狸という、家に憑くタヌキの霊もあ』り、『香川県では人が老いたタヌキに食べ物を与えて飼いならし、憎い相手に憑けて害を成すということもあるという』[やぶちゃん注:さすが四国、クダギツネ同様、いざなぎ流並みに呪詛がタヌキで行われる!]。『四国にはタヌキの祠が多いが、これはタヌキが神に昇格すると人に憑くことができなくなるため、タヌキを神として祀っているものとされる』。『幕末の書物「視聴草」には、死者にタヌキが憑いたとする話がある。文政11年(1828年)3月、やちという老婆が江戸の屋敷に仕えていたが、あるとき突然気絶した。数時間後に回復した後、四肢の自由は失われていたが、食欲が10倍ほどに増し、陽気に歌うようになった。不安がった屋敷の主が医者に見せると、やちの体には脈がなく、医者は奇病と言うしかなかった。やがて、やちの体は痩せ細り、体に穴があき、その中から毛の生えた何かが見えるようになった。秋が過ぎた頃、冬物を着せようと着物を脱がせると、着物には獣らしき体毛がおびただしく付着していた。枕元にはタヌキの姿が現れるようになり、ある夜からは枕元に柿や餅が山積みに置かれるようになった。やちが言うには、来客が持参した贈り物とのことだった。読み書きもできないはずのやちが、不自由のはずの手で和歌を紙にしたためることもあった。やちの食欲は次第に増し、毎食ごとに7膳から9膳もの飯、毎食後に団子数本ときんつば数十個を平らげた。やがて112日、やちの部屋に阿弥陀三尊の姿が現れ、やちを連れて行く姿が見えた。やちの体からは老いたタヌキが抜け出して去って行き、残されたやちの体は亡骸と化していた。やちの世話をしていた小女の夢にタヌキが現れ、世話になった礼を言い、小女が目覚めると礼の品として金杯が置かれていたという』。以下、明治きの浅草寺開拓によって住処を奪われた狸の憑依例や1979年に熊本県芦北郡芦北町で発生した狸憑きの俗信が原因の殺人事件の興味深い記載が続くが、本話柄の注としては大きく脱線するため省略する。しかし、面白い。リンク元でお読みあれ。

・「佐州に有し時」根岸の佐渡奉行在任は天明4(1784)年3月から天明7(1787)年7月迄の約3年強。この過去や完了の助動詞の用法は、鈴木棠三氏の「卷之二」の下限は天明6(1786)年までとする(確定的日付の分かる記事でという条件付ではある)説をやや疑いたくなってくる。佐渡在任中の記載ならば、このようには書かぬ。これは明らかに天明7(1787)年7月以降、勘定奉行に抜擢されて江戸に返り咲いてからの記載である。

・「しどなき」しっかりしていない、分別がないの意。

・「むじな付」「むじな」は一般に狭義には食肉目イタチ科アナグマ亜科アナグマ Meles meles を指すが、実際には本邦では古くから食肉目イヌ科タヌキ Nyctereutes procyonoides と混同して呼称していたし、佐渡ヶ島にはアナグマは生息していないと思われるため(少なくとも現在は棲息しない)、ここはタヌキと同定してよいであろう。因みに、佐渡ではタヌキはムジナとかトンチボとかとも呼称する。よく知られた二ッ岩の団三郎狸を始めとする佐渡のタヌキ憑き及び妖獣としてのタヌキについては、例えば佐渡在住のlllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』が素晴らしい。読み易いくだけた表現を楽しみ写真なども見つつ、リンクをクリックしていると、あっと言う間に時間が経つ。それでいて生硬な学術的解説なんどより生き生きとした生(なま)の佐渡ヶ島が浮かび上がってくる。必見である。氏の記載に依れば、佐渡には元来、タヌキもキツネも棲息しなかったが、慶長6(1601)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりとある。因みに、私は実は熱烈な佐渡ヶ島ファンである。

・「三郡に狐なし」佐渡国は雑太郡(さわたぐん)・羽茂郡(はもちぐん)・加茂郡(かもぐん)の三郡に分かれていた(現在は全島で佐渡市)。佐渡にキツネがいないことについては、術比べをして負けた方が島を出てゆくとし、キツネが負けたからと多くの記載に見られるのだが、その術比べの内容が記されておらず面白くない。lllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡にキツネがいないワケ』からその伝承のlllo氏の名訳を引用しよう。佐渡には伝説のタヌキ「二ツ岩の団三郎」という妖狸の大親分がいたそうな……

   《引用開始》

キツネ「佐渡へ渡ってみたいのだけど、どう?」

団三郎「うん。でもキツネの姿では歓迎されないから、なにかに化けてもらわないと…」

キツネ「化けることなら自信あるよ」

団三郎「じゃあ、化けくらべしてみる?」

キツネ「いいよ」

団三郎「ぼくは大名行列に化けるから、きみは好きなものに化けて駕籠(かご)に乗ってきて」

キツネ「オッケー!」

 翌日、ゴージャスマダムに化けたキツネが大名行列に近づいて行ったところ「ぶれい者!」とお供の侍に斬られてしまった。

キツネ「えー!これ本物じゃーん!!」

 団三郎は、この日に大名行列があることを知っていて、キツネにいっぱいくわせたのだそうな。

団三郎「おれの目の黒いうちは、佐渡へキツネなんぞ入れるもんか」

   《引用終了》

・「しかし他國にてむじな狸の人に付し事を聞ざる」冒頭注で見たように、四国・九州及び青森県・岩手県などの一部にも見られる。

■やぶちゃん現代語訳

 国によってその風俗に変わりがある事

  佐渡奉行として佐渡ヶ島に赴任して御座った折りのこと、かの地にては、騒がしく落ち着きのない者のことを『狢憑(むじなつ)きのようだ』と言う。何のことかと尋ねたところ、江戸その他で『狐憑き』と言うところのものと同じいものの由。

 俗諺(ぞくげん)に『三郡に狐なし』と伝える通り、佐渡の国には狐がおらぬ。しかし、他国にて狢や狸が人に憑いたという話を聞かぬ故、

「……佐渡にては……その……狢も、人に憑くのか?」

と訊ねたところ、

「へえ、時々、狢め、人に憑くこと、これ、御座いまする。」

と当たり前のように語って御座ったよ。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月18日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十九回

Kokoro13_8   先生の遺書

   (二十九)

 先生の談話(たんわ)は、此犬と小供のために、結末迄進行する事が出來なくなつたので、私はつひに其要領を得ないでしまつた。先生の氣にする財產云々の掛念(けねん)は其時の私には全くなかつた。私の性質として、又私の境遇からいつて、其時の私には、そんな利害の念に頭を惱ます餘地がなかつたのである。考へると是は私がまだ世間に出ない爲でもあり、又實際其塲に臨まない爲でもあつたらうが、兎に角若い私には何故か金の問題が遠くの方に見えた。

 先生の話のうちでたゞ一つ底(そこ)迄聞きたかつたのは、人間がいざといふ間際に、誰でも惡人になるといふ言葉の意味であつた。單なる言葉としては、是丈でも私に解らない事はなかつた。然し私は此句に就いてもつと知りたかつた。

 犬と小供が去つたあと、廣い若葉の園(その)は再び故(もと)の靜かさに歸つた。さうして我々は沈默に鎖ざされた人の樣にしばらく動かずにゐた。うるはしい空の色が其時次第に光を失なつて來た。眼の前にある樹は大概(たいがい)楓であつたが、其枝に滴るやうに吹いた輕い綠の若葉(わかは)が、段々暗くなつて行く樣に思はれた。遠い往來を荷車を引いて行く響(ひゞき)がごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて緣日へでも出掛けるものと想像した。先生は其音を聞くと、急に瞑想から呼息(いき)を吹き返した人のやうに立ち上つた。

 「もう、徐々(そろ/\)歸りませう。大分日が永くなつたやうだが、矢張(やつぱ)り斯う安閑としてゐるうちには、何時の間にか暮れて行くんだね」

 先生の脊中には、さつき緣臺(えんたい)の上に仰向(あふむき)に寐た痕が一杯(はい)着いてゐた。私は兩手でそれを拂ひ落した。

 「ありがたう。脂(やに)がこびり着いてやしませんか」

 「綺麗に落ちました」

 「此羽織はつい此間拵らへた許りなんだよ。だから無暗に汚して歸ると、妻に叱られるからね。有難(ありかた)う」

 二人は又だら/\坂(ざか)の中途にある家の前へ來た。這入る時には誰も氣色の見えなかつた緣に、御上さんが、十五六の娘を相手に、絲卷へ糸を卷きつけてゐた。二人は大きな金魚鉢の橫から、「どうも御邪魔をしました」と挨拶した。御上さんは「いゝえ御構ひ申しも致しませんで」と禮を返した後(あと)、先刻小供に遣つた白銅の禮を述べた。

 門口を出て二三町來た時、私はついに先生に向つて口を切つた。

 「さき程先生の云はれた、人間は誰でもいざといふ間際(まきは)に惡人になるんだといふ意味ですね。あれは何ういふ意味ですか」

 「意味といつて、深い意味もありません。―つまり事實なんですよ。理窟ぢやないんだ」

 「事實で差支ありませんが、私の伺ひたいのは、いざといふ間際といふ意味なんです。一體何んな場合を指すのですか」

 先生は笑ひ出した。恰(あたか)も時機の過ぎた今、もう熱心に說明する張合がないと云つた風に。

 「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ惡人になるのさ」

 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰まらなかつた。先生が調子に乘らない如く、私も拍子拔けの氣味であつた。私は澄ましてさつさと步き出した。いきほひ先生は少し後れ勝になつた。先生はあとから「おい/\」と聲を掛けた。

 「そら見給へ」

 「何をですか」

 「君の氣分だつて、私の返事一つですく變るぢやないか」

 待ち合はせるために振り向いて立ち留まつた私の顏を見て、先生は斯う云つた。

 

 

 

[♡やぶちゃんの摑み:本回には上の通り、最後の縦罫がない。

 

♡「脂」松脂。縁台が松材で出来ていたのであろう。

 

♡『私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰まらなかつた。先生が調子に乘らない如く、私も拍子拔けの氣味であつた。私は澄ましてさつさと歩き出した。いきほひ先生は少し後れ勝になつた。先生はあとから「おい/\」と聲を掛けた』「私」が先生に対して面白くないという不満を実際の行動に移してでも見せ付けなくてはならないと感じる極めて珍しい場面である。次章の冒頭でそれは頂点に達する。――しかしこれ、何だか、何かに似てないか?――(明日の注へ続く)]

 

 

――明日の摑みは、ちょいとオリジナリティに自信がある。さてもさても乞うご期待!――

2010/05/17

耳嚢 巻之二 貧窮神の事

「耳嚢 巻之二」に「貧窮神の事」を収載した。【昨夜、ブログ掲載分に誤って既出の章を掲げてしまった。ここに訂正する。なお、本日早朝をもって「卷之二」の全注釈現代語訳作業を無事終了したことを御報告しておく。 5月18日 AM6:21】

 貧窮神の事

 近頃牛天神(うしてんじん)境内に社祠出來ぬるを、何の神と尋れば、貧乏神の社の由。彼宮へ詣で貧乏を免れん事を所るに其靈驗ありしとかや。其起立を尋るに、同じ小石川に住む御旗本の、代々貧乏にて家内思ふ事も叶はねば、明暮となく難儀なしけるが、彼人或年の暮に貧乏神を畫像に拵へ神酒(みき)洗米(せんまい)など捧(ささげ)て祈けるは、我等數年貧窮也、思ふ事叶はぬも是非なけれど、年月の内貧なれども又外の愁もなし、偏(ひとへ)に尊神の守り給ふなるべし、數代我等を守り給ふ御神なれば、何卒一社を建立して尊神を崇敬なすぺきの間、少しは貧窮をまぬがれ福分に移り候樣守り給へと、小さき祠を屋敷の内に立て朝夕祈りしかば、右の利益(りやく)にや、少し心の如き事も出來て幸ひもありしかば、牛天神の別當なる者は兼て心安かりければ其譯を語り、境内の隅へ成とも右ほこらを移し度(たし)と談じければ、別當も面白き事に思ひて許諾なしけるにぞ、今は天神境内に有りぬ。此事聞及びて貧しき身は右社倉に詣で祈りけると也。敬して遠(とほざ)くの類面白き事と爰に記ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:老女隠棲の僧坊造立から貧乏神のお祠造立で連関。老女には何だか有り難くない連関だが――。

・「牛天神」現在の東京都文京区春日(後楽園の西方)にある北野神社。北野神社公式サイトによれば、源頼朝が当地にあった岩に腰掛けて休息した際、夢に牛に乗った菅原道真が現われて吉事を予言、翌年、夢言通りとなったことから頼朝がこの岩を祀り牛天神を造立したという縁起を持つ(底本鈴木注では、牛天神は金杉天神とも呼ばれるとあり、頼朝を『北条氏康が夢想によって祀ったもの』という別系統の伝承を掲げる)。境内には牛形の岩があり、これを撫でると願いが叶うと伝えられている。この神社の境内に現在、太田神社及び高木神社と呼称する社があるが、これが本話の貧乏神の祠である。現在は、日本最初のストリッパーであった天鈿女命(あめのうずめのみこと)とその夫とされる荒ぶる神猿田彦命を祭祀しており、芸事上達・開運招福のご利益があるとされる。明治より前は貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ:弁財天の姉。)を祀っていたが、江戸時代にあったとされるさる出来事から、人に憑いている貧乏神を追い払い、福の神を招き入れるとの庶民信仰を集めるようになったという。HP記載の由緒は本話柄とはやや異なるので、そのまま引用する(改行を除去し、記号も変更・追加した)。

   《引用開始》

 昔々、小石川の三百坂の処に住んでいた清貧旗本の夢枕に一人の老人が立ち、「わしはこの家に住みついている貧乏神じゃが、居心地が良く長い間世話になっておる。そこで、お礼をしたいのでわしの言うことを忘れずに行うのじゃ……」と告げた。正直者の旗本はそのお告げを忘れず、催行した。すると、たちまち運が向き、清貧旗本はお金持ちになる。そのお告げとは――「毎月、1日と15日と25日に赤飯と油揚げを供え、わしを祭れば福を授けよう……」――以来、この「福の神になった貧乏神」の話は江戸中に広まり、今なお、お告げは守られ、多くの人々が参拝に訪れている。

   《引用終了》

この「三百坂」は伝通院の南西、松平讃岐守屋敷の東北にあり、牛天神から2㎞も離れていない。この坂の名はこの近くに屋敷を構える松平家に由来すると言われる。松平家では新規召抱えのお徒(かち)の者は、主君が登城の際、玄関で目見えさせた後、衣服を改めさせて、この坂で供の列に加わらせたという。万一、坂を登りきるまでに行列に追いつけなかった場合は、遅刻の罰として三百文を科したことから、という(文京区教育委員会の三百坂標識等による)。なお、根岸の口調から明らかにこの頃――「近頃」という以上は5年以上遡るとは考え難い――安永9(1780)年以降、根岸が江戸にいた佐渡奉行となる天明4(1784)年よりも前に造立されたものではないかと私は考える。

・「洗米」神仏に供えるために洗った米。饌米(せんまい)。

・「牛天神の別當」神仏習合であったことから、牛天神は龍門寺という寺が別当であったことが切絵図の記載から分かるが、当の龍門寺は近辺に見当たらぬ。現存しないらしい。牛天神東隣に接する水戸屋敷の旧地にでもあったものか。

・「敬して遠く」「論語」の「雍也第六」の「二十二」に現われる句。

樊遲問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。

○やぶちゃんの書き下し文

 樊遲(はんち)知を問ふ。子曰く、

「民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂ふべし。」

と。

 仁を問ふ。曰く、

「仁は難きを先にして獲(と)るを後にす。仁と謂ふべし。」
と。

○やぶちゃんの現代語訳
 ある時、樊遅(はんち)が、

「『知』とは?」

と訊ねた。

 先生が謂われた。

「人として、当たり前の義を務め、天神地祇神仏神霊祖霊霊鬼を、人を超越した存在の『ようなもの』として謙虚に畏敬して、而もそれを己れの思惟に於いては鮮やかに遠避ける――これが『知』じゃ。」

と。

 樊遅は続けて、

「『知』とは?」

と訊ねた。

 先生が謂われた。

「仁とは、何事も成し難きことを先ず成し遂げ、後に結果として実を摑む――これが『仁』じゃ。」

と。

樊遅とは孔子の御者にして弟子の一人。



■やぶちゃん現代語訳

  貧乏神の事

 近頃、牛天神の境内に新しいお祠(やしろ)が出来たので、何の神を祭っておるのかと訊ねてみたところ、これが何と、貧乏神の由。

 貧乏を免れんことを祈ると確かな霊験あり、とか。

 その起立をも訊ねてみた――。

 ――同じ小石川に住む御旗本、これ、代々筋金入りの貧乏にて、日々の暮らしも思う通りには叶わぬ体たらく、いやもう、文字通り、明け暮れとなく難儀致いて御座った。

 さて、ある年の暮れのこと、この御仁、貧乏神を画像に誂え、お神酒(みき)やらご饌米(せんまい)なんども捧げて祈ったことには、

「……我ら永年、貧窮にて御座る。……思うことも叶わぬのも、この体たらくなれば是非もないこととは存ずるが……永年不断の貧なれど、しかし、それ以外はこれと申して、又、数奇なる愁いのあるわけにても御座らぬ。……これは、偏(ひとえ)に御尊神が我らを守護遊ばされておらるるなればこそのことならんと存じ上げ奉りまする。……幾代にも亙って我ら一族をお守り給うて御座る御神であればこそ、……何卒! 一社を建立致いて尊神を崇敬致さんとする間、……その、も少しばかり、貧乏を免れ、ささやかなる福を受くるる身分へと遷り変わらんよう、……どうか、お守り下されええいぃ!」

と小さなお祠を屋敷内(うち)の隅に建てて、朝夕祈っところが――ああら、不思議! このご利益(りやく)ででもあろうか――少しは願(ねご)うて御座ったことも叶うて、吉事もあった。

 そこで、兼ねてより牛天神別当龍門寺役僧とは懇意に致いて御座ったれば、かくかくの霊験を語り、

「……一つ、境内の隅へなりとも、このお祠、移しとう存ずるが……」

と恐る恐る言うてみたところ、その別当も興がって移設を許諾致したによって、今は天神さま境内に安置することと相成った。

 これをまた聞き及んで、貧しき者ども雲霞の如く押寄せ、このお祠に詣で祈って御座るとのこと。

 『鬼神を敬して之を遠ざく』の類い、面白いことなれば、ここに記しおく。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月17日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十八回

Kokoro13_7   先生の遺書

   (二十八)

 「君のうちに財產があるなら、今のうちに能く始末をつけて貰つて置かないと不可(いけな)いと思ふがね、餘計な御世話だけれども。君の御父さんが達者なうちに、貰うものはちやんと貰つて置くやうにしたら何うですか。萬一の事があつたあとで、一番面倒の起るのは財產の問題だから」

 「えゝ」

 私は先生の言葉に大した注意を拂はなかつた。私の家庭でそんな心配をしてゐるものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じてゐた。其上先生のいふ事の、先生として、あまりに實際的なのに私は少し驚ろかされた。然し其處は年長者に對する平生の敬意が私を無口にした。

 「あなたの御父さんが亡くなられるのを、今から豫想して掛るやうな言葉遣をするのが氣に觸つたら許して吳れ玉へ。然し人間は死ぬものだからね。何んなに達者なものでも、何時死ぬか分らないものだからね」

 先生の口氣は珍らしく苦々しかつた。

 「そんな事をちつとも氣に掛けちやゐません」と私は辯解した。

 「君の兄妹(きやうだい)は何人でしたかね」と先生が聞いた。

 先生は其上に私の家族の人數を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父や叔母の樣子を問ひなどした。さうして最後に斯ういつた。

 「みんな善(い)い人ですか」

 「別に惡い人間といふ程のものもゐないやうです。大抵田舍者ですから」

 「田舍者は何故惡くないんですか」

 私は此追窮に苦しんだ。然し先生は私に返事を考へさせる餘裕さへ與へなかつた。

 「田舍者は都會のものより却つて惡い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、是といつて、惡い人間はゐないやうだと云ひましたね。然し惡い人間といふ一種の人間が世の中にあると君は思つてゐるんですか。そんな鑄型(いかた)に入れたやうな惡人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際(まきは)に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ないんです」

 先生のいふ事は、此處で切れる樣子もなかつた。私は又此處で何か云はうとした。すると後(うしろ)の方で犬が急に吠え出した。先生も私も驚いて後(うしろ)を振り返つた。

 緣臺の橫から後部へ掛けて植ゑ付けてある杉苗の傍(そば)に、熊笹が三坪程地を隱すやうに茂つて生えてゐた。犬はその顏と脊を熊笹の上に現はして、盛んに吠え立てた。そこへ十(とを)位(くらゐ)の小供が馳けて來て犬を叱り附けた。小供は徽章(きしやう)の着いた黑い帽子を被つたまゝ先生の前へ廻つて禮をした。

 「叔父さん、這入つて來る時、家に誰もゐなかつたかい」と聞いた。

 「誰もゐなかつたよ」

 「姉さんやおつかさんが勝手の方に居たのに」

 「さうか、居たのかい」

 「あゝ。叔父さん、今日(こんち)はつて、斷つて這入つて來ると好かつたのに」

 先生は苦笑した。懷中から蟇口を出して、五錢の白銅(はくどう)を小供の手に握らせた。

 「おつかさんに左右云つとくれ。少し此處で休まして下さいつて」

 小供は怜悧(りかう)さうな眼に笑ひを漲(みなぎ)らして、首肯(うなづ)いて見せた。

 「今斥候(せつこう)長になつてる所なんだよ」

 小供は斯う斷つて、躑躅(つゞじ)の間を下の方へ駈け下りて行つた。尤も尻尾を高く卷いて小供の後を追ひ掛けた。しばらくすると同じ位の年格好の小供(ことも)が二三人、是も斥候長の下りて行つた方へ駈けていつた。

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やぶちゃんの摑み:本章から(三十)まで、先生のトラウマである財産問題が語られる重要なシーンである。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」には「達者なうちに、貰うものはちや んと」の注として、この頃の旧民法規定が詳細に解説されている。詳細はそちらを披見されたいが、要は戸主財産は長男の単独相続を原則規定としながら、実際には兄弟姉妹への財産配分分与が行われたとある。『その場合、相続人である長男には二分の一、残りの二分の一をその長男も含めた兄弟姉妹で均等分割する(姉妹の放棄はありうる)』とある。

 

♡「田舍者は何故惡くないんですか」ここからが朗読時の摑みである。次の台詞は「私」の呼吸を想定しながら、その息をも食うように、陰鬱なる昂奮と共に語り出すのである。

 

「三坪」「こゝろ」では数字にもルビがあり、「みつぼ」と読んでいる。

 

♡「田舍者は都會のものより却つて惡い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、是といつて、惡い人間はゐないやうだと云ひましたね。然し惡い人間といふ一種の人間が世の中にあると君は思つてゐるんですか。そんな鑄型に入れたやうな惡人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ないんです」「私」が田舎で感じた違和感に発した漱石の田舎蔑視の意識表明が先生の口を通して明白な憎悪となって流露する。田舎者⇔都会人=前近代的封建主義者⇔近代的知識人という二項対立に更に悪人⇔善人の対立構造をやや無理矢理に嵌め込み、トリプルで重層強化させる。ここを江藤淳を初め、何人もの研究者が荀子の性悪説と絡めて論じている。これは漱石が装丁を総て担当した「こゝろ」の単行本表紙「康煕字典」の「心」の項の語義パートの一部を引き、その冒頭が「荀子」の「解蔽篇」であるのを根拠とするのであるが、私は見当違いも甚だしいと思う。そもそも単行本表紙の「康煕字典」の「心」の項は「荀子」の「解蔽篇」の引用だけではない。それに「禮大學疏」・「釋名」・「易復卦」(とその「註」)と続く。そこに示されていない「荀子」の思想を援用して解釈するなら、これら「禮大學疏」「釋名」「易復卦」総てを等価に用いて論ずるべきである。私はこれらを解釈の方途にすることに否定的なのではない。しっかり総てを使い切れと言いたいのだ。「荀子」だけを選択して自説に牽強付会しておいて、鬼の首を取ったかのような気になっているのがおかしいと言っているのである。そもそも先生の「平生はみんな善人なんです」の謂いの何処が性悪説なんだ?! この私と言う馬鹿に分かるように教えてくんな!

 

♡「すると後の方で犬が急に吠え出した。先生も私も驚いて後を振り返つた」本作ではこうした会話の中断がしばしば起こるが、これは新聞連載小説の作法としては極自然に思われる。精読するわけではない新聞小説には、こうしたインターミッションが不可欠であるし、第一、他の章に見られるようなやや造ったソクラテスの弁論みたようなソリッドな表明より、この方が私にはリアルでしっくりくる。

 

♡「小供は徽章の着いた黑い帽子を被つたまゝ先生の前へ廻つて禮をした」勘違いしてはいけない。この少年は西洋風の学帽(小学校指定のものではなく軍帽を真似たこの子のプライベートな帽子の可能性もある)を被っているが、服は当然、和服である。

 

♡「五錢の白銅」菊五銭白銅貨かそれに次ぐ稲五銭白銅貨の何れかである。直径20.6㎜。品位・銅750/ニッケル250。量目・4.67g。本邦初の日本人技術者のみによって鋳造された記念すべき硬貨であったが、簡単な図案であったために偽造が相次いだといわれる。年号側が製造年号(外円上部)下中央に大きく「五」その下外円に「大日本」(右から左で以下同じ)、反対側上部外円に「五錢」、中央に菊花、下外円にこれのみ左から右へ「5SEN」と記す。コレクターの記載を見ると明治221889)年から301897)年の銘までが存在するとあるので、この場面の時間だと既に鋳造停止から15年が経過している古い銅貨である。稲5銭白銅貨は同じく直径・品位・量目共に菊五銭白銅貨と同一。菊五銭白銅貨の偽造を防止するため、図案変更した白銅貨。年号側が外円に製造年号(右から左)・「大日本」(右から左)・「5SEN」(左から右)を配し、中央に複雑な光彩を放つ旭日が描かれ、反対は中央に縦書きで「五錢」、その左右に細密な稲穂を配す(稲穂は下部で結わかれている)。明治301897)年から381905)年銘までがあるという。少年が怪訝に思わないところを見ると稲五銭白銅貨であろう。

 

「斥候」“patrol”の訳語。「戦闘斥候」“combat patrol”とも。本隊移動に先行して前衛として配され、進行方面の偵察・索敵を任務とする任務とする隊の長。軍曹クラス。]

2010/05/16

ハンドボール部引退試合観戦

今年からハンドボール部の顧問になった――

山岳部は遂に新入生がいなかったから……せめてものオードに今日は山岳部のアノラックを着て行った――

初めての名目顧問の引率が今日の3年生女子公式戦引退試合だった――

一回戦は先日負けた学校に辛くも勝った――

二回戦はタイム・アップ2分前に一点とられて惜敗した――

みんな泣いていた――

まずは……スポーツが致命的な僕が……高校時代に授業でやったハンドボールなるものを35年振りに見た僕が……こんなにも素直に楽しめた自分が……まず、驚きであった――

そして……一日の内に、喜びと悔しさを体験出来た今日なんて……そうそう人間、あるもんじゃない――

そんな思い出は決して忘れはしないのだ――

そして、それを僕は羨ましく思う――

今日という日を大切に。――少女らよ!

……そして蛇足を言うなら……あなたたちの涙は、この老いさらばえたミイラのように生き永らえている僕の涙腺でさえ緩めたのだ……ということを何処かで覚えていてくれると少し嬉しい……

頑張ったね! ♡+♡+♡+♡+♡+♡+♡!

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月16日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十七回

Kokoro13_6   先生の遺書

   (二十七)

 私はすぐ其帽子を取り上げた。所々に着いてゐる赤土を爪で彈きながら先生を呼んだ。

 「先生帽子が落ちました」

 「ありがたう」

 身體(からだ)を半分起してそれを受取つた先生は、起きるとも寢るとも片付(かたづ)かない其姿勢の儘で、變な事を私に聞いた。

 「突然だが、君の家には財產が餘程あるんですか」

 「あるといふ程ありやしません」

 「まあ何(ど)の位あるのかね。失禮の樣だが」

 「何の位つて、山と田地が少しある限(ぎり)で、金なんか丸で無いんでせう。

 先生が私の家の經濟に就いて、問らしい問を掛けたのはこれが始めてゞあつた。私の方はまだ先生の暮し向に關して、何も聞いた事がなかつた。先生と知合になつた始め、私は先生が何うして遊んでゐられるかを疑ぐつた。其後も此疑ひは絕えず私の胸を去らなかつた。然し私はそんな露骨な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけと許り思つて何時でも控へてゐた。若葉の色で疲れた眼を休ませてゐた私の心は、偶然また其疑ひに觸れた。

 「先生は何うなんです。何の位の財產を有つてゐらつしやるんですか」

 「私は財產家と見えますか」

 先生は平生(へいせい)から寧ろ質素な服裝をしてゐた。それに家内は小人數(こにんず)であつた。從つて住宅も決して廣くはなかつた。けれども其生活の物質的に豐な事は、内輪に這入り込まない私の眼にさへ明らかであつた。要するに先生の暮しは贅澤といへない迄も、あたぢけなく切り詰めた無彈力性のものではなかつた。

 「左右でせう」と私が云つた。

 「そりや其(その)位(くらゐ)の金はあるさ。けれども決して財產家ぢやありせん。財產家ならもつと大きな家でも造るさ」

 此時先生は起き上つて、緣臺の上に胡坐(あぐら)をかいてゐたが、斯う云ひ終ると、竹の杖の先で地面の上へ圓のやうなものを描き始めた。それが濟むと、今度はステツキを突き刺すやうに眞直に立てた。

 「是でも元は財產家なんだがなあ」

 先生の言葉は半分獨言(ひとりごと)のやうであつた。それですぐ後に尾(つ)いて行き損なつた私は、つい默つてゐた。

 「是でも元は財產家なんですよ、君」と云ひ直した先生は、次に私の顏を見て微笑した。私はそれでも何とも答へなかつた。寧ろ不調法で答へられなかつたのである。すると先生が又問題を他へ移した。

 「あなたの御父さんの病氣は其後何うなりました」

 私は父の病氣について正月以後何にも知らなかつた。月々國から送つてくれる爲替(かはせ)と共に來る簡單な手紙は、例の通り父の手蹟であつたが、病氣の訴へはそのうちに殆ど見當らなかつた。其上書體も確であつた。此種の病人に見る顫(ふるへ)が少しも筆の運を亂してゐなかつた。

 「何とも云つて來ませんが、もう好(い)いんでせう」

 「好(よ)ければ結構だが、病症が病症なんだからね」

 「矢張(やつぱ)り駄目ですかね。でも當分(たうふん)は持ち合つてるんでせう。何とも云つて來ませんよ」

 「さうですか」

 私は先生が私のうちの財產を聞いたり、私の父の病氣を尋ねたりするのを、普通の談話―胸に浮かんだ儘を其通り口にする、普通の談話と思つて聞いてゐた。所が先生の言葉の底には兩方を結び付ける大きな意味があつた。先生自身の經驗を持たない私は無論其處に氣が付く筈がなかつた。

Line_7

 

やぶちゃんの摑み:

 

「あたじけない」は「吝嗇(けち)な」「しわい」という意味。元来は悪いことを示す接頭語「あた」+中世・近世かけて用いられた「よくない」「つまらない」の意の形容詞「しげない」がついたもの。如何にも吝嗇臭く生活を切り詰めていることが伝わってくるような守銭奴の如き生活様態ではないという謂い。

 

「竹の杖の先で地面の上へ圓のやうなものを描き始めた。それが濟むと、今度はステツキを突き刺すやうに眞直に立てた。」本作にしばしば現われる円運動、それも先生自身が明確に図形として描き出す円、と中心点への支持のシーン。幾つかの円運動中、最も顕在化されており、漱石の確信犯的謎かけの場面である。私はとりあえずこれを“uroboros”ウロボロス(尾を飲み込む蛇)と見た。それは錬金術に於ける相反する不完全なる二対象の結婚――理想的結合の完全性の象徴に始まり、始原・循環から永劫回帰、死/再生・破壊/創造の両義的意味を探ったりもしたが、未だに納得可能な答えは出ない(本件を素材とした眼から鱗の論文にも出逢ったことはない)。とりあえず複数のシンボルを引き出し得る(闘争としての「蛇」という都合の良い解釈も含めて)点ではウロボロスは都合がよい。勿論、私も最初期に考えたが、「心」という形象――漢字の象形及びその語義からのシンボルととることも可能であるが、それでは他にも現われる総ての円運動を説明することが苦しく感じられる。私は嘗て『秘密を共有することの痛み-「こゝろ」考 書き捨て』で、この円運動を求心力と遠心力の拮抗という象徴で解釈してみた。よろしければそちらも御覧あれ。これは今後も「心」最大の謎であり続けるであろう。【2016年6月16日追記】今回、芥川龍之介の「侏儒の言葉」のオリジナルな全注釈を行っている中で、その一章、

   * 

       死 

 マイレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。實際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圈外に逃れることは出來ない。のみならず同心圓をめぐるやうにぢりぢり死の前へ步み寄るのである。 

   *

を考察するうち(その結果である芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 死をリンクしておく)、森鷗外晩年の知られた随想「妄想」(まうぞう(もうぞう):明治四四(一九一一)年『三田文學』)の後半に(引用は岩波版「鷗外選集」に拠ったが、恣意的に正字化した。「フイリツプ マインレンデル」「ハルトマン」はルビ。下線はやぶちゃん)、

   *

 自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。

 併しその死はこはくはない。人の說に、老年になるに從つて增長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。

 若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に橫はつてゐる謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに橫はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。

 この頃自分は Philipp Mainlaender(フイリツプ マインレンデル)が事を聞いて、その男の書いた救拔の哲學を讀んで見た。

 此男は Hartmann(ハルトマン)の迷の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の𢌞りに大きい圏を畫いて、震慄しながら步いてゐる。その圏が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項(うなじ)に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。

 さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歲で自殺したのである。

 自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬(しようけい)」も無い。

 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。

   *

とあるのに行き当たった。この叙述は、まさにこの「先生」の円運動と異様なほど酷似しているように思われてならない。或いは、漱石は鷗外のこの一節をヒントとして「先生」の円運動を創成したものではあるまいか?

♡「不調法」ルビは「ふてうはう」に見えるが画像のすれの可能性もあり、読みを振らなかった。原義は「行き届かず、手際の悪いこと」で、ここでは「どう応答してよいのか、うまい答えが浮かばなかったので黙っていた」ということを指す。]

2010/05/15

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月15日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十六回

Kokoro13_5   先生の遺書

   (二十六)

 私の自由になつたのは、八重櫻の散つた枝にいつしか靑い葉が霞むやうに伸び始める初夏の季節であつた。私は籠を拔け出した小鳥の心をもつて、廣い天地を一目(め)に見渡しながら、自由に羽搏きをした。私はすぐ先生の家へ行つた。枳殼(からたち)の垣が黑ずんだ枝の上に、萌(もえ)るやうな芽を吹いてゐたり、石榴(ざくろ)の枯れた幹から、つや/\しい茶褐色の葉が、柔らかさうに日光を映してゐたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて始めてそんなものを見るやうな珍らしさを覺えた。

 先生は嬉しさうな私の顏を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といつた。私は「御蔭(ごかげ)で漸く濟みました。もう何にもする事はありません」と云つた。

 實際其時の私は、自分のなすべき凡ての仕事が既に結了して、是から先は威張つて遊んで居ても構はないやうな晴やかな心持でゐた。私は書き上げた自分の論文に對して充分の自信と滿足(まんそく)を有つてゐた。私は先生の前で、しきりに其内容を喋々(てふ/\)した。先生は何時もの調子で、「成程」とか、「左右ですか」とか云つてくれたが、それ以上の批評は少しも加へなかつた。私は物足りないといふよりも、聊か拍子拔けの氣味であつた。それでも其日私の氣力は、因循らしく見える先生の態度に逆襲を試みる程に生々(いき/\)してゐた。私は青く蘇生(よみがへ)らうとする大きな自然の中に、先生を誘ひ出さうとした。

 「先生何處かへ散步しませう。外へ出ると大變好(い)い心持です」

 「何處へ」

 「私は何處でも構はなかつた。たゞ先生を伴れて郊外へ出たかつた。

 一時間の後(のち)、先生と私は目的通(とほ)り市を離れて、村とも町とも區別の付かない靜かな所を宛(あて)もなく步いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を挘(も)ぎ取つて芝笛(しばふえ)を鳴らした。ある鹿兒島人を友達にもつて、その人の眞似をしつゝ自然に習ひ覺えた私は、此芝笛といふものを鳴らす事が上手であつた。私が得意にそれを吹きつゞけると、先生は知らん顏をして餘所(よそ)を向いて步いた。

 やがて若葉に鎖ざされたやうに蓊欝(こんもり)した小高い一構(ひとかま)への下に細い路が開けた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだら/\上りになつてゐる入口を眺めて、「這入つて見やうか」と云つた。私はすぐ「植木屋ですね」と答へた。

 植込の中を一うねりして奧へ上(のぼ)ると左側に家(うち)があつた。明け放つた障子の内はがらんとして人の影も見えなかつた。たゞ軒先に据ゑた大きな鉢の中に飼つてある金魚が動いてゐた。

 「靜かだね。斷わらずに這入つても構はないだらうか」

 「構はないでせう」

 二人は又奧の方へ進んだ。然しそこにも人影は見えなかつた。躑躅(つつし)が燃えるやうに咲き亂れてゐた。先生はそのうちで樺色(かばいろ)の丈の高いのを指して、「是は霧島でせう」と云つた。

 芍藥(しやくやく)も十坪あまり一面に植付けられてゐたが、まだ季節が來ないので花を着けてゐるのは一本もなかつた。此芍藥畠の傍にある古びた緣臺のやうなものゝ上に先生は大の字なりに寢た。私は其(その)餘つた端の方に腰を卸して烟草を吹かした。先生は蒼い透き徹るやうな空を見てゐた。私は私を包む若葉の色に心を奪はれてゐた。其若葉の色をよく/\眺めると、一々違(ちか)つてゐた。同じ楓の樹でも同じ色を枝に着けてゐるものは一つもなかつた。細い杉苗の頂(いたゞ)に投げ被(かぶ)せてあつた先生の帽子が風に吹かれて落ちた。

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やぶちゃんの摑み:

 

「因循らしく見える先生の態度に逆襲を試みる」これは極めて特殊な遣い方がなされているように思われる。「因循」は辞書的には「①古い習慣や方法等に従うばかりで、それを一向に改めようとしないこと。②思い切りが悪く、ぐずぐずしている様子。引っ込み思案な樣」を言うが、これはこの日の先生の態度が特別に「因循らしく見える」のでは勿論、ない。普段から何やらん謎めいた過去の出来事に拘って、はっきり物を言ってくれない先生、多くを語らず一面引っ込み思案な暗い感じに見える先生に対して、この正に自由を謳歌して飛び立たんばかりのこの今の「私」が「逆襲を試み」ようとしているのである。

 

「かなめ」バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra のこと。アカメガシ。ソバノキ。若葉は紅色を帯びて美しく、丁度、5月頃に小さな白色の五弁花を多数つけるが、描写のないところを見ると開花前か。生垣によく用いられる。葉は互生し、両端の尖った長楕円形。葉長は5~10cm程で革質、縁に細かな鋸歯を持つ。葉の表面が滑らかで丈夫な点で「芝笛」(=草笛)の素材となる。

 

「蓊欝した」当て読み。本来は「ヲウウツ(オウウツ)」と読む。草や木が盛んに茂っている様を言う。

 

「植木屋」本章の舞台について、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」では、ここを現在の巣鴨の染井辺に同定している。私の所持する嘉永年間(18481853)に完備した「尾張屋(金鱗堂)板・江戸切絵図」を見ても、丁度、建部内匠頭屋敷(現・染井霊園)の北東、染井稲荷の北西の部分に「此辺染井村植木屋多シ」と記す。明治期に至ってもここ染井は植木屋が多かった。『ここでは先生宅からおそらくは徒歩で「一時間の後』に植木屋のある一角にたどりついたというのだから、先生宅が私の下宿のある帝大近辺』(これにつては藤井氏と同様、(二十)の「午飯を食ひに學校から歸つてきて」のところで「私」の下宿が東京帝国大学に極めて近い位置、本郷周辺にあり、更に(九)では先生が散歩をしようと言ってこの下宿を訪ねていることから考えると先生の宅も矢張り本郷近辺からそう遠くない位置にあるものと私も考えるものである)『からさして遠くないとすれば、帝大から三、四キロメートルの距離にある染井』がイメージされているのではないかと推測されている。藤井氏は続く「霧島」の注でも川添登『東京の原風景 都市と田園との交流』(昭和541979)年NHKブックス刊)より引用して、『五種のキリシマツツジが鹿児島から送られ、そのうちの三種が、染井の伊藤伊兵衛のもとに来たのは明暦二年(一六五六)のことであり、以後つつじが大流行し、植木業の盛んな地域として染井もそれにつれて大きく発展した。明治四十四年刊の『東京近郊名所図会17』にも「種樹家多し」として巣鴨、上駒込伝中、染井辺には庭樹及び盆栽を作りて産業と為すもの多し。栽花園内山長太郎、群芳園高田弥三郎、梅谷園荒井与左衛門、植草園伊藤太郎吉等は巣鴨大通りに居住するものにして。染井辺には殊に多しとする。一々歴覧して花間に逍遥せば。いふべからざる興味あらむ」』と記されている旨、記載があり、加えて、次の「楓」の注でも同書を根拠として『巣鴨・染井でつつじの次に知られていたのは楓であった』とある。この植木屋を染井に同定すること、私も激しく同感するものである。――実は、お読みになられた方はお分かり頂けたこと思うが――私の書いた「こゝろ」のフェイク「こゝろ佚文」の舞台は実は染井霊園である――しかしこれは、藤井氏のこれらの注を受けて書いたものではないことをここに明言する――だって実はこれは、そのすぐ裏手にある芥川龍之介の墓(慈眼寺)と、そうして……そうして私の、ある秘かな実体験を潜ませたフェイクだからである。……この偶然に私は、私と「こゝろ」との深い因縁、業(ごう)のようなものを、強く激しく感じるのである……。]

2010/05/14

耳嚢 巻之二 妙鏡庵起立の事

「耳嚢 巻之二」に「妙鏡庵起立の事」を収載した。

 妙鏡庵起立の事

 東叡山文珠樓のほとりに妙鏡庵といへるあり。一ツに奉光堂ともいふ。其起立を尋るに、何れの御代にや有し、上がたより御臺樣御下りの折から御供いたしける婦人、後法躰(ほつたい)して妙鏡尼と申、御城大奧にて精心を盡し御奉公なせしが、女中方の縁ありて松平陸奧守奧へも右妙鏡尼參りけるに、或時陸奧守奧に泊りて四方山の咄しの序(ついで)、妙鏡尼は上方出生やと陸奧守尋ける故、其儀に候、上方の生れにて江戸表にてはゆかりの者一人だに無之、年々參向(さんかう)の堂上(とうしやう)にもしるべも有之、附添來る者知れる者もあれど、女の事なれば傳奏屋敷へ參るべき事もならず、奧に罷在ては逢候事も成難し、哀れ上野の内に庵室やうのものを拵へて、衰老の樂みに故郷の者にも逢うて、物語りも承度思ひぬれど、失脚(しつきやく)もかゝる事故もだしぬと、涙と共に語りければ、陸奧守聞て、夫は尤なる事也、我等手傳(てつだい)得(え)させん、相應の庵を建立いたすべし、尼が持參のうつはあると尋に付、傍に有りし女子の、おみやとて御重(おぢゆう)の内を持參りたりとて、右の重を出しければ、日本一の事也、其うつりにとて納戸より納戸金を取寄て、右重へ小判歩判(ぶはん)を手づから入て給ければ、右金子を以て今の妙鏡庵を造立なしける也。其餘風や、今も西丸の御奧女中は時々此庵室へ立寄りし也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。本話柄はこれだけの固有名詞や人物が登場しながら、諸注、誰も人物が特定されていない。また後述するように僧坊の名や別名もわざと近い発音の別字に変えてあるように思われる。将軍家正室と関係があり、大奥勤めの上臈に加えて、外様大名伊達家絡みということで、あえて憚ったものかとも思われる。

・「東叡山」寛永寺。

・「文珠樓」寛永寺山門。黒門と根本中堂の間に元禄111698)年に建てられた高さ24mもあった巨大な楼門。同年に建立された根本中堂と共に造営、楼内には文殊菩薩像が安置され、吉祥閣と書いた勅額あった。但し、この門は慶応4(1868)年の上野戦争で焼失して現存しない。

・「妙鏡庵」嘉永年間(18481853)の江戸切絵図を見ると、吉祥閣(この絵図ではその後に左右に配された阿弥陀堂と釈迦堂が中央で橋懸かりによって繋がった建築物があり、その直下に「文殊樓」と記して、あたかもこれが「文殊樓」であるかのように読めるが、これは誤りであろう。「江戸名所図会」で言う常行堂及び法華堂である)の右手に入ったところに「明曉菴」という小さな坊がある。岩波版長谷川氏注は享保201735)年建立と記す。ここは現在、上野精養軒となっている。現代語訳では実存した「明暁庵」とした。

・「奉光堂」岩波版長谷川氏注では宝光堂の誤りとする。

・「御臺樣」通常は将軍家正室を指す。三代将軍家光以降、正室は五摂家又は宮家の姫君を迎えた。妙鏡庵享保201735)年建立というのを、一つのヒントとするなら、例えば八代将軍吉宗の正室理子女王(まさこじょおう 元禄4(1691)年~宝永7(1710)年)の女房を同定候補とするのはどうか。理子女王は伏見宮貞致親王の王女。宝永3(1706)年に吉宗と結婚した。懐妊したが、宝永7(1710)年5月27日に死産、理子も同年6月4日に20歳で死去している。同年代から上で「御下りの折から御供いたしける」女房だったとすれば、享保201735)年には45歳を遙かに越えていたと思われる。当時、その年齢なら「衰老の樂みに……」と表現してもおかしくないと私は思うのであるが、如何か?

・「妙鏡尼」不詳。「明曉庵」(この僧坊名は別に「妙教院」という記載も見つけた)と言い、如何にもな発音の相同性から、尼の名も特定を避けるために改変されている可能性がある。現代語訳はそのままとした。

・「松平陸奧守」仙台藩松平伊達家当主のこと。妙鏡庵建立の享保201735)年から、これは間違いなく第5代藩主にして伊達家第21代当主松平陸奥守伊達吉村(延宝8(1680)年~宝暦元(1752)年)である。以下、ウィキの「伊達吉村」から引用する。『第4代藩主・伊達綱村の長男・扇千代丸が早世したために養嗣子となり、元禄16年(1703年)、養父・綱村の隠居にともない家督を継いだ。先代の綱村が行なった改革により、この頃になると仙台藩の財政は著しく逼迫していた。このため、吉村は財政再建のために藩政改革を行なう。まず、享保12年(1727年)に幕府の許可を得て「寛永通宝」を石巻で鋳銭し、それを領内で流通させることで利潤を得た。また、買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を強制的に供出させ、それを江戸に廻漕して利益を増大させ、藩財政を潤わせた。このため、18世紀初めから中頃にかけての江戸市中に出回った米のほとんどが、仙台藩の産物であったと言われているほどである』。『吉村自身が書、絵画、和歌などの文学面に優れており、吉村は藩内に学問所を開いて学芸を奨励した。とくに和歌には造詣が深く、京都の公家とも親交をかさねた。寛保3年(1743年)、四男の宗村に家督を譲って隠居し、宝暦元年(1751年)に72歳で死去した』。『吉村は仙台藩の財政を再建したことから、綱村と並んで「中興の名君」と呼ばれている』とある。享保20年当時は56歳であった。正室は久我通誠の養女冬姫で、京繋がりもある。50歳になんなんとする老女の孤独を聞いて、一肌脱ごうと言うて何の厭らしさもない――とするなら、この年の、この高徳なる文人名君伊達吉村はぴったりではないだろうか? 現代語訳では名を出した。

・「傳奏屋敷」武家伝奏の際、江戸に下向した勅使・院使の宿所として作られた屋敷。毎年2月下旬(又は3月上句)の伝奏勅使の滞在中は、伝奏御馳走役を命じられた大名がここに設けられた長屋に引き移り、高家の指導の下、一切の世話をした。例の浅野内匠頭長矩が命じられたものこの役である。現在の東京駅皇居側を見て右向かい角にある千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部のビルがある辺りに評定所と共にあった。

・「堂上」狭義は三位以上及び四位・五位の内、昇殿を許された殿上人を言うが、ここは広義の公家衆の意。

・「失脚もかゝる事故」底本では右に『(用脚)』と注す。「失却」で「却」は失う・尽くす意味の強意の接尾辞と解せば、大方の失費も一方ならずかかる故、の意であろう。

・「もだしぬ」「黙す」で、黙って見過ごす、そのままに捨て置くの意。

・「日本一の事也」天下一、最上、最良の謂いであるが、ここは二重の意味が掛けられているか。『妙鏡尼殿の夜話、これ最上の興趣にて御座ったれば、そのお返しに。』の意と、『これは誠に相応しい入れ物じゃ、妙鏡尼殿への相応の分量のお返しを入るるに。』の意である。

・「うつり」贈物の返礼にその空になった器などに入れて返す品を言う語。

・「納戸」御納戸方。御納戸役。将軍や大名の衣服・調度の管理及び金銀諸物品に関わる事務を管掌した者。

・「納戸金」岩波長谷川氏注に『奥向きの用につかう金』とある。

・「歩判」一分金。公称は一分判(いちぶばん)。ウィキの「一金」より引用する。『形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている』。『額面は1分。その貨幣価値は1/4両に相当し、また4朱に相当する計数貨幣である。江戸時代を通じて常に小判と伴に鋳造され、品位(金の純度)は同時代に発行された小判金と同じで、量目(重量)は、ちょうど小判金の1/4であり、小判金とともに基軸通貨として流通した』。

・「西丸」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると『兩丸』とある。これだと本丸と西の丸。西丸は文禄元(1592)年から翌文禄2年にかけて創建された。主に将軍世子の住居の他、将軍職を譲った大御所の住居としても使用された。

■やぶちゃん現代語訳

 妙鏡庵事始めの事

 東叡山文殊楼の傍(そば)に明暁庵という小さな坊がある。一名には奉光堂ともいう。その事始めを尋ねたところ――

 ……いずれの御代でありましたか、あまり遠くない頃のお話にて御座います……上方より御台様がお下り遊ばされた折りから、その御台さまにお供致いて御座った女人が――後に髪をおろされて妙鏡尼と申す――お城の大奥にて誠心を尽くして御奉公致いて御座いました。

 と或る日のこと、仕えておるお女中方の縁にて、仙台藩主松平陸奥守伊達吉村様の奥向きをお訪ね致いた折りのことにて御座います。

 陸奥守様もその日は殊の外、興にお乗りになられて奥向きにお泊まりされることとなり、夜の更くるまで四方山話。その序でに陸奥守様が、

「妙鏡尼殿、そなた、上方の生まれか?」

とお訊ねになられたところ、

「はい。仰せの通りにて御座います。上方の生まれにて、江戸表には所縁(ゆかり)の者は、誰(たれ)ひとり、これ、ございませぬ。年毎に江戸へ参上致しまする堂上(とうしょう)家の中にも知り合いもおり、それに付き添うて来る者の中にも知れる者もおるのでは御座いますが、かく女の身なれば、伝奏屋敷に参ることも出来ず、大奥に罷り在っては、そうした方々と逢わせて頂きますことも叶い難(がと)う御座います。……ああっ、上野寛永寺さまお山の内に庵室(あんじつ)ようなるものを拵え、老いらくの楽しみに、故郷の者なんどにも逢(お)うて、物語りなんどもお聴き致したく思おてはおりますものの……それもまた相応の出費のかかることなればこそ、黙然と致いております次第にて御座います……。」

と、妙鏡尼は涙ながらにしんみりと語った。

 陸奥守は、それをお聞きになられて、

「……いや、それは尤もなお気持ちじゃ。一つ、我らが手伝い致さんと存ずる。相応の庵を、これ、建立致そうぞ!――尼が持参の器やある?」

とお訊ねになられたので、お傍にあった女房が、

「お土産(みや)とてお重(じゅう)に入れしものをご持参になられました。」

とて、その重箱を差し出し申し上げたところ、

「――今日は妙鏡尼殿の夜話、これ最上の興趣にて御座ったれば、相応のお返しを入れんと思うて御座ったが、うむ! これはまた誠に相応しい入れ物じゃ!――」

と陸奥守は納戸方より納戸金をお取り寄せになられると、その場にて手ずから小判や歩判を重箱にお納めになられ、妙鏡尼に賜われたという――。

 実に、この金子を以って現在の妙鏡庵を造立致いたのである。

 その経緯もあってのことか、今も江戸城西の丸の大奥の女中たちは、時にこの庵室へ立ち寄ることがあるのである、とのことであった。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月14日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十五回

Kokoro13_4   先生の遺書

   (二十五)

 其年の六月に卒業する筈の私は、是非共此論文を成規通(どほ)り四月一杯(はい)に書き上げて仕舞はなければならなかつた。二、三、四と指を折つて餘る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を疑ぐつた。他のものは餘程前から材料を蒐(あつ)めたり、ノートを溜めたりして、餘所目にも忙がしさうに見えるのに、私丈はまだ何にも手を着けずにゐた。私にはたゞ年が改たまつたら大いに遣らうといふ決心丈があつた。私は其決心で遣り出した。さうして忽ち動けなくなつた。今迄大きな問題を空(くう)に描いて、骨組丈は略(ほゞ)出來上つてゐる位(くらゐ)に考へてゐた私は、頭を抑(おさ)えて惱み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。さうして練り上げた思想を系統的に纏める手數(てすう)を省くために、たゞ書物の中にある材料を並べて、それに相當な結論を一寸付け加へる事にした。

 私の選擇した問題は先生の專門と緣故の近いものであつた。私がかつてその選擇に就いて先生の意見を尋ねた時、先生は好(い)いでせうと云つた。狼狽した氣味の私は、早速先生の所へ出掛けて、私の讀まなければならない參考書を聞いた。先生は自分の知つてゐる限りの知識を、快よく私に與へて吳れた上に、必要の書物を二三册貸さうと云つた。然し先生は此點について毫(がう)も私を指導する任に當らうとしなかつた。

 「近頃はあんまり書物を讀まないから、新らしい事は知りませんよ。學校の先生に聞いた方が好いでせう」

 先生は一時非常の讀書家であつたが、其後何ういふ譯か、前程此方面に興味が働らかなくなつたやうだと、かつて奧さんから聞いた事があるのを、私は其時不圖思ひ出した。私は論文を餘所(よそ)にして、そゞろに口を開いた。

 「先生は何故元のやうに書物に興味を有ち得ないんですか」

 「何故といふ譯もありませんが。‥‥つまり幾何(いくら)本を讀んでもそれ程えらくならないと思ふ所爲(せゐ)でせう。それから‥‥」

 「それから、未だあるんですか」

 「まだあるといふ程の理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のやうに極(きまり)が惡かつたものだが、近頃は知らないといふ事が、それ程の恥でないやうに見え出したものだから、つい無理にも本を讀んで見やうといふ元氣が出なくなつたのでせう。まあ早く云へば老い込んだのです」

 先生の言葉は寧ろ平靜であつた。世間に脊中を向けた人の苦味(くみ)を帶びてゐなかつた丈に、私にはそれ程の手應(てごたへ)もなかつた。私は先生を老い込んだとも思はない代りに、偉いとも感心せずに歸つた。

 それからの私は殆ど論文に祟られた精神病者の樣に眼を赤くして苦しんだ。私は一年前に卒業した友達に就いて、色々な樣子を聞いて見たりした。そのうちの一人は締切の日に車で事務所へ馳(か)けつけて漸く間に合はせたと云つた。他(た)の一人は五時を十五分程後(おく)らして持つて行つたため、危うく跳ね付けられやうとした所を、主任教授の好意でやつと受理して貰つたと云つた。私は不安を感ずると共に度胸を据ゑた。毎日机の前で精根のつゞく限り働らいた。でなければ、薄暗(うすくら)い書庫に這入つて、高い本棚のあちらこちらを見廻した。私の眼(め)は好事家(かうずか)が骨董でも掘り出す時のやうに脊表紙の金文字をあさつた。

 梅が咲くにつけて寒い風は段々向を南へ更へて行つた。それが一仕切(ひとしきり)經つと、櫻の噂がちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のやうに正面許り見て、論文に鞭(むちう)たれた。私はつひに四月の下旬が來て、やつと豫定通りのものを書き上げる迄、先生の敷居を跨(またが)なかつた。

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やぶちゃんの摑み:

 

「私の選擇した問題は先生の專門と緣故の近いものであつた」という叙述により、先生の専攻した学科と「私」の専攻している学科が同一分野であることが分かる。その専門分野は如何なるものであったかということについて、私は嘗て考察したことがあるが、先ず勿論、理科ではなく文科、本文から先生はその分野の新知識の吸収に最早積極的ではないから、そのような新知識・新学説や今日的判断・新しい判例を必要とする法科ではあり得ない。そうなると漱石の専門であった英文科等が頭に浮かぶのであるが、そうした文学科や史学科であるにしては、先生と「私」との会話に一切そうした具体的会話が見出せない点、除外するべきであると思われる。そうなると哲学か宗教か心理学辺りが同定候補となるが、哲学や宗教はKの専門分野で、「こゝろ」「下」二十四章でKとは「後では專門が違ひましたから」という表現が現われるのでこれらも排除される。私は二人の専門は、私も専攻したかった心理学ではなかろうかと現在は思っている。明治の末年と言えば心理学は正に急速に興隆してきた学問であった。新刊書も続々出現し、有島武郎や芥川龍之介等、多くの邦人作家もそうした学術書を参考にして実験的な小説を書いたりした。因みに作品名「心」にも相応しいし、統合失調症に罹患した経験のある漱石には複雑な思いはあったであろうが、興味深い学問であったはずだ。なお、当時の東京帝国大学の学科については、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の本章の「練り上げた思想」の注に、東京帝国大学文科では『明治三十七年九月から従来の九学科制が廃止され、哲学科、史学科、文学科からなる三学科制がとられていた。ちなみに哲学科のなかの専修学科(明治43より)としては、「哲学及哲学史」、「支那学」、「印度哲学」、「心理学」、「倫理学」、「宗教学」、「美学」、「教育学」、「社会学」があった』とある。先生の卒業を私は明治311898)年に想定しているので、東京大学文学部のサイトで9学科制を確認すると以下の通りである。

 

第一 哲学科

第二 国文学科

第三 漢学科

第四 史学科

第五 博言学科

第六 英文学科

第七 独逸文学科

第八 国史科

第九 仏蘭西文学科

 

以上の条件を総合し、この9学科を眺めると矢張り先生は第一哲学科が相応しい気がする。そうしてKは哲学史か宗教を専攻し、先生は心理学を取ったのではなかったか。そうして「私」の卒業は明治451912)年であるから、上記の専修科について他の学科も再度確認しておくと、明治431910)年9月で3学科19専修学科を確認出来る。

 

第一 哲学科

  哲学・支那哲学・印度哲学・心理学・倫理学・宗教学・美学・教育学・社会学

第二 史学科

  国史学・東洋史学・西洋史学

第三 文学科

  国文学・支那文学・梵文学・英吉利文学・独逸文学・仏蘭西文学・言語学

 

矢張り「私」が学んでいそうな専修学科は第一哲学科の心理学であろう。

 

「そゞろに」通常は「何となく」といった意味であるが、ここは肝心の論文の話を外れて「軽率にも」とか「不覚にも」とっいたニュアンスか。]

2010/05/13

耳囊 卷之二 池尻村の女召使ふ間敷事

 

 

「耳嚢 巻之二」に「池尻村の女召使ふ間敷事」を収載した。

 

一言申し上げておくと、「耳嚢」の公開がやや滞っているようにお思いになられるかもしれないが、これは今僕にとって大事な「心」をなるべく一日の内、ブログのトップに保っておきたい意識が働いているからで、「耳囊」自体の注釈現代語訳作業は滞りなく進んでいる。特に昨日は、「卷之二」の最大の難関と考えていた「上州池村石文の事」をかなり満足出来る形でクリアすることが出来、個人的には相当な満足感を持っているぐらいである。「卷之二」未作業は実は残すところ7話なのである。乞う、ご期待!

 

   *

 

 池尻村の女召仕ふ間數事

 

 池尻村とて東武の南池上本門寺などより程近き一村有。彼村出生の女を召仕へば果して妖怪など有と申傳へしが、予評定所留役を勤し頃、同所の書役(かきやく)に大竹榮藏といへる者有。彼者親の代にふしぎなる事ありしが、池尻村の女の故成けると也。享保延享の頃にもあらん、榮藏方にて風(ふ)と天井の上に大石にても落けるほどの音なしけるが、是を初として燈火(あんどん)の中チへ上り、或は茶碗抔長押(なげし)を越て次の間へ至り、中にも不思議なりしは、座敷と臺所の庭垣を隔てけるが、臺所の庭にて米を舂(つ)き居たるに、米舂(こめつき)多葉粉(たばこ)抔給(たべ)て休みける内、右の臼垣を越て座敷の庭へ至りし也。其外天井物騷敷故人を入(いれ)て見しに、何も怪き事なけれども、天井へ上る者の面は煤(すす)を以て黑くぬりしと也。其外燈火抔折ふしはみづからそのあたりへ出る事有りければ、火の元を恐れ神主山伏を賴みて色々いのりけれども更にそのしるしなし。ある老人聞て、若し池袋池尻邊の女は召仕ひ給はずやと尋し故、召仕ふ女を尋しに、池尻の者の由申ければ早速暇を遺しけるに、其後は絕て怪異なかりし由。池尻村の產神(うぶがみ)は甚(はなはだ)氏子を惜み給ひて、他へ出て若(もし)其女に交りなどなす事あれば、必ず妖怪有りと聞傳へし由彼老人かたりけるが、其比(そのころ)榮藏は幼少也しが、親戚者右女を侵しける事有りしやと語りぬ。淳直正道を第一にし給へる神明(しんめい)の、氏子を惜み妖怪をなし給ふといふ事も、分らぬ事ながら爰に記ぬ。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特に連関を感じさせない。敢えて言うなら「積惡は天誅ゆるさゞる所」にて因果応報三代続いたに、こっちは「淳直正道を第一にし給へる神明」が、吝嗇臭く「氏子を惜み妖怪をな」すという不可解の逆ベクトルである。本話柄は「池袋の女」として著明な都市伝説で、明治期に入ってからも生き残り、私の記憶では確か井上円了であったか、実地にこうしたポルターガイスト現象の出現する屋敷を訪れて仔細に検証したものを読んだ記憶がある(手元には円了の妖怪学全集もあるのだが、その山から探し出すのが面倒なので、そのうち、見出したら正確な叙述に変えるので、悪しからず)。海外でも同様の現象が知られ、家付きの呪縛霊の霊現象というよりも、必ず居住者や近隣に思春期の少女がいるのが汎世界的特徴である。幸い、ウィキに「池袋の女」の記載があるので、とりあえず掲げておく(記号と漢字の一部を変更した)。『江戸時代末期における日本の俗信の一つ。池袋(東京都豊島区)の女性を雇った家では、怪音が起きる、家具が飛び回るなど様々な怪異が起きるといわれたもの』で、『文化時代の地誌「遊歴雑記」に、「池袋の女」の話が以下のように述べられている』文政三(一八二〇)年三月、『小日向の高須鍋五郎という与力が、自分の雇っている池袋出身の下女に』、『つい』、『手をつけた。ある日の夕方、勝手口に来訪者が来たので下女が応対したところ、叫び声と共に戻って来た。鍋五郎が事情を尋ねると、ほっかむりをした男が現れたと言う。鍋五郎が周囲を捜したところ、怪しい者はいなかったが、念のために厳重に戸締りをしておいた。すると屋根や雨戸に石が打ちつけられ始めた。周囲を捜したが、やはり怪しい者の姿はない。深夜になっても石の音はやまないので到底眠ることもできず、夜明けには雨戸が』二『箇所も破られていた。鍋五郎が修験者に祈祷を頼んだが、今度は皿、鉢、膳、椀などが飛来し、火のついた薪が飛来して座敷に火をつけたりと、修験者もお手上げだった。その後も怪異は続いたが、ある者の助言により鍋五郎が下女に暇を申し渡すと、怪異はやんだ。その下女は武州秩父郡(現・埼玉県秩父郡)三害の一つといわれるオサキ遣いの子孫であり、鍋五郎が下女と密通した祟りで怪異が起きたとのことだった』。『池袋のほかにも、池尻(東京都世田谷区)、沼袋(同・中野区)、目黒(同・目黒区)についても同様の怪異が語られており』、『天保時代の雑書「古今雑談思出草子」や根岸鎮衛の随筆「耳袋」には、池尻出身の女を雇うと妖怪に遭うとして、以下のような話がある』(以下は正しく本話柄の梗概であるので省略する)。『これらの怪異は女性の自作自演との説もあり、「石投げをしてぼろの出る池袋」「瀬戸物屋土瓶がみんな池袋」といった川柳も残されている』。『また、山間部の一部の村では近代になってもすべての娘を若者たちの共有物とみなす風潮が残っており、そのような土地では女がほかの土地へ行くことや他所の男と交わることを禁じ、その禁を破った者には若者たちの報復があったとして、これらの現象は怪異ではなく、若者たちの報復とする説もあ』り、『明治時代には井上円了がこれらの怪異の真相を、虐げられた女性たちが自由に遊べないことによる欲求不満から、抗議行動として主人に茶碗を投げつけたりしたことと結論づけている』。私も数多くこうした現象の記載を読んできたが、洋の東西を問わず、情緒不安定な思春期の少女の意識的・無意識的詐欺行為として、殆んどの事例が片付けられるもののように思われる。本件と同じ現象を扱ったものに南方熊楠「池袋の石打ち」がある。今回、このために急遽、テクスト化したのでそちらも御覧あれ。

 

・「池尻村」旧荏原郡池尻村は現在の世田谷区東部の池尻。世田谷地域と北沢地域に跨り、東部で目黒区東山及び上目黒に接する(因みに私は大学生活の三年間をこの東山の四畳半子供部屋二段ベッド据付の下宿で斜めに寝ながら――姉妹の子供部屋の二段ベッドは真っ直ぐではつっかえた――で過した)。

 

・「池上本門寺」大田区池上1丁目にある長栄山本門寺。日蓮宗。古くより池上本門寺と呼称され、日蓮上人入滅の霊場として信仰を集める。

 

・「予評定所留役を勤し頃」根岸が評定所留役であったのは宝暦131763)年から明和5(1768)年で26から31歳迄の間であった。後述する本話柄の出来事は遡ること、50年から15年前迄のこととなる。

 

・「書役」評定所で文書の書写・浄書をした書記。現在の裁判所書記官相当であるが、底本の鈴木氏の注によると、文書の草案を作成したり、記録書類の作製は書物方という別職で、その書物方の上役に書類整理の総括者として改方という上席があったとある。

 

・「大竹榮藏」諸本注せず不詳。ネット上に散見する殆んどはこの話柄の絡みで、詳細記載はない。

 

・「享保延享」享保元・正徳六(一七一六)年から享保二一・元文元(一七三六)年。次に元文六・寛保(一七四一)元年、更に寛保四・延享元(一七四四)年を経て延享(一七四八)一七四八)年であるから、実に三十二年間。少々スパンが長過ぎる。本人の幼少期の記憶に基づく直話にしては嘘臭いが、ただ単に根岸が年号を忘れたか、そもそも栄蔵本人が特に話の中で示さなかったものを、根岸が推測していると考えた方が自然である。

 

・「中チへ上り」意味不明であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると『中(ちゆ)うへ上り』とあるので、これは「中うへ上り」の原文の誤りか、底本の誤植かとと思われる。バークレー校版で訳した。

 

・「池尻村の產神」池尻村には現在の池尻二丁目に鎮座する池尻神社がある。三百年前の明暦年間(一六五五年から一六五八年)に旧池尻村・池沢村の両村の産土神(うぶすながみ)として創建された稲荷神社である。古来、「火伏せの稲荷」「子育ての稲荷」として信仰を集める。池尻神社HPによれば、『当時は、大山街道(現在の旧道)のほとり常光院の片隅に勧請されたもので、村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢往還(現在の二子玉川方面道路)と津久井往来(現在の上町方面道路)の二つの街道からの人々が角屋・田中屋・信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休憩して江戸入りする道筋にあり、また、江戸から大山詣での人々が大坂(現在の旧山手通りと大橋の間の坂道)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤かったと伝えられてい』るとある。「産土神」は生まれた土地を領有し守護する土地神や祖先神の一種で、特に都市部とその周縁地域に於ける郷土意識形成と強く結びつき、多産・安産・成育ひいては村落共同体の繁栄を司るものとされた。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 池尻村出身の女は召し使ってはいけないという事

 

 

 池尻村と言って、江戸の南は池上本門寺なんどからほど近い所に一つの村がある。

 

 この村の出身の女を召し使うと、果たしていつか必ず妖しく奇怪なることが起こる、と言い伝えて御座る。 私が評定所留役を勤めていた頃、書役に大竹栄蔵と申す者が御座った。かの者の、親の代に、誠(まっこと)不思議なことが御座ったが、何でもそれは池尻の女のせいであったという。以下、本人よりの聞き書きである。頃は、享保延享年間ででもあったか。

 

 ……或る日のこと、栄蔵方屋敷の天井の上に――どすーん!――と、大石でも落ちたような轟音が轟いた――。

 

 ……これを手始めに、行灯が宙に浮遊したり、或いは茶碗が長押を飛び越えて次の間に飛来する――中でも不思議であった出来事は――屋敷の座敷と台所の庭は垣根で隔てられていたが、その台所の庭にて米を搗いていた。米搗き役の者、煙草なんどを喫(の)んで、一服しているうち――どすーん!――と米を搗いていた重い臼が、何と垣根を越えて座敷の庭に落ちたのであった。

 

 ……ある時なんどは――ごそごそ! がたがた!――天井の辺りが何やらん以ての外に騒がしい故、天井裏に人を登らせて確かめさせたところ、

 

「……別段、何の変わったことも御座いませぬが……」

 

と言いつつ、天井から降りてきたその者の顔は――自身では丸で気づいておらねど、どう見ても自然そうなったとは思えぬ程に――煤で真っ黒々に塗りたくられていたのであった――。

 

 ……その他にも、やはり火の点った行灯などが時折、自ずとあちこちへ飛び回るという怪異が続く故、火の元ともならんかと恐れて神主やら山伏やを頼んでは、いろいろ加持祈禱なんど試みてはみたものの、何らの効験(こうげん)も現われぬ。

 

 ……ところが、ここに近隣のある老人がこの話を聞いて言う。

 

「……もしや、池袋・池尻辺りの女を召し使(つこ)うては御座らぬか?……」

 

 召し使(つこ)うている下女を呼び出だいて尋ねてみたところが――池尻の者の由。

 

 早速に暇(いとま)をとらせたところ――その後はぴたりと怪異が止んだ、とのこと――。

 

「……池尻村の産土神(うぶすながみ)は甚だ氏子の村外(むらそと)への流失を惜しみ、他所(よそ)へ出でて、もしその女に言い掛けし、交わったりする不届き者なんどがあると……必ずや妖しく奇怪なることが起こると聞き伝えて御座る……。」

 

との由、その老人が語ったというが……その頃、この栄蔵、幼少であったけれども、

 

「……拙者の父……もしかすると、その女に手を付けて御座ったかも、知れませぬ……。」

 

と語って御座った。

 

 ――あらゆる民草に厚く直き正道の心もて接するをこそ第一とし給うはずの神たるものが、氏子を惜しみ、怪異を成し給うというのも、聊か理解し難いことにては御座るが、まあ、ここに記しおくものである。 

南方熊楠 池袋の石打ち

南方熊楠「池袋の石打ち」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。これは「耳嚢 巻之二」の「池尻村の女召使ふ間敷事」の参考資料として急遽作製したものである。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月13日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十四回

Kokoro13_3   先生の遺書

   (二十四)

 東京へ歸つて見ると、松飾はいつか取拂はれてゐた。町は寒い風の吹くに任せて、何處を見ても是といふ程の正月めいた景氣はなかつた。

 私は早速先生のうちへ金を返しに行つた。例の椎茸も序に持つて行つた。たゞ出すのは少し變だから、母が是を差上げて吳れといひましたとわざ/\斷つて奧さんの前へ置いた。椎茸は新らしい菓子折に入れてあつた。鄭寧(ていねい)に禮を述べた奧さんは、次の間へ立つ時、其折を持つて見て、輕いのに驚ろかされたのか、「こりや何の御菓子」と聞いた。奧さんは懇意になると、斯んな所に極めて淡泊な小供らしい心を見せた。

 二人とも父の病氣について、色々懸念の問を繰り返してくれた中に、先生は斯んな事をいつた。

 「成程容體を聞くと、今が今何うといふ事もないやうですが、病氣が病氣だから餘程氣をつけないと不可ません」

 先生は腎臟の病に就いて私の知らない事を多く知つてゐた。

 「自分で病氣に罹つてゐながら、氣が付かないで平氣でゐるのがあの病(やまひ)の特色です。私の知つたある士官は、とう/\それで遣られたが、全く噓のやうな死に方をしたんですよ。何しろ傍(そば)に寢てゐた細君が看病をする暇(ひま)もなんにもない位(くらゐ)なんですからね。夜中に一寸(ちよつと)苦しいと云つて、細君を起したぎり、翌る朝はもう死んでゐたんです。しかも細君は夫が寢てゐるとばかり思つてたんだつて云ふんだから」

 今迄樂天的に傾むいてゐた私は急に不安になつた。

 「私の父(おやぢ)もそんなになるんでせうか。ならんとも云へないですね」

 「醫者は何と云ふのです」

 「醫者は到底治らないといふんです。けれども當分の所心配はあるまいともいふんです」

 「夫ぢや好(い)いでせう。醫者が左右いふなら。私の今話したのは氣が付かずにゐた人の事で、しかもそれが隨分亂暴な軍人なんだから」

 私は稍(やゝ)安心した。私の變化を凝と見てゐた先生は、それから斯う付け足した。

 「然し人間は健康にしろ病氣にしろ、どつちにしても脆いものですね。いつ何んな事で何んな死にやうをしないとも限らないから」

 「先生もそんな事を考へて御出ですか」

 「いくら丈夫の私でも、滿更考へない事もありません」

 先生の口元には微笑の影が見えた。

 「よくころりと死ぬ人があるぢやありませんか。自然に。それからあつと思ふ間(ま)に死ぬ人もあるでせう。不自然な暴力で」

 「不自然な暴力つて何ですか」

 「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使ふんでせう」

 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力の御蔭ですね」

 「殺される方はちつとも考へてゐなかつた。成程左右いへば左右だ」

 其日はそれで歸つた。歸つてからも父の病氣の事はそれ程苦にならなかつた。先生のいつた自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいふ言葉も、其場限りの淺い印象を與へた丈で、後は何等のこだわりを私の頭に殘さなかつた。私は今迄幾度か手を着けやうとしては手を引つ込めた卒業論文を、愈(いよ/\)本式に書き始めなければならないと思ひ出した。

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やぶちゃんの摑み:先生の口から「自殺」の語が語られる初出部分(本文でも初出)として重要なシーンである。ここでタイトル画が変更される。このフォーヴな人物を配したタイトル画は実にこの後、(五十三)まで用いられる。(五十三)章とは、実は「こゝろ」「中」の終わりから一つ目(「十七」)で、「私」が前章で到着した先生の遺書を、初めて読み始めるシーンである。残念ながらこのタイトル画は恐らく総て、作品の内容を考えた画ではない。しかし、(五十三)までが一種の「私」の苦悩を中心に展開することを考えると、この考える人みたような人物の背景は何となくしっくり来る(但し、これはスカートを穿いた女性像であろう)。

 

「松飾はいつか取拂はれてゐた」当時の習慣から言って(六日夕刻に松飾は外す)これは1月7日以降である。大学の始業は1月8日であるから、この訪問は明治451912)年(この時の「私」の年齢は推定23歳)1月7日であった可能性が高い。

 

「夜中に一寸苦しいと云つて、細君を起したぎり、翌る朝はもう死んでゐたんです。しかも細君は夫が寢てゐるとばかり思つてたんだつて云ふんだから」これは種々の腎臓病が悪化し、脳卒中を伴った尿毒症性昏睡若しくはそれによって二次的に生じた心不全のための卒倒・昏睡そして死の様態であろう。

 

「殺される方はちつとも考へてゐなかつた。成程左右いへば左右だ」先生は自身の自殺のことばかりを考えていて「殺される方はちつとも考へてゐなかつた」のである。先生の尋常ならざる不断の自殺念慮を明白に見て取ることが出来る台詞である。

 

「私は今迄幾度か手を着けやうとしては手を引つ込めた卒業論文を、愈本式に書き始めなければならないと思ひ出した」この明治451912)年の東京帝国大学の卒論提出期限は4月30日であった。本件に関しては、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注が詳しい。そこで藤井氏は明治391906)年東京帝国大学を卒業した作家森田草平の昭和221947)年の作品「漱石先生と私」から引用して卒業論文の『提出の期限は四月一杯と前から極っていた』と記す。更に金子健二『金子健二の日記によると、このあと五月末に卒業論文の成績発表、そしてその合格者への口頭試験は六月中旬に行われている』とある(藤井氏が参照したのは1948年いちろ社刊の「人間漱石」からである)。金子健二(明治18(1880)年~昭和371962)年)は、新潟県出身の英文学者。高田中学校から東京郁文館中学校・第四高等学校を経、明治381905)年に東京帝国大学英文科を卒業している。]

2010/05/12

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月12日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十三回

Kokoro12_2   先生の遺書

   (二十三)

 私は退屈な父の相手としてよく將棋盤に向つた。二人とも無精な性質(たち)なので、炬燵にあたつた儘、盤を櫓(やぐら)の上へ載せて、駒を動かすたびに、わざ/\手を掛蒲團の下から出すやうな事をした。時々持駒を失くして、次の勝負の來る迄雙方(さうはう)とも知らずにゐたりした。それを母が灰の中から見付出して、火箸で挾み上げるといふ滑稽もあつた。

 「碁だと盤が高過ぎる上に、足が着いてゐるから、炬燵の上では打てないが、其處へ來ると將棋盤は好(い)いね、斯うして樂に差せるから。無精者には持つて來いだ。もう一番遣らう」

 父は勝つた時は必ずもう一番遣らうと云つた。其癖負けた時にも、もう一番遣らうと云つた。要するに、勝つても負けても、炬燵にあたつて、將棋を差したがる男であつた。始めのうちは珍らしいので、此隱居じみた娯樂が私にも相當の興味を與へたが、少し時日か經つに伴(つ)れて、若い私の氣力は其位な刺戟で滿足出來なくなつた。私は金や香車(きやうしや)を握つた拳を頭の上へ伸して、時々思ひ切つたあくびをした。

 私は東京の事を考へた。さうして漲(みなぎ)る心臟の血潮の奧に、活動(くわつどう)々々と打ちつゞける鼓動を聞いた。不思議にも其鼓動の音が、ある微妙な意識狀態から、先生の力で强められてゐるやうに感じた。

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。兩方とも世間から見れば、生きてゐるか死んでゐるか分らない程大人しい男であつた。他(ひと)に認められるといふ點からいへば何方(どつち)も零(れい)であつた。それでゐて、此將棋を差したがる父は、單なる娯樂の相手としても私には物足りなかつた。かつて遊興のために往來をした覺のない先生は、歡樂の交際から出る親しみ以上に、何時(いつ)か私の頭に影響を與へてゐた。たゞ頭といふのはあまりに冷か過ぎるから、私は胸と云ひ直したい。肉のなかに先生の力が喰ひ込んでゐると云つても、血のなかに先生の命が流れてゐると云つても、其時の私には少しも誇張でないやうに思はれた。私は父が私の本當の父であり、先生は又いふ迄もなく、あかの他人であるといふ明白な事實を、ことさらに眼の前に並べて見て、始めて大きな眞理でも發見しかたの如くに驚ろいた。

 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今迄珍らしかつた私が段段陳腐になつて來た。是は夏休みなどに國へ歸る誰でもが一樣に經驗する心持だらうと思ふが、當座の一週間位(くらゐ)は下にも置かないやうに、ちやほや歡待されるのに、其峠を定規(ていき)通(とほ)り通り越すと、あとはそろ/\家族の熱が冷めて來て、仕舞には有つても無くつても構はないものゝやうに粗末に取り扱はれ勝になるものである。私も滯在中に其峠を通り越した。其上私は國へ歸るたびに、父にも母にも解らない變な所を東京から持つて歸つた。昔でいふと儒者の家へ切支丹の臭(にほひ)を持ち込むやうに、私の持つて歸るものは父とも母とも調和しなかつた。無論私はそれを隱してゐた。けれども元々身に着いてゐるものだから、出すまいと思つても、何時かそれが父や母の眼に留つた。私はつい面白くなくなつた。早く東京へ歸りたくなつた。

 父の病氣は幸ひ現狀維持の儘で、少しも惡い方へ進む模樣は見えなかつた。念のためにわざ/\遠くから相當の醫者を招いたりして、愼重に診察して貰つても矢張り私の知つてゐる以外に異狀は認められなかつた。私は冬休みの盡きる少し前に國を立つ事にした。立つと云ひ出すと、人情は妙なもので、父も母も反對した。

 「もう歸るのかい、まだ早いぢやないか」と母が云つた。

 「まだ四五日居ても間に合ふんだらう」と父が云つた。

 私は自分の極めた出立(しゆつたつ)の日を動かさなかつた。

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やぶちゃんの摑み:「私」の家族構成が明らかになる。父母と九州に在勤する兄の他に近隣県の他家へ嫁いでいる妹がいる。妹の嫁ぎ先の姓は「關」(せき)である(「こゝろ」「中」十四)。私の「こゝろ」の授業を受けた諸君は、この章を試験の範囲としたはずである。思い出されたい。

「要するに、勝つても負けても、炬燵にあたつて、將棋を差したがる男であつた」「私」の父親に対する失望に近い感情が表明される。それは更に「それでゐて、此將棋を差したがる父は、單なる娯樂の相手としても私には物足りなかつた」と畳み掛けられるテッテ的なものとしてである。それは、私の中で血肉化している赤の他人である先生、肉親である父より遙かに自分に大きな影響を与えている巨人のような存在感のある人物としての先生、人間として父よりも人生上の「父」なる必要不可欠な存在としての先生を読者に印象付け、遂に実父を捨てて最早この世にいない先生を求めて東京行の汽車に飛び乗ってしまう「私」への伏線である。それを読者が殊更に反道徳的なものとして捉えないようにするための希釈的伏線である。が、「始めて大きな眞理でも發見しかたの如くに驚ろいた」等、やや大袈裟過ぎて私には逆に作為的で不自然な印象を与える章でもある。

「のつそつ」元来は伸びたり縮んだりする樣であるが、ここは退屈した様子を言う。その具体的な動作が正に前の「私は金や香車を握つた拳を頭の上へ伸して、時々思ひ切つたあくびをした。」と表わされている。

「變な所」先生や大学で得られた新時代の西洋の学問・知識・文化に基づく新しいものの考え方や都会風の新しい習俗。

「儒者の家へ切支丹の臭を持ち込むやうに」ここも試験問題にしたところ。日本の伝統的道徳観を保持した父母を「儒者」に、外国の目新しい文化を身につけた自分を「切支丹」に比喩する。実はここには更に、後に先生によって表明されるところの、漱石の田舎蔑視の意識、田舎者⇔都会人、前近代的封建主義者⇔近代的知識人という二項対立をも透かし見せてもいる部分なのである。]

2010/05/11

耳嚢 巻之二 奸智永續にあらざる事

「耳嚢 巻之二」に「奸智永續にあらざる事」を収載した。

 奸智永續にあらざる事

 享保元文の比(ころ)、代官を勤し小宮山杢之進(もくのしん)といへるは、學才もあり智惠も多き男也しが、其職分に不束有て御役は被召放て小普請に入りしが、長壽にて予が中年迄存命にて、儒書の講釋などしたりしが、たくましき男にてありし。彼者小普請に入て後、出入町人と咄ける折から、彼下人申けるは、扨々町人も金子用立て返濟なき方へ、幾度も手段もかへはたりせたげども事不行、是に難儀なる事也といひて、古手形四五枚も見せければ、杢之進聞て、其古手形我に賣申間敷哉(うりまうすまじきや)と申ければ、賣迄もなし可差上と言しを、可貰請謂(いはれ)なしとて、禮式として金子五百疋差出し、かく/\の書付せよと印書を受取ければ、かの町人は大きに悦び、捨し金の古紙酒代になりしとて帰りぬ。其後彼謹文名前はさる諸侯也ける故、杢之進儀召連の家來もさはやかに出立て彼諸侯の元へ至り、役人を呼出し申けるは、我等事御代官相勤、御勘定も不相立故御咎を蒙り退役いたしたり。然るに我等は委敷(くはしく)不存候へ共、召仕候者抔の取計にて、公儀の御年貢金を出入町人へ預、町人返濟不致故、彼是金高の不納積りて我等御咎を受し事と成ぬ、此節に至り段々相改候へば、當御屋敷へ用立候由の所、御返金不濟候故勘定不致由を申候て、右手形を其方へ相返し候、元來御年貢金をかゝる町家へ渡置候事、家來の不屆とは申ながら我身の不念(ぶねん)いたし方もなし、右の通御役御免にて當時難儀いたし候我なれば御返金可被下、御承知無之ばせめて此譯をも申立、少しは上(かみ)の御憎みをも免れたしと、いかにも丁寧に申ければ、彼役人も大に驚き、同役と可申談とて家老へも申立、主人へも申ければ、右町人より一向左樣の事も申ざりしが、扱は御年貢金にて右故御旗本の難儀に成しや氣の毒成事也とて、よきに挨拶なして其後右金子調達して杢之進方へ返しける由。恐ろしき工夫也と人の語りぬ。かゝる邪智の謀計も多く、親族の難儀をもかまわぬ男成しが、其身は老衰の後事なく病死せしが、積惡は天誅ゆるさゞる所や、二代目の何某小十人組勤めたりしが、御科を蒙り其家斷絶に及びし也。

□やぶちゃん注

○前項連関:「徴(はた)り」で瓢箪から駒の連関。

・「奸智永續にあらざる事」という標題は適切とは思われない。ここで根岸は小宮山杢之進が悪知恵で私腹を肥やしたが、それは二代目になって因果応報、「御科を蒙り」小宮山家は断絶したというのであるが、「奸智永續にあらざる」=「悪知恵は永くは続かぬという」見本とは言い難いからである。言うなら「奸智応報の事」で十分に思われるのだが、如何?

・「享保元文の比」享保元・正徳6(1716)年から元文元・享保211736)年を経て、寛保元・元文6(1741)年迄。小宮山杢之進が実際の代官職を追われるのは享保191734)年であるから(後注参照)、ここは「享保の比」でよいところ。現代語訳では「元文」を抜いた。

・「代官」時代劇の影響で、悪代官=代官は大抵が民を苦しめるものという印象が強いが、実際はそうではなかった、ということがウィキの「代官」で目から鱗となるので、少し長いが引用する。『江戸時代、幕府の代官は郡代と共に勘定奉行の支配下におかれ小禄の旗本の知行地と天領を治めていた。初期の代官職は世襲である事が多く、在地の小豪族・地侍も選ばれ、幕臣に取り込まれていった。代官の中で有名な人物として、韮山代官所の江川太郎左衛門や富士川治水の代官古郡孫大夫三代、松崎代官所の宮川智之助佐衛門、天草代官鈴木重成などがいる。寛永(1624年ー1644年)期以降は、吏僚的代官が増え、任期は不定ではあるが数年で交替することが多くなった。概ね代官所の支配地は、他の大名の支配地よりも暮らしやすかったという』。『代官の身分は150俵と旗本としては最下層に属するが、身分の割には支配地域、権限が大きかったため、時代劇で悪代官が登場することが多い。こうしたことから代官とは、百姓を虐げ、商人から賄賂を受け取り、土地の女を好きにする悪代官のイメージが広く浸透した。今日、無理難題を強いる上司や目上を指してお代官様と揶揄するのも、こうしたドラマを通じた悪代官のイメージが強いことに由来する。ジョークで物事を懇願する際に相手をお代官様と呼ぶ場合があるのも、こうした時代劇の影響によるところである』。『しかし、実際には少しでも評判の悪い代官はすぐに罷免される政治体制になっており、私利私欲に走るような悪代官が長期にわたって存在し続けることは困難な社会であった。過酷な年貢の取り立ては農民の逃散につながり、かえって年貢の収量が減少するためである。実際、飢饉の時に餓死者を出した責任で罷免・処罰された代官もいる。そもそも、代官の仕事は非常に多忙で、ほとんどの代官は上に書かれているような悪事を企んでいる暇さえもなかったのが実情らしい。ただし、それでも稀には悪代官と言える人物もいたようであり、文献によると播磨国で8割8分の年貢(正徳の治の時代の天領の年貢の平均が2割7分6厘であったことと比較すると、明らかに法外な取り立てである)を取り立てていた代官がいたそうである』。『通常、代官支配地は数万石位を単位に編成される。代官は支配所に陣屋(代官所)を設置し、統治にあたる。代官の配下には10名程度の手付(武士身分)と数名の手代(武家奉公人)が置かれ、代官を補佐した。特に関東近辺の代官は江戸定府で、支配は手付と連絡を取り行い、代官は検地、検見、巡察、重大事件発生時にのみ支配地に赴いた。遠隔地では代官の在地が原則であった』とある。

・「小宮山杢之進」小宮山昌世(まさよ ?~安永2(1773)年)。幕臣・儒学者。太宰春台門下。水戸の出身で江戸小石川に住した。将軍吉宗の命を受け、検地に関する書物「正生録」を上梓し、農政・経済分野で活躍、享保6(1721)年から佐倉小金・佐倉七牧(現・千葉県佐倉市)両牧の代官職に就き、翌享保7年には牧場管理と共に新田開発が任され、彼は両牧付村領主に対し新田開発を指示、享保131728)年には年貢収納良好なるによって年貢の一割を俸禄とは別に報償として与えられているように、両牧経営と新田開発への貢献は計り知れぬもので、幕府の推進した新田開発事業の鑑と言えるものであった。その後、本文にあるように職務等閑・不正の廉で享保191734)年に小普請に落とされ、同20年には在任中の不正を遡及して処断され、年賦の返金命令と共に閉門、宝暦9(1759)年に致仕している(罪状や致仕年は底本鈴木氏注等による)。「彼者小普請に入て」の頃のことあるから、この話柄は享保末年、職務怠慢の廉で享保191734)年に小普請入りした後、まだそれが人々の記憶にある1735年~1736年頃と推定してよいか。本人の言に「退役」という語があり、これを額面通り受け取るなら長谷川氏の言う致仕であるから、遙か先の宝暦9(1759)年以降のこととなるが、それではこの嘘が通用するはずがない。……それにしてもこの人物、調べれば調べるほど「學才もあり智惠も多き男」どころじゃあない。多数の儒学関連書や農政書、実践的農政者として頗る評価が高い。この話柄にあるような姦計に長けた悪(ワル)がイメージし難い。人間落ちれば落ちるもんだ……事実は小説より奇なり――。

・「予が中年迄存命」小宮山杢之進昌世が逝去した安永2(1773)年の時、根岸は36歳で御勘定組頭であった。

・「はたりせたげども」「はたり」は前項で示した通り「徴る」で、借金の催促をする、取り立てるの意。「せたげ」は「せたぐ」=「虐ぐ」というガ行下二段活用の動詞で、矢張り、急がす・急き立てる・催促する、という意味である。

・「金子五百疋」100疋=1貫文で、1両=4貫文であるから、とりあえず、1両を現在の10万円相当と考えるなら、125000円程になるが「捨し金の古紙酒代になりし」程度の喜びようでは、ちと多過ぎる。江戸中期ということで1両を3~5万円程度と見れば、37,50062,500円で小金持ちの町人の酒代と言うには穏当なところか。

・「かゝる邪智の謀計も多く、親族の難儀をもかまわぬ男成し」とあるが、どうも納得出来ない。こんな奸智にして傍若無人な男の儒教の講釈、誰が聴くんじゃい?!

・「二代目の何某小十人組勤めたりしが、御科を蒙り其豪斷絶に及びし也」底本の鈴木氏注や岩波版長谷川氏注には、小宮山杢之進昌世の子であった二代目の昌国は明和6(1679)年に西丸小十人に列したが、安永6(1777)年に致仕して逐電したとある(どちらの注も理由を記していない)。更に更に因果応報、その子太郎兵衛は不身持を極め、天明2(1782)年に遠流に処せられたとある。この「小十人組」とは若年寄支配の幕府常備軍の中核的組織。戦時には将軍馬廻役として直近の警固保守に当り、平時には小十人番所に勤番して将軍出行時の先駆として供奉することを役目とした。

■やぶちゃん現代語訳

 悪知恵は永くは続かぬという事

 享保の頃、代官を勤めたこともある小宮山杢之進という者、これ、学才もあり知恵も働く男で御座ったが、その職分に不届きなることありて御役御免とされ、小普請組にまで落されてしもうた。

 この杢之進、なかなかの長寿にて、私が中年になった頃まで存命で、時に儒家の書物の講釈なんどをしておったが、いや、これ何とも、肉も胆(きも)も共に逞しき男であった。

 この杢之進が小普請となって後のことである。

 ある日、出入りの小金持ちの町人と世間話をして御座った折柄、その町人、溜息をつきつつ、

「……やれやれ……我ら町人も様々な御武家衆よりの金子用立てにお応え致し、返済して下さらぬ御方(おんかた)へは、何遍も何遍も、手を変え品を変えては御返済取り立て急度(きっと)の催促致せども……これがまた、一向にはか行かず……いやもう、誠(まっこと)難儀なことにて、御座いまする……」

と言って、手にした不履行の古手形四、五枚も振って見せたところ、杢之進、これを聴いて、

「……その古手形……我に売って呉れはせぬかの?」

と申せば、町人、

「はあ? いや、お売りするまでも御座らぬ。差し上げましょ。」

と答える。杢之進、

「いやさ。無償にて貰い受くる謂われは、ない。」

とて、礼金として金子五百疋を町人にさし遣わして、

「向後一切御構無しといった書付せよ。」

と、手形の売渡し証文を書かせて、それら古手形類と共に請け取ったので、かの町人は大いに喜び、

「捨てた気で御座った古反故(ふるほおぐ)の、酒代になったわ!」

と囃しながら帰って行った。……

 ……その後、杢之進がかの古証文手形に書き付けられたる名前を見ると、これが相応のさる諸侯の名なればこそ――杢之進、召し連れた家来と共に、颯爽とその諸侯方屋敷へと至り、家役の者を呼び出だいて徐ろに申したこと――

「我ら事、御代官を相勤めて御座ったれど、思いの外の、御勘定方不届きなるに拠って御咎めを蒙り、退役致いて御座った。然るに、我らは詳しいことは存知上げておる訳であらねど、召使って御座った家来等が貨殖に良かれと思い、御公儀御年貢金を出入りの町人へ貸し、その町人がその返済を致さざる故、あれやこれや御用の支出の不払いが積り積もって、我ら御咎めを受くる相成り申した。……さても、この頃になって、追々このことにつきて相改め取り調べ致いたところ、……その町人、当方御屋敷へ金子用立て致いたところ、その御返金滞りたる故、我らへも御勘定合わざることと相成ったる由を申しまして、その手形……この通り……我らが方へ相返して参った。……元来、御年貢金をかかる町家の者に貸したることそれ自体、家来の以ての外の不届きとは申すものの……我が身の無念……如何にも致しようもない……。かくの通り、御役御免にて当座の生計(たつき)にも難儀致いて御座る我なればこそ……何卒、御返金下さるように……。……さても……このこと、御承知頂けぬとなれば……せめても、かくなる訳をお上に申し立て、我らが身に降りかかったお上の御(おん)憎しみを、少しは免れとう存ずる――。」

と、如何にも丁重且つ重々しく申したところ、家役の者、仰天致いて、

「……しっ、しばし!……お待ちを! ど、同役の者と、そ、相談致いた上……」

と当家家老に急報致、御当主御自身へも申し上げた上、窮余の善後策を講ずることと相成った。

「……かの町人よりは……えー、一向左様なこと、申しては御座らなんだ。……さてはー、そのー、それが御年貢金にて……かくなる故に……貴殿、えー、御旗本の、あー、難儀と、成って御座ったか……これは誠(まっこと)、あー、気の毒なことを、致いて御座った……。」

と、戻ってきた家役は腰の落ち着かぬ風ながらも、如何にも丁重に杢之進に挨拶致いて、その後、右金子を調達の上、耳を揃えて返した、由。

「……恐ろしき悪知恵で御座ろう。……」

と、これを語ってくれた私の知人は最後に言い添えた。

 かかる邪(よこし)まなる智を駆使した奸計頗る多く、親族の者の迷惑も顧みぬといった男であったが、その後、小宮山杢之進本人は老衰の果て、あっけなく病死致いた。

 なれど、かかる積れる悪事悪意は、天誅免るるを許さざるところであったものか、二代目の小宮山某は小十人組を勤めて御座ったものの、後にやはり御咎めを蒙り、小宮山の家、これ、断絶に相成って御座った――。

断酒選択

左耳の激しい耳鳴りと左右の眼振を伴う軽い眩暈が消えない。原因は不明である。一般に耳鳴りは7割方ストレスであると言われており、根治は困難だそうだ。しかし、睡眠も浅く、頭部が張り、不快極まりない。最早、最後の改善可能性としてアルコールを断つことにした。医者に言われた訳ではない。ただ、MRIも撮り、幾つかの処方薬を試みても改善されない以上、僕が出来ることはこれしかないのである。従って暫く、飲酒・宴会のお誘いはお断りすることとする。効果がなければ、諦めてまた飲もうかと存ずるが、それまでは暫し。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月11日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十二回

Kokoro12   先生の遺書

   (二十二)

 父の病氣は思つた程惡くはなかつた。それでも着いた時は、床(とこ)の上に胡坐(あぐら)をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢して斯う凝(ぢつ)としてゐる。なにもう起きても好(い)いのさ」と云つた。然し其翌日からは母が止めるのも聞かずに、とう/\床を上げさせて仕舞つた。母は不承不性(ふしやうぶしやう)に太織(ふとおり)の蒲團を疊みながら、「御父さんは御前が歸つて來たので、急に氣が強くおなりなんだよ」と云つた。私には父の擧動がさして虛勢を張つてゐるやうにも思へなかつた。

 私の兄はある職を帶びて遠い九州にゐた。是は萬一の事がある場合でなければ、容易に父母の顏を見る自由の利かない男であつた。妹は今國(いまくに)へ嫁いだ。是も急場の間に合ふ樣に、おいそれと呼び寄せられる女ではなかつた。兄妹(きやうだい)三人のうちで、一番便利なのは矢張り書生をしてゐる私丈であつた。其私が母の云ひ付け通り學校の課業を放り出して、休み前に歸つて來たといふ事が、父には大きな滿足であつた。

 「是しきの病氣に學校を休ませては氣の毒だ。御母さんがあまり仰山な手紙を書くものだから不可(いけな)い」

 父は口では斯う云つた。斯ういつた許りでなく、今迄敷いてゐた床を上げさせて、何時ものやうな元氣を示した。

 「あんまり輕はずみをして又逆回(ぶりかへ)すと不可ませんよ」

 私の此注意を父は愉快さうに然し極めて輕く受けた。

 「なに大丈夫、是で何時もの樣に要心さへしてゐれば」

 實際父は大丈夫らしかつた。家の中を自由に往來して、息も切れなければ、眩暈(めまひ)も感じなかつた。たゞ顏色丈は普通の人よりも大變惡かつたが、是は又今始まつた症状でもないので、私達(わたしだち)は格別それを氣に留めなかつた。

 私は先生に手紙を書いて恩借(おんしやく)の禮を述べた。正月上京する時に持參するからそれ迄待つてくれるやうにと斷つた。さうして父の病狀の思つた程險惡でない事、此分なら當分安心な事、眩暈も嘔氣も皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪(ふうじや)に就いても一言(ごん)の見舞を附け加へた。私は先生の風邪を實際輕く見てゐたので。

 私は其手紙を出す時に決して先生の返事を豫期してゐなかつた。出した後で父や母と先生の噂などをしながら、遙かに先生の書齋を想像した。

 「こんど東京へ行くときには椎茸でも持つて行つて御上げ」

 「えゝ、然し先生が干した椎茸なぞを食ふかしら」

 「旨くはないが、別に嫌な人もないだらう」

 私には椎茸と先生を結び付けて考へるのが變であつた。

 先生の返事が來た時、私は一寸驚ろかされた。ことにその内容が特別の用件を含んでゐなかつた時、驚ろかされた。先生はたゞ親切づくで、返事を書いてくれたんだと私は思つた。さう思ふと、その簡單な一本(ほん)の手紙が私には大層な喜びになつた。尤も是は私が先生から受取つた第一の手紙に相違なかつたが。

 第一といふと私と先生の間には書信の往復がたび/\あつたやうに思はれるが、事實は決してさうでない事を一寸斷つて置きたい。私は先生の生前にたつた二通の手紙しか貰つてゐない。其一通は今いふ此簡單な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛で書いた大變長いものである。

 父は病氣の性質として、運動を愼しまなければならないので、床を上げてからも、殆んど戶外(そと)へは出なかつた。一度天氣のごく穩やかな日の午後庭へ下りた事があるが、其時は萬一を氣遣つて、私が引き添ふやうに傍(そば)に付いてゐた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせやうとしても、父は笑つて應じなかつた。

Line

 

やぶちゃんの摑み:

 

「太織の蒲團」玉糸や熨斗糸(のしいと)で織った平織りの絹織物を言う。次章で周縁地方都市か医師を往診させたりもしており、「私」の家は豪家とは言わないまでも、相応に暮らす富農であることが窺がわれる。

 

「兄はある職を帶びて遠い九州にゐた」漱石の事蹟(三十代前半に熊本第五高等学校に勤務)を考えれば、熊本がイメージされているか。

 

「今國(いまくに)」奈良県大和郡山市に今国府(いまご)という地名はあるが、著名な地名に「今国」という地名はない。そもそも固有名詞に極めて禁欲的な本作でこのような特異地名を用いるはずはない。「こゝろ」ではご存知の通り、「近國」となっている。単なる誤植である。 

 

「私は先生の風邪を實際輕く見てゐたので。」この一文は奇異な感じを受ける。「實際輕く見てゐた」感冒がそうではなかった、漱石はこの時、ちらと先生に早々に死んでもらうことを考えたのではないか? そんな気がする一文である。

 

♡「私には椎茸と先生を結び付けて考へるのが變であつた」如何にも田舎臭くドン臭い「椎茸」(ドンコ)と、都会的に洗練された先生のギャップを「變」と言っているのであろうが、これはそれこそ「變」な一文と私には映る。漱石が、時々或る漢字を凝っと見ていると、この漢字が何故、そのような読みや意味になるのか分からなく事があると述べているのを何かで読んだことがあるが(これは所謂、「ゲシュタルト崩壊」の一種として一般人にも普通に生ずる現象ではある)、ここも椎茸と先生が別次元の生き物であるかのようなどうしようもない乖離した対象物としての感覚に陥っているような印象を受ける。私は実にここに、漱石の統合失調症或いは重い強迫神経症の後遺症を見る。ただ土産として持って行けと言っているに過ぎない母の言葉を受けて、「私」がわざわざ椎茸と先生を「結び付けて考へ」て、「變」と言うこと自体が「變」=異常である、「變」だという妄想(関係妄想の逆変形の如きもの)の痕跡である。]

2010/05/10

耳嚢 巻之二 思はず幸を得し人の事

「耳嚢 巻之二」に「思はず幸を得し人の事」を収載した。

 思はず幸を得し人の事

 予が知れる人に甚(はなはだ)福饒(ふくぜう)の男有り。名は障りあれば爰に記さず。祿も小祿にてありしが、彼人の屋敷のはしを撿挍(けんげう)に貸し置けるが、彼撿挍は金錢に富て、武家町家在方へ夥敷(おびただしき)高利を以貸出しけるに、老後重病を請(うけ)て惱みけるが、最早此代(よ)の便(びん)なしと思ひしにや、地主の男を呼て、扨も我等此度命有(あら)んとも思はず、然るに我等事一族知音(ちいん)もなく、妻子とてもなし、見屆(みとどけ)たる弟子もなければ、是迄貯へし金銀讓るぺき人なし、御身多年の馴染故不殘奉るべき間、跡ねんごろに吊(とむら)ひ給はるべしといひて、證文有金不殘讓りて無程身まかりぬ。夫より彼男一類分にして、右盲人を念頃に吊ひ、扨右證文をも夫々にはたりて金子受取りし故、富饒(ふぜう)ありし由也。其人位ある人にてもなかりしが、おかしき幸德(かうとく)也。

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「撿挍」検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには73の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて719両が必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある(文中の「勾当」(こうとう)とはやはり盲官の一つで検校・別当の下位、座頭の上位を言う)。本件に登場する検校は正にこの最後のグループに属する高利貸の検校である。

・「福饒」終り近くの「富饒」と合わせて、それぞれ好運に富んだこと、後者は実際に裕福なことを言う。「饒」の読みは「にょう」とも読み、岩波版では後半の「富饒」を「ぶにょう」と訓じている。

・「吊(とむら)ひて」「吊」には「弔」の俗字としての用法がある。

・「一類分」家系の一族に準ずる扱い。親類扱い。

・「はたりて」「はたる」は「徴る」と書き、年貢や夫役を取り立てる、催促する、責めるの意。

■やぶちゃん現代語訳

 思わぬ幸運を得た人の事

 私の知人に甚だ運がいい男がいる――名は差し障りがあるのでここには記さない――この男、禄も小禄で御座ったが、自身の大きくもない屋敷の隅を、とある検校に貸しておった。

 この検校、実は多額の金銭を貯えており、武家と言わず町家と言わず農家と言わず、何処へなりと、とんでもない高利でもって貸しておったが、老いて後、重い病いに悩んで御座った。

 ある日――「最早、この世のつてもなし」とでも思うたか――この検校、地主の男を呼び、

「……さても我ら、この命そう長いものとは思わぬ。……なれど、我らこと、一族知音もなく、妻子とてもない。見届けて呉るる弟子も御座らねば……これまで貯えた数多の金銀、これ、譲るべき人も、ない。……御身は永年の馴染みにて御座れば、残らず差奉らんと思う故に……跡を懇ろにお弔らい下されよ……」

と言うや、証文から有り金から残らず出して譲り渡すと――程無く、死んだ。

 それより、男、約束通り親族の扱いで、この検校を懇ろに弔い、さても譲られた証文類も、一つ残らず正当に催促・取り立て怠らずして額面金子悉く請け取った故、勢い猛の者――大金持ちとなった。

 ――失礼乍ら、この人物、たいして人徳ある人にても御座らぬ。……いや、全く以って奇体なる幸運ではある……。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月10日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十一回

Kokoro12_3   先生の遺書

   (二十一)

 冬が來た時、私は偶然國へ歸へらなければならない事になつた。私の母から受取つた手紙の中に、父の病氣の經過が面白くない樣子を書いて、今が今といふ心配もあるまいが、年が年だから、出來るなら都合して歸つて來てくれと賴むやうに付け足してあつた。

 父はかねてから腎臟を病んでゐた。中年以後の人に屢(しば/\)見る通り、父の此病は慢性であつた。其代り要心さへしてゐれば急變のないものと當人も家族のものも信じて疑はなかつた。現に父は養生の御蔭一つで、今日迄何うか斯うか凌(しの)いで來たやうに客が來ると吹聽(ふいちやう)してゐた。其父が、母の書信によると、庭へ出て何かしてゐる機(はづみ)に突然眩暈(めまひ)がして引ツ繰返(くりかへ)つた。家内のものは輕症の腦溢血と思ひ違へて、すぐその手當をした。後で醫者から何うも左右ではないらしい、矢張り持病の結果だらうといふ判斷を得て、始めて卒倒と腎臟病とを結び付けて考へるやうになつたのである。

 冬休みが來るにはまだ少し間(ま)があつた。私は學期の終り迄待つてゐても差支(さしつかへ)あるまいと思つて一日二日其儘にして置いた。すると其一日二日の間(あひだ)に、父の寢てゐる樣子だの、母の心配してゐる顏だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦(こゝろくる)しさを甞(な)めた私は、とう/\歸る決心をした。國から旅費を送らせる手數(てかぞ)と時間を省くため、私は暇乞(いとまごひ)かたがた先生の所へ行つて、要(い)る丈の金を一時(じ)立て替へてもらふ事にした。

 先生は少し風邪の氣味で、座敷へ出るのが臆劫(おつこふ)だといつて、私をその書齋に通した。書齋の硝子戶から冬に入(い)つて稀に見るやうな懷かしい和らかな日光が机掛(つくゑかけ)の上に射してゐた。先生は此日あたりの好(い)い室(へや)の中へ大きな火鉢を置いて、五德(ごとく)の上に懸けた金盥(かなたらひ)から立ち上る湯氣で、呼吸の苦しくなるのを防いでゐた。

 「大病は好いが、ちよつとした風邪などは却つて厭なものですね」と云つた先生は、苦笑しながら私の顏を見た。

 先生は病氣といふ病氣をした事のない人であつた。先生の言葉を聞いた私は笑ひたくなつた。

 「私は風邪位なら我慢しますが、それ以上の病氣は眞平です。先生だつて同じ事でせう。試みに遣つて御覽になるとよく解ります」

 「左右かね。私は病氣になる位(くらゐ)なら、死病に罹りたいと思つてる」

 私は先生のいふ事に格別注意を拂はなかつた。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。

 「そりや困るでせう。其位(くらゐ)なら今手元にある筈だから持つて行き玉へ」

 先生は奧さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせて吳れた。それを奧の茶簞笥(ちやだんす)か何かの抽出(ひきだし)から出して來た奧さんは、白い半紙の上へ鄭寧(ていねい)に重ねて、「そりや御心配ですね」と云つた。

 「何遍も卒倒したんですか」と先生が聞いた。

 「手紙には何とも書いてありませんが。―そんなに何度も引ツ繰り返るものですか」

 「えゝ」

 先生の奧さんの母親といふ人も私の父と同じ病氣で亡くなつたのだと云ふ事が始めて私に解つた。

 「何うせ六(む)づかしいんでせう」と私が云つた。

 「左右さね。私が代られゝば代つて上げても好いが。―嘔氣(はきけ)はあるんですか」

 「何(ど)うですか、何(なん)とも書いてないから、大方ないんでせう」

 「嘔氣さへ來なければまだ大丈夫ですよ」と奧さんが云つた。

 私は其晩の汽車で東京を立つた。

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やぶちゃんの摑み:先生の死病罹患願望が示されるショッキングなシーンである。

 

「私は偶然國へ歸へらなければならない事になつた」私は先に示した通り、「私」の郷里を中部内陸地方を同定している。その根拠は次章(二十二)での椎茸と危篤の父を置いて東京へと向かう最後のシーンで「東京行の汽車に飛び乘つてしまつた」という表現からである。まず四国・北海道は消去される。干椎茸の産地であり、ある程度の距離の位置(「こゝろ」「中」の「十」で「停車塲のある驛から迎へた醫者」とあり、それを(二十三)では「念のためにわざ/\遠くから相當の醫者を招いたりして」と表現していると思われるので、近くではない。徒歩では「私」の実家から相当に遠い位置にある都市と思われる)に鉄道の東京へ直行出来る汽車の発着する駅が存在し、そこから東京へは夜行列車が走っている程度には有意に距離があり、先生の出身地である新潟とはそれほど近くなく――近ければそうした謂いが出現するはずであり、家の作りも似ているはず(単行本「中」の「五」で明治天皇の崩御を受けて弔旗を揚げた「私」が田舎の自分の家を眺めながら『私はかつて先生から「あなたの宅の構(かまへ)は何んな體裁ですか。私の鄕里の方とは大分趣が違つてゐますかね」と聞かれた事を思ひ出した。私は自分の生れた此古い家を、先生に見せたくもあつた。又先生に見せるのが恥づかしくもあつた』というシーンから「私」の家は雪国新潟の造りとは異なるものなのである)であるから、上越や信越北部ではないというのが私の見解である。その家の作りが異なる点では更に、新潟と同じ雪国である東北地方はそれと相似すると考え得るので東北地方も除外出来よう。加えて(一)で「中國」地方の友達を登場させているが、これが同郷であるという雰囲気を少なくとも私は感じ得ない。従って中国地方は除外される。更に次の(二十二)章で「私」は自分の兄がいる場所を「遠い九州」と表現していることから、九州も除外される。これらを余り無理せずにすっきりクリア出来るのは中央線沿線しかないと踏むのである。諏訪・松本辺りの山間部を私は想定する。一部の論文等には山陽辺りを想定しているものがある。しかし兵庫から九州を「遠い」と言うのは、やや苦しい気がする。なお、私の読者の中には中部地方に帰るのに金を借りるほどのことはあるまいと思う連中もいるだろう。それに答えよう。私は大学時分、両親が富山にいた。帰るのはいつも安い急行の直行夜行列車を用いた。11時近くに上野を出、高岡に早朝に着いた。しかし何時でも帰れたかというと、夏と年末、特に帰省のために一週間前から食費を節約をしてやっと切符が買えた。勿論、両親に土産物を買うなんどという余裕もなかった。――さあ、これでよろしいか?

 

「父はかねてから腎臟を病んでゐた。中年以後の人に屢見る通り、父の此病は慢性であつた」タイプによって血尿型のIgA腎症・ネフローゼ・巣状糸球体硬化症・膜性腎症等による慢性腎炎は現在も根本的な原因は不明であり、早期に発見治療管理しないと経過はよくない。本作に描写される「私」の父の症状は悪化した慢性腎炎や糖尿病が、所謂、重度な腎不全を引き起こしてゆく過程を示しているものと思われる。以下、万有製薬の「メルクマニュアル家庭版 慢性腎不全 143章 腎不全」の「症状」から引用する(改行を省略した)。『慢性腎不全の症状は徐々に現れるか、急性腎不全から発展して起こります。軽症から中等度の腎不全の人では、尿素など血液中の代謝性老廃物の値が高くなっていくのにもかかわらず、軽い症状しか現れないことがあります。この段階では、夜間に何度も尿意を感じて排尿するようになります(夜間多尿症)。正常な腎臓は夜間に尿から水分を再吸収し、尿の量を減らして濃縮しますが、腎不全の人ではその能力が低下しているためこうした現象が起こります。腎不全が進行して代謝性老廃物が血液中に蓄積すると、疲労感や脱力感を感じるようになり、注意力が低下します。こうした症状は、血液の酸性度が高くなるアシドーシスという状態になるに伴って悪化します。食欲減退や息切れが起こることもあります。疲労感や脱力感は、赤血球の産生量が減少して貧血になっていることでも生じます。慢性腎不全の人はあざができやすくなったり、切り傷などのけがをすると、出血が簡単に止まらなくなったりする傾向があります。慢性腎不全になると、感染に対する体の抵抗力も低下します。代謝性老廃物が血液中に蓄積していくと、筋肉や神経が損傷を受けるため、筋肉のひきつり、筋力低下、けいれん、痛みなどが起こります。腕や足にチクチクするような感覚が生じたり、特定の部分の感覚がなくなったりします。血液中に代謝性老廃物が蓄積すると、脳がうまく機能しなくなる脳障害の状態になり、意識混濁、無気力、けいれん発作を起こします。弱った腎臓は血圧を上げるホルモンを産生するため、腎不全の人には高血圧がよくみられます。さらに、弱った腎臓は余分の塩や水分を排出できません。塩分や水分の貯留は心不全の原因になり、これによって息切れが生じます。代謝性老廃物が蓄積すると、心臓を包む心膜に炎症が生じることがあります(心膜炎)。この合併症は、胸の痛みや低血圧を引き起こします。血液中の中性脂肪濃度がしばしば上昇し、高血圧とともにアテローム動脈硬化のリスクを高めます。また、血液中に代謝性老廃物がたまると、吐き気、嘔吐、口の中の不快感なども起こるようになり、栄養不良や体重の減少が生じます。慢性腎不全が進行すると、消化管潰瘍と出血が起こります。皮膚の色が黄ばんだ褐色になり、ときには尿素の濃度が非常に高いために、汗に含まれる尿素が結晶化して皮膚が白い粉をふいたようになることもあります。慢性腎不全の人では、全身がかゆくなることもあります。慢性腎不全に伴って起こる特定の状態が長期間続くと、骨組織の形成と維持がうまくいかなくなります(腎性骨ジストロフィ)。副甲状腺ホルモンの濃度が高い状態、血液中のカルシトリオール(活性型ビタミンD)の濃度が低い状態、カルシウムの吸収が低下した状態、血液中のリン濃度が高い状態などがこれに相当します。腎性骨ジストロフィになると、骨が痛み、骨折の危険性が高くなります』。本作では重要な役回りである明治天皇が糖尿病から尿毒症を併発して亡くなることと父の病気(更に靜の母=「こゝろ」「下」の「奥さん」も同病で逝去という設定)合わせた設定である。……成る程、その症状、これ惨めな末路である。いつか糖尿病の私も、こうなるわけだ……。

 

「先生は少し風邪の氣味で、座敷へ出るのが臆劫だといつて、私をその書齋に通した」という叙述は、普段、先生は書斎に一人で寝起きしているということを意味しているのではあるまいか?

 

♡「此日あたりの好い室」先生の書斎が南向きであることが分かる。

 

『「左右かね。私は病氣になる位(くらゐ)なら、死病に罹りたいと思つてる」/私は先生のいふ事に格別注意を拂はなかつた。』これは先生らしいアイロニーではない謎めいた本心の言葉なのであるが、「私」がそれを「格別注意」して受け止めないのは不自然ではない。実際には、父の病態への強い不安を抱いている「私」には、この先生の台詞は如何にも嫌な気持ちを引き起こしたはずである。それを総てが終ったこの手記の記載時まで引き上げて不快印象を払拭し、言わば今は亡き先生へ配慮した表現となっているのである。しかし、この時点ではまだ「私」の父の病態は先生に説明されていないのだから、先生が圧倒的に悪いというわけではない。問題は次の謂いだ。

 

「左右さね。私が代られゝば代つて上げても好いが」先生は靜の母の看病の経験から重度の腎臓病の病態に極めて詳しい。先生は専門分野は間違いなく文科であるが、どこか医師のような風格を感じる。性格的にも科学者のように気休めは言えないタイプである(「ウルトラQ」の「バルンガ」の奈良丸博士のように。リンク先は私が満を持して電子化したシナリオである)。「左右さね。」は「そうですねえ……慢性腎炎でその様態だとかなり厳しい感じだなあ。」という率直な第一声である。しかし、問題はその次の「私が代られゝば代つて上げても好いが」だ。これは勿論、先生にとってみれば、冗談でも何でもない。誠に本気で真面目に言っているのである。これこそ直前の「私は病氣になる位なら、死病に罹りたいと思つてる」をダイレクトに受けている言葉なのだ。しかしこれは、「私」には極めて不快な、『冗談はなしにして下さい、先生。』と言いたくなるほどの嫌な発言に受け取られたはずである。このシーンが靜の気休めの励ましで終わり、最終行であっけなく「私」が東京を去る描写で終るのは、そうした「私」の――金を貸してくれたから文句は言えないけれど、今の私に、あの言いは聊か不謹慎――という印象を持ったことを暗示しているように私には思えるのである。しかしそれだけに同時に、読者には先生ののっぴきならない死病願望が逆に印象付けられるとも言えるのではあるが――。]

2010/05/09

今日の「心」(二十)の僕の摑み

今日の「心」(二十)の僕の摑み――さる知人より「面白かった」というメールを先程頂戴した。僕の今回の摑みの中では、今までに表明したことのない、かなり思い切った見解を書かせてもらった――これは僕自身の一貫性を截ち切るようなダモレスクの剣の如き危うささえ持っているのだが――だけに、大変、嬉しかった。ありがとう。こうしたものをバネに、8月まで――何としてもやり遂げたい――。

耳囊 卷之二 非情の者恩を報ずる事

 

「耳嚢 巻之二」に「非情の者恩を報ずる事」を収載した。

 

 

 

 非情の者恩を報ずる事

 

 

 駿河臺に梅やしきとて、殊の外梅の鉢植多く愛し翫(もてあそ)ぶ山中平吉と言る人有。其(その)石臺(せきだい)抔のやういと大造成(たいさうなる)事也しが、或年平吉以の外大病にて久く引込けるが、次第に重き心持にて惱煩(なやみ)しに、或夜の夢に壹人の童子來りて、我等每年厚恩の養ひを受しもの也、しかるに此度御身の病は誠に定業(じやうごふ)にて死を待に近しといへども、我數年の厚恩を思ひて御身の天年に代るべし、去ながら今用ひ給ふ醫師の藥にては宜しからず、同役勤ぬる篠山吉之助方へ賴て醫師を招き、服藥し給はゞ癒ゆべしとかたりて夢覺ぬ。不思議の事には思ひしかども、誠に夢うつゝなれば取用る事なけれど、是迄の醫師の藥もしかとなければ、親しき事ゆヘ吉之助へ賴み醫者の相談もせんと手紙認ける處に、表に案内ありて吉之助來る由通じければ、大きに驚き早速に臥所(ふしど)に招き、今使して申さんと思ひし由申ければ、吉之助も御身の病氣久々の事故我等も相談の爲に來ぬ、其譯は夜前(やぜん)夢に誰(たれ)ともなく御身の病を訪ひて藥用の相談いたし候やうと思ひて、驚きぬる故尋訪(たづねと)ひしと語りければ、平吉も彌(いよいよ)驚きてしかじかの夢を夜前見し譯かたりけるにぞ、兼て篠山へ出入醫師を差越療治願けるに、段々快(こころよく)て本服なしけるに、不思議なる哉、平吉追々快(こころよき)に隨ひ、數多(あまた)ある梅の内にもわけて寵愛せし鉢植の梅、段々樣子を損じ終に枯朽(かれくち)にけると也。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:畜生の狐の人への復讐から非情の梅の人への報恩で逆直連関。

 

・「非情」仏教では山川草木土石は人間のような感情を持たないとする。

 

・「駿河臺」現在の東京都千代田区御茶ノ水駅南方一帯。本来は北方の本郷辺りから伸びた台地の南端に当たっていたが、江戸開府後の神田川開削によって分離されて高台となった。

 

・「山中平吉」山中鐘俊(かねとし 享保6(1721)年~寛政7(1795)年)山中保俊の男。元文2(1737)年遺跡を継ぎ、延享2(1745)年西丸御書院番、同3年中奥番士に転じ、明和3(1766)小十人頭。安永5(1776)年には徳川家治に従って日光山詣、西丸御先弓頭となり、寛政7(1795)年7月に老齢を理由に辞す。

 

・「石臺」石盆。箱庭。植木鉢の一種。木や素焼で作った長方形の浅い箱状・盆状のもので、石を配し、草花を植えて山水の景を作ったり(盆景)、盆栽を植えたりする。

 

・「定業」前世から、現世で受けることが定まっている善悪の果報。またはその果報を受ける時期が決定(けつじょう)している業。

 

・「篠山吉之助」篠山光官(こうかん/みつのり 享保元(1716)年~寛政2(1790)年)幕臣。第十代将軍徳川家治に近侍、明和6(1769)年に御徒頭、安永2(1773)年に西丸目付、、安永4(1775)年に西丸御先弓頭、天明7(1787)年に新番頭を歴任した。山鹿流兵法・一刀流剣法・渋川流柔術・大島流槍術等、武術全般に通じたが、特に槍術では八百人を超える門弟を擁したという。「同役」とあるので西丸御先弓頭時代の話であろうから、本話柄は山中平吉鐘俊が御先弓頭に就任した安永5(1776)年以降、「卷之二」の下限である天明6(1786)年迄の十年以内(この「耳囊」執筆下限時には篠山は御先弓頭)に絞ることが出来る。さればこそ冒頭「山中平吉と言る人有」という現在時制がよく生きてくると言えよう。

 

・「御身の病を訪ひて藥用の相談いたし候やうと思ひて」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『御身の病を訪ひて薬用の相談申(もうし)候様申(もうす)と思ひて』とある。これを採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 本来非情と思って御座った者が恩を報いた事

 

 駿河台に「梅屋敷」と言うて、陸続と並ぶ梅の鉢植えを、殊の外、賞玩して止まぬ山中平吉と言う人がある。

 

 彼の用いている石台そのものが、並外れて大きく、且つ、豪華なもので御座った。

 

 ある年のこと、平吉以ての外の大病に罹り、久しく屋敷内に引込んで御座ったが、病、次第に重くなりゆく気配にて、平吉、すっかり塞ぎ込んで御座った。

 

 そんなある夜の夢で御座った。

 

――一人の見目麗しい童子が夢中に来たって言う、

 

「……我ら、永い間貴方様の厚い御恩を受けて養はれて参った者にて御座います。……然るに、お見受け致すに……この度の貴方様の御病いは誠に定業(じょうごう)の成す業(わざ)にて御座いますれば……実に、死を待つに近い、と言わざるを得ませぬ。……我、数年の御厚恩を思い……貴方様の天命に代わらんと思いまする。……然り乍ら、今、懸かっておられる御医者の薬にては、この病い、宜しく御座らぬ。……貴方様と同役を勤めておられまする篠山吉之助様方へ賴んで医師をお招きになられ、その医師の調合する薬を服薬なさったならば癒ゆるはずに御座います……」

 

と語ったかと思うと、夢から醒めた。

 

 不思議な事もあるものじゃと思ったけれども――いや、本来、夢現(うつつ)のことなれば殊更に気にするまでもなきことなれど――これまでの医師の処方も一向に効く気配もなければとて、ともかくも親しい間柄故、まずは吉之助へ医者の相談なりと致そうと手紙を認(したた)めて御座ったところが、屋敷表から家来の者の伝令、これ、あり、それが何と、かの吉之助本人が来訪致いたる由にての伝言なれば、大いに驚き、早速に臥所に招き入れ、今使者をして消息申し御来駕賜わらんと思うておったところの由申したところが、吉之助も、

 

「御身の病い、引き込んでからかなり経つこと故、我らも養生の相談の役に立てばと思うての……いや、その訳はと言えばじゃ……昨夜の夢に、誰(たれ)とも分からぬ者の現われ、『……御身の病を訪いて薬用の御相談方なされまするように……』と申したかと思うたところで……ふっと目覚めた……さればこそ尋ね訪うたというわけじゃ……。」

 

と語ったので、平吉もいよいよ驚き、実は、我もしかじかの夢を昨夜見て御座ったればこそ、と語り合わす。

 

 早速に、かねてより篠山宅へ出入するさる医師をさし寄越させ、療治を願ったところが、徐々に心地よくなり、遂に本服致いた……。

 

……ところが……

 

……如何にも、不思議なことじゃ!……

 

……平吉が……だんだんに心地よくなるに随って……數多御座った梅の内にも……殊の外寵愛致いて御座った鉢植えの梅が……だんだんに容姿を損ない……遂には枯れ朽ちてしもうたということじゃ……。

 

 

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月9日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十回

Kokoro12_13   先生の遺書

   (二十)

 私は私のつらまへた事實の許す限り、奧さんを慰めやうとした。奧さんも亦出來る丈私によつて慰さめられたさうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合つた。けれども私はもともと事の大根(おほね)を攫(つか)んでゐなかつた。奧さんの不安も實は其處に漂よふ薄い雲に似た疑惑から出て來てゐた。事件の眞相になると、奧さん自身にも多くは知れてゐなかつた。知れてゐる所でも悉皆(すつかり)は私に話す事が出來なかつた。從つて慰さめる私も、慰さめられる奧さんも、共に波に浮いて、ゆら/\してゐた。ゆら/\しながら、奧さんは何處迄も手を出して、覺束ない私の判斷に縋(すが)り付かうとした。

 十時頃になつて先生の靴の音が玄關に聞えた時、奧さんは急に今迄の凡てを忘れたやうに、前に坐つてゐる私を其方退(そつちの)けにして立ち上つた。さうして格子を開ける先生を殆んど出合頭に迎へた。私は取り殘されながら、後から奧さんに尾(つ)いて行つた。下女丈は假寐(うたゝね)でもしてゐたと見えて、ついに出て來なかつた。

 先生は寧ろ機嫌(きけん)がよかつた。然し奧さんの調子は更によかつた。今しがた奧さんの美しい眼(め)のうちに溜つた淚の光と、それから黑い眉毛の根に寄せられた八の字を記憶してゐた私は、其變化を異常なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐(いつは)りでなかつたならば、(實際それは詐りとは思へなかつたが)、今迄の奧さんの訴へは感傷(センチメント)を玩(もてあそ)ぶためにとくに私を相手に拵へた、徒(いたづ)らな女性の遊戯と取れない事もなかつた。尤も其時の私には奧さんをそれ程批評的に見る氣は起らなかつた。私は奧さんの態度の急に輝やいて來たのを見て、寧ろ安心した。是ならばさう心配する必要もなかつたんだと考へ直した。

 先生は笑ひながら「どうも御苦勞さま、泥棒は來ませんでしたか」と私に聞いた。それから「來ないんで張合が拔けやしませんか」と云つた。

 歸る時、奧さんは「どうも御氣の毒さま」と會釋した。其調子は忙がしい處を暇を潰させて氣の毒だといふよりも、折角來たのに泥棒が這入らなくつて氣の毒だといふ冗談のやうに聞こえた。奧さんはさう云ひながら、先刻(さつき)出した西洋菓子の殘りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを袂へ入れて、人通りの少ない夜寒(よさむ)の小路(こうぢ)を曲折して賑やかな町の方へ急いだ。

 私は其晩の事を記憶のうちから抽(ひ)き拔いて此處へ詳しく書いた。是(これ)は書く丈の必要があるから書いたのだが、實をいふと、奧さんに菓子を貰つて歸るときの氣分では、それ程當夜の會話を重く見てゐなかつた。私は其翌日午飯を食ひに學校から歸つてきて、昨夜(ゆふべ)机の上に載せて置いた菓子の包を見ると、すぐ其中からチヨコレーを塗つた鳶(とび)色のカステラを出して頰張つた。さうしてそれを食ふ時に、必竟此菓子を私に吳れた二人の男女(なんによ)は、幸福な一對として世の中に存在してゐるのだと自覺しつゝ味はつた。

 秋が暮れて冬が來る迄格別の事もなかつた。私は先生の宅へ出這りをする序に、衣服の洗ひ張や仕立方などを奧さんに賴んだ。それ迄繻絆(じゆばん)といふものを着た事のない私が、シヤツの上に黑い襟のかゝつたものを重ねるやうになつたのは此時からであつた。子供のない奧さんは、さういふ世話を燒くのが却つて退屈凌ぎになつて、結句(けつく)身體(からだ)の藥だ位の事を云つてゐた。

 「こりや手織ね。こんな地の好(い)い着物は今迄縫つた事がないわ。其代り縫ひ惡(にく)いのよそりあ。丸で針が立たないんですもの。御蔭で針を二本折りましたわ」

 斯(こん)な苦情をいふ時ですら、奧さんは別に面倒臭いといふ顏をしなかつた。

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やぶちゃんの摑み:

 

「從つて慰さめる私も、慰さめられる奧さんも、共に波に浮いて、ゆら/\してゐた。ゆら/\しながら、奧さんは何處迄も手を出して、覺束ない私の判斷に縋り付かうとした」本件叙述についてフロイトならば、「私」の無意識下の靜に対する性的願望の象徴表現であると分析するはずである。私もその見解に賛同するものである。しかし言わずもがな乍ら「無意識下の」である。先に述べた通り私は、秦恒平のように靜と「私」を結婚させるなんどということは夢にも百億光年の先にも考えてはいない。

 

「先生は寧ろ機嫌がよかつた」のは何故か? 「同鄕の友人で地方の病院に奉職してゐるものが上京したため、先生は外の二三名と共に、ある所で其友人に飯を喰はせなければならなくなつた」益々人嫌いになりつつある(それは「私」との密接な繋がりが出来た結果として、『逆に』益々激しくなっていたはずだと私は分析する)先生が、その『ねばならない』会で愉快な気分になったとは考え難いではないか! 「私」にとって先生のその様子が如何にも意外だったからこそ「寧ろ」と添えたのではなかったか?――だとすれば――そう、その通り。答えは一つしかない。――先生は、靜と「私」を二人きりにして親しく話させることが出来たことに於いて「機嫌がよかつた」のである。先生のその複雑な心性を、私は私の書いた「こゝろ」のフェイク「こゝろ佚文」でもわせた(実は昨夜、密やかにこの「こゝろ佚文」に写真2枚を追加した。これは総て私がこの作品の設定にした染井墓地の桜の写真である。但し、私の撮影したものではない。但し、撮影者の使用許諾は受けている。本作は拙劣であるが――私にとって――極めて個人的な意味に於いて忘れ難い偏愛する作品なのである)。再三言う。先生の意識は、靜が「私」に、「私」が靜に好感を持つことには確信犯なのである。しかし、靜と「私」が生来、実際の恋愛関係になり、自身亡き後にでも(この時は勿論、自殺を考えている訳ではないが)夫婦になることなどは、考えてはいない。いや、もしかすると遺書を託す決意がこの時点でない以上、この時には何処かに漠然と私の死後そうなってもよい、という考えはあったかも知れぬ(飽くまで可能性の問題である。排除できない、という意味である)。しかし、「私」に遺書を託すことを決意した時点で、それは、ない、のである。そうして、そもそも、「私」には奥さんと結ばれるという希望や意識は、その人生にあって一度として芽生えなかったものと、私は確信する。しかし……私のこのくどい謂いに、誰かは、こう質問するかも知れない……「靜の心の中にあっては「私」への思いはどうであったか? 「私」を男として愛する気持ちは芽生えなかったのか?」と。――それは分からぬ――ないとは言い切れぬ、とだけ、答えておこう。――私は女ではないから、女の気持ちを確信をもって断言する立場にないからでもあり、但しそれはまた、逃げでもなければ、女性の性愛を区別・差別するものでも、決してない。――そもそも『何も知らない』(ここが肝心である。本作で『何も知らない』(はずである)のは彼女だけなのである)靜は、夢魔の如き本作に於いて、誰よりもあらゆる枷から自由なのである。自由な選択をし得るのである。――告白しよう。私はここで、この靜が芥川龍之介が最後に愛した片山廣子であったとしたら……と考えるのだ。私は靜の生年を明治141519811982)年前後と推定している。片山廣子は明治111978)年の生まれである……もう、いいだろう……後は私の片山廣子のテクストや私の考える彼女と芥川と恋愛についての見解をお読み頂ければ、私の言わんとするところはお分かり頂けるものと思う……だから、私には「分からぬ」としか言いようがないのである――。

 

「然し奧さんの調子は更によかつた。今しがた奧さんの美しい眼(め)のうちに溜つた涙の光と、それから黑い眉毛の根に寄せられた八の字を記憶してゐた私は、其變化を異常なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐りでなかつたならば、(實際それは詐りとは思へなかつたが)、今迄の奧さんの訴へは感傷(センチメント)を玩ぶためにとくに私を相手に拵へた、徒らな女性の遊戯と取れない事もなかつた」ここは勿論、「私」が「異常」とまで感ずるほどに豹変した靜に対して、「私」が自分は弄ばれたのではなかろうかと思う、という部分に、靜の中にある、小悪魔的な一面を疑わせるという面白いところではある。しかし勿論、それは直後の「尤も其時の私には奧さんをそれ程批評的に見る氣は起らなかつた。私は奧さんの態度の急に輝やいて來たのを見て、寧ろ安心した。是ならばさう心配する必要もなかつたんだと考へ直した」という叙述によって急激に希釈されてしまうように配慮されている。しかし逆に私は、この「其時の私には」に着目する。但し間違ってはいけない。私は、この「其時の私には」とは、叙述している今の「私」が靜に対してこの時とは相対的な意味に於いて批判的視点を持つようになった、なんどということを問題にしたいのではない。私が言いたいのは、ここが遺書で示される若き日の靜への極めて強い伏線となっているということの確認である。既に読んだ方は思い出すがよい。遺書の中に出現する靜=「御孃さん」の独特な一面を。Kが来る前、先生の部屋に入り込んで何時までも動かない御嬢さん。彼女は「却つて平氣でした。これが琴を浚ふのに聲さへ碌に出せなかつたあの女かしらと疑がはれる位、恥づかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、『はい』と返事をする丈で、容易に腰を上げない事さへありました。それでゐて御孃さんは決して子供ではなかつたのです。私の眼には能くそれが解つてゐました。能く解るやうに振る舞つて見せる痕迹さへ明らかでした。」(単行本「下」十三)という『リードする女』の描写、またある日先生が帰宅するとKと御嬢さんだけが家にいて、奥さんと下女が家にいない。こんなことは今までになかったから「何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした。若い女に共通な點だと云へばそれ迄かも知れませんが、御孃さんも下らない事に能く笑ひたがる女でした。然し御孃さんは私の顏色を見て、すぐ不斷の表情に歸りました。急用ではないが、一寸用があつて出たのだと眞面目に答へました。下宿人の私にはそれ以上問ひ詰める權利はありません。私は沈默」する。そうしてその日の晩飯のシーンで「私は其卓上で奥さんから其日何時もの時刻に肴屋が來なかつたので、私達に食はせるものを買ひに町へ行かなければならなかつたのだといふ説明を聞かされました。成程客を置いてゐる以上、それも尤もな事だと私が考へた時、御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出」すシーン、Kへの決定的な嫉妬心が萌芽する、あの雨上がりの沿道でKと御嬢さんと出逢った日のその晩飯のシーンで、何処へ行ったのかという先生の問いに対して「御孃さんは私の嫌な例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中てゝ見ろと仕舞に云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持でしたから、さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其所に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其所の區別が一寸判然しない點がありました。若い女として御孃さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです」(「下」三十四)という二箇所に現われる靜の『小悪魔のような嫌な笑い』。これらの遺書のそのシーンに至った時、今度は逆に「御孃さん」から靜へと、ここへとフィード・バックする機能を、この(二十)の靜の豹変は持っているように思われるのである。

 

『先生は笑ひながら「どうも御苦勞さま、泥棒は來ませんでしたか」と私に聞いた。それから「來ないんで張合が拔けやしませんか」と云つた』この言葉はつまらぬ冗談として受け流していいのだろうか? 先生がかつてこんな冗談を言ったことがあったか? この後の場面でもいい。ない。わざわざ寡黙な先生の台詞としては、私は大いに気になるのである。単行本の「上」に当る部分の先生の直接話法は、その一句一言、「こゝろ」の核心に至るための珠玉でないものはない。漱石はそうした確信犯的意識の中で「上」を書いているのだ。さすれば、これは『意味』がある。精神分析学的に見てみよう。先に私が示したように、靜と「私」を二人きりにして親しく話させることが出来たことに於いて「機嫌がよかつた」先生の意識と直結するものと私は解釈する。「泥棒は來」ていたのだ。妻を盗むかもしれない「泥棒」が。いや、その「泥棒」は先生自身が呼び込んだ者であった。ところが、その「泥棒」は自身を「泥棒」として全く意識していなかった(無意識下においてはそうではなかったかもしれないことは先の部分で述べた)。そうしてその「泥棒」が自らの役割を意識していないという確信は、実は先生自身のものでもあったのだ。そうしてその想定通り、「泥棒」は「泥棒」らしい行為の痕跡すら残さず、盗まれることのなかった妻と一緒に私を迎えたのであった。「來ないんで張合が拔け」てちょっと残念だったのは先生の内心であったが、しかしそれは同時に先生の「私」への信頼の証しとして先生の大きな安心と結びついたアンビバレントな感情であったのだ。こういう少しだけ危い、しかし、痛快な感覚を、先生は永く味わったことがなかった――Kの自死以来――それが大きな満足の種となって先生の心の「機嫌」の良さと、珍しくも下らぬこの冗談となって現われたのではなかったか? そしてこの無意識は、実に美事に「私」だけでなく、靜にさえ共有されているのである! でなくてどうして「私」が先生の宅を辞するに際して靜の「どうも御氣の毒さま」という挨拶の語感が「折角來たのに泥棒が這入らなくつて氣の毒だといふ冗談のやうに聞こえ」るだろう! ここでは先生と靜と「私」の三人総てが無意識の共同正犯なのである。

♡「午飯を食ひに學校から歸つてきて」これによって「私」の下宿が東京帝国大学に極めて近い位置、本郷周辺にあることが判然とする。(九)では先生が散歩をしようと言ってこの下宿を訪ねていることから考えると、先生の宅も矢張り本郷近辺からそう遠くない位置にあるものと思われるのである。

 

「それ迄繻絆といふものを着た事のない私が、シヤツの上に黑い襟のかゝつたものを重ねるやうになつた」「繻絆」は“gibão”でポルトガル語由来で、肌につけて着る短い衣で汗取りの肌着であるが、襟や袖に外見用のために装飾的な布が付随した。それまで「私」は飾りのない下着のシャツの端を見せたままの格好(それも若者の普通の姿でもあった)だったものを、少し身綺麗にして繻絆を着用するようになったということである。記されていないが、そういうお洒落を促したのは、実は靜ではなかったろうか?]

2010/05/08

「こゝろ」マニアックス 秘密を共有することの痛み-「こゝろ」考 書き捨て 補筆

どうもいけない。一度手を加えるとあそこもここもと欲張ってしまう。午後になって俄然不満な箇所が出て来て、再び『「こゝろ」マニアックス』の『秘密を共有することの痛み-「こゝろ」考 書き捨て』を補筆してしまった。先程、御来駕された方で、既にお読みになられた方、誠に恐れ入るが、必ず新しい今先程リロードしたものを再読されたい。大幅に加筆してしまった。お許しあれ。

「こゝろ」マニアックス 完全リニューアル

「心」連載を記念して、私の『「こゝろ」マニアックス』のページを完全リニューアルし、一部に追加・訂正・変更を加えた。昔のHP自動作成システムの残滓のページで、何となく名残惜しい気がしていたが、矢張り読み難かった。今回のリニューアルで相当読み易くなったものとは思う。お遊びあれ。

耳嚢 巻之二 畜類仇をなせし事

「耳嚢 巻之二」に「畜類仇をなせし事」を収載した。

 畜類仇をなせし事

 豐田何某かたりけるは、或年御用に付大坂へ登りけるに、箱根にて駕(かご)を持し人足、右の手の指みな一ツになりて哀成有樣なれば、休みの折から如何なせしと尋ねければ、其身は笑ひ居しが傍成者語りけるは、彼者の親は百姓にて有しが、彼未だ生れて間もなき時、親成者畑へ出て狐の子を捕へて打殺し穴などふさぎ歸りしが、其夜小兒わつと一聲さけびしに起上りみれば、圍爐裏(いろり)の中に投入しが、仕合(しあはせ)に惣身(そうみ)を火の中へ入れざる故、早速に療治して命はたすかりけるが、あの如く片輪となりしと語りし由咄しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:鯉から狐で生類絡みで軽く連関。

・「豐田何某」岩波版長谷川氏注は豊田友政に同定している。それによれば徒目付・材木石奉行などを勤めたが、彼が大阪に御用で出向いたという事実については未詳とする。

・「指みな一ツになりて」「手棒」(てんぼう:これは「手棒梨」を語源とするらしい。「手棒梨」は玄圃梨(けんぽなし)のことで、双子葉植物綱クロウメモドキ目クロウメモドキ科ケンポナシ属 Hovenia dulcis。その独特の実に由来。) と侮蔑された少年期の野口英世のケースと同じである。現在の治療法では癒合してしまった部分を剥離し、曲った指を伸ばし、皮膚の欠損している箇所に自身の腹部辺りから皮膚を採って移植を行うようである。

■やぶちゃん現代語訳

 畜類が仇を討った事

 知人豊田某が語ったことで御座る。

 ……ある年、御用に付、大阪へ上(のぼ)ったことが御座ったが、その途次、箱根の山越えで拙者の駕籠を担いでおった人足、右の手の指が悉く癒着してつるんとした拳固の一塊りになって、如何にも哀れな有様で御座ったれば、一休み致いた折りから、

「……お主、その手、如何致いたのか?」

と尋ねたところ、男は笑うてばかりいて一切答えずにおったのじゃが、傍におった駕籠の共担ぎの人足が代わって答えて言うことには、

「この者の親は百姓でごぜやしたが、こやつが生まれて、未だ間もねえ或る日のこと、親なる者が畑へ出たところが、逃げ損なった狐の子がおったを、捕まえて打ち殺し、巣にぶち込んで、穴の入り口をすっかり塞(ふせ)えで帰(けえ)りやした。――と――その晩のこと、皆、寝静まった頃、赤子が――ワァー!――と一声叫んだに吃驚りして、親が起きて見ると――どうやって母御前(ははごぜ)のそばから転がり出たもんか――囲炉裏の中に投げ入れたかの如、赤ん坊が落ちてごぜえやした。不幸中の幸い、全身を火の中に入れてはおらなんだで、早急(さっきゅう)に手当致いて命は取りとめましたが――あのような不具となったんでごぜえやす――。」

と語ったとの由、豊田某より聴いて御座る。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月8日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十九回

Kokoro12_10   先生の遺書

   (十九)

 始め私は理解のある女性(によしやう)として奧さんに對してゐた。私が其氣で話してゐるうちに、奧さんの樣子が次第に變つて來た。奧さんは私の頭惱に訴へる代りに、私の心臟(ハート)を動かし始めた。自分と夫の間には何の蟠(わだか)まりもない、又ない筈であるのに、矢張(やは)り何かある。それだのに眼を開けて見極めやうとすると、矢張り何にもない。奧さんの苦にする要點は此處にあつた。

 奧さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的だから、其結果として自分も嫌はれてゐるのだと斷言した。さう斷言して置きながら、ちつとも其處に落ち付いてゐられなかつた。底を割ると、却つて其逆を考へてゐた。先生は自分を嫌ふ結果、とう/\世の中迄厭になつたのだらうと推測してゐた。けれども何う骨を折つても、其推測を突き留(とめ)て事實とする事が出來なかつた。先生の態度は何處迄も良人(をつと)らしかつた。親切で優しかつた。疑ひの塊りを其日/\の情合(じやうあひ)で包んで、そつと胸の奧に仕舞つて置いた奧さんは、其晩その包みの中を私の前で開けて見せた。

 「あなた何う思つて?」と聞いた。「私からあゝなつたのか、それともあなたのいふ人生觀とか何とかいふものから、あゝなつたのか。隱さず云つて頂戴」

 私は何も隱す氣はなかつた。けれども私の知らないあるものが其處に存在(ぞんざい)してゐるとすれば、私の答が何であらうと、それが奧さんを滿足(まんそく)させる筈がなかつた。さうして私は其處に私の知らないあるものがあると信じてゐた。

 「私には解りません」

 奧さんは豫期の外れた時に見る憐れな表情を其咄嗟に現はした。私はすぐ私の言葉を繼ぎ足した。

 「然し先生が奧さんを嫌つてゐらつしやらない事丈は保證します。私は先生自身の口から聞いた通りを奧さんに傳へる丈です。先生は噓を吐(つ)かない方でせう」

 奧さんは何とも答へなかつた。しばらくしてから斯う云つた。

 「實は私すこし思ひ中(あた)る事があるんですけれども‥‥」

 「先生があゝ云ふ風になつた源因に就いてですか」

 「えゝ。もしそれが源因だとすれば、私の責任丈はなくなるんだから、夫丈でも私大變樂になれるんですが、‥‥」

 「何んな事ですか」

 奧さんは云ひ澁つて膝の上に置いた自分の手を眺めてゐた。

 「あなた判斷して下すつて。云ふから」

 「私に出來る判斷なら遣ります」

 「みんなは云へないのよ。みんな云ふと叱られるから。叱られない所丈よ」

 私は緊張して唾液(つばき)を呑み込んだ。

 「先生がまだ大學にゐる時分、大變仲の好い御友達が一人あつたのよ。其方が丁度卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」

 奧さんは私の耳に私語くやうな小さな聲で、「實は變死したんです」と云つた。それは「何うして」と聞き返さずにはゐられない樣な云ひ方であつた。

 「それつ切りしか云へないのよ。けれども其事があつてから後なんです。先生の性質が段々變つて來たのは。何故其方が死んだのか、私には解らないの。先生にも恐らく解つてゐないでせう。けれども夫から先生が變つて來たと思へば、さう思はれない事もないのよ」

 「其人の墓ですか、雜司ケ谷にあるのは」

 「それも云はない事になつてるから云ひません。然し人間は親友を一人亡くした丈で、そんなに變化できるものでせうか。私はそれが知りたくつて堪らないんです。だから其處を一つ貴方に判斷して頂きたいと思ふの」

 私の判斷は寧ろ否定の方に傾いてゐた。

Line_16

 

やぶちゃんの摑み:

 

「理解のある」理性的な。理知的な。

 

♡「情合」思いやりと愛情。

 

「底を割る」本心を隠さず明かす。

 

「もしそれが源因だとすれば、私の責任丈はなくなるんだから、夫丈でも私大變樂になれるんですが、‥‥」というこの謂いによって、先生が仮に靜に自身の苦悩を告白出来たとしても、その核心は永遠に靜には理解出来ない、と私は思う。あなたも思わないか? 靜に責任は『ある』し、その責任を自覚出来ない以上、先生の苦悩を共有することは出来ない!

 

「みんなは云へないのよ。みんな云ふと叱られるから。叱られない所丈よ」以下の、「それつ切りしか云へないのよ」「「それも云はない事になつてるから云ひません」という言辞に着目せよ! これは一般的な不特定多数への先生の靜への禁則では、ない。先生は恐らく、「私」が頻繁に先生の宅を訪れるようになった極めて早い時点で、靜に『Kのことに於いては決して仔細をあの青年に語ってはいけない』という禁則を厳しく明言していたことが明らかになる。それは何故かを考えよ!

 

「實は變死したんです」このKの自死がほぼ明確に示される印象的なシーンは、「私の耳に私語くやう」に「私」の方に乗り出すのである。作中「私」と靜が最も肉体的に接近する印象を与えるように仕組まれたシーンでもあることに着目せよ!

 

「私の判斷は寧ろ否定の方に傾いてゐた」これは重要な心内表現である。私は、一般論として友人の死で人格は変容しない、なんどということを思っている、『のではない』! 提示された靜の質問は直前にある(勿論、先生が変わった原因として友人の死を語ったのは、それより数分前ではあったが)。にも拘わらず、「私」がまるでじっくりと考えたかのように「私の判斷は寧ろ否定の方に傾いてゐた」と記すのは、実は直前の「私」の「其人の墓ですか、雜司ケ谷にあるのは」と密接に関わりを持つからだ。即ち、ここで「私」は「魔物」――(十五)を確認せよ!――であるあの墓の主に無意識に嫉妬を抱いているのである。「私」は無意識下に於いて、幽冥に在りながら、今も心において親密に先生と繋がっているあの『忌まわしい』墓の主と、『愛する』先生とを切り離してしまいたいと願望しているのである。でなくてどうして、性急な「私の判斷」が下せよう!]

 

2010/05/07

僕は

本当は猫の言葉を知つてゐる

知らないふりをしてゐる

でも 知つてゐる

だから! 僕は おぞましい『人間』なんだ!

僕は

僕は幾分か自身の人生が愚劣で價値のないものだと何處かで感じてはゐる。かと言つてこの緩み切つた僕の人生を捨てる程の價値も自身の行爲の中に認めてはゐない――それは君と同じ事だ――だから僕は僕が晝睡の内に誰か首を絞めて呉れないかと眞險に思つてゐる――。僕の憂鬱を消せるのは――僕を絞め殺して呉れるであらう君、以外には、いない――。

僕は、その君の瞳に、渾身の力で以つて僕の首を絞めて呉れる、君のその瞳に……乾杯しやう……總ての安息の代はりに――

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月7日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十八回

Kokoro12_9   先生の遺書

   (十八)

 私は奧さんの理解力に感心した。奧さんの態度が舊式の日本(にほん)の女らしくない所も私の注意に一種の刺戟を與へた。それで奧さんは其頃流行り始めた所謂新しい言葉などは殆んど使はなかつた。

 私は女といふものに深い交際をした經驗のない迂濶な靑年であつた。男としての私は、異性に對する本能から、憧憬(どうけい)の目的物として常に女を夢みてゐた。けれどもそれは懷かしい春の雲を眺めるやうな心持で、たゞ漠然と夢みてゐたに過ぎなかつた。だから實際の女の前へ出ると、私の感情が突然變る事が時々あつた。私は自分の前に現はれた女のために引き付けられる代りに、其塲に臨んで却つて變な反撥力(はんばづりよく)を感じた。奧さんに對した私にはそんな氣が丸で出なかつた。普通男女(なんによ)の間に橫はる思想の不平均といふ考も殆ど起らなかつた。私は奧さんの女であるといふ事を忘れた。私はたゞ誠實なる先生の批評家及び同情家として奧さんを眺めた。

 「奧さん、私が此前何故先生が世間的にもつと活動なさらないのだらうと云つて、あなたに聞いた時に、あなたは仰やつた事がありますね。元はあゝぢやなかつたんだつて」

 「えゝ云ひました。實際彼(あ)んなぢやなかつたんですもの」

 「何んなだつたんですか」

 「あなたの希望なさるやうな、又私の希望するやうな賴もしい人だつたんです」

 「それが何うして急に變化なすつたんですか」

 「急にぢやありません、段々(たんたん)あゝなつて來たのよ」

 「奧さんは其間(あひだ)始終先生と一所にゐらしつたんでせう」

 「無論ゐましたわ。夫婦ですもの」

 「ぢや先生が左右(さう)變つて行かれる原因がちやんと解るべき筈ですがね」

 「それだから困るのよ。あなたから左右云はれると實に辛いんですが、私には何う考へても、考へやうがないんですもの。私は今迄何遍あの人に、何うぞ打ち明けて下さいつて賴んで見たか分りやしません」

 「先生は何と仰しやるんですか」

 「何にも云ふ事はない、何にも心配する事はない、おれは斯ういふ性質になつたんだからと云ふ丈で、取り合つて吳れないんです」

 私は默つてゐた。奧さんも言葉を途切らした。下女部屋にゐる下女はことりとも音をさせなかつた。私は丸で泥棒の事を忘れて仕舞つた。

 「あなたは私に責任があるんだと思つてやしませんか」と突然奧さんが聞いた。

 「いゝえ」と私が答へた。

 「何うぞ隱さずに云つて下さい。さう思はれるのは身を切られるより辛いんだから」と奧さんが又云つた。「是でも私は先生のために出來る丈の事はしてゐる積なんです」

 「そりや先生も左右認めてゐられるんだから、大丈夫(たいぢやうふ)です。御安心なさい、私が保證します」

 奧さんは火鉢の灰を搔き馴らした。それから水注(みづさし)の水を鐵瓶に注した。鐵瓶は忽ち鳴りを沈めた。

 「私はとう/\辛防(しんばう)し切れなくなつて、先生に聞きました。私に惡い所があるなら遠慮なく云つて下さい、改められる缺點なら改めるからつて、すると先生は、御前に缺點なんかありやしない、缺點はおれの方にある丈だと云ふんです。さう云はれると、私悲しくなつて仕樣がないんです、淚が出て猶の事自分の惡い所が聞きたくなるんです」

 奧さんは眼の中(うち)に淚を一杯溜めた。

Line_15

 

やぶちゃんの摑み:

「あなたの希望なさるやうな、又私の希望するやうな賴もしい人だつたんです」この靜の謂いは、薄っぺらいものではない。靜が「私」が内心希望している先生像を十全に認知していることを示している。靜は「私」自身や読者である我々が考えるのと案に相違して、「私」の内実を想像以上につらまえているという事実に注意すべきである。

 

「私は女といふものに深い交際をした經驗のない迂濶な靑年であつた」以下によって「私」が童貞である事実が駄目押しで確定する。「私」は所謂「少年」である点をつらまえよ。

 

「普通男女の間に橫る思想の不平均」この理性的な謂いを言い換えれば、それは「必竟女だからあゝなのだ、女といふものは何うせ愚なものだ」という偏見と相同である(相似ではなく相同である)。勿論、これは勿論、先生の遺書に現われる謂いである(単行本の「下」の十四)。そこにある「私」のそれではなく、筆者漱石の女性蔑視という限界性としてつらまえる必要がある。

 

「下女部屋」(十六)の「やぶちゃんの摑み」の図を参照されたい。]

2010/05/06

贋作・或阿呆の一生 時代

         時  代

 それは或高校の三階だつた。五十三歳の彼は教壇に登つて「竹取物語」を教へてゐた。くらもちの皇子、玉の枝、接続詞「ば」の順接の確定條件、縁語、掛詞、吉本興業よりダサい洒落、………

 そのうちに授業の黄昏(たそがれ)は迫り出した。しかし彼は熱心に古への物語を語り續けた。そこに開陳されてゐるのは空想の物語といふより寧ろ世紀末其自身を皮肉つた現實の比喩そのものだつた。民を考へぬ政治家、贋作の國宝、インデヰ・ヂヨウンズばりの譃八百の國外移設、何れ直に止まつてしまふ文殊の知惠、この暑くむさ苦しい日に制服着用を命ずる官憲…………

 彼は魂の薄暗がりと戰ひながら、かうした自分の敵の名前を一つ一つ數へて行つた。が、其等はかぐや姫が日暮れと共に暗くうち沈んでゆくのと同じくおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。チヤイムの音と同時に彼はたうとう根氣も盡き、教壇を下りようとした。すると丁度、くらもちの皇子の偽造が暴かれた結果、かぐや姫の身の内の光輝が、丁度彼の空ろな胸の中(うち)に突然ぽかりと火をともした。彼は教壇の上に佇んだまま、教室の机に動めいてゐる缺伸(あくび)をする女生徒の開かれた淫靡な脣(くちびる)や不貞寢(ふてね)する男子生徒のだらしない涎(よだれ)を見下(みおろ)した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

 「人生は1オンスのパリの空氣にも若かない。」

 彼は暫く教壇の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………

耳囊 卷之二 公家衆狂歌の事

 

 

「耳囊 卷之二」に「公家衆狂歌の事」を収載した。

 

 

 公家衆狂歌の事

 

 當世專ら狂歌を翫(もてあそ)びけるに付、堂上(たうしやう)の狂歌の格別又面白きと思ひし事有。近き頃京都にて鍼治(しんち)を業として其功いちじるきものありしに、小川何某といへる町家にて、其妻の煩しきを右針醫の手際にて快氣いたしければ、厚く禮謝なしけるが、折ふし見事成鯉の二口有しを、彼醫師のもとへ送りけるに、絕て珍ら敷(しき)鯉なれば、心なく料理せんも本意(ほい)なしとて、兼て出入せし堂上の薗池(そのいけ)殿へ奉りけるに、薗池殿にても美事成鯉なれば、兼て出入して勝手取り賄ひなどしける小川へ賜りけるに、後に小川并鍼醫の、薗池殿へ落合ひて、かう/\の事也と笑興ぜしに、薗池殿一首の狂歌して兩人へ給りけると也。

 

  針先にかゝれる魚をその池へ放せばもとの小川へぞ行く

 

實に世の中にて多き事にて、おもしろき狂歌なれば爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:内蔵助の最期のユーモアから狂歌へ軽く連関。先行する「狂歌にて咎をまぬがれし事」等の狂歌・狂歌師絡みのシリーズ。

 

・「狂歌」「狂歌にて咎をまぬがれし事」の「狂歌」の注を参照されたい。

 

・「堂上」狭義は三位以上及び四位・五位の内、昇殿を許された殿上人を言うが、。ここは広義の公家衆の意。

 

・「薗池殿」園池家。藤原北家四条流の流れを汲む公家。「耳嚢」執筆当時の園池家ならば第5代当主園池房季(そのいけふさすえ 正徳31713)年~寛政71795)年)である。権大納言正二位。「近き頃」とあるので参考までにその前代第4代当主は房季の父園池実守(貞享元(1684)年~享保121727)年)で、左近衛権中将正三位である。恐らく房季であろう(岩波版長谷川氏も房季で同定)。

 

・「針先にかゝれる魚をその池へ放せばもとの小川へぞ行く」釣「針」に鍼医の「鍼」を、「池」に自身の姓である園「池」を、「小川」に当該町屋の姓「小川」を掛詞とした狂歌。訳は不要な程、分かり易い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 公家衆の狂歌の事

 

 当世では専ら狂歌が流行して御座るが、堂上(とうしょう)の方々の狂歌には、これまた格別に面白いと思わせるものが御座る。

 

 近き頃のこと、京都にて鍼治療を生業(なりわい)と致いて、その上手、著しきこと、世間にても評判の名医が御座った。

 

 さて小川何某と申す町家にて、その妻が病を煩って御座ったが、この鍼医の、美事なる神技の手際にて快気致いた。

 

 小川某は厚く謝礼致いたが、丁度その折りに、美事な鯉を二口飼うて御座ったれば、

 

「どうぞ、お口汚しに。」

 

と、その鍼医の元へ御礼の一つとして贈って御座った。

 

 受け取った鍼医、桶の内にて悠々と泳ぐ美事なる鯉を見る内、

 

「……か程に珍しき鯉、見たこと、あらしまへん。……こないに立派な鯉、ええ加減に料理してしもうたら、勿体のうおす……」

 

と、かねて彼が出入りして御座った堂上の御公家薗池様に奉って御座った。

 

 さても薗池家にても、

 

「これはまた、見事な鯉! 食すなんど、無粋のこと……」

 

と兼ねて厨御用で出入りして、御勝手方取り賄い御用達で御座った商人の小川家に賜って御座った――。

 

 後日(ごにち)のこと、町家の小川某と針医、この薗池様の御屋敷に落ち逢(お)う機会が御座ったが、その折になって、初めて、

 

「そういう訳にて、おじゃったか!」

 

と皆して笑い興じたところが、薗池殿、その場にて一首の狂歌を詠じ、この二人に賜ったとのことでおじゃる――

 

  針先にかゝれる魚をその池へ放せばもとの小川へぞ行く

 

 斯くなる偶然、実に世の中にては多きこと乍ら、面白き狂歌なれば、ここに記しおくものでおじゃる。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月6日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十七回

Kokoro12_8   先生の遺書

   (十七)

 私はまだ其後(そのあと)にいふべき事を有つてゐた。けれども奧さんから徒らに議論を仕掛ける男のやうに取られては困ると思つて遠慮した。奧さんは飮み干した紅茶茶碗(こうちやちやわん)の底を覗いて默つてゐる私を外(そ)らさないやうに、「もう一杯上げませうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奧さんの手に渡した。

 「いくつ?一つ?二ツつ?」

 妙なもので角砂糖(かくさたう)を撮(つま)み上げた奧さんは、私の顏を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の數(かぞ)を聞いた。奧さんの態度は私に媚びるといふ程ではなかつたけれども、先刻(さつき)の強い言葉を力(つと)めて打ち消さうとする愛嬌に充ちてゐた。

 私は默つて茶を飮んだ。飮んでしまつても默つてゐた。

 「あなた大變默り込んぢまつたのね」と奧さんが云つた。

 「何かいふと又議論を仕掛けるなんて、叱り付けられさうですから」と私は答へた。

 「まさか」と奧さんが再び云つた。

 二人はそれを緖口(いとくち)に又話を始めた。さうして又二人に共通な興味のある先生を問題にした。

 「奧さん、先刻(さつき)の續きをもう少し云はせて下さいませんか。奧(お)さんには空(から)な理窟と聞こえるかも知れませんが、私はそんな上の空で云つてる事ぢやないんだから」

 「ぢや仰やい」

 「今奧さんが急に居なくなつたとしたら、先生は現在の通りで生きてゐられるでせうか」

 「そりや分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外に仕方がないぢやありませんか。私の所へ持つて來る問題ぢやないわ」

 「奧さん、私は眞面目ですよ。だから逃げちや不可ません。正直に答へなくつちや」

 「正直よ。正直に云つて私には分らないのよ」

 「ぢや奧さんは先生を何(ど)の位(くらゐ)愛してゐらつしやるんですか。これは先生に聞くより寧ろ奧さんに伺つていゝ質問ですから、あなたに伺ひます」

 「何もそんな事を開き直つて聞かなくつても好(い)いぢやありませんか」

 「眞面目腐つて聞くがものはない。分り切つてると仰やるんですか」

 「まあ左右(さう)よ」

 「その位(くらゐ)先生に忠實なあなたが急に居なくなつたら、先生は何うなるんでせう。世の中の何方を向いても面白さうでない先生は、あなたが急にゐなくなつたら後で何うなるでせう。先生から見てぢやない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるんでせうか、不幸になるでせうか」

 「そりや私から見れば分つてゐます。(先生はさう思つてゐないかも知れませんが)。先生は私を離れゝば不幸になる丈です。或は生きてゐられないかも知れませんよ。さういふと、已惚(うぬぼ)れになるやうですが、私は今先生を人間として出來る丈幸福にしてゐるんだと信じてゐますわ。どんな人があつても私程先生を幸福にできるものはないと迄思ひ込んでゐますわ。それだから斯うして落ち付いてゐられるんです」

 「その信念が先生の心に好く映る筈だと私は思ひますが」

 「それは別問題ですわ」

 「矢張(やつぱ)り先生から嫌はれてゐると仰やるんですか」

 「私は嫌はれてるとは思ひません。嫌はれる譯がないんですもの。然し先生は世間が嫌ひなんでせう。世間といふより近頃では人間が嫌ひになつてゐるんでせう。だから其人間の一人(いちにん)として、私も好かれる筈がないぢやありませんか」

 奧さんの嫌はれてゐるといふ意味がやつと私に呑み込めた。

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やぶちゃんの摑み:

♡「外らさないやうに」話をそこで終わらせないように、「私」をこの話から逃さないようにするために、「もう一杯上げませうか」と話を継いだ、という意味である。

「妙なもので角砂糖を撮み上げた奧さんは、私の顏を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の數を聞いた。」というのは、通常、彼女が淹れる紅茶には既に砂糖が溶かされているのが普通であったのに(先刻の紅茶がそうであったと推定される)、ここではわざわざ入れる角砂糖の数を訊いてきたことに対する「妙な」である。やや黙って堅くなっている「私」を和ませようとして、アプローチをかけた靜のポーズなのであるが、この靜に何とも言えぬ幽かな、それでいて魅力的な年上の女のどきどきするようなコケティシュさを覚えるのは……私だけだろうか?] 

2010/05/05

耳嚢 巻之二 忠死歸するが如き事

「耳嚢 巻之二」に「忠死歸するが如き事」を収載した。

 忠死歸するが如き事

 淺野家の家士大石内藏助、報讐の後御預けと成て、今日切腹被仰付といへる日は、其御預りの大名より古實の通り食事饗應あり。切腹の席よろしきとて案内ありければ、常に茶の給仕せし小坊主茶を持來りしに、常の通(とほり)茶をのみて、扨今日切腹いたし候、いたづらし候と幽靈と申すものに成て出候間、おとなしくなし給へと打笑ひて、席へ出て切腹せしが、誠に平日の通り聊替る事なかりしと、彼諸侯の老臣語りしとなり。左も可有と爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸のみならず江戸っ子の敬愛した忠臣大石内蔵助のエピソードの一つ。

・「淺野家」播磨赤穂藩藩主主家。御存知、藩主第3代藩主浅野長矩(あさのながのり 寛文7(1667)年~元禄141701)年421日)の起こした元禄赤穂事件により改易となった。

・「大石内藏助」大石良雄。御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄(よしお 又は よしたか 万治2(1659)年~元禄161703)年)。討入後、『内蔵助は、吉田忠左衛門・富森助右衛門正因の二名を大目付仙石伯耆守久尚の邸宅へ送り、口上書を提出して幕府の裁定に委ねた。午後6時頃、幕府から徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の三人が泉岳寺へ派遣されてきた。内蔵助らは彼らの指示に従って仙石の屋敷へ移動した。幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、内蔵助は肥後熊本藩主細川越中守綱利の屋敷に預けられた。長男主税は松平定直の屋敷に預けられたため、この時が息子との今生の別れとな』った。『仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした荻生徂徠などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた』。『元禄16年(1703年)24日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主吉良義周(吉良左兵衛、吉良上野介の養子)の領地没収と信州配流の処分を決めた。細川邸に派遣された使者は、内蔵助と面識がある幕府目付荒木十左衛門であった。内蔵助は細川家家臣安場一平久幸の介錯で切腹した。享年45。亡骸は主君浅野内匠頭と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は忠誠院刃空浄剣居士』。辞世の句は一般には次のものが知られるが、一部文献には2番目のものが記されている。

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

『しかしながら上記は浅野内匠頭の墓に対してのもので、実際には次が辞世の句とも言われている。

極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人』(以上、引用はウィキの「大石良雄」より引用した)。

・「御預け」内蔵助がお預けとなったのは肥後熊本藩主細川越中守綱利の屋敷であった。細川綱利(寛永201643)年~正徳41714)年)外様大名で第3代肥後国熊本藩主であった。『元禄15年(1702年)1215日早朝、吉良上野介を討ちとって吉良邸を出た赤穂46士(注:47人目の寺坂吉右衛門は討ち入り後に隊から外れた)は、大目付仙石久尚に自首しにいった吉田忠左衛門・富森助右衛門の二名と別れて、ほかは主君浅野内匠頭の眠る高輪泉岳寺へ向かった。仙石は吉田と富森の話を聞いてすぐに登城し幕閣に報告。幕府で対応が協議された』が、『細川綱利は、この日、例日のために江戸城に登城していた。この際に老中稲葉正通より大石内蔵助はじめ赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。さっそく綱利は家臣の藤崎作右衛門を伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、はじめ泉岳寺で受け取りと思い込み、泉岳寺に近い白金の中屋敷に家臣たちを移し、受け取りの準備をはじめた。しかしその後、46士は大目付仙石久尚の屋敷にいるという報告が入ったので急遽仙石邸に向かった。三宅率いる受け取りの軍勢の総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し、17人の浪士を1人ずつ身体検査してから駕籠に乗せて午前2時過ぎ頃に細川家の白金下屋敷に到着した。浪士達の中にけが人がおり傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間がかかったと「堀内伝右衛門覚書」にある(山吉新八郎に斬られた近松勘六のことであろう)』。『この間、細川綱利は義士たちを一目みたいと到着を待ちわびて寝ずに待っていた。17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石内蔵助と対面。さらに綱利はすぐに義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すように命じる。預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与え、風呂は1人1人湯を入れ替え、後日には老中の許可をえて酒やたばこも振舞った。さらに毎日の料理もすべてが御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府に助命を嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召抱えたい旨の希望まで出している。また1218日と1224日の二度にわたって自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという凄まじい義士への熱狂ぶりであった。しかし綱利の願いもむなしく、年改まって元禄16年(1703年)2月、赤穂浪士たちを切腹させるようにという幕府の命令書が届く』。『この切腹に当たっても綱利は「軽き者の介錯では義士達に対して無礼である」として大石内蔵助は重臣の安場一平に介錯をさせ、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。義士達は切腹後、泉岳寺に埋葬された。細川綱利は金30両の葬儀料と金50両のお布施を泉岳寺に送っている。幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も「彼らは細川家の守り神である」として断り、家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて客人が見えた際には屋敷の名所として紹介したともいわれている』。『このような細川家の義士たちに対する厚遇は江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌からも窺われる。これは細川家と水野家が義士を厚遇したことを称賛し、毛利家と松平家が待遇が良くなかったことを批判したものである。もっとも毛利家や松平家も江戸の庶民の評価に閉口したのか細川家にならって義士たちの待遇を改めたとも伝えられる』。『明治に入ってからも細川邸跡は、大石良雄外十六人忠烈の跡としてそのまま保存され、現在は港区と泉岳寺と中央義士会が共同で管理している』(以上、引用はウィキの「細川綱利」より)。

・「今日切腹被仰付といへる日」浪士の切腹の命令は元禄16年2月4日(グレゴリオ暦では3月20日)、即日、四大名家に於いて執行された。「卷之二」の下限の天明6(1786)年時点で既に83年も前の出来事であった。

■やぶちゃん現代語訳

 忠義切腹の死なるも何事もなく普通に何処ぞへ帰って行くが如き鮮やかなる死なる事

 浅野家の家士大石内蔵助、仇討本懐を遂げた後、肥後熊本藩主細川越中守綱利殿御屋敷へ御預けとなった。

 そうして、今日、切腹が仰せつけらるるという日は、お預かりの大名細川綱利殿より故実に則り、食事饗応が御座った。

 切腹の席、準備万端調うて御座るとの案内(あない)があったので、常より日頃茶の給仕致いて御座った小坊主が持ち来たった茶を、何時も通り、如何にも旨そうに飲んで、

「さても今日、切腹致すことと相成った。悪戯(いたずら)心にて、一つ、幽霊とか申すものと相成って出でてみようと存ずればこそ、どうぞ、大人しくお待ちあれ。」

とうち笑うて切腹の席へ出でて美事、腹を切った――その様子、まことに平時の通りにて、聊かも変わったこともなく御座ったと、かの御大名家老臣の語って御座った、ということで御座る。

 かの忠臣の御仁、さもあらんことと、ここに記しおく。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月5日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十六回

Kokoro12_7   先生の遺書

   (十六)

 私の行つたのはまだ灯(ひ)の點くか點かない暮方であつたが、几帳面な先生はもう宅(うち)にゐなかつた。「時間に後れると惡いつて、つい今したが出掛けました」と云つた奧さんは、私を先生の書齋へ案内した。

 書齋には洋机(テーブル)と椅子の外に、澤山の書物が美くしい脊皮(せがは)を並べて、硝子越(ガラすごし)に電燈の光で照らされてゐた。奧さんは火鉢の前に敷いた座蒲團の上へ私を坐らせて、「ちつと其處いらにある本でも讀んでゐて下さい」と斷つて出て行つた。私は丁度主人の歸りを待ち受ける客のやうな氣がして濟まなかつた。私は畏(かしこ)まつた儘烟草を飮んでゐた。奧さんが茶の間で何か下女に話してゐる聲が聞こえた。書齋は茶の間の緣側を突き當つて折れ曲つた角にあるので、棟(むね)の位置からいふと、座敷よりも却つて掛け離れた靜かさを領してゐた。一しきりで奧さんの話聲が已(や)むと、後はしんとした。私は泥棒を待ち受ける樣な心持で、凝としながら氣を何處かに配つた。

 三十分程すると、奧さんが又書齋の入口へ顏を出した。「おや」と云つて、輕く驚(おどろ)ろいた時の眼(め)を私に向けた。さうして客に來た人のやうに鹿爪(しかつめ)らしく控えてゐる私を可笑しさうに見た。

 「それぢや窮屈でせう」

 「いえ、窮屈ぢやありません」

 「でも退屈でせう」

 「いゝえ。泥棒が來るかと思つて緊張してゐるから退屈でもありません」

 奧さんは手に紅茶茶碗(こうちやぢやわん)を持つた儘、笑ひながら其處に立つてゐた。

 「此處は隅つこだから番をするには好くありませんね」と私が云つた。

 「ぢや失禮ですがもつと眞中(まんなか)へ出て來て頂戴(ちやうたい)。御退屈だらうと思つて、御茶を入れて持つて來たんですが、茶の間で宜しければ彼方(あちら)で上げますから」

 私は奧さんの後に尾(つい)て書齋を出た。茶の間には綺麗な長火鉢に鐵瓶が鳴つてゐた。私は其處で茶と菓子(くわこ)の御馳走になつた。奧さんは寢られないと不可(いけな)いといつて、茶碗に手を觸れなかつた。

 「先生は矢張り時々斯んな會へ御出掛になるんですか」

 「いゝえ滅多に出た事はありません。近頃は段々人の顏を見るのが嫌になるやうです」斯ういつた奧さんの樣子に、別段困つたものだといふ風も見えなかつたので、私はつい大膽になつた。

 「それぢや奧さん丈が例外なんですか」

 「いゝえ私も嫌はれてゐる一人なんです」

 「そりや噓です」と私が云つた。「奧さん自身噓と知りながら左右仰やるんでせう」

 「何故」

 「私に云はせると、奧さんが好きになつたから世間が嫌ひになるんですもの」

 「あなたは學問をする方(かた)丈(だけ)あつて、中々御(ご)上手ね。空つぽな理窟を使ひこなす事が。世の中が嫌になつたから、私迄も嫌になつたんだとも云はれるぢやありませんか。それと同なじ理窟で」

 「兩方とも云はれる事は云はれますが、此場合は私の方が正しいのです」

 「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白さうに。空(から)の盃(さかづき)でよくあゝ飽きずに獻酬(けんしう)が出來ると思ひますわ」

 奧さんの言葉は少し手痛(てひど)かつた。然し其言葉の耳障(みゝざはり)からいふと、決して猛烈なものではなかつた。自分に頭惱のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出す程に奧さんは現代的でなかつた。奧さんはそれよりもつと底の方に沈んだ心を大事にしてゐるらしく見えた。

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やぶちゃんの摑み:私はこの留守番のシークエンスを明治441911)年「私」22歳の晩秋、十月下旬頃と推定している。

 

「まだ灯の點くか點かない暮方」当時は日没後に電気が一律に供給されて点灯可能となった。

 

「此處は隅つこ」書斎が先生の家作で隅の方に位置することを言う。以下の画像は、恐らく(実は自筆で汚く写した絵があるのだが、これを私自身が何から写したか不思議なことに記憶がないのである)先生の家を想定復元された論文片岡豊氏の「『こゝろ』の〈家〉」(1991年『立教女子学院短大紀要』22)から写したものと思われる(後架や風呂・下女部屋・台所の位置は本文からは導き出せない)先生宅の見取り図を元に、やはり私自身が描き直したものである(方位は(二十一)の書斎の日当たりの良さから私が類推した)。

 

 

Kokoroie1

 

 

一応、「1991・片岡原案 2010・藪野(改)」としておく。] 

2010/05/04

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月4日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十五回