『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月1日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十回
(四十)
小勢(こぜい)な人數(にんず)には廣過ぎる古い家がひつそりしてゐる中(なか)に、私は行李(かうり)を解いて書物を繙(ひもと)き始めた。何故か私は氣が落ち付かなかつた。あの目眩(めまぐ)るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁(ページ)を一枚々々にまくつて行(い)く方が、氣に張があつて心持よく勉强が出來た。
私は稍ともすると机にもたれて假寐(うたゝね)をした。時にはわざ/\枕さへ出して本式に晝寐を貪ぼる事もあつた。眼が覺めると、蟬の聲を聞いた。うつゝから續いてゐるやうな其聲は、急に八釜(やかま)しく耳の底を搔き亂した。私は凝とそれを聞きながら、時に悲しい思ひを胸に抱いた。
私は筆を執つて友達のだれかれに短かい端書(はかき)又は長い手紙を書いた。其友達のあるものは東京に殘つてゐた。あるものは遠い故鄕(こきやう)に歸つてゐた。返事の來るのも、音信(たより)の屆かないのもあつた。私は固より先生を忘れなかつた。原稿紙へ細字(さいじ)で三枚ばかり國へ歸つてから以後の自分といふやうなものを題目にして書き綴つたのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生は果してまだ東京にゐるだらうかと疑(うたぐ)つた。先生が奧さんと一所に宅を空ける場合には、五十恰好(がつかう)の切下(きりさげ)の女の人が何處からか來て、留守番をするのが例になつてゐた。私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私は其人を先生の親類と思ひ違へてゐた。先生は「私には親類はありませんよ」と答へた。先生の鄕里にゐる續きあひの人々と、先生は一向音信の取り遣りをしてゐなかつた。私の疑問にした其留守番の女の人は、先生とは緣のない奧さんの方の親戚であつた。私は先生に郵便(いふひん)を出す時、不圖(ふと)幅の細い帶を樂に後で結んでゐる其人の姿を思ひ出した。もし先生夫婦が何處かへ避暑にでも行つたあとへ此郵便(いふひん)が屆いたら、あの切下(きりさげ)の御婆さんは、それをすぐ轉地先へ送つて吳れる丈の氣轉と親切があるだらうかなどと考へた。其癖その手紙(てかみ)のうちには是といふ程の必要の事も書いてないのを、私は能く承知してゐた。たゞ私は淋しかつた。さうして先生から返事の來るのを豫期してかゝつた。然しその返事は遂に來なかつた。
父は此前の冬に歸つて來た時程將棋を差したがらなくなつた。將棋盤はほこりの溜つた儘、床の間の隅に片寄せられてあつた。ことに陛下の御病氣以後父は凝と考へ込んでゐるやうに見えた。每日新聞の來るのを待ち受けて、自分が一番先へ讀んだ。それから其讀(よみ)がらをわざ/\私の居る所へ持つて來て吳れた。
「おい御覽、今日も天子樣の事が詳しく出てゐる」
父は陛下のことを、つねに天子さまと云つてゐた。
「勿體ない話だが、天子さまの御病氣も、お父さんのとまあ似たものだらうな」
斯ういふ父の顏には深い掛念(けねん)の曇(くもり)がかかつてゐた。斯う云はれる私の胸には又父が何時(いつ)斃(たふ)れるか分らないといふ心配がひらめいた。
「然し大丈夫(だいぢやうふ)だらう。おれの樣な下らないものでも、まだ斯うしてゐられる位(くらゐ)だから」
父は自分の達者な保證を自分で與へながら、今にも己れに落ちかゝつて來さうな危險を豫感してゐるらしかつた。
「御父さんは本當に病氣を怖がつてるんですよ。御母さんの仰しやるやうに、十年も二十年も生きる氣ぢやなささうですぜ」
母は私の言葉を聞いて當惑さうな顏をした。
「ちつと又將棋でも差すやうに勸めて御覽な」
私は床の間から將棋盤を取り卸して、ほこりを拭いた。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「五十恰好の切下の女の人」というのは、遺書のKの告白の直前の正月のシーンで、奥さんと御嬢さんが家を空けた理由をKに説明する対話の中に現れる。Kが「奥さんと御孃さんは市ヶ谷の何處へ行つたのだらうと云ふのです。私は大方叔母さんの所だらうと答へました。Kは其叔母さんは何だと又聞きます。私は矢張り軍人の細君だと教へて遣りました」。更に先生の遺書の最後では、この遺書を書くための方途の説明の中に「妻は十日ばかり前から市ヶ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病氣で手が足りないといふから私が勸めて遣つたのです。私は妻の留守の間に、この長いものゝ大部分を書きました。時々妻が歸つて來ると、私はすぐそれを隱しました。」と記す叔母である。「切下」とは「切り下げ髪」のこと。「切髪」(きりかみ・きりがみ)とも言い、本来は中国の習慣で夫の死後に貞節を守っていることの証しとして行った習慣に由来すると言われ、近世から明治期にかけて、多くは未亡人が結った髪形である。頸部で短く切り揃えた髪を髷(まげ)を結わずに束ねて後ろに垂らし、髻(もとどり)に紫の打ちひもを掛けたものである。――先生の家の未亡人の髪型をした後姿の女の映像――不吉である。
♡「讀がら」一度読んだもの、の意。
♡「おい御覽、今日も天子樣の事が詳しく出てゐる」底本注には『東京朝日新聞』の連日の見出しを読むことが出来る。それら及び若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の同注を参考に以下に日を追って列挙してみる(恣意的に正字に直したが、「萬」等は別字の可能性が有る。「▽」「▲」は縦書でこの向きである。)。
7月21日 聖上陛下御重態▽十四日より御臥床あり▽御睡眠の狀態持續す
▽電車の音を立るな
●川開の無期延期
7月22日 御病狀依然▽各國使臣元老大臣其他▽踵を接して參内御見舞
▲電車徐行の御伺
▲午砲の位置變更
▲興行界の憂慮
▲花柳界の沈靜
7月23日 御病勢稍衰ふ▽昨日御前公表の御容態▽此傾向にして繼續せば▽兩三日後愁雲披けむ
●腎臟病と腎盂炎
●侍醫改革の急
●宮中氷の御用二倍す
●市内の御平癒祈願
7月24日 御病狀安靜▽御經過稍良好なれども▽玆一週間は警戒を要す
●久振りの玉音
●雨中に立ち盡す市民の赤誠
7月25日 御病狀靜▽最も大切の御經過時期▽萬民神靈の加護を祈る
●汽車乘客の喜色▽車掌御容體書を讀む
7月26日 御病勢不良▽御容體書の發表大に遅延す▽最も憂ふ可き御脈拍の不整
皇室と國民
7月27日 御病勢險惡▽憂ふ可き御呼吸の狀態▽前日に比し御疲勞增加
7月28日 幾分御緩和▽昨朝は御安眠御安靜▽不規則の御呼吸減少
●乃木大將の日參
●二重橋に行け
7月29日 御疲勞加はる▽不規則の御呼吸狀態著明▽最も憂ふ可き御疲勞增加
火急の御參内
7月30日 ●殆んど絕望▽御四肢の末端暗紫色著明▽益危險の御狀態に在す
●囚人も又謹愼
●避暑客皆無
とあるが、実際には明治天皇はこの7月30日の未明午前0時43分に既に崩御していた(その号外については次章注を参照)。]
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