「耳嚢 巻之二」に「上州池村石文の事」を収載した。「卷之二」余すところ、9話。完遂間近!
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上州池村石文の事
淺間山燒の節關東村々を廻村せしに、長崎彌之助知行上州片岡郡(こほり)池村に石碑あり。世に陸奧の坪壺の石碑を古物(こぶつ)とて人の稱しけるに、池村の碑を稱する事を聞(きか)ず。其土俗に聞くに、和銅二年上野國(かうづけのくに)甘樂(かんら)郡緑埜(みとの)郡の内をわりて片岡の郡として、羊太夫といふ者に給りし碑の由。文を見しに其通也。則石摺として持歸りしが、碑面いかにも古物にて文字も能書也。左に其銘を書留ぬ。
弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治此真人
大政官二品穗積親王左大臣正二
位石上尊右大臣正二位藤原尊
上野多胡郡碑石高四尺濶
二尺八寸蓋方三尺
按ニ日本紀云和銅四年三月
辛亥割上野国甘良郡織
裳韓級失田大家緑野
武美片罡郡山※六郷[やぶちゃん字注:「※」=「寺」に(くさかんむり)。]
別置多胡郡ト云々始此國ニ
多胡郡ヲ置タル時始テ建
立セル碑也其文至テ讀カ
タキニヨリ土人誤テ羊太夫
ノ碑トス羊ハ半ノ字ノ誤ナ
ラン三郡ノ内三百戸ノ郡ト
ナシ給ヒ半ヲ多胡郡ト成ト讀テ其義通スヘシ
文政十一戌子年四月十七日書以贈示于 美濃部先生 法眼栗本瑞見
●1 カリフォルニア大学バークレー校版画像[やぶちゃん注:既に著作権の消滅した絵画や平面図像等をそのままただ平面的に撮った写真には著作権は発生しないという文化庁の見解をここに示しておく。]
〈HPとの差別化を図るため、省略。〉
●2 銘及び注整序版[やぶちゃん字注:「※」=「寺」に(くさかんむり)。]
弁官符上野國片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣左中弁正五位下多治此真人大政官二品穗積親王左大臣正二位石上尊右大臣正二位藤原尊
上野多胡郡碑石高四尺濶二尺八寸蓋方三尺
按ニ日本紀云和銅四年三月辛亥割上野国甘良郡織裳韓級失田大家緑野武美片罡郡※六郷別置多胡郡ト云々始此國ニ多胡郡ヲ置タル時始テ建立セル碑也其文至テ讀カタキニヨリ土人誤テ羊太夫ノ碑トス羊ハ半ノ字ノ誤ナラン三郡ノ内三百戸ノ郡トナシ給ヒ半ヲ多胡郡ト成ト讀テ其義通スヘシ
文政十一戌子年四月十七日書以贈示于 美濃部先生 法眼栗本瑞見
●3 銘及び注整序やぶちゃん訓読版[やぶちゃん字注:誤字である「失」は「矢」に直した。「※」=「寺」に(くさかんむり)。]
弁官の符、上野の國片岡郡・緑野郡・甘良郡并びに三郡の内三百戸、郡を成し、羊に給ひ、多胡郡と成す。和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)、宣す。左中弁(さちうのべん)正五位下多治此(たぢひの)真人(まひと) 大政官(たいじやうかん)二品(にほん)穗積親王 左大臣正二位石上尊(いそのかのみこと) 右大臣正二位藤原尊(ふじはらのみこと)
上野多胡郡碑石は、高さ四尺、濶(ひろ)さ二尺。八寸の蓋(かさ)、方(はう)三尺。
按ずるに「日本紀」に云ふ、『和銅四年三月辛亥(かのとゐ)、上野の国甘良郡の織裳(をりも)・韓級(からしな)・矢田・大家(おほやけ)・緑野の武美(むみ)・片罡(かたをか)の郡の山※の六郷を割て別に多胡郡を置くと云々』。始て此の國に多胡郡を置たる時、始て建立せる碑なり。其の文、至て讀がたきにより、土人誤て、羊太夫の碑とす。「羊」は「半」の字の誤ならん。『三郡の内、三百戸の郡となし給ひ、半を多胡郡と成す。』と讀みて其の義、通ずべし。
文政十一戌子(つちのえね)年四月十七日書して以て美濃部先生に贈り示す
法眼(ほうげん)栗本瑞見(ずいけん)
●4 やぶちゃん製図碑模式図
〈HPとの差別化を図るため、省略。〉
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。浅間大噴火後巡検エピソード・シリーズの一つであるが、特に噴火との関連はない点で、特異。この頃になって根岸も忌まわしい噴火後の悲惨以外の、その折りの個人的な関心事を思い出せるようになったものか。PTSDとは言わないまでも、その噴火直後ではないものの、その惨禍の衝撃的印象は根岸にとっても強烈なものであったであろうと私は思うのである。なお、先に「左に其銘を書留ぬ。」の注を御覧頂くようお願いする。
・「上州池村」上野国多胡郡池村。旧群馬県多野郡吉井町。現在は高崎市吉井町池字御門。
・「石文」は石碑・金石文の意。実は現在は、ここに記されたような栗本瑞見の誤読説ではなく、やはり「羊」太夫人名説が真説であるという考え方が支配的であるため、やや長くなるが、ウィキの「多胡碑」から引用する。『碑身、笠石、台石からなり、材質は安山岩、碑身は高さ125センチメートル、幅60センチメートルの角柱で6行80文字の楷書が丸底彫り(薬研彫りとされてきたが、近年丸底彫りであることが判明した)で刻まれている。笠石は高さ25センチメートル、軒幅88センチメートルの方形造りである。台石には「國」の字が刻まれていると言われるが、コンクリートにより補修されているため、現在確認できない。材質は近隣で産出される牛伏砂岩であり、地元では天引石、多胡石と呼ばれている』。『その碑文は、和銅4年3月9日(711年)に多胡郡が設置された』『際の、諸国を管轄した事務局である弁官局からの命令を記述した内容となっている。多胡郡設置の記念碑とされるが、その一部解釈については、未だに意見が分かれている』。『特に「給羊」の字は古くから注目され、その「羊」の字は方角説、人名説など長い間論争されてきた。現在では人名説が有力とされている。また人名説の中でも「羊」氏を渡来人であるする見解が多く、多胡も多くの胡人を意味するものではないかとの見解もある。近隣には高麗神社も存在することから、この説を有力たらしめている』(下線部やぶちゃん)。『多胡碑は現在「御門」という地名に所在するが、この地名は政令を意味する事から「郡衙(ぐんが)」が置かれた場所だと推定されている。郡衙とは郡の役所の事である。多胡碑と性格が類似する多賀城碑が多賀城南門の傍らに建っていた事から、多胡碑も多胡郡衙正門付近、つまり建碑当初からこの地に存在した可能性が高いと考えられている』。『8世紀後半に建碑されたと考えられる多胡碑だが、9世紀後半頃からの郡衙の衰退、その後の律令制の崩壊と共に、多胡碑も時代の闇の彼方に消え去った。再び所在が明らかになるのはおよそ700年後の建久6年(1509年)に連歌師宗長によって執筆された「東路の津登」まで下る。この約700年間、多胡碑がどのような状態で存在したのかを知りえる資料は存在しない。しかしながら碑文の保存状態が良好な事から、碑文側を下にして倒れていた、土中に埋もれていた、覆堂の中で大切に保護されていた、などある程度良好な環境に存在したと推定される。その後約200年の間を空けた後、伊藤東涯により執筆された盍簪録、輶軒小録の二書を皮切りに数多くの文化人を通し、多胡碑は全国に知れ渡っていく』。(以下、近代の興味深いエピソードが続くが中略する)また『書道史の面から見ると、江戸時代に国学者高橋道斎によってその価値を全国に紹介され、その後多くの文人、墨客が多胡碑を訪れている。筆の運びはおおらかで力強く、字体は丸みを帯びた楷書体である。北魏の雄渾な六朝楷書に極めて近く、北魏時代に作成された碑の総称である北碑、特にその名手であった鄭道昭の書風に通ずると言われる。清代の中国の書家にも価値が認められ、楷書の辞典である「楷法溯源」に多胡碑から39字が手本として採用された』とある。この高橋道斎(享保3(1718)年~寛政6(1794)年)は上野国の出身で、農業と醸造業を生業(なりわい)としつつ、井上蘭台に儒学を学んで、詩文・俳諧・書道にもその才能を発揮した人物である。根岸の実見が天明3(1783)年であることを考えると、恐らくこの高橋道斎が本邦自在な多胡の碑の筆致を世に紹介したのを、根岸が聞き知って、特に立ち寄って実見を望んだもののように思われる。現在は写真撮影が許されていない。しかしその美事な筆跡をMAG氏の「くるまでルンルン」のこのページで鑑賞出来る。――のびのびとした、いい字だなあ!――
・「淺間山燒の節關東村々を廻村せし」根岸は浅間大噴火後の天明3(1783)年、47歳の時に浅間復興の巡検役となった。そして、その功績が認められて翌天明4(1784)年に佐渡奉行に抜擢されている。浅間大噴火関連話柄は幾つも既出する。
・「長崎彌之助」岩波版長谷川氏注に、『長崎元居(もとおき)。安永八年(一七七九)家を二十五歳で継ぐ。千八百石天明五年(一七八五)小性組。』とある。
・「陸奧の坪壺の石碑」飛鳥から奈良時代の8世紀前後にかけて造立されたもので、書道史上極めて重要とされている三つの碑(金石文)として栃木県大田原市の那須国造碑・宮城県多賀城市の多賀城碑及び本話柄の多胡碑を日本三古碑と呼称するが、その中の多賀城碑を言うものと思われる。ウィキの「多賀城碑」から引用する。『碑身は高さ約1.86m、幅約1m、厚さ約50cmの砂岩である。その額部には「西」の字があり、その下の長方形のなかに11行140字の碑文が刻まれている』。『天平宝字6年(762年)12月1日に、多賀城の修築記念に建立されたと考えられる。内容は、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩(朝獦)によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれる』。『現在は多賀城跡内の覆堂の中に立つ。江戸時代初期の万治~寛文年間(1658~1672年)の発見とされ、土の中から掘り出されたとか、草むらに埋もれていたなどの説がある。発見当初から歌枕の一つである壷の碑(つぼのいしぶみ)であるとされ著名となった。俳人松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に訪れたことが『奥の細道』で紹介されている』。この碑への偽作説江戸時代末期からあったが、『明治時代に真偽論争が活発になった。現在では真作説が有力である』。なお、岩波版長谷川氏注では、別説として『都母(つも)(青森県北郡天間林(てんまばやし)村)にあった坂上田村麻呂の建てた碑とも』と記す。因みにこの都母(つぼ/つも)の石文(いしふみ)とは桓武天皇による平安遷都の直後、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷首領アテルイを鎮圧するため東北に赴いた都母‘現在の青森県上北郡天間林村大字天間館坪。旧名を坪村という)にて、そこにあった転石に弓の筈(はず)で『日本中央』と書いたとされる伝説の石碑である。西行の歌にも歌われているものの、実体が知られなかった。ロマン性としては此方を採りたいが、近世・近代通して不明で、昭和24(1949)年に突如発見という現在の石は……聊か、ね……。
・「和銅二年」西暦709年。これは口承伝授の内容なので後に示す碑銘等とは若干事実とずれているか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここは『和銅三年』となっている。
・「上野國甘樂郡緑埜郡」以下の碑文の注に譲る。
・「片岡の郡」同じく以下の碑文の注に譲る。
・「左に其銘を書留ぬ。」の後に底本では『(底本、次ニ七行分空白アリ)』とあって本話は断ち切れられている。そこで、ここは底本の脱落を岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の画像から読み取ったもので補い、更にバークレー校版画像に附帯する附加文を追加した。即ち、碑文銘及び根岸のこの記載に対して、後年、幕臣栗本瑞見が注した文章である。それに際しては画像の文字列通りに復刻、その後に、
●1 カリフォルニア大学バークレー校版画像〈HPとの差別化を図るため、省略。〉
●2 銘及び注整序版
●3 銘及び注整序やぶちゃん訓読版
●4 やぶちゃん製図碑模式図(実測値については後注を参照のこと)〈HPとの差別化を図るため、省略。〉
を配して読みの便宜を図った。なお、碑銘の「真」及び瑞見の注記の「上野国」の「国」はどちらもママである。
・「弁官符」「弁官」は太政官と諸官司・諸国との間にあって行政指揮運営の実務を掌った事務次官級実務官。左弁官・右弁官に分かれ、それぞれ更に大・中・少の弁(べん/おおともい)があった。「弁官符」は官宣旨(かんせんじ)又は弁官下文(べんかんのくだしぶみ)のこと。太政官が弁官を通じて諸国諸司・諸社寺等に下した公文書。
・「和銅四年」西暦711年。
・「左中弁正五位下多治此真人」多治比真人三宅麿(たじひのまひとみやけまろ 生没年不詳)。飛鳥時代の官人。父は多治比彦王。母は不明。兄弟に左大臣多治比嶋がいる。真人は姓(かばね)。宣化天皇玄孫。大宝3(703)年、東山道巡察使となって東国に下った。慶雲4年10月には文武天皇大葬御装司となり、後、催鋳銭司(さいじゅせんし:銭貨鋳造担当官。)・造雑物法用司(ぞうざつぶつほうようし:延喜式の造雑物法に記載された食品等の製造管理担当官か?)を歴任。霊亀元(715)年左大弁、養老3(719)年、河内国摂官、養老5(721)年には正四位上に叙せられたが、翌6年1月に藤原不比等を非難した謀反誣告罪により斬刑の判決が下されたが、皇太子首皇子(おびとのみこ:後の聖武天皇。)の奏により死一等減じられて伊豆配流(一説に三宅島はその名を冠したとも)となった。因みに「真人」とは天武13(684)年に天武天皇が制定した八色姓(やくさのかばね)の「貴人」(うまひと)で、継体天皇以降の天皇の皇子の子孫に与えられた姓(かばね)である。
・「大政官二品穗積親王」(天武2(673)年?~霊亀元・和銅8(715)年)。天武天皇皇子(第8皇子とも第5皇子とも)。妻の一人は大伴坂上郎女であったことが知られている。万葉集には4首が載る。高市皇子妻但馬皇女との密通事件で冨に知られる人物。「品」(ほん)は品位(ほんい)で、本邦で親王及び内親王に与えられた位階で一品から四品まであり、無位の者は無品(むほん)とよばれた。
・「左大臣正二位石上尊」石上麻呂(いそのかみのまろ 舒明天皇12(640)年~霊亀3(717)年)。物部氏。白鳳元(672)年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)側につき、皇子の自殺にも立ち会ったが、後、赦されて、和銅元(708)年、藤原不比等とともに正二位に叙せらて、左大臣に登りつめた。「竹取物語」のかぐや姫に求婚する五人の貴公子の一人「石上まろたり」は彼がモデルと言われる。
・「右大臣正二位藤原尊」藤原不比等(斉明天皇5(659)年~養老4(720)年)。藤原鎌足次男。息子四兄弟と共に藤原黄金時代を最初に創生した人物。草壁皇子の子軽皇子(文武天皇)擁立に功あり、その後見人として政界に勢力を拡大、文武天皇外戚となり、後の聖武天皇の外祖父ともなって、権力を恣にした。
・「上野多胡郡碑石高四尺濶二尺八寸蓋方三尺」ここを例えば岩波版では「濶(ひろ)さ二尺八寸。蓋し方(ほう)三尺」と訓読している。私も当初そう読んだのであるが、どうも「蓋し」(思うに)という推量の語がここにどうもしっくりこない気がした。更に、調べるうちに、この訓読では種々のサイトにある多胡の碑の拓本や写真を見て計測してもぴったりこない。遂に古墳研究家である吉田氏のHPにある「群馬藤岡白石古墳群」に記された同碑の詳細データに、『群馬県吉井町池にある多胡(たご)記念館に保存された碑は、高さ125cm幅60cm4角柱上に高さ25cm幅88cm方形の笠石が乗っている。近くで採れる牛伏砂岩(天引石、多胡石)に彫られてい』るという数値を見るに及び、はたと思い当たったのである。どこも「二尺八寸」に相当・適合しないとすれば――これは「二尺八寸」ではないのではないか? という疑義である。そこで考えたのが最初の違和感である「蓋し」であった。これは「蓋し」ではなく、「蓋」(がい)=「笠」ではないかという発見であった。即ち「八寸の蓋(かさ)、方(はう)三尺。」という訓読である。すると、「● やぶちゃん製図碑模式図」中の〈 〉内に示した吉田氏のデータと、美事にそれぞれの数値が近似値になるのである!――こういうの、私は何だかとっても楽しくなってしまうのです!
・「日本紀」「日本書紀」の続編「続日本紀」五の「元明天皇和銅四年三月六日」の条に、ほぼこの碑と同文の『上野國甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等の六郷を割きて別に多胡郡を置く。』とある。
・「織裳」現在の吉井町の折茂(以下「片罡郡山等」までの地域同定は川守氏のHP内「多胡の碑と三宅麻呂」で推定されているものを参照させて頂いた。この多治比真人=三宅麿の同定作業は緻密で手堅い労作である)。
・「韓級」現在の辛科神社のある上神保周辺地域。
・「矢田」現在の吉井町矢田。
・「大家」多胡の碑のある現・池地区の御門周辺地域。
・「緑野武美」緑野郡の武美は、現在の入野中学校校庭付近か。
・「片罡郡山※」[「※」=「寺」に(くさかんむり)。]「片罡郡」=片岡郡の「山等」とは、片岡郡山名で、現在の馬庭から山名にかけての地域。なおネット上には「山※」を「山寺」とする一部の資料があるが、採らない。当初「等」で「など」の意かとも思ったが、これは明らかに「山※」という固有名詞である。読みは不明である。
・「羊ハ半ノ字ノ誤ナラン」先のリンク先で拓本を見て頂きたい。これはどう見ても「羊」であって「半」では、ない。「千蟲譜」の栗本瑞見先生は私の好きな博物学者であるが、これはいけません! 断ずる前に、実物を見に行くべき、せめて知る人がりに頼んで拓本をとって実地に検証すべきでしたね、瑞見先生!
・「三郡内三百戸郡成給」川守氏のHP内「多胡の碑と三宅麻呂」には、以上のそれほど広くはないと思われる三地域『に三百戸の人家があったとすると当時としてはかなりの人口密集地だった』と思われると記されている。これらの地名には、素人である私でも一見して何か異質な非日本的雰囲気が濃厚である。冒頭のウィキの記載を待つまでもなく、多胡とは「胡人(中国で北方異民族を指す語。日本語では広く渡来人を言う)が多い」という意味であろう。562年に伽耶国(かやこく)を新羅が滅ぼして、大和朝廷が新羅と親密な関係を持つようになると、本邦には百済や高句麗から多くの渡来人が移入するようになった。金属精錬等の特殊職能集団や有力な豪族となった秦氏のような帰化人勢力が着実に拡大してゆくが、天武・持統帝(673年~大宝2(702)年)の頃になると、朝廷はそうした有意に増えた渡来人を意図的に遠隔地に集団移住させる方策を採った。これには大宝律令で国外の使節団が往復する主要街道周辺には外来人を居住させない決まりがあったこと以外に、鉱脈探査や関東等の辺地開拓を彼等に役することをも目的としていたものと思われる。その一つが、この新羅系渡来人を構成員とする多胡郡や未開の武蔵国への新羅郡の設置であったのである。
・「『三郡の内、三百戸の郡となし給ひ、半を多胡郡と成す。』と讀みて其の義、通ずべし」と言うのであるが、辻褄の合う現代語訳には苦労した。
『三郡の内、それぞれを三百戸の郡として再編成なさり、そこから外れた丁度半ば程の残りの戸を合わせて多胡郡とする。』
これでは意味が分かったような分からないような、まどろっこしい拙劣訳だ。そこで、
『三郡の中の三百戸を一郡として再編成なさり、そこから外れた丁度半ば三百程の残りの戸を合わせて別な一郡である多胡郡とする。』
という裏技で訳してみる。瑞見先生、そういう意味? それとももっとシンプルに、
『三郡を三百戸の一郡相当と、まずなさった上で、その丁度半分を多胡郡とする。』
ということか? でもだとすると「の内」というのは如何にもおかしい。とりあえず最後の訳を用いたが、ともかく、瑞見先生、現代語訳も苦しいですよ。やっぱり、先生、「半」じゃない「羊」でんがな(どなたか目から鱗の訳仕方があれば、御教授あれ)。
・「美濃部先生」岩波版長谷川氏注は美濃部『茂資(もちすけ)、五百石御所院番。茂嘉(しげよし)五百石同。義求(のりまさ)、百五十俵。何れに当るか未詳。』とする。
・「法眼」本来は「法眼和尚位」の略で、法印に次ぐ僧位の名称であったが、中世以後は僧に準じて医師・絵師・仏師・連歌師などに称号として与えられた。栗本の場合は医官。
・「栗本瑞見」栗本昌臧(まさよし 宝暦6(1756)年~天保5(1834)年)。通称。瑞見。日本で最初の昆虫図説として名高い彩色写生図集「千蟲譜」(リンク先は私の電子テクスト目次。「栗本丹洲」のところをご覧あれ水族パートを翻刻してある)で知られる医師・本草学者。田村藍水次男であったが幕府医官栗本昌友養子となった。寛政元年奥医師として医学館で本草学を教える傍ら、昆虫・魚介類等の研究を行い、日本の博物学史に重要な足跡を残した人物である。この時、既に何と73歳。
・「文政十一戌子年」西暦1828年。
■やぶちゃん現代語訳
上州池村石碑の事
浅間山大噴火の際、その巡検役として関東の村々を巡って御座ったが、その折り、長崎弥之助殿知行所上野国(こうづけのくに)片岡郡池村にとある石碑があった。
世に陸奥の壺の石碑が古物(こぶつ)とて、世間でも話題になって御座るが、この池村の碑が噂に上ること、これ、聞かぬ。
その土地の者に訊いたところが、
「和銅二年に上野国甘楽(かんら)郡・緑埜(みとの)郡を分けて新たに片岡郡として、羊太夫と申す者にその地を給わったことを記念して御座る碑にて御座います。」
とのことで御座った。
実見し、読んでみたところ、正にその通りで御座った。
石刷りにして持ち帰ったが、碑面、如何にも古物にして、その字も能書にて御座る。左にその銘を書き留めおく。
弁官の符
上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡並びに三郡の内三百戸を新たな一郡として編成し直し、羊なる者にこれを給い、それを多胡郡と呼称する。
和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)の日、これを宣言する。
左中弁 正五位下 多治此真人(さちゅうのべん しょうごいげ たじひのまひと)
大政官 二品 穂積親王(たいじょうかん にほん ほずみしんのう)
左大臣 正二位 石上尊(さだいじん しょうにい いそのかみのみこと)
右大臣 正二位 藤原尊(うだいじん しょうにい ふじわらのみこと)
[栗本瑞見注:
上野多胡郡の碑石は碑面の高さ四尺・幅二尺。それに高さ八寸で三尺四方の蓋(かさ)を配す。
按ずるに「続日本紀」の和銅四年三月辛亥(かのとい)の条に『上野国甘良郡の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田・緑野武美(みとのむみ)・片岡郡の山※の六郷を分割再編し、別に新たに多胡郡を置く。云々」とある。初めてこの上野国に多胡郡を配置した際、それを記念して初めて建立した碑である。その文字は至って読み難いために、土地の者はこれを誤って「羊太夫の碑」としてしまった。この「羊」の字は「半」の字の誤りであろう。『三郡を三百戸の一郡相当と、まずなさった上で、その丁度半分を多胡郡とする。』と読んだならば、その文意が通ずるように思われる。
文政十一戌子(つちのえね)の年四月十七日に書き記して以って美濃部先生に贈る。
法眼(ほうげん)栗本瑞見]
[やぶちゃん字注:「※」=「寺」に(くさかんむり)。]