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2010/05/22

耳嚢 巻之二 其法に精心をゆだねしるしある事

「耳嚢 巻之二」に「其法に精心をゆだねしるしある事」を収載した。

 其法に精心をゆだねしるしある事

 或人の語りけるは、日蓮いまだ初學の時、建長寺の開山大覺禪師は老分にて其德も勝れたれば、日蓮も親しみて隨心なりけるが、或時日蓮へ雨乞の事命ありければ、右禪僧へ向(むかひ)て「かく/\の事也、我行力(ぎやうりき)にて雨降んやと申ければ、隨分捨身だにして一途に祈らんに、行法空しかるべき樣なしと答ふ。日蓮も姶始て覺悟して其寺に戻り、一七日斷食して一室にとぢ籠(こもり)、命をかけて祈ける。若(もし)雨を祈得ずば立所に死(しな)んと念じければ、果して感應(かんのう)の雨を得けるにぞ、都鄙(とひ)其行法を稱しける故、壇を下りて直に右禪僧へ至りて其禪師を尋しに、彼禪師は未一室に入てありし故かくかくと語りければ、彼禪師悦びて立出ぬるが、是も七日斷食をなして行法なしける故、日蓮其やうを尋ければ、御身は雨乞の命を受たれば命に代りて祈らんはさら也、我は命を不請(うけず)といへども、百姓の愁ひを救ふは宇宙に生ずるものいかで等閑(なほざり)にせん、御身の行力は雨乞得んなれども、もし乞(こひ)得ざる時の爲に我も祈りしとなり。日蓮も生涯右禪師の徳を耕稱し感嘆なしけると也。故人はかく難有心も有りし也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。以前にも示したが、鎭衞の実家安生家の宗旨は禅宗の曹洞宗、根岸鎭衞の墓は東京都港区港区六本木の善学寺という寺院にあることから、根岸家の宗旨は浄土宗であることが判明している。今までの複数の記事から、根岸が日蓮宗が特にお嫌いであること、これ最早、ダメ押しで明白。

・「日蓮いまだ初學の時」「初學の時」とある以上、日蓮(貞応元(1222)年~弘安5(1282)年)が日蓮宗を開宗する以前である。日蓮は天福元(1233)年に天台宗(後に日蓮宗に改宗)清澄寺(現在の鴨川市在)の道善に入門、暦仁元(1238)年出家後、仁治元(1240)年に比叡山及び高野山に遊学、建長5(1253)年の清澄寺帰山直後の4月28日早朝、日の出に向かって「南無妙法蓮華経」を十度唱えて立教開宗、この日の正午には清澄寺持仏堂にて初説法を行ったとされている。後に鎌倉に渡り、文応元(1260)年には「立正安国論」を著して北条時頼に提出、他宗を厳しく排撃、幾多の法難を受ける。その後、文永5(1268)年蒙古の襲来によって「立正安国論」の予言的中を訴え、幕府及び建長寺蘭渓道隆、極楽寺忍性等に十一通の日蓮宗への改宗を促す書状を認めている。しかし、その修行時代に日蓮が蘭渓道隆に接心したとしてもおかしくない。寧ろ「立正安国論」の外患の予告は修行時代に接心したかも知れない渡来僧蘭渓からの情報であったと考えてもよいように思われる。但し、ここにあるような密接な関係や雨乞いの事実については私の鎌倉郷土史研究の中では出逢ったことはない。日蓮の雨乞いの法力は夙に著名で、鎌倉では文永8(1271)年の旱魃の折りに極楽寺の忍性(にんしょう)と雨乞い法力を競い勝ったとする伝承が知られ、その際、法を修したという池が七里ヶ浜近くの山上にある霊光寺内に残っている。本話柄は後世に忍性との勝負譚をベースに非日蓮系の仏教徒によって偽造された作話であろう。「老分」と言うが、仮に日蓮開宗の直前で20代後半、蘭渓道隆は未だ40歳前である。

・「建長寺」臨済宗建長寺派大本山巨福山建長寺。鎌倉五山第一位。建長5(1253)年創建。本尊地蔵菩薩、開基鎌倉幕府第5代執権北条時頼(嘉禄3(1227)年~弘長3(1263)年)、開山蘭渓道隆(次注参照)。

・「開山大覺禪師」蘭溪道隆(建保元(1213)年~弘安元(1278)年)。南宋西蜀(現在の中国四川省)から渡来した禪僧。「大覺禪師」は諡(おくりな)。蘭渓は道号、道隆は諱(いみな)である。以下、ウィキの「蘭渓道隆」から引用する。『13歳で出家し、無準師範、北礀居簡に学んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぐ。1246(寛元4年)33歳で、入宋した泉涌寺僧、月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日』し、『筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼』が深く帰依し、招かれて北条氏の個人的な祭祀寺院として創建された建長寺開山となった。一時期、元の密偵の嫌疑を懸けられたり、讒言を受けたりして伊豆や甲斐国(現・山梨県)に身を置いた時期もあるが、京都の建仁寺や鎌倉の寿福寺等を経て、最後は建長寺に戻って没した。建長寺西来庵に現存する木造蘭渓道隆像は私の好きな鎌倉芸術(造像は室町時代)の一つである。

・「一七日」衍字、若しくは「一(ひと:一週)七日」の意か。七日で採る。

■やぶちゃん現代語訳

 その法に一心を委ねれば効験のある事

 ある人が語った話。

 日蓮がまだ学僧であった頃、建長寺にその開山であった大覚禅師とかいう出家が御座った。徳も優れて御座った老僧で御座ったれば、日蓮も日頃より親しく教えを請うておった。

 あるとき、その日蓮に雨乞いの命が下った。日蓮はこの大覚禅師に対面(たいめ)し、

「我ら、雨乞いを命じられ申した。我が法力にて、これ、雨降りましょうや!?」

と申し上げたところ、

「一途に捨身(しゃしん)致いて一心に行じたらんには、その行法、空しくして験(げん)あらざるなんどということ、これ、なし!」

と答えた。

 日蓮はこれを聞きて始めて覚悟致いて、己(おの)が寺に戻ると七日断食して一室に閉じ籠もり、命を懸けて祈ったのであった。

「――もし雨を祈り得ざれば、直ちに死なん!」

と念じて修したところ、果たして法力に感応して雨を得た――と思うた――。

 京鎌倉と言わず鄙と言わず世の人々はこぞって日蓮が法力を褒め讃えた。

 ――さて雨乞いに成功するや、日蓮は法を修して御座った壇を下りると、真っ先にかの建長寺に駆け込んで、禪師を訪ねたところ、かの禪師は一室に籠もって御座った故、日蓮が、

「禪師! 雨、これ、降り申した!」と告ぐると、かの禅師、満面の笑みを浮かべ、部屋を出て来たのであったが――聞けば、禪師もまた、七日断食致いてある行法を執り行っておったとのこと。

 日蓮が、

「何の行法をなされて御座ったのですか?」

と訊ねたところ、

「――御身は雨乞いの命を受けた。なればこそ一命に代えて祈らんは当然のことじゃ。――拙僧は命を受けては御座らねど、民百姓の愁いを救うは、これ、この宇宙に生を享けた者として、何故、等閑(なおざり)にすること、これ、出来ようか?! 御身の法力にては雨を乞い得るであろうこと必定――なれども――万が一、乞い得ざる折りのため、我も祈って御座ったのじゃ――」

とのお答であったと。

 これに日蓮も感涙に咽び、生涯、この禪師の徳を讃え感嘆致いた、ということで御座る。

 古えの人には、かく有り難いありがたい誠心、これ、あったことで御座る。

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