『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月10日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十一回
(二十一)
冬が來た時、私は偶然國へ歸へらなければならない事になつた。私の母から受取つた手紙の中に、父の病氣の經過が面白くない樣子を書いて、今が今といふ心配もあるまいが、年が年だから、出來るなら都合して歸つて來てくれと賴むやうに付け足してあつた。
父はかねてから腎臟を病んでゐた。中年以後の人に屢(しば/\)見る通り、父の此病は慢性であつた。其代り要心さへしてゐれば急變のないものと當人も家族のものも信じて疑はなかつた。現に父は養生の御蔭一つで、今日迄何うか斯うか凌(しの)いで來たやうに客が來ると吹聽(ふいちやう)してゐた。其父が、母の書信によると、庭へ出て何かしてゐる機(はづみ)に突然眩暈(めまひ)がして引ツ繰返(くりかへ)つた。家内のものは輕症の腦溢血と思ひ違へて、すぐその手當をした。後で醫者から何うも左右ではないらしい、矢張り持病の結果だらうといふ判斷を得て、始めて卒倒と腎臟病とを結び付けて考へるやうになつたのである。
冬休みが來るにはまだ少し間(ま)があつた。私は學期の終り迄待つてゐても差支(さしつかへ)あるまいと思つて一日二日其儘にして置いた。すると其一日二日の間(あひだ)に、父の寢てゐる樣子だの、母の心配してゐる顏だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦(こゝろくる)しさを甞(な)めた私は、とう/\歸る決心をした。國から旅費を送らせる手數(てかぞ)と時間を省くため、私は暇乞(いとまごひ)かたがた先生の所へ行つて、要(い)る丈の金を一時(じ)立て替へてもらふ事にした。
先生は少し風邪の氣味で、座敷へ出るのが臆劫(おつこふ)だといつて、私をその書齋に通した。書齋の硝子戶から冬に入(い)つて稀に見るやうな懷かしい和らかな日光が机掛(つくゑかけ)の上に射してゐた。先生は此日あたりの好(い)い室(へや)の中へ大きな火鉢を置いて、五德(ごとく)の上に懸けた金盥(かなたらひ)から立ち上る湯氣で、呼吸の苦しくなるのを防いでゐた。
「大病は好いが、ちよつとした風邪などは却つて厭なものですね」と云つた先生は、苦笑しながら私の顏を見た。
先生は病氣といふ病氣をした事のない人であつた。先生の言葉を聞いた私は笑ひたくなつた。
「私は風邪位なら我慢しますが、それ以上の病氣は眞平です。先生だつて同じ事でせう。試みに遣つて御覽になるとよく解ります」
「左右かね。私は病氣になる位(くらゐ)なら、死病に罹りたいと思つてる」
私は先生のいふ事に格別注意を拂はなかつた。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりや困るでせう。其位(くらゐ)なら今手元にある筈だから持つて行き玉へ」
先生は奧さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせて吳れた。それを奧の茶簞笥(ちやだんす)か何かの抽出(ひきだし)から出して來た奧さんは、白い半紙の上へ鄭寧(ていねい)に重ねて、「そりや御心配ですね」と云つた。
「何遍も卒倒したんですか」と先生が聞いた。
「手紙には何とも書いてありませんが。―そんなに何度も引ツ繰り返るものですか」
「えゝ」
先生の奧さんの母親といふ人も私の父と同じ病氣で亡くなつたのだと云ふ事が始めて私に解つた。
「何うせ六(む)づかしいんでせう」と私が云つた。
「左右さね。私が代られゝば代つて上げても好いが。―嘔氣(はきけ)はあるんですか」
「何(ど)うですか、何(なん)とも書いてないから、大方ないんでせう」
「嘔氣さへ來なければまだ大丈夫ですよ」と奧さんが云つた。
私は其晩の汽車で東京を立つた。
[♡やぶちゃんの摑み:先生の死病罹患願望が示されるショッキングなシーンである。
♡「私は偶然國へ歸へらなければならない事になつた」私は先に示した通り、「私」の郷里を中部内陸地方を同定している。その根拠は次章(二十二)での椎茸と危篤の父を置いて東京へと向かう最後のシーンで「東京行の汽車に飛び乘つてしまつた」という表現からである。まず四国・北海道は消去される。干椎茸の産地であり、ある程度の距離の位置(「こゝろ」「中」の「十」で「停車塲のある驛から迎へた醫者」とあり、それを(二十三)では「念のためにわざ/\遠くから相當の醫者を招いたりして」と表現していると思われるので、近くではない。徒歩では「私」の実家から相当に遠い位置にある都市と思われる)に鉄道の東京へ直行出来る汽車の発着する駅が存在し、そこから東京へは夜行列車が走っている程度には有意に距離があり、先生の出身地である新潟とはそれほど近くなく――近ければそうした謂いが出現するはずであり、家の作りも似ているはず(単行本「中」の「五」で明治天皇の崩御を受けて弔旗を揚げた「私」が田舎の自分の家を眺めながら『私はかつて先生から「あなたの宅の構(かまへ)は何んな體裁ですか。私の鄕里の方とは大分趣が違つてゐますかね」と聞かれた事を思ひ出した。私は自分の生れた此古い家を、先生に見せたくもあつた。又先生に見せるのが恥づかしくもあつた』というシーンから「私」の家は雪国新潟の造りとは異なるものなのである)であるから、上越や信越北部ではないというのが私の見解である。その家の作りが異なる点では更に、新潟と同じ雪国である東北地方はそれと相似すると考え得るので東北地方も除外出来よう。加えて(一)で「中國」地方の友達を登場させているが、これが同郷であるという雰囲気を少なくとも私は感じ得ない。従って中国地方は除外される。更に次の(二十二)章で「私」は自分の兄がいる場所を「遠い九州」と表現していることから、九州も除外される。これらを余り無理せずにすっきりクリア出来るのは中央線沿線しかないと踏むのである。諏訪・松本辺りの山間部を私は想定する。一部の論文等には山陽辺りを想定しているものがある。しかし兵庫から九州を「遠い」と言うのは、やや苦しい気がする。なお、私の読者の中には中部地方に帰るのに金を借りるほどのことはあるまいと思う連中もいるだろう。それに答えよう。私は大学時分、両親が富山にいた。帰るのはいつも安い急行の直行夜行列車を用いた。11時近くに上野を出、高岡に早朝に着いた。しかし何時でも帰れたかというと、夏と年末、特に帰省のために一週間前から食費を節約をしてやっと切符が買えた。勿論、両親に土産物を買うなんどという余裕もなかった。――さあ、これでよろしいか?
♡「父はかねてから腎臟を病んでゐた。中年以後の人に屢見る通り、父の此病は慢性であつた」タイプによって血尿型のIgA腎症・ネフローゼ・巣状糸球体硬化症・膜性腎症等による慢性腎炎は現在も根本的な原因は不明であり、早期に発見治療管理しないと経過はよくない。本作に描写される「私」の父の症状は悪化した慢性腎炎や糖尿病が、所謂、重度な腎不全を引き起こしてゆく過程を示しているものと思われる。以下、万有製薬の「メルクマニュアル家庭版 慢性腎不全 143章 腎不全」の「症状」から引用する(改行を省略した)。『慢性腎不全の症状は徐々に現れるか、急性腎不全から発展して起こります。軽症から中等度の腎不全の人では、尿素など血液中の代謝性老廃物の値が高くなっていくのにもかかわらず、軽い症状しか現れないことがあります。この段階では、夜間に何度も尿意を感じて排尿するようになります(夜間多尿症)。正常な腎臓は夜間に尿から水分を再吸収し、尿の量を減らして濃縮しますが、腎不全の人ではその能力が低下しているためこうした現象が起こります。腎不全が進行して代謝性老廃物が血液中に蓄積すると、疲労感や脱力感を感じるようになり、注意力が低下します。こうした症状は、血液の酸性度が高くなるアシドーシスという状態になるに伴って悪化します。食欲減退や息切れが起こることもあります。疲労感や脱力感は、赤血球の産生量が減少して貧血になっていることでも生じます。慢性腎不全の人はあざができやすくなったり、切り傷などのけがをすると、出血が簡単に止まらなくなったりする傾向があります。慢性腎不全になると、感染に対する体の抵抗力も低下します。代謝性老廃物が血液中に蓄積していくと、筋肉や神経が損傷を受けるため、筋肉のひきつり、筋力低下、けいれん、痛みなどが起こります。腕や足にチクチクするような感覚が生じたり、特定の部分の感覚がなくなったりします。血液中に代謝性老廃物が蓄積すると、脳がうまく機能しなくなる脳障害の状態になり、意識混濁、無気力、けいれん発作を起こします。弱った腎臓は血圧を上げるホルモンを産生するため、腎不全の人には高血圧がよくみられます。さらに、弱った腎臓は余分の塩や水分を排出できません。塩分や水分の貯留は心不全の原因になり、これによって息切れが生じます。代謝性老廃物が蓄積すると、心臓を包む心膜に炎症が生じることがあります(心膜炎)。この合併症は、胸の痛みや低血圧を引き起こします。血液中の中性脂肪濃度がしばしば上昇し、高血圧とともにアテローム動脈硬化のリスクを高めます。また、血液中に代謝性老廃物がたまると、吐き気、嘔吐、口の中の不快感なども起こるようになり、栄養不良や体重の減少が生じます。慢性腎不全が進行すると、消化管潰瘍と出血が起こります。皮膚の色が黄ばんだ褐色になり、ときには尿素の濃度が非常に高いために、汗に含まれる尿素が結晶化して皮膚が白い粉をふいたようになることもあります。慢性腎不全の人では、全身がかゆくなることもあります。慢性腎不全に伴って起こる特定の状態が長期間続くと、骨組織の形成と維持がうまくいかなくなります(腎性骨ジストロフィ)。副甲状腺ホルモンの濃度が高い状態、血液中のカルシトリオール(活性型ビタミンD)の濃度が低い状態、カルシウムの吸収が低下した状態、血液中のリン濃度が高い状態などがこれに相当します。腎性骨ジストロフィになると、骨が痛み、骨折の危険性が高くなります』。本作では重要な役回りである明治天皇が糖尿病から尿毒症を併発して亡くなることと父の病気(更に靜の母=「こゝろ」「下」の「奥さん」も同病で逝去という設定)合わせた設定である。……成る程、その症状、これ惨めな末路である。いつか糖尿病の私も、こうなるわけだ……。
♡「先生は少し風邪の氣味で、座敷へ出るのが臆劫だといつて、私をその書齋に通した」という叙述は、普段、先生は書斎に一人で寝起きしているということを意味しているのではあるまいか?
♡「此日あたりの好い室」先生の書斎が南向きであることが分かる。
♡『「左右かね。私は病氣になる位(くらゐ)なら、死病に罹りたいと思つてる」/私は先生のいふ事に格別注意を拂はなかつた。』これは先生らしいアイロニーではない謎めいた本心の言葉なのであるが、「私」がそれを「格別注意」して受け止めないのは不自然ではない。実際には、父の病態への強い不安を抱いている「私」には、この先生の台詞は如何にも嫌な気持ちを引き起こしたはずである。それを総てが終ったこの手記の記載時まで引き上げて不快印象を払拭し、言わば今は亡き先生へ配慮した表現となっているのである。しかし、この時点ではまだ「私」の父の病態は先生に説明されていないのだから、先生が圧倒的に悪いというわけではない。問題は次の謂いだ。
♡「左右さね。私が代られゝば代つて上げても好いが」先生は靜の母の看病の経験から重度の腎臓病の病態に極めて詳しい。先生は専門分野は間違いなく文科であるが、どこか医師のような風格を感じる。性格的にも科学者のように気休めは言えないタイプである(「ウルトラQ」の「バルンガ」の奈良丸博士のように。リンク先は私が満を持して電子化したシナリオである)。「左右さね。」は「そうですねえ……慢性腎炎でその様態だとかなり厳しい感じだなあ。」という率直な第一声である。しかし、問題はその次の「私が代られゝば代つて上げても好いが」だ。これは勿論、先生にとってみれば、冗談でも何でもない。誠に本気で真面目に言っているのである。これこそ直前の「私は病氣になる位なら、死病に罹りたいと思つてる」をダイレクトに受けている言葉なのだ。しかしこれは、「私」には極めて不快な、『冗談はなしにして下さい、先生。』と言いたくなるほどの嫌な発言に受け取られたはずである。このシーンが靜の気休めの励ましで終わり、最終行であっけなく「私」が東京を去る描写で終るのは、そうした「私」の――金を貸してくれたから文句は言えないけれど、今の私に、あの言いは聊か不謹慎――という印象を持ったことを暗示しているように私には思えるのである。しかしそれだけに同時に、読者には先生ののっぴきならない死病願望が逆に印象付けられるとも言えるのではあるが――。]