耳嚢 巻之二 義は命より重き事
「耳嚢 巻之二」に「義は命より重き事」を収載した。短い話し乍ら、絶望的で一読、忘れ難いのだ……僕の前世はこの非人だったのかも知れない……僕にはこの浪人が子を川へ投げ捨て、欄干を自ずとまたぐのを見た記憶が、確かにあるからである……
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義は命より重き事
近き頃の事とや。いか成者の身の果なるや、兩國橋にて袖乞(そでごひ)しける浪人、四五才の子をつれて往來へ合力(かふりよく)を願ひけるが、或日往來の情(なさけ)もなくて一錢も貰ひ得ざりしに、其子空腹に成しや頻りに泣て不止、親も不便に思ひて辻に出し餠賣に、此者空腹とて歎けども未一錢も貰ひ得ず、後程貰ひなば可遣間、一つ商ひ呉候樣に申ければ、餠賣聞て、我等も今朝より商ひなし、難成よしつれなく申ければ、いとゞ其子は泣さけびけるに、側に居(をり)し雪踏直しの非人、有合(ありあひ)の錢を少々遣し、甚(はなはだ)の御難儀也立替進ずる由申ければ、忝(かたじけなき)由厚く禮いふて彼餠を調へ其子へあたへ、往來へ願ひ錢を乞受(こひうけ)かの非人へ戻し、其子を橋の上より川中へ投入、我身もつゞきて入水(じゆすい)して果しと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。しかし余りと言えば余りの悲惨な話ではないか。これが「命」より重い「義」か? 餅売りが餅を与えていたら、この浪人も子も入水しなかったと考えた時、ますます私の憂鬱は完成するのだ。――「好死不如惡活」(好死は惡活に如かず)(清・翟灏著「通俗編」巻三十八)――この話、一読、酷く哀しい。その情景が私には見てきたように眼前に浮かぶのである。
・「袖乞」行く人の袖を引いて物を乞うこと。物乞い。
・「合力」経済的援助。
・「雪踏直しの非人」「雪踏」は雪駄。草履の一種で竹皮で丁寧に編んだ草履の裏面に獣皮を貼って防水機能を与えたもので、皮底の踵(かかと)部分には後金を打って保護強化されている。特に湿気を通し難い構造になっている。「雪駄直しの非人」江戸の非人は、全国の被差別部落に号令する権限を幕府から与えられていた穢多頭(えたがしら)であった浅草矢野弾左衛門(歴代この名を襲名した)の統轄下に置かれていた。町外れや河原の非人村の小屋を居住地とし、大道芸・罪人市中引廻しや処刑場手伝い・町村の番人や本話のような各種の卑賤な露天業・雑役、物乞いを生業(なりわい)としていた。ウィキの「非人」には更に、『死牛馬解体処理や皮革処理は、時代や地域により穢多』『との分業が行われていたこともあるが、概ね独占もしくは排他的に従事していたといえる。ただしそれらの権利は穢多に帰属した』と記す。この見かねた非人――先行する「卷之二」の「非人に賢者ある事」を参照されたい。このような真心を持った人々が社会の底辺にいた、いや、底辺にこそ、いるのである。
■やぶちゃん現代語訳
義は命より重いという事
近き頃のことである。
如何なる武士のなれの果てか、両国橋にて、物乞いをする浪人――四、五歳の子を連れていた――、往来の者に施しを願ってその日暮しをしていた。
ある日のこと、往来の情けに恵まるること、これなく、日がな一日経っても、一銭も貰うこと、出来なんだ。
その子、腹がへってどうにもならずなったか、頻りに泣いて止まぬ。
親たる浪人も不憫に思うて、傍らに辻に出張っておった餅売りに、
「……この者、空腹故、泣いて御座るが、今日は未だ一銭の施しさえも得ること、これ、御座らぬ。……後程、貰ろうたれば、必ずお返し致すによって、……餅を一つ、売って下されよ……」
と申した。しかし餅売りはそれを聞いても、
「我らも今朝から、いっちょも売れず、商売上がったり。お断りだね。」
とけんもほろろに断った。
――ますます、子は泣き叫ぶ――
――と、その時、たまたま側にいた雪駄直しの非人、あり合わせの銭を少々浪人に差し出だいて、
「……畏れながら、甚だ難儀のご様子。……賤しき者ながら、拙者が立て替えて進ぜましょうぞ。」
と申したので、浪人は、
「……!?……か、忝(かたじけな)い!…………」
と厚く礼を言うて金子を受け取ると、それで餅売りから餅を買い、子に与えた上、再び往来に立って銭を乞うた。
――暫くして、餅代に叶う幾足りかの施しを貰ろうた。
――すると浪人は、その立て替えて分の銭を非人に戻すと――
――橋の上より子を川に投げ入れ、我が身も後に続いて――入水し果てて御座った。――
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