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« 耳嚢 巻之二 好む所左も有べき事 | トップページ | 耳嚢 巻之二 義は命より重き事 »

2010/05/25

耳嚢 巻之二 志す所不思議に屆し事

「耳嚢 巻之二」に「志す所不思議に屆し事」を収載した。

 志す所不思議に屆し事

 山川下總守いまだ御小納戸勤ける時、同役の山村十郎右衞門差料の鍔(つば)の形甚(はなはだ)面白きとて、其形を以て新規に打せ度(たく)望(のぞみ)なれば、則(すなはち)十郎右衞門鍔をはづして下總守方へ送りけるに、其職せる者の方へ右の鍔を持せ遣しける路にて、右使の者いづちにや彼鍔を落しける由。其僕の無念(ぶねん)を呑めぬれども、人の祕藏の鍔を紛失せし事の氣の毒さに、色々右途中其外搜しぬれども行方なければ、詮方なくて山村へ詫けるに、山村も落し候上は是非なしとて其儘にて事過ぬ。され共下總守心には、何卒右鍔を尋、似たる品也共買得て戻しなんと常に心にかゝりしが、山村は京都町奉行に成て上京し、下總守は御目付へ出て、一と年久能御普請に御作事奉行代りを勤(つとめ)駿州(すんしう)へ參りつるが、其時御目付代りにて御使番より小長谷(こながや)喜太郎駿府へ行て同じく御普請の掛りなしけるに、喜太郎が方へ下總守至りし時、茶など運びし喜太郎家來の帯しける脇差の鍔を見るに、先達(せんだつ)て失ひし鍔にまがふかたなければ、夫(それ)となしに所望して能々見るに、聊違なかりける故大に悦びて、喜太郎家來へ相應の挨拶謝禮して申請、御用濟て歸府の上、早速山村方へ登せけるに、兩三年の事なれ共、下總守へ通し候節鍔をはづしたる儘にて有し故、仕合見(しあはせみ)しに少しも違はざりしと。信濃守後に御勘定奉行に成りて語りしが、山川も同く咄ける。今に山村信濃守にて都返(みやこがへ)りとて祕藏なしけるよし。

□やぶちゃん注

○前項連関:酒への執心、紛失した鍔への執心で連関。

・「山川下總守」(享保171732)年~寛政2(1790)年)岩波版長谷川氏注によれば、『貞幹(さだもと)。宝暦三年(一七五三)西丸御小納戸、同十年本丸御小納戸。安永三年(一七七四)御徒歩頭、同四年目付、同年久能普請に関与。』とある(下線部やぶちゃん)。

・「御小納戸」将軍側近の小姓に準じて常に将軍に伺候し、小姓の下で将軍の食事膳方・居室や御庭の管理清掃・理髪・手水・時計管理・老中及び若年寄登城報告等、極めて煩瑣な身辺雑用御用全般を担当した。

・「山村十郎右衞門」山村良旺(たかあきら:享保191734)年~寛政9(1797)年)。岩波版長谷川氏注によれば、『宝暦三年西丸御小納戸、同八年本丸御小納戸。明和五年(一七六八)目付、安永二年(一七七三)京都町奉行、同年信濃守、同七年勘定奉行。』とある。勘定奉行は天明4(1784)年までで、同年から寛政元(1789)年まで南町奉行を勤めている(根岸の4代前である)。この人物、相当に有能な人物であったことを、この大抜擢の経歴が物語っている。

・「京都町奉行」寛文81669)年、京都に設置された遠国奉行の一。老中支配ながら実務上は京都所司代の指揮下で職務を行った。東西奉行所が設置されて江戸・大坂の町奉行と同様、東西1ヶ月ごとの月番制であった(但し、奉行所名は東御役所及び西御役所と呼称された)。京都の行政・裁判に加え、周辺4ヶ国の裁判・天領の行政及び門跡寺院を除いた寺社領の支配を職掌とする多忙な重職であった(以上はウィキの「京都町奉行」を参照した)。

・「御目付」旗本・御家人の監察役。若年寄支配。定員10名。

・「一と年」後述する小長谷喜太郎の事蹟からこれは安永5(1776)年であることが分かる。

・「久能御普請」「久能」は現在の静岡県静岡市駿河区にある久能山東照宮のこと。晩年を駿府で過ごした徳川家康は元和2(1616)年死去後、その遺命によって、この地に埋葬された。元和3(1617)年、二代将軍秀忠によって社殿が造営。後、三代将軍家光が造営した日光東照宮へは、ここから御霊(みたま)の一部が移された。「久能御普請」とはこの久能山東照宮の50年に一度の社殿及び付属諸建物の漆塗り替え及び補修普請のことを言っているものと思われる。

・「御作事奉行」幕府関連建造物の土木・造営・修繕を掌った。特に木工仕事が主業務で、大工・細工・畳・植木・瓦などの部署をも統括していた。

・「駿州」駿河国。現在の静岡県の大井川左岸の中部と北東部域に相当する。

・「御使番」若年寄支配。目付に従って二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの遠国奉行や代官といった地方で職務を執行する幕府官吏を監察する業務に従事し、江戸市中火災時に於ける大名火消・定火消の監督なども行った。元来は戦国時代、戦場に於ける伝令・監察・使者を務めた役名に由来する(以上はウィキの「使番」を参照した)。

・「小長谷喜太郎」小長谷政房(元文5(1740)年~安永9(1780)年)。底本鈴木氏注によれば、明和4(1767)年御小姓、安永3(1774)年御使番、同5(1776)年『久能山御宮修補のことをつとめ黄金十枚賞賜さる』。同7(1778)年、寄合。生き急いだ感じの人物である。美少年だったのかなあ……。

・「駿府」駿河国国府。明治になって現在の静岡市に改称。

・「兩三年の事なれ共」の言葉により、本話柄の前半は安永2(1773)年の山村十郎右衞門良旺が京都町奉行になる直前の出来事であったことが分かる。

・「御勘定奉行」勘定奉行。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。定員約4名、役高3000石。老中支配で、勘定奉行自身は郡代・代官・蔵奉行などを支配した。享保6(1721)年、財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれた(以上はウィキの「勘定奉行」を参照した)。

・「都返り」京都に江戸から齎された帰って来た鍔――京都町奉行時代の多忙な日々の思い出に勘定奉行に昇進して帰府した記念として名付けたか。

■やぶちゃん現代語訳

 一心の思いの不思議に届くという事

 山川下総守貞幹殿が、未だ御小納戸役を勤めて御座った頃、同僚の山村十郎右衛門良旺殿の差料の鍔(つば)を見て、

「その御鍔の姿、甚だ面白う御座る。それを型と致いて以って新たに打たせてみとう御座るが、如何か?」

と望んだ故、その日の内に、山村殿、快くかの鍔を外して下総守殿屋敷に送って御座った。

 そこで下総守殿も直ぐに家来の者に命じ、出入りの彫金職人の元へこの鍔を見本の型として届けさせたところが、この使いの者、一体、どこでどうしたものか、その途次、大事な鍔を紛失してしもうたのであった。

 下総守殿はこの下僕の不注意を急度(きっと)叱りつけてはみたものの、ないものは、ない――他人から借りた大事な鍔を紛失したというこの余りのなさけなさに――さんざん人を遣わしては、かの職人方への道すがらなんど、目ぼしい所を随分と探させては見たけれども、ないものは、ない――結局、見つからず仕舞いで御座った。

 詮方なく、下総守殿は山村殿に正直に事実を述べ、深く詫びて御座ったが、山村殿も、

「いや、後家来衆が落といたとなれば、これ、是非もないこと。諦めましょうぞ。」

と、惜しみ気にする風情もなく、至って温和に受け流して、その場はこともなく過ぎて御座った――。

 ――そうは言うものの、下総守殿、内心には、

「……何卒、かの鍔、必ずや尋ね求め……せめてかの面影に似た品なりとも買い求め、山村殿へお返しせずんば申し訳が立たぬ……」

と――いつまでも、その心のどこかに、この鍔が――かちり――と引っ掛かって御座ったのであった。

 しばらくして、安永二年に山村殿は京都町奉行と相成られて上洛、下総守殿は同二年に御目付へ昇進なされた。

 そんな、安永五年の年、下総守殿、久能山御普請に当たって幕府御作事奉行代行として駿州へと参上致いたのだが、その時、やはり御目付の代行として御使番を勤めて御座った小長谷喜太郎殿が駿府に行き、同じく普請監督の係りに就いて御座った。

 喜太郎殿宿所へ下総守殿が訪ねた折りのこと、茶などを運んで参った喜太郎殿御家来が腰に帯しておるところの脇差の鍔が、たまたま下総守殿の目に入った。

 すると――それは!――

 先に紛失致いた、あの鍔にまごうかたなきものにて御座った――。

 下総守殿が、落ち着きを装いつつ、それとなく所望致いて、間近によくよく見てみたところが――やはり!――聊かの違いも、これ御座ない。

 下総守はもう、芝居もばれる大喜び――喜太郎殿に礼を正して正直に訳を話し、その家来へも相応の謝礼を成して、何事もなく気持ちよく鍔を譲渡して貰った。

 下総守、普請御用が済んで江戸に帰府後、直ちに京都の山村殿の元へ右鍔を送らせたところ――山村殿方からの返し、

『もうあれから三年も経って御座ったが、下総守殿に鍔を遣わしたる節、かの差料は、鍔を外したままにして今も御座った故、送って下された鍔を、それに合わせてみたところが、いや! ぴたりと嵌まって少しも違わざるものにて御座った。』

とのことであった。

 これ、信濃守殿が、後に御勘定奉行となられた折りに私に語られた話にて御座る。

 同じく私の知り合いで御座る山川下総守殿も全く同じように話しておられた。

 いまも山村信濃守の家内(いえうち)に『都返り』と名付けられて秘蔵されておるとのことで御座る。

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