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2010/05/05

耳嚢 巻之二 忠死歸するが如き事

「耳嚢 巻之二」に「忠死歸するが如き事」を収載した。

 忠死歸するが如き事

 淺野家の家士大石内藏助、報讐の後御預けと成て、今日切腹被仰付といへる日は、其御預りの大名より古實の通り食事饗應あり。切腹の席よろしきとて案内ありければ、常に茶の給仕せし小坊主茶を持來りしに、常の通(とほり)茶をのみて、扨今日切腹いたし候、いたづらし候と幽靈と申すものに成て出候間、おとなしくなし給へと打笑ひて、席へ出て切腹せしが、誠に平日の通り聊替る事なかりしと、彼諸侯の老臣語りしとなり。左も可有と爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸のみならず江戸っ子の敬愛した忠臣大石内蔵助のエピソードの一つ。

・「淺野家」播磨赤穂藩藩主主家。御存知、藩主第3代藩主浅野長矩(あさのながのり 寛文7(1667)年~元禄141701)年421日)の起こした元禄赤穂事件により改易となった。

・「大石内藏助」大石良雄。御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄(よしお 又は よしたか 万治2(1659)年~元禄161703)年)。討入後、『内蔵助は、吉田忠左衛門・富森助右衛門正因の二名を大目付仙石伯耆守久尚の邸宅へ送り、口上書を提出して幕府の裁定に委ねた。午後6時頃、幕府から徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の三人が泉岳寺へ派遣されてきた。内蔵助らは彼らの指示に従って仙石の屋敷へ移動した。幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、内蔵助は肥後熊本藩主細川越中守綱利の屋敷に預けられた。長男主税は松平定直の屋敷に預けられたため、この時が息子との今生の別れとな』った。『仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした荻生徂徠などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた』。『元禄16年(1703年)24日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主吉良義周(吉良左兵衛、吉良上野介の養子)の領地没収と信州配流の処分を決めた。細川邸に派遣された使者は、内蔵助と面識がある幕府目付荒木十左衛門であった。内蔵助は細川家家臣安場一平久幸の介錯で切腹した。享年45。亡骸は主君浅野内匠頭と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は忠誠院刃空浄剣居士』。辞世の句は一般には次のものが知られるが、一部文献には2番目のものが記されている。

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

『しかしながら上記は浅野内匠頭の墓に対してのもので、実際には次が辞世の句とも言われている。

極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人』(以上、引用はウィキの「大石良雄」より引用した)。

・「御預け」内蔵助がお預けとなったのは肥後熊本藩主細川越中守綱利の屋敷であった。細川綱利(寛永201643)年~正徳41714)年)外様大名で第3代肥後国熊本藩主であった。『元禄15年(1702年)1215日早朝、吉良上野介を討ちとって吉良邸を出た赤穂46士(注:47人目の寺坂吉右衛門は討ち入り後に隊から外れた)は、大目付仙石久尚に自首しにいった吉田忠左衛門・富森助右衛門の二名と別れて、ほかは主君浅野内匠頭の眠る高輪泉岳寺へ向かった。仙石は吉田と富森の話を聞いてすぐに登城し幕閣に報告。幕府で対応が協議された』が、『細川綱利は、この日、例日のために江戸城に登城していた。この際に老中稲葉正通より大石内蔵助はじめ赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。さっそく綱利は家臣の藤崎作右衛門を伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、はじめ泉岳寺で受け取りと思い込み、泉岳寺に近い白金の中屋敷に家臣たちを移し、受け取りの準備をはじめた。しかしその後、46士は大目付仙石久尚の屋敷にいるという報告が入ったので急遽仙石邸に向かった。三宅率いる受け取りの軍勢の総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し、17人の浪士を1人ずつ身体検査してから駕籠に乗せて午前2時過ぎ頃に細川家の白金下屋敷に到着した。浪士達の中にけが人がおり傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間がかかったと「堀内伝右衛門覚書」にある(山吉新八郎に斬られた近松勘六のことであろう)』。『この間、細川綱利は義士たちを一目みたいと到着を待ちわびて寝ずに待っていた。17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石内蔵助と対面。さらに綱利はすぐに義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すように命じる。預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与え、風呂は1人1人湯を入れ替え、後日には老中の許可をえて酒やたばこも振舞った。さらに毎日の料理もすべてが御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府に助命を嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召抱えたい旨の希望まで出している。また1218日と1224日の二度にわたって自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという凄まじい義士への熱狂ぶりであった。しかし綱利の願いもむなしく、年改まって元禄16年(1703年)2月、赤穂浪士たちを切腹させるようにという幕府の命令書が届く』。『この切腹に当たっても綱利は「軽き者の介錯では義士達に対して無礼である」として大石内蔵助は重臣の安場一平に介錯をさせ、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。義士達は切腹後、泉岳寺に埋葬された。細川綱利は金30両の葬儀料と金50両のお布施を泉岳寺に送っている。幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も「彼らは細川家の守り神である」として断り、家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて客人が見えた際には屋敷の名所として紹介したともいわれている』。『このような細川家の義士たちに対する厚遇は江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌からも窺われる。これは細川家と水野家が義士を厚遇したことを称賛し、毛利家と松平家が待遇が良くなかったことを批判したものである。もっとも毛利家や松平家も江戸の庶民の評価に閉口したのか細川家にならって義士たちの待遇を改めたとも伝えられる』。『明治に入ってからも細川邸跡は、大石良雄外十六人忠烈の跡としてそのまま保存され、現在は港区と泉岳寺と中央義士会が共同で管理している』(以上、引用はウィキの「細川綱利」より)。

・「今日切腹被仰付といへる日」浪士の切腹の命令は元禄16年2月4日(グレゴリオ暦では3月20日)、即日、四大名家に於いて執行された。「卷之二」の下限の天明6(1786)年時点で既に83年も前の出来事であった。

■やぶちゃん現代語訳

 忠義切腹の死なるも何事もなく普通に何処ぞへ帰って行くが如き鮮やかなる死なる事

 浅野家の家士大石内蔵助、仇討本懐を遂げた後、肥後熊本藩主細川越中守綱利殿御屋敷へ御預けとなった。

 そうして、今日、切腹が仰せつけらるるという日は、お預かりの大名細川綱利殿より故実に則り、食事饗応が御座った。

 切腹の席、準備万端調うて御座るとの案内(あない)があったので、常より日頃茶の給仕致いて御座った小坊主が持ち来たった茶を、何時も通り、如何にも旨そうに飲んで、

「さても今日、切腹致すことと相成った。悪戯(いたずら)心にて、一つ、幽霊とか申すものと相成って出でてみようと存ずればこそ、どうぞ、大人しくお待ちあれ。」

とうち笑うて切腹の席へ出でて美事、腹を切った――その様子、まことに平時の通りにて、聊かも変わったこともなく御座ったと、かの御大名家老臣の語って御座った、ということで御座る。

 かの忠臣の御仁、さもあらんことと、ここに記しおく。

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