『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月14日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十五回
(二十五)
其年の六月に卒業する筈の私は、是非共此論文を成規通(どほ)り四月一杯(はい)に書き上げて仕舞はなければならなかつた。二、三、四と指を折つて餘る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を疑ぐつた。他のものは餘程前から材料を蒐(あつ)めたり、ノートを溜めたりして、餘所目にも忙がしさうに見えるのに、私丈はまだ何にも手を着けずにゐた。私にはたゞ年が改たまつたら大いに遣らうといふ決心丈があつた。私は其決心で遣り出した。さうして忽ち動けなくなつた。今迄大きな問題を空(くう)に描いて、骨組丈は略(ほゞ)出來上つてゐる位(くらゐ)に考へてゐた私は、頭を抑(おさ)えて惱み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。さうして練り上げた思想を系統的に纏める手數(てすう)を省くために、たゞ書物の中にある材料を並べて、それに相當な結論を一寸付け加へる事にした。
私の選擇した問題は先生の專門と緣故の近いものであつた。私がかつてその選擇に就いて先生の意見を尋ねた時、先生は好(い)いでせうと云つた。狼狽した氣味の私は、早速先生の所へ出掛けて、私の讀まなければならない參考書を聞いた。先生は自分の知つてゐる限りの知識を、快よく私に與へて吳れた上に、必要の書物を二三册貸さうと云つた。然し先生は此點について毫(がう)も私を指導する任に當らうとしなかつた。
「近頃はあんまり書物を讀まないから、新らしい事は知りませんよ。學校の先生に聞いた方が好いでせう」
先生は一時非常の讀書家であつたが、其後何ういふ譯か、前程此方面に興味が働らかなくなつたやうだと、かつて奧さんから聞いた事があるのを、私は其時不圖思ひ出した。私は論文を餘所(よそ)にして、そゞろに口を開いた。
「先生は何故元のやうに書物に興味を有ち得ないんですか」
「何故といふ譯もありませんが。‥‥つまり幾何(いくら)本を讀んでもそれ程えらくならないと思ふ所爲(せゐ)でせう。それから‥‥」
「それから、未だあるんですか」
「まだあるといふ程の理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のやうに極(きまり)が惡かつたものだが、近頃は知らないといふ事が、それ程の恥でないやうに見え出したものだから、つい無理にも本を讀んで見やうといふ元氣が出なくなつたのでせう。まあ早く云へば老い込んだのです」
先生の言葉は寧ろ平靜であつた。世間に脊中を向けた人の苦味(くみ)を帶びてゐなかつた丈に、私にはそれ程の手應(てごたへ)もなかつた。私は先生を老い込んだとも思はない代りに、偉いとも感心せずに歸つた。
それからの私は殆ど論文に祟られた精神病者の樣に眼を赤くして苦しんだ。私は一年前に卒業した友達に就いて、色々な樣子を聞いて見たりした。そのうちの一人は締切の日に車で事務所へ馳(か)けつけて漸く間に合はせたと云つた。他(た)の一人は五時を十五分程後(おく)らして持つて行つたため、危うく跳ね付けられやうとした所を、主任教授の好意でやつと受理して貰つたと云つた。私は不安を感ずると共に度胸を据ゑた。毎日机の前で精根のつゞく限り働らいた。でなければ、薄暗(うすくら)い書庫に這入つて、高い本棚のあちらこちらを見廻した。私の眼(め)は好事家(かうずか)が骨董でも掘り出す時のやうに脊表紙の金文字をあさつた。
梅が咲くにつけて寒い風は段々向を南へ更へて行つた。それが一仕切(ひとしきり)經つと、櫻の噂がちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のやうに正面許り見て、論文に鞭(むちう)たれた。私はつひに四月の下旬が來て、やつと豫定通りのものを書き上げる迄、先生の敷居を跨(またが)なかつた。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「私の選擇した問題は先生の專門と緣故の近いものであつた」という叙述により、先生の専攻した学科と「私」の専攻している学科が同一分野であることが分かる。その専門分野は如何なるものであったかということについて、私は嘗て考察したことがあるが、先ず勿論、理科ではなく文科、本文から先生はその分野の新知識の吸収に最早積極的ではないから、そのような新知識・新学説や今日的判断・新しい判例を必要とする法科ではあり得ない。そうなると漱石の専門であった英文科等が頭に浮かぶのであるが、そうした文学科や史学科であるにしては、先生と「私」との会話に一切そうした具体的会話が見出せない点、除外するべきであると思われる。そうなると哲学か宗教か心理学辺りが同定候補となるが、哲学や宗教はKの専門分野で、「こゝろ」「下」二十四章でKとは「後では專門が違ひましたから」という表現が現われるのでこれらも排除される。私は二人の専門は、私も専攻したかった心理学ではなかろうかと現在は思っている。明治の末年と言えば心理学は正に急速に興隆してきた学問であった。新刊書も続々出現し、有島武郎や芥川龍之介等、多くの邦人作家もそうした学術書を参考にして実験的な小説を書いたりした。因みに作品名「心」にも相応しいし、統合失調症に罹患した経験のある漱石には複雑な思いはあったであろうが、興味深い学問であったはずだ。なお、当時の東京帝国大学の学科については、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の本章の「練り上げた思想」の注に、東京帝国大学文科では『明治三十七年九月から従来の九学科制が廃止され、哲学科、史学科、文学科からなる三学科制がとられていた。ちなみに哲学科のなかの専修学科(明治43より)としては、「哲学及哲学史」、「支那学」、「印度哲学」、「心理学」、「倫理学」、「宗教学」、「美学」、「教育学」、「社会学」があった』とある。先生の卒業を私は明治31(1898)年に想定しているので、東京大学文学部のサイトで9学科制を確認すると以下の通りである。
第一 哲学科
第二 国文学科
第三 漢学科
第四 史学科
第五 博言学科
第六 英文学科
第七 独逸文学科
第八 国史科
第九 仏蘭西文学科
以上の条件を総合し、この9学科を眺めると矢張り先生は第一哲学科が相応しい気がする。そうしてKは哲学史か宗教を専攻し、先生は心理学を取ったのではなかったか。そうして「私」の卒業は明治45(1912)年であるから、上記の専修科について他の学科も再度確認しておくと、明治43(1910)年9月で3学科19専修学科を確認出来る。
第一 哲学科
哲学・支那哲学・印度哲学・心理学・倫理学・宗教学・美学・教育学・社会学
第二 史学科
国史学・東洋史学・西洋史学
第三 文学科
国文学・支那文学・梵文学・英吉利文学・独逸文学・仏蘭西文学・言語学
矢張り「私」が学んでいそうな専修学科は第一哲学科の心理学であろう。
♡「そゞろに」通常は「何となく」といった意味であるが、ここは肝心の論文の話を外れて「軽率にも」とか「不覚にも」とっいたニュアンスか。]