『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月23日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十四回
(三十四)
私は其夜十時過に先生の家を辭した。二三日うちに歸國する筈になつてゐたので、座を立つ前に私は一寸暇乞の言葉を述べた。
「又當分御目にかゝれませんから」
「九月には出て入らつしやるんでせうね」
私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て來る必要もなかつた。然し暑い盛りの八月を東京迄來て送らうとも考へてゐなかつた。私には位置を求めるための貴重な時間といふものがなかつた。
「まあ九月頃になるでせう」
「ぢや隨分御機嫌よう。私達も此夏はことによると何處かへ行くかも知れないのよ。隨分暑さうだから。行つたら又繪端書でも送つて上げませう」
「何(ど)ちらの見當です。若(も)し入(い)らつしやるとすれば」
先生は此問答をにや/\笑つて聞いてゐた。
「何まだ行くとも行かないとも極(き)めてゐやしないんです」
席を立たうとした時に、先生は急に私をつらまへて、「時に御父さんの病氣は何うなんです」と聞いた。私は父の健康に就いて殆ど知る所がなかつた。何とも云つて來ない以上、惡くはないのだらう位に考へてゐた。
「そんなに容易(たやす)く考へられる病氣ぢやありませんよ。尿毒症が出ると、もう駄目(ため)なんだから」
尿毒症といふ言葉も意味も私には解らなかつた。此前の冬休みに國で醫者と會見した時に、私はそんな術語を丸で聞かなかつた。
「本當に大事にして御上げなさいよ」と奧さんもいつた。「毒が腦へ廻るやうになると、もう夫つきりよ、あなた。笑ひ事ぢやないわ」
無經驗な私は氣味を惡がりながらも、にや/\してゐた。
「何うせ助からない病氣ださうですから、いくら心配したつて仕方がありません」
「さう思ひ切りよく考へれば、夫迄ですけれども」
奧さんは昔同じ病氣で死んだといふ自分の御母さんの事でも憶ひ出したのか、沈んだ調子で斯ういつたなり下を向いた。私も父の運命が本當に氣の毒になつた。
すると先生が突然奧さんの方を向いた。
「靜、御前はおれより先へ死ぬだらうかね」
「何故」
「何故でもない、たゞ聞いた見るのさ。それとも己(おれ)の方が御前より前に片付くかな。大抵世間ぢや旦那が先で、細君が後へ殘るのが當り前のやうになつてるね」
「さう極(きま)つた譯でもないわ。けれども男の方は何うしても、そら年が上でせう」
「だから先へ死ぬといふ理窟なのかね。すると己も御前より先にあの世へ行かなくつちやならない事になるね」
「あなたは特別よ」
「さうかね」
「だつて丈夫なんですもの。殆ど煩つた例(ためし)がないぢやありませんか。そりや何うしたつて私の方が先だわ」
「先かな」
「え、屹度先よ」
先生は私の顏を見た。私は笑つた。
「然しもしおれの方が先へ行くとするね。さうしたら御前何うする」
「何うするつて‥‥」
奧さんは其處で口籠つた。先生の死に對する想像的な悲哀が、ちよつと奧さんの胸を襲つたらしかつた。けれども再び顏をあげた時は、もう氣分を更へてゐた。
「何うするつて、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定(らうせうふぢやう)つていふ位(くらゐ)だから」
奧さんはことさらに私の方を見て笑談(ぜうだん)らしく斯う云つた。
[♡やぶちゃんの摑み:この第三十四回まで、一日の不掲載もなく連載は続いていたが、翌日5月24日(日曜日)より5月26日(火曜日)までの3日間、「心」の連載は休止している(勿論、私の連載もそれに合わせる)。理由はこの連載の直前、4月9日に崩御した明治天皇皇后昭憲皇太后(旧名・一条美子(はるこ) 嘉永2(1849)年4月17日~大正3(1914)年)の大葬の儀のためである。24日に代々木葬場殿の儀、25・26日の両日に渡って桃山斂葬の儀が執り行われ、伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)に葬られた。死を語り合う先生と靜――昭憲皇太后斂葬の儀……偶然ではあろうが、何やらん、不思議な因縁を感ずるところではある……。
♡「私は其夜十時過に先生の家を辭した」という文頭で始まり乍ら、実際に「私」が「先生の家を辭」すのは実に次章の後半である。漱石はここで先生と「私」とを永遠に訣別させることに決しているものと思う(次注で示すように先生がそう決している『わけではない』)。そしてまた、この辺りで漱石はオムニバス・スタイルを断念して長篇への覚悟をしたもの、とも判断するのであるが、如何?
♡「私達も此夏はことによると何處かへ行くかも知れないのよ」……以下について、私は以前、2009年9月30日のブログに次のように書いた。引用しておく。
*
今日の今まで、気づかなかった――これは極めて意味深長な会話ではないか! 「先生」は叔母の病気の看病が落ち着いて家に戻った靜と旅に出たのではなかったか? そうして――そうして、そこで「先生」は自死を決行したのではなかったか? その楽しい旅の中の、不意の蒸発=失踪こそ、正に「頓死」したかのような、「氣が狂つたと思はれ」るようなシチュエーションを導きは、せぬか? いや、何より「必ず九月に出て來る必要もなかつた」九月に、彼は正にやってくる――しかし、先生も靜も、実は、そこには、居ないのではなかったか? 僕はもう大分以前から、真剣に――「こゝろ」の「中 十九」以下の続きの詳細なシークエンスを描いてみたい悪魔的誘惑にかられているのである――
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そして、「先生は此」二人の「問答をにや/\笑つて聞いてゐ」るのである。そして「にや/\笑」いながら、「何まだ行くとも行かないとも極めてゐやしないんです」と言う。そして、「私」が暇するために「席を立たうとした時に、先生は急に私」の腕(であろう)をぎゅっと「つらまへて」引き止め、以下の父の病気から死の話へと雪崩れ込む。この腕を摑むシーンは実景として映像を想定してみると、如何にも妙な感じが――その奥底には、最早、「私」とは永遠に逢えぬという鬼気迫るような不気味ささえ含んだものが――私にはあるように思われてならないのだが、如何? 但し、遺書によれば先生は「私」に逢って過去を開示する積りでいたと語っているから、ここで確信犯として先生がそのような行動に出たわけではないであろう。これは一種の霊感的描写であるように思われる。
♡「尿毒症」腎機能低下により惹起される多様な変化を腎不全或いは尿毒症と呼ぶ。ここで先生が言わんとするところは慢性腎不全、所謂、ネフロン数が減少して老廃物の対体外排泄が不全になることで、糖尿病・糸球体腎炎に多く見られ、慢性腎盂腎炎・先天性腎尿路奇形・痛風・ネフローゼ・各種腎炎・腎硬化症・悪性高血圧等を病因とする。尿毒症とは腎機能の高度な悪化から生じる全身性の重篤な変化を言う。以下、「医療介護健康総合サイト・ウエブ・ドクター」の「腎不全と尿毒症」より引用する。
《引用開始》
急性腎不全の際、また慢性腎不全の末期状態に、腎機能が大きく低下していることから下記のような変化を生じます。
1)神経、精神症状
不眠、頭痛、傾眠、不眠、痙攣、昏睡、うつ状態、不安感、錯乱その他。
2)内分泌、代謝異常症状
無月経、高脂血症、生殖能低下、低栄養状態その他。
3)末梢神経系症状
知覚異常、麻痺、筋力低下その他。
4)循環器症状
高血圧、心膜炎、心筋炎、貧血、尿毒症性肺その他。
5)消化器症状
口臭、悪心、嘔吐、食欲不振、口内炎、腸炎、消化管潰瘍その他。
6)眼症状
網膜症、角膜症その他。
7)皮膚症状
貧血状、色素沈着、皮膚掻痒感、皮下出血その他。
8)電解質異常症状
血清ナトリウム、カルシウム、三酸化水素値の低下、血清カリウム、マグネシウム、四酸化リン値の上昇その他。
9)造血器症状
貧血、出血傾向その他。
《引用終了》
靜の言う「毒が腦へ廻るやうになると」というのは、脳神経が侵されることによる『1)神経、精神症状』や『3)末梢神経系症状』及び『4)循環器症状』等を言うものと思われる。当時は腎臓炎による死亡率が高まっており、明治天皇も、その死因について一般には心臓麻痺とされているものの、現在では尿毒症であった可能性が高いし、連載直前に崩御したその皇后(後の昭憲皇太后)も慢性気管支カタルと腎臓炎による狭心症から、尿毒症を併発して亡くなっている(直接の死因は狭心症発作と心臓麻痺とされる)。従って、本作の関係者の多くが腎臓病で亡くなっているという設定は必ずしも不自然なものではない。
♡「老少不定」老人だからと言って早く死ぬ訳ではなく、少年だからと言って長生きする訳ではない、人間何時死ぬかは分からぬということ。人の死期は予知不能で、儚く定め難いことを言う。寛仁元(1017)年に書かれた源信の「観心略要集」に依る故事成句。]