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2010/05/13

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月13日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十四回

Kokoro13_3   先生の遺書

   (二十四)

 東京へ歸つて見ると、松飾はいつか取拂はれてゐた。町は寒い風の吹くに任せて、何處を見ても是といふ程の正月めいた景氣はなかつた。

 私は早速先生のうちへ金を返しに行つた。例の椎茸も序に持つて行つた。たゞ出すのは少し變だから、母が是を差上げて吳れといひましたとわざ/\斷つて奧さんの前へ置いた。椎茸は新らしい菓子折に入れてあつた。鄭寧(ていねい)に禮を述べた奧さんは、次の間へ立つ時、其折を持つて見て、輕いのに驚ろかされたのか、「こりや何の御菓子」と聞いた。奧さんは懇意になると、斯んな所に極めて淡泊な小供らしい心を見せた。

 二人とも父の病氣について、色々懸念の問を繰り返してくれた中に、先生は斯んな事をいつた。

 「成程容體を聞くと、今が今何うといふ事もないやうですが、病氣が病氣だから餘程氣をつけないと不可ません」

 先生は腎臟の病に就いて私の知らない事を多く知つてゐた。

 「自分で病氣に罹つてゐながら、氣が付かないで平氣でゐるのがあの病(やまひ)の特色です。私の知つたある士官は、とう/\それで遣られたが、全く噓のやうな死に方をしたんですよ。何しろ傍(そば)に寢てゐた細君が看病をする暇(ひま)もなんにもない位(くらゐ)なんですからね。夜中に一寸(ちよつと)苦しいと云つて、細君を起したぎり、翌る朝はもう死んでゐたんです。しかも細君は夫が寢てゐるとばかり思つてたんだつて云ふんだから」

 今迄樂天的に傾むいてゐた私は急に不安になつた。

 「私の父(おやぢ)もそんなになるんでせうか。ならんとも云へないですね」

 「醫者は何と云ふのです」

 「醫者は到底治らないといふんです。けれども當分の所心配はあるまいともいふんです」

 「夫ぢや好(い)いでせう。醫者が左右いふなら。私の今話したのは氣が付かずにゐた人の事で、しかもそれが隨分亂暴な軍人なんだから」

 私は稍(やゝ)安心した。私の變化を凝と見てゐた先生は、それから斯う付け足した。

 「然し人間は健康にしろ病氣にしろ、どつちにしても脆いものですね。いつ何んな事で何んな死にやうをしないとも限らないから」

 「先生もそんな事を考へて御出ですか」

 「いくら丈夫の私でも、滿更考へない事もありません」

 先生の口元には微笑の影が見えた。

 「よくころりと死ぬ人があるぢやありませんか。自然に。それからあつと思ふ間(ま)に死ぬ人もあるでせう。不自然な暴力で」

 「不自然な暴力つて何ですか」

 「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使ふんでせう」

 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力の御蔭ですね」

 「殺される方はちつとも考へてゐなかつた。成程左右いへば左右だ」

 其日はそれで歸つた。歸つてからも父の病氣の事はそれ程苦にならなかつた。先生のいつた自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいふ言葉も、其場限りの淺い印象を與へた丈で、後は何等のこだわりを私の頭に殘さなかつた。私は今迄幾度か手を着けやうとしては手を引つ込めた卒業論文を、愈(いよ/\)本式に書き始めなければならないと思ひ出した。

Line_4

 

やぶちゃんの摑み:先生の口から「自殺」の語が語られる初出部分(本文でも初出)として重要なシーンである。ここでタイトル画が変更される。このフォーヴな人物を配したタイトル画は実にこの後、(五十三)まで用いられる。(五十三)章とは、実は「こゝろ」「中」の終わりから一つ目(「十七」)で、「私」が前章で到着した先生の遺書を、初めて読み始めるシーンである。残念ながらこのタイトル画は恐らく総て、作品の内容を考えた画ではない。しかし、(五十三)までが一種の「私」の苦悩を中心に展開することを考えると、この考える人みたような人物の背景は何となくしっくり来る(但し、これはスカートを穿いた女性像であろう)。

 

「松飾はいつか取拂はれてゐた」当時の習慣から言って(六日夕刻に松飾は外す)これは1月7日以降である。大学の始業は1月8日であるから、この訪問は明治451912)年(この時の「私」の年齢は推定23歳)1月7日であった可能性が高い。

 

「夜中に一寸苦しいと云つて、細君を起したぎり、翌る朝はもう死んでゐたんです。しかも細君は夫が寢てゐるとばかり思つてたんだつて云ふんだから」これは種々の腎臓病が悪化し、脳卒中を伴った尿毒症性昏睡若しくはそれによって二次的に生じた心不全のための卒倒・昏睡そして死の様態であろう。

 

「殺される方はちつとも考へてゐなかつた。成程左右いへば左右だ」先生は自身の自殺のことばかりを考えていて「殺される方はちつとも考へてゐなかつた」のである。先生の尋常ならざる不断の自殺念慮を明白に見て取ることが出来る台詞である。

 

「私は今迄幾度か手を着けやうとしては手を引つ込めた卒業論文を、愈本式に書き始めなければならないと思ひ出した」この明治451912)年の東京帝国大学の卒論提出期限は4月30日であった。本件に関しては、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注が詳しい。そこで藤井氏は明治391906)年東京帝国大学を卒業した作家森田草平の昭和221947)年の作品「漱石先生と私」から引用して卒業論文の『提出の期限は四月一杯と前から極っていた』と記す。更に金子健二『金子健二の日記によると、このあと五月末に卒業論文の成績発表、そしてその合格者への口頭試験は六月中旬に行われている』とある(藤井氏が参照したのは1948年いちろ社刊の「人間漱石」からである)。金子健二(明治18(1880)年~昭和371962)年)は、新潟県出身の英文学者。高田中学校から東京郁文館中学校・第四高等学校を経、明治381905)年に東京帝国大学英文科を卒業している。]

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