『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月29日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十七回
(三十七)
宅(うち)へ歸つて案外に思つたのは、父の元氣が此前見た時と大して變つてゐない事であつた。
「あゝ歸つたかい。さうか、それでも卒業が出來てまあ結構だつた。一寸(ちよつと)御待ち、今顏を洗つて來るから」
父は庭へ出て何か爲てゐた所であつた。古い麥藁帽の後(うしろ)へ、日除のために括り付けた薄汚ないハンケチをひらひらさせながら、井戶のある裏手の方へ廻つて行つた。
學校を卒業するのを普通の人間として當然のやうに考へてゐた私は、それを豫期以上に喜こんで吳れる父の前に恐縮した。
「卒業が出來てまあ結構だ」
父は此言葉を何遍も繰り返した。私は心のうちで此父の喜びと、卒業式のあつた晩先生の家の食卓で、「御目出たう」と云はれた時の先生の顏付とを比較した。私には口で祝つてくれながら、腹の底でけなしてゐる先生の方が、それ程にもないものを珍らしさうに嬉しがる父よりも、却(かへつ)て高尙に見えた。私は仕舞に父の無知から出る田舍臭い所に不快を感じ出した。
「大學位卒業したつて、それ程結構でもありません。卒業するものは每年何百人だつてあります」
私は遂に斯んな口の利きやうをした。すると父が變な顏をした。
「何も卒業したから結構とばかり云ふんぢやない。そりや卒業は結構に違ないが、おれの云ふのはもう少し意味があるんだ。それがお前に解つてゐて吳れさへすれば、‥‥」
私は父から其後を聞かうとした。父は話したくなささうであつたが、とうとう斯う云つた。
「つまり、おれが結構といふ事になるのさ。おれはお前の知つてる通りの病氣だらう。去年の冬お前に會つた時、ことによるともう三月か四月位なものだらうと思つてゐたのさ。それが何ういふ仕合せか、今日迄斯うしてゐる。起居(たちゐ)に不自由なく斯うしてゐる。そこへお前が卒業して吳れた。だから嬉しいのさ。折角丹精した息子が、自分の居なくなつた後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに學校を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだらうぢやないか。大きな考を有つてゐるお前から見たら、高が大學を卒業した位(くらゐ)で、結構だ/\と云はれるのは餘り面白くもないだらう。然しおれの方から見て御覽、立場が少し違つてゐるよ。つまり卒業はお前に取つてより、此(この)おれに取つて結構なんだ。解つたかい」
私は一言(いちごん)もなかつた。詫(あや)まる以上に恐縮して俯向いてゐた。父は平氣なうちに自分の死を覺悟してゐたものと見える。しかも私の卒業する前に死ぬだらうと思ひ定めてゐたと見える。其卒業が父の心に何の位(くらゐ)響くかも考へずにゐた私は全く愚ものであつた。私は鞄の中から卒業證書を取り出して、それを大事さうに父と母に見せた。證書は何かに壓し潰されて、元の形を失つてゐた。父はそれを鄭寧(ていねい)に伸した。
「こんなものは卷いたなり手に持つて來るものだ」
「中に心(しん)でも入れると好かつたのに」と母も傍(かたはら)から注意した。
父はしばらくそれを眺めた後、起つて床の間の所へ行つて、誰の目にもすぐ這入るやうな正面へ證書を置いた。何時もの私ならすぐ何とかいふ筈であつたが、其時の私は丸で平生と違つてゐた。父や母に對して少しも逆らう氣が起らなかつた。私はだまつて父の爲すが儘に任せて置いた。一旦癖のついた鳥の子紙の證書は、中々父の自由にならなかつた。適當な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢を得て倒れやうとした。
[♡やぶちゃんの摑み:本章の重要な小道具である卒業証書については、先行する(三十二)の私の冒頭注を参照されたい。
♡「鳥の子紙」奉書紙と共に代表的な和紙の名。平安期には斐紙(ひし)と呼ばれたが、後、筆運びの滑らかさと色(赤味を帯びた鶏の卵に似る)から「鳥の子紙」と呼称されるようになった。紙質が滑らかで書き易く且つ耐久性に富み、虫害を受け難いため、長期に保存に耐えるというメリットを持つ。現在、手漉きの鳥の子は「本鳥之子」と呼ばれ、高級品。一般に言われる現在の鳥の子紙は「新鳥の子紙」で本来の風合いに似せてパルプで作った洋紙である。
♡「適當な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢を得て倒れやうとした」是非とも1955年市川昆監督作品「こころ」のこの場面を見て、笑おう! スタッフが糸で操作して如何にもな感じでこれでもかって倒れる様が、完全に笑える! 因みに「私」は「日置」という姓で安井昌二(「チャコちゃん」のお父さんと言う方が僕の世代には通りがよい)が演じ、その父は鶴丸睦彦、母はあの北林谷栄であった。大好きな北林さんのあの声で――「中に心でも入れると好かつたのに」――シビレます。あの時、まだ北林さんは44歳だった。僕より十近く若かったんだなぁ……感慨……。以下、みんな、北林さんの声で読みましょう!]
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