『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月31日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十九回
(三十九)
私のために赤い飯を炊いて客をするといふ相談が父と母の間に起つた。私は歸つた當日から、或は斯んな事になるだらうと思つて、心のうちで暗にそれを恐れてゐた。私はすぐ斷わつた。
「あんまり仰山な事は止して下さい」
私は田舍の客が嫌だつた。飮んだり食つたりするのを、最後の目的として遣つて來る彼等は、何か事があれば好(い)いといつた風の人ばかり揃つてゐた。私は子供の時から彼等の席に侍するのを心苦しく感じてゐた。まして自分のために彼等が來るとなると、私の苦痛は一層甚だしいやうに想像された。然し私は父や母の手前、あんな野鄙(やひ)な人を集めて騷ぐのは止せとも云ひかねた。それで私はたゞあまり仰山だからとばかり主張した。
「仰山々々と御云ひだが、些とも仰山ぢやないよ。生涯に二度とある事ぢやないんだからね、御客位(くらゐ)するのは當り前だよ。さう遠慮を御爲(おし)でない」
母は私が大學を卒業したのを、嫁でも貰つたと同じ程度に、重く見てゐるらしかつた。
「呼ばなくつても好(い)いが、呼ばないと又何とか云ふから」
是は父の言葉であつた。父は彼等の陰口を氣にしてゐた。實際彼等はこんな場合に、自分達の豫期通りにならないと、すぐ何とか云ひたがる人々であつた。
「東京と違(ちがつ)て田舍は蒼蠅(うるさ)いからね」
父は斯うも云つた。
「お父さんの顏もあるんだから」と母が又付け加へた。
私は我を張る譯にも行かなかつた。何うでも二人の都合の好(よ)いやうにしたらと思ひ出した。
「つまり私のためなら、止して下さいと云ふ丈なんです。陰で何か云はれるのが厭だからといふ御主意なら、そりや又別です。あなたがたに不利益な事を私が强ひて主張したつて仕方がありません」
「さう理窟を云はれると困る」
父は苦い顏をした。
「何も御前の爲にするんぢやないと御父さんが仰しやるんぢやないけれども、御前だつて世間への義理位(くらゐ)は知つてゐるだらう」
母は斯うなると女だけにしどろもどろな事を云つた。其代り口數からいふと、父と私を二人寄せても中々敵(かな)ふどころではなかつた。
「學問をさせると人間が兎角理窟つぽくなつて不可ない」
父はたゞ是丈しか云はなかつた。然し私は此簡單な一句のうちに、父が平生から私に對して有つてゐる不平の全體を見た。私は其時自分の言葉使(づか)ひの角張(かどば)つた所に氣が付かずに、父の不平の方ばかりを無理の樣に思つた。
父は其夜また氣を更へて、客を呼ぶなら何日にするかと私の都合を聞いた。都合の好(い)いも惡いもなしに只ぶら/\古い家の中に寐起してゐる私に、斯んな問を掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であつた。私は此穩やかな父の前に拘泥(こだわ)らない頭を下げた。私は父と相談の上招待(せうだい)の日取を極めた。
其日取のまだ來ないうちに、ある大きな事が起つた。それは明治(あかぢ)天皇の御病氣の報知であつた。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡つた此事件は、一軒の田舍家のうちに多少の曲折を經て漸く纏まらうとした私の卒業祝を、塵の如くに吹き拂つた。
「まあ御遠慮申した方が可からう」
眼鏡を掛けて新聞を見てゐた父は斯う云つた。父は默つて自分の病氣の事も考へてゐるらしかつた。私はつい此間の卒業式に例年の通り大學へ行幸(ぎやうかう)になつた陛下を憶ひ出したりした。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「明治(あかぢ)天皇」このルビの誤植は同日掲載の大阪朝日では正しく「めいじ」である。いや、凄い! 東京朝日新聞の植字工はよくぞラーゲリ送りにならなんだ!
♡「明治天皇の御病氣の報知」底本の本章には以下の資料を附す。
明治四五年七月二十日 土 官報号外
○宮廷錄事
○天皇陛下御異例 天皇陛下ハ明治三十七年末頃ヨリ糖尿病に罹ラセラレ次テ三十九年一月ヨリ慢性腎臟炎御倂發爾來御病勢多少增減アリタル處本月十四日御腸胃症ニ罹ラセラレ翌十五日ヨリ少々御嗜眠ノ御傾向アラセラレ一昨十八日以來御嗜眠ハ一層增加御食氣減少昨十九日午後ヨリ御精神少シク恍惚ノ御狀態ニテ御腦症アラセラレ御尿量頓に甚シク減少蛋白質著シク增加同日夕刻ヨリ突然御發熱體溫四十度五分ニ昇騰御脈百○四至御呼吸三十八囘、今朝御體溫三十九度六分御脈百○八至御呼吸三十二囘ニシテ今二十日御前九時侍醫頭醫學博士男爵岡玄卿、東京帝國大學醫科大學敎授醫學博士三浦謹之助拜診ノ上尿毒ノ御症タル旨上申セリ
と当時の報知内容を伝える。明治45(1912)年7月20日の漱石の日記には、
○七月二十日〔土〕晩天子重患の號外を手にす。尿毒症の由にて昏睡狀態の旨報ぜらる。川開きの催し差留められたり。天子未だ崩ぜず川開を禁ずるのなし。細民これが爲に困る者多からん。當局者の沒常識驚くべし。演劇その他の興業もの停止とか停止せぬとか騷ぐ有樣也天子の病は萬臣の同情に價す。然れども萬民の營業直接天子の病氣に害を與へざる限りは進行して然るべし。當局之に對して干渉がましき事をなすべきにあらず。もし臣民中心[やぶちゃん注:ママ。「衷心」の誤記。]より遠慮の意あらば營業を休むとせば表向は如何にも皇室に對し禮篤く情深きに似たれども其實は皇室を恨んで不平の内に蓄ふるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に釀すと一般也(突飛なる騷ぎ方ならぬ以上は平然として臣民も之を爲べし、當局も平然として之を捨置くべし)。新聞紙を見れば彼等異口同音曰く都下寂火の消えたるが如しと。妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聽す。天子の德を頌する所以にあらず。却つて其德を傷つくる仕業也。
という有名な聡明なる文章が載る。昭和天皇の御異例の際、種々のイベントが中止延期されたのを思い出す。グラサンの井上陽水が疾走する車のウィンドウを降ろして「みなさ~~~ん、お元気デスカ~~~?」とやらかすCMから、突如音声が消えた――天皇が御病気なのに「お元気デスカ~~~?」は不謹慎だ、というのである――これが糞の日本である。何にも変わっちゃいない日本なのである。――更に、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注によれば、『東京や大阪では天皇重態の号外は明治四十五年七月二十日に出ている』。当時は既に鉄道輸送による新聞の地方発送が始まっており、『私の家のある地域の人々も一日遅れくらいでこの報に接したと思われる』とある。]
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