『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月22日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十三回
(三十三)
飯になつた時、奧さんは傍(そば)に坐つてゐる下女を立たせて、自分で給仕(きふし)の役をつとめた。これが表立(おもてた)たない客に對する先生の家の仕來(しきた)りらしかつた。始めの一二回は私も窮屈を感じたが、度數の重なるにつけ、茶碗を奧さんの前へ出すのが、何でもなくなつた。「御茶?御飯?隨分よく食べるのね」
奧さんの方でも思ひ切つて遠慮のない事を云ふことがあつた。然し其日は、時候が時候なので、そんなに調戯(からか)はれる程食慾が進まなかつた。
「もう御仕舞。あなた近頃大變小食になつたのね」
「小食になつたんぢやありません。暑いんで食はれないんです」
奧さんは下女を呼んで食卓を片付(かたつ)けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子(みづくわし)を運ばせた。
「是は宅(うち)で拵へたのよ」
用のない奧さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふだけの餘裕があると見えた。私はそれを二杯更(か)へて貰つた。
「君も愈(いよ/\)卒業したが、是から何をする氣ですか」と先生が聞いた。先生は半分緣側の方へ席をずらして、敷居際で脊中を障子に靠(も)たせてゐた。
私にはたゞ卒業したといふ自覺がある丈で、是から何をしやうといふ目的(めて)もなかつた。返事にためらつてゐる私を見た時、奧さんは「敎師?」と聞いた。それにも答へずにゐると、今度は、「ぢや御役人?」と又聞かれた。私も先生も笑ひ出した。
「本當いふと、まだ何をする考へもないんです。實は職業といふものに就いて、全く考へた事がない位なんですから。だいち何れが善(い)いか、何れが惡いか、自分が遣つて見た上でないと解らないんだから、選擇に困る譯だと思ひます」
「それも左右ね。けれどもあなたは必竟財產があるからそんな呑氣な事を云つてゐられるのよ。是が困る人で御覽なさい。中々あなたの樣に落付いちや居られないから」
私の友達(ともたち)には卒業しない前から、中學敎師の口を探してゐる人があつた。私は腹の中で奧さんのいふ事實を認めた。然し斯う云つた。
「少し先生にかぶれたんでせう」
「碌なかぶれ方をして下さらないのね」
先生は苦笑した。
「かぶれても構はないから、其代り此間云つた通り、御父さんの生きてるうちに、相當の財產を分けて貰つて御置きなさい。それでないと決して油斷はならない」
私は先生と一所に、郊外の植木屋の廣い庭の奧で話した、あの躑躅の咲いてゐる五月の初めを思ひ出した。あの時歸り途に、先生が昂奮した語氣で、私に物語つた强い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは强いばかりでなく、寧ろ凄い言葉であつた。けれども事實を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあつた。
「奧さん、御宅の財產は餘ツ程あるんですか」
「何だつてそんな事を御聞になるの」
「先生に聞いても敎へて下さらないから」
奧さんは笑ひながら先生の顏を見た。
「敎へて上げる程ないからでせう」
「でも何の位あつたら先生のやうにしてゐられるか、宅へ歸つて一つ父に談判する時の參考にしますから聞かして下さい」
先生は庭の方を向いて、澄まして煙草を吹かしてゐた。相手は自然奧さんでなければならなかつた。
「何の位つて程ありやしませんわ。まあ斯うして何うか斯うか暮して行かれる丈よ、あなた。―そりや何うでも宜(い)いとして、あなたは是から何か爲さらなくつちや本當に不可せんよ。先生のやうにごろ/\許りしてゐちや‥‥」
「ごろ/\許りしてゐやしないさ」
先生はちよつと顏丈向け直して、奧さんの言葉を否定した。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡『奧さんは「敎師?」と聞いた』底本注に10年前に当たる明治35(1902)年の東京帝国大学卒業生雇用形態調査報告が載り、首位が官庁技術者1,068人、次点が教職員で890人とある。その中で『文科大学の卒業生は三〇九人である。そして文科大学の卒業者は五三一人であるから、半数以上が学校教職員になったことになる。』とある。漱石自身も明治26(1893)年に帝国大学を卒業後、高等師範学校・愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現・松山東高校)・第五高等学校(現・熊本大学)の英語教師を勤め、明治33(1900)年5月から明治36(1903)年12月迄のロンドン留学を挟んで、明治36(1903)年には第一高等学校及び東京帝国大学講師として招聘されている(その授業は総体に不評であったことはよく知られるところである)。明治40(1907)年のに朝日新聞社に入社し専業作家になるまで実に約11年間(留学を除く)教職にあった。但し、もし「私」が哲学かであったとすると、教職は極めて困難であったものと思われる。何故なら、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」によれば、『哲学科の出身者は、教職免許科目が、ほとんど無用の長物の「修身」しかとれず(成績が優秀だと英語の免許も取れた由)、いっそう就職に苦慮したという。ちなみに修身はたいていは校長か教頭が担当したので、新人教員などは必要ではなかったのである。』とあるからである。
♡『今度は、「ぢや御役人?」と又聞かれた。私も先生も笑ひ出した』私は今までこの笑いには一種の先生と「私」の役人に対する鋭いアイロニーのみを認めていたのであるが、前掲藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」には違う解釈が示されているので引用しておく。『行政官吏、司法官吏への就職は、法科大学出身者が他を圧倒していた。行政官吏の場合で言うと、大正八年までの統計で、法科出身者の一六〇〇余名に対して、私が在学すると思われる文科出身者はわずかに二二名(『東京大学百年史 通史二』)。したがって、ここではその実現性の乏しさが、一面では先生や私の笑いを誘ったとも見られる。』]
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