「こゝろ」序 夏目漱石
[やぶちゃん注:大正3(1914)年9月20日岩波書店刊の単行本「こゝろ」巻頭に記された。底本は昭和49(1974)年ほるぷ刊の復刻本「こゝろ」を用いた。]
序
『心』は大正三年四月から八月にわたつて東京大阪兩朝日へ同時に掲載された小説である。
當時の豫告には數種の短篇を合してそれに『心』といふ標題を冠らせる積だと讀者に斷わつたのであるが、其短篇の第一に當る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、豫想通り早く片が付かない事を發見したので、とう/\その一篇丈を單行本に纏めて公けにする方針に模樣がへをした。
然し此『先生の遺書』も自から獨立したやうな又關係の深いやうな三個の姊妹篇から組み立てられてゐる以上、私はそれを『先生と私』、『兩親と私』、『先生と遺書』とに區別して、全體に『心』といふ見出しを付けても差支ないやうに思つたので、題は元の儘にして置いた。たゞ中味を上中下に仕切つた丈が、新聞に出た時との相違である。
裝幀の事は今迄專門家にばかり依賴してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣つて見る氣になつて、箱、表紙、見返し、扉及び奧附の模樣及び題字、朱印、檢印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた。
木版の刻は伊上凡骨氏を煩はした。夫から校正には岩波茂雄君の手を借りた。兩君の好意を感謝する。
大正三年九月 夏 目 漱 石
[やぶちゃん注:
・「伊上凡骨」(本名:純蔵(純三) 明治8(1875)年~昭和8(1933)年) 徳島生。木版彫師。明治24(1891)年に上京、初代大倉半兵衛に師事、明治33(1900)年の「明星」の挿絵で注目された。水彩画や素描のような質感を木版画で表現するに巧みであった。竹久夢二の版画や漱石らの著作の装丁等で知られ、代表作に石井柏亭著「東京十二景」の挿絵がある(デジタル版「日本人名大辞典+Plus」等を参照した)。
・「岩波茂雄(明治14(1881)年~昭和21(1946)年)岩波書店創業者。長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市中洲)の農家に生まれた。明治32(1899)年19歳で上京、明治34(1901)年、第一高等学校入学するも、藤村操の自殺に影響を受けて落第後、試験放棄で除籍されるも、再起して明治38(1905)年、25歳で東京帝国大学哲学科選科に入学した。この頃、内村鑑三の影響を受ける。卒業後は神田高等女学校(現・神田女学園)に奉職したが教職に自信を喪失して退職、大正2(1913)年、33歳で神田区南神保町に古本屋岩波書店を開店した。翌年大正3(1914)年に、岩波書店処女出版物として位置付けられている夏目漱石の「こゝろ」を刊行するのであるが、当時、無名に等しかった古本屋が大家漱石の新刊本を発刊するというのは極めて異例のことであった。「校正には岩波茂雄君の手を借りた」という表現でお分かりのように、実は本書「こゝろ」は漱石の自費出版なのである。しかし乍ら、出版を望んだのは岩波茂雄その人であったという奇妙な事実が知られている。『朝日新聞』に連載された「心」に感動した岩波茂雄が漱石に面会を求め、涙ながらに出版を懇請、彼の心意気に感じた漱石が了承すると、茂雄は何と「出版費用も出して下さい」と言ったというのは有名な話である。漱石が、ここで言うように自装本に拘った「動機」の一つにはそうした経緯と、素人の古本屋に自信作であった本書の装丁を任すことへの危惧が確実にあったものと考えてよい。]