耳囊 卷之二 池尻村の女召使ふ間敷事
「耳嚢 巻之二」に「池尻村の女召使ふ間敷事」を収載した。
一言申し上げておくと、「耳嚢」の公開がやや滞っているようにお思いになられるかもしれないが、これは今僕にとって大事な「心」をなるべく一日の内、ブログのトップに保っておきたい意識が働いているからで、「耳囊」自体の注釈現代語訳作業は滞りなく進んでいる。特に昨日は、「卷之二」の最大の難関と考えていた「上州池村石文の事」をかなり満足出来る形でクリアすることが出来、個人的には相当な満足感を持っているぐらいである。「卷之二」未作業は実は残すところ7話なのである。乞う、ご期待!
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池尻村の女召仕ふ間數事
池尻村とて東武の南池上本門寺などより程近き一村有。彼村出生の女を召仕へば果して妖怪など有と申傳へしが、予評定所留役を勤し頃、同所の書役(かきやく)に大竹榮藏といへる者有。彼者親の代にふしぎなる事ありしが、池尻村の女の故成けると也。享保延享の頃にもあらん、榮藏方にて風(ふ)と天井の上に大石にても落けるほどの音なしけるが、是を初として燈火(あんどん)の中チへ上り、或は茶碗抔長押(なげし)を越て次の間へ至り、中にも不思議なりしは、座敷と臺所の庭垣を隔てけるが、臺所の庭にて米を舂(つ)き居たるに、米舂(こめつき)多葉粉(たばこ)抔給(たべ)て休みける内、右の臼垣を越て座敷の庭へ至りし也。其外天井物騷敷故人を入(いれ)て見しに、何も怪き事なけれども、天井へ上る者の面は煤(すす)を以て黑くぬりしと也。其外燈火抔折ふしはみづからそのあたりへ出る事有りければ、火の元を恐れ神主山伏を賴みて色々いのりけれども更にそのしるしなし。ある老人聞て、若し池袋池尻邊の女は召仕ひ給はずやと尋し故、召仕ふ女を尋しに、池尻の者の由申ければ早速暇を遺しけるに、其後は絕て怪異なかりし由。池尻村の產神(うぶがみ)は甚(はなはだ)氏子を惜み給ひて、他へ出て若(もし)其女に交りなどなす事あれば、必ず妖怪有りと聞傳へし由彼老人かたりけるが、其比(そのころ)榮藏は幼少也しが、親戚者右女を侵しける事有りしやと語りぬ。淳直正道を第一にし給へる神明(しんめい)の、氏子を惜み妖怪をなし給ふといふ事も、分らぬ事ながら爰に記ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。敢えて言うなら「積惡は天誅ゆるさゞる所」にて因果応報三代続いたに、こっちは「淳直正道を第一にし給へる神明」が、吝嗇臭く「氏子を惜み妖怪をな」すという不可解の逆ベクトルである。本話柄は「池袋の女」として著明な都市伝説で、明治期に入ってからも生き残り、私の記憶では確か井上円了であったか、実地にこうしたポルターガイスト現象の出現する屋敷を訪れて仔細に検証したものを読んだ記憶がある(手元には円了の妖怪学全集もあるのだが、その山から探し出すのが面倒なので、そのうち、見出したら正確な叙述に変えるので、悪しからず)。海外でも同様の現象が知られ、家付きの呪縛霊の霊現象というよりも、必ず居住者や近隣に思春期の少女がいるのが汎世界的特徴である。幸い、ウィキに「池袋の女」の記載があるので、とりあえず掲げておく(記号と漢字の一部を変更した)。『江戸時代末期における日本の俗信の一つ。池袋(東京都豊島区)の女性を雇った家では、怪音が起きる、家具が飛び回るなど様々な怪異が起きるといわれたもの』で、『文化時代の地誌「遊歴雑記」に、「池袋の女」の話が以下のように述べられている』文政三(一八二〇)年三月、『小日向の高須鍋五郎という与力が、自分の雇っている池袋出身の下女に』、『つい』、『手をつけた。ある日の夕方、勝手口に来訪者が来たので下女が応対したところ、叫び声と共に戻って来た。鍋五郎が事情を尋ねると、ほっかむりをした男が現れたと言う。鍋五郎が周囲を捜したところ、怪しい者はいなかったが、念のために厳重に戸締りをしておいた。すると屋根や雨戸に石が打ちつけられ始めた。周囲を捜したが、やはり怪しい者の姿はない。深夜になっても石の音はやまないので到底眠ることもできず、夜明けには雨戸が』二『箇所も破られていた。鍋五郎が修験者に祈祷を頼んだが、今度は皿、鉢、膳、椀などが飛来し、火のついた薪が飛来して座敷に火をつけたりと、修験者もお手上げだった。その後も怪異は続いたが、ある者の助言により鍋五郎が下女に暇を申し渡すと、怪異はやんだ。その下女は武州秩父郡(現・埼玉県秩父郡)三害の一つといわれるオサキ遣いの子孫であり、鍋五郎が下女と密通した祟りで怪異が起きたとのことだった』。『池袋のほかにも、池尻(東京都世田谷区)、沼袋(同・中野区)、目黒(同・目黒区)についても同様の怪異が語られており』、『天保時代の雑書「古今雑談思出草子」や根岸鎮衛の随筆「耳袋」には、池尻出身の女を雇うと妖怪に遭うとして、以下のような話がある』(以下は正しく本話柄の梗概であるので省略する)。『これらの怪異は女性の自作自演との説もあり、「石投げをしてぼろの出る池袋」「瀬戸物屋土瓶がみんな池袋」といった川柳も残されている』。『また、山間部の一部の村では近代になってもすべての娘を若者たちの共有物とみなす風潮が残っており、そのような土地では女がほかの土地へ行くことや他所の男と交わることを禁じ、その禁を破った者には若者たちの報復があったとして、これらの現象は怪異ではなく、若者たちの報復とする説もあ』り、『明治時代には井上円了がこれらの怪異の真相を、虐げられた女性たちが自由に遊べないことによる欲求不満から、抗議行動として主人に茶碗を投げつけたりしたことと結論づけている』。私も数多くこうした現象の記載を読んできたが、洋の東西を問わず、情緒不安定な思春期の少女の意識的・無意識的詐欺行為として、殆んどの事例が片付けられるもののように思われる。本件と同じ現象を扱ったものに南方熊楠「池袋の石打ち」がある。今回、このために急遽、テクスト化したのでそちらも御覧あれ。
・「池尻村」旧荏原郡池尻村は現在の世田谷区東部の池尻。世田谷地域と北沢地域に跨り、東部で目黒区東山及び上目黒に接する(因みに私は大学生活の三年間をこの東山の四畳半子供部屋二段ベッド据付の下宿で斜めに寝ながら――姉妹の子供部屋の二段ベッドは真っ直ぐではつっかえた――で過した)。
・「池上本門寺」大田区池上1丁目にある長栄山本門寺。日蓮宗。古くより池上本門寺と呼称され、日蓮上人入滅の霊場として信仰を集める。
・「予評定所留役を勤し頃」根岸が評定所留役であったのは宝暦13(1763)年から明和5(1768)年で26から31歳迄の間であった。後述する本話柄の出来事は遡ること、50年から15年前迄のこととなる。
・「書役」評定所で文書の書写・浄書をした書記。現在の裁判所書記官相当であるが、底本の鈴木氏の注によると、文書の草案を作成したり、記録書類の作製は書物方という別職で、その書物方の上役に書類整理の総括者として改方という上席があったとある。
・「大竹榮藏」諸本注せず不詳。ネット上に散見する殆んどはこの話柄の絡みで、詳細記載はない。
・「享保延享」享保元・正徳六(一七一六)年から享保二一・元文元(一七三六)年。次に元文六・寛保(一七四一)元年、更に寛保四・延享元(一七四四)年を経て延享(一七四八)一七四八)年であるから、実に三十二年間。少々スパンが長過ぎる。本人の幼少期の記憶に基づく直話にしては嘘臭いが、ただ単に根岸が年号を忘れたか、そもそも栄蔵本人が特に話の中で示さなかったものを、根岸が推測していると考えた方が自然である。
・「中チへ上り」意味不明であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると『中(ちゆ)うへ上り』とあるので、これは「中うへ上り」の原文の誤りか、底本の誤植かとと思われる。バークレー校版で訳した。
・「池尻村の產神」池尻村には現在の池尻二丁目に鎮座する池尻神社がある。三百年前の明暦年間(一六五五年から一六五八年)に旧池尻村・池沢村の両村の産土神(うぶすながみ)として創建された稲荷神社である。古来、「火伏せの稲荷」「子育ての稲荷」として信仰を集める。池尻神社HPによれば、『当時は、大山街道(現在の旧道)のほとり常光院の片隅に勧請されたもので、村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢往還(現在の二子玉川方面道路)と津久井往来(現在の上町方面道路)の二つの街道からの人々が角屋・田中屋・信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休憩して江戸入りする道筋にあり、また、江戸から大山詣での人々が大坂(現在の旧山手通りと大橋の間の坂道)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤かったと伝えられてい』るとある。「産土神」は生まれた土地を領有し守護する土地神や祖先神の一種で、特に都市部とその周縁地域に於ける郷土意識形成と強く結びつき、多産・安産・成育ひいては村落共同体の繁栄を司るものとされた。
■やぶちゃん現代語訳
池尻村出身の女は召し使ってはいけないという事
池尻村と言って、江戸の南は池上本門寺なんどからほど近い所に一つの村がある。
この村の出身の女を召し使うと、果たしていつか必ず妖しく奇怪なることが起こる、と言い伝えて御座る。 私が評定所留役を勤めていた頃、書役に大竹栄蔵と申す者が御座った。かの者の、親の代に、誠(まっこと)不思議なことが御座ったが、何でもそれは池尻の女のせいであったという。以下、本人よりの聞き書きである。頃は、享保延享年間ででもあったか。
……或る日のこと、栄蔵方屋敷の天井の上に――どすーん!――と、大石でも落ちたような轟音が轟いた――。
……これを手始めに、行灯が宙に浮遊したり、或いは茶碗が長押を飛び越えて次の間に飛来する――中でも不思議であった出来事は――屋敷の座敷と台所の庭は垣根で隔てられていたが、その台所の庭にて米を搗いていた。米搗き役の者、煙草なんどを喫(の)んで、一服しているうち――どすーん!――と米を搗いていた重い臼が、何と垣根を越えて座敷の庭に落ちたのであった。
……ある時なんどは――ごそごそ! がたがた!――天井の辺りが何やらん以ての外に騒がしい故、天井裏に人を登らせて確かめさせたところ、
「……別段、何の変わったことも御座いませぬが……」
と言いつつ、天井から降りてきたその者の顔は――自身では丸で気づいておらねど、どう見ても自然そうなったとは思えぬ程に――煤で真っ黒々に塗りたくられていたのであった――。
……その他にも、やはり火の点った行灯などが時折、自ずとあちこちへ飛び回るという怪異が続く故、火の元ともならんかと恐れて神主やら山伏やを頼んでは、いろいろ加持祈禱なんど試みてはみたものの、何らの効験(こうげん)も現われぬ。
……ところが、ここに近隣のある老人がこの話を聞いて言う。
「……もしや、池袋・池尻辺りの女を召し使(つこ)うては御座らぬか?……」
召し使(つこ)うている下女を呼び出だいて尋ねてみたところが――池尻の者の由。
早速に暇(いとま)をとらせたところ――その後はぴたりと怪異が止んだ、とのこと――。
「……池尻村の産土神(うぶすながみ)は甚だ氏子の村外(むらそと)への流失を惜しみ、他所(よそ)へ出でて、もしその女に言い掛けし、交わったりする不届き者なんどがあると……必ずや妖しく奇怪なることが起こると聞き伝えて御座る……。」
との由、その老人が語ったというが……その頃、この栄蔵、幼少であったけれども、
「……拙者の父……もしかすると、その女に手を付けて御座ったかも、知れませぬ……。」
と語って御座った。
――あらゆる民草に厚く直き正道の心もて接するをこそ第一とし給うはずの神たるものが、氏子を惜しみ、怪異を成し給うというのも、聊か理解し難いことにては御座るが、まあ、ここに記しおくものである。
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