『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月15日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十六回
(二十六)
私の自由になつたのは、八重櫻の散つた枝にいつしか靑い葉が霞むやうに伸び始める初夏の季節であつた。私は籠を拔け出した小鳥の心をもつて、廣い天地を一目(め)に見渡しながら、自由に羽搏きをした。私はすぐ先生の家へ行つた。枳殼(からたち)の垣が黑ずんだ枝の上に、萌(もえ)るやうな芽を吹いてゐたり、石榴(ざくろ)の枯れた幹から、つや/\しい茶褐色の葉が、柔らかさうに日光を映してゐたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて始めてそんなものを見るやうな珍らしさを覺えた。
先生は嬉しさうな私の顏を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といつた。私は「御蔭(ごかげ)で漸く濟みました。もう何にもする事はありません」と云つた。
實際其時の私は、自分のなすべき凡ての仕事が既に結了して、是から先は威張つて遊んで居ても構はないやうな晴やかな心持でゐた。私は書き上げた自分の論文に對して充分の自信と滿足(まんそく)を有つてゐた。私は先生の前で、しきりに其内容を喋々(てふ/\)した。先生は何時もの調子で、「成程」とか、「左右ですか」とか云つてくれたが、それ以上の批評は少しも加へなかつた。私は物足りないといふよりも、聊か拍子拔けの氣味であつた。それでも其日私の氣力は、因循らしく見える先生の態度に逆襲を試みる程に生々(いき/\)してゐた。私は青く蘇生(よみがへ)らうとする大きな自然の中に、先生を誘ひ出さうとした。
「先生何處かへ散步しませう。外へ出ると大變好(い)い心持です」
「何處へ」
「私は何處でも構はなかつた。たゞ先生を伴れて郊外へ出たかつた。
一時間の後(のち)、先生と私は目的通(とほ)り市を離れて、村とも町とも區別の付かない靜かな所を宛(あて)もなく步いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を挘(も)ぎ取つて芝笛(しばふえ)を鳴らした。ある鹿兒島人を友達にもつて、その人の眞似をしつゝ自然に習ひ覺えた私は、此芝笛といふものを鳴らす事が上手であつた。私が得意にそれを吹きつゞけると、先生は知らん顏をして餘所(よそ)を向いて步いた。
やがて若葉に鎖ざされたやうに蓊欝(こんもり)した小高い一構(ひとかま)への下に細い路が開けた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだら/\上りになつてゐる入口を眺めて、「這入つて見やうか」と云つた。私はすぐ「植木屋ですね」と答へた。
植込の中を一うねりして奧へ上(のぼ)ると左側に家(うち)があつた。明け放つた障子の内はがらんとして人の影も見えなかつた。たゞ軒先に据ゑた大きな鉢の中に飼つてある金魚が動いてゐた。
「靜かだね。斷わらずに這入つても構はないだらうか」
「構はないでせう」
二人は又奧の方へ進んだ。然しそこにも人影は見えなかつた。躑躅(つつし)が燃えるやうに咲き亂れてゐた。先生はそのうちで樺色(かばいろ)の丈の高いのを指して、「是は霧島でせう」と云つた。
芍藥(しやくやく)も十坪あまり一面に植付けられてゐたが、まだ季節が來ないので花を着けてゐるのは一本もなかつた。此芍藥畠の傍にある古びた緣臺のやうなものゝ上に先生は大の字なりに寢た。私は其(その)餘つた端の方に腰を卸して烟草を吹かした。先生は蒼い透き徹るやうな空を見てゐた。私は私を包む若葉の色に心を奪はれてゐた。其若葉の色をよく/\眺めると、一々違(ちか)つてゐた。同じ楓の樹でも同じ色を枝に着けてゐるものは一つもなかつた。細い杉苗の頂(いたゞ)に投げ被(かぶ)せてあつた先生の帽子が風に吹かれて落ちた。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「因循らしく見える先生の態度に逆襲を試みる」これは極めて特殊な遣い方がなされているように思われる。「因循」は辞書的には「①古い習慣や方法等に従うばかりで、それを一向に改めようとしないこと。②思い切りが悪く、ぐずぐずしている様子。引っ込み思案な樣」を言うが、これはこの日の先生の態度が特別に「因循らしく見える」のでは勿論、ない。普段から何やらん謎めいた過去の出来事に拘って、はっきり物を言ってくれない先生、多くを語らず一面引っ込み思案な暗い感じに見える先生に対して、この正に自由を謳歌して飛び立たんばかりのこの今の「私」が「逆襲を試み」ようとしているのである。
♡「かなめ」バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra のこと。アカメガシ。ソバノキ。若葉は紅色を帯びて美しく、丁度、5月頃に小さな白色の五弁花を多数つけるが、描写のないところを見ると開花前か。生垣によく用いられる。葉は互生し、両端の尖った長楕円形。葉長は5~10cm程で革質、縁に細かな鋸歯を持つ。葉の表面が滑らかで丈夫な点で「芝笛」(=草笛)の素材となる。
♡「蓊欝した」当て読み。本来は「ヲウウツ(オウウツ)」と読む。草や木が盛んに茂っている様を言う。
♡「植木屋」本章の舞台について、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」では、ここを現在の巣鴨の染井辺に同定している。私の所持する嘉永年間(1848~1853)に完備した「尾張屋(金鱗堂)板・江戸切絵図」を見ても、丁度、建部内匠頭屋敷(現・染井霊園)の北東、染井稲荷の北西の部分に「此辺染井村植木屋多シ」と記す。明治期に至ってもここ染井は植木屋が多かった。『ここでは先生宅からおそらくは徒歩で「一時間の後』に植木屋のある一角にたどりついたというのだから、先生宅が私の下宿のある帝大近辺』(これにつては藤井氏と同様、(二十)の「午飯を食ひに學校から歸つてきて」のところで「私」の下宿が東京帝国大学に極めて近い位置、本郷周辺にあり、更に(九)では先生が散歩をしようと言ってこの下宿を訪ねていることから考えると先生の宅も矢張り本郷近辺からそう遠くない位置にあるものと私も考えるものである)『からさして遠くないとすれば、帝大から三、四キロメートルの距離にある染井』がイメージされているのではないかと推測されている。藤井氏は続く「霧島」の注でも川添登『東京の原風景 都市と田園との交流』(昭和54(1979)年NHKブックス刊)より引用して、『五種のキリシマツツジが鹿児島から送られ、そのうちの三種が、染井の伊藤伊兵衛のもとに来たのは明暦二年(一六五六)のことであり、以後つつじが大流行し、植木業の盛んな地域として染井もそれにつれて大きく発展した。明治四十四年刊の『東京近郊名所図会17』にも「種樹家多し」として巣鴨、上駒込伝中、染井辺には庭樹及び盆栽を作りて産業と為すもの多し。栽花園内山長太郎、群芳園高田弥三郎、梅谷園荒井与左衛門、植草園伊藤太郎吉等は巣鴨大通りに居住するものにして。染井辺には殊に多しとする。一々歴覧して花間に逍遥せば。いふべからざる興味あらむ」』と記されている旨、記載があり、加えて、次の「楓」の注でも同書を根拠として『巣鴨・染井でつつじの次に知られていたのは楓であった』とある。この植木屋を染井に同定すること、私も激しく同感するものである。――実は、お読みになられた方はお分かり頂けたこと思うが――私の書いた「こゝろ」のフェイク「こゝろ佚文」の舞台は実は染井霊園である――しかしこれは、藤井氏のこれらの注を受けて書いたものではないことをここに明言する――だって実はこれは、そのすぐ裏手にある芥川龍之介の墓(慈眼寺)と、そうして……そうして私の、ある秘かな実体験を潜ませたフェイクだからである。……この偶然に私は、私と「こゝろ」との深い因縁、業(ごう)のようなものを、強く激しく感じるのである……。]
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