「耳嚢 巻之二 福を授る福を植るといふ事 / 耳嚢 卷之二 全訳注完成
「耳嚢 巻之二」に「福を授る福を植るといふ事」を収載、本話を以って「耳嚢 卷之二」100話全訳注を完成した。
本来なら、直ちに「卷之三」に入るところであるが、今は「心」同日掲載プロジェクトになるべく専心していたいと思っている。「卷之三」の開始は7月下旬から8月上旬を予定している。その時まで、「耳嚢」ファンの皆様、随分、御機嫌よう――。
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福を授る福を植るといふ事
勢州高田門跡(もんぜき)の狐、京都藤の森へ官に登るとて、或村の者にとり何て、口ばしりて一宿を乞ける故、安き事也迚赤の飯油揚やうのもの馳走して、扨狐は稻荷のつかはしめ、福を祈れば福をあとふると聞及びし故、何卒福を與へ給へと願ければ、右狐付答て言し。我々福を與へるといふ事知らず、人の申事也。都(すべ)て頑を植るといふ事有、是を傳授すべし、都て人の爲世の爲に成る事心懸け致すべし、しかしかゝる事したりと聊も心に思ひよりては福を植るにあらず、無心に善事をなすを福を植るといふ也、且我々福分を授る事成難しといへども、善事有人へは、或は盜難あるべきは我等來りて枕元の物を落し、又強き音などさせて眠を覺し其難を免れしめ、或は火災あらん節も遠方の親族知音(ちいん)へも知らせて人を駈付させて、家財等を取退などする事あり、則福を與ふるといふものならんと語りしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:ぶっとんだ禪僧の道歌から自力作善を戒める真宗坊主染みたぶっとびの稲荷神の説法で面白連関。根岸は余り、他の巻や諸本を見ても、根岸は特に最終話ということを考えて配しているようには思われない。
・「福を植る」読みは「植(うゑ)る」。この語は特定の宗教に限定されない形で、現在も用いられている。心の田圃に福を植える、といった感じである。幸田露伴のエッセイに「努力論」というのがあり、そこで彼は惜福・分福・植福という三つの福を説き、その実現によって世界の幸福が到来するとも述べている。どっかのポールとか、どっかの国のこっぱずかしい政党の名みたような話だな。
・「勢州」伊勢国。
・「高田門跡」現在の三重県津市一身田町(いっしんでんちょう)にある、現在の真宗教団連合を構成する浄土真宗十派の一つである真宗高田派の高田山専修寺(せんじゅじ)。「門跡」は門跡寺院のことで、皇族や摂家が出家出来る位の高い特定寺院の称。浄土真宗には五門跡あり、本専修寺の他、東本願寺・西本願寺・佛光寺・興正寺である。これらは「五門徒」とも称せられる。以下、ウィキの「専修寺」より引用する。『浄土真宗の開祖親鸞が、関東各地の教化に入って十余年、真岡城主大内氏の懇願により建てられた寺院と伝えられる。1225年(嘉禄元年)、親鸞53歳のとき明星天子より「高田の本寺を建立せよ」「ご本尊として信濃の善光寺から一光三尊仏をお迎えせよ」との夢のお告げを得て、現在の栃木県真岡市高田の地に専修念仏の根本道場(如来堂)を建立したのが起源とする。その際、善光寺の本尊である秘仏を模造した一光三尊仏を本尊に迎え安置、親鸞門弟の中のリーダーであった真仏が管理に当たっていたものと推定されている』。『建立の翌年には、朝廷から「専修阿弥陀寺」という勅願寺の綸旨を受け、親鸞の教化活動は遊行から本寺中心に変わり、建立後約7年間この寺で過ごしたとしている。このように、本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たした寺である』。『真仏を中心とした門徒衆は、関東各地の門徒が作る教団の中で最も有力な教団(高田門徒)となり、京都へ帰った親鸞からしばしば指導の手紙や本人が書き写した書物などが送られている』。『その後、この教団は次第に発展し、「高田の本寺」と呼ばれて崇敬を集めるようになっていた。そんな中で、同じ浄土真宗である仏光寺派教団が京都を中心に発展する。親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を覚如が寺格化した「本願寺」も、一旦は衰退するものの15世紀半ばごろに蓮如によって本願寺教団として次第に勢力を拡大していく。それに対して高田派教団はむしろ沈滞化の傾向にあったが、それを再び飛躍させたのが、東海・北陸方面に教化を広めた十代真慧(しんね)であった』。『本寺専修寺は戦国時代に兵火によって炎上し一時荒廃したが、江戸時代に入って再建されており本尊の一光三尊仏は今もここに安置されている』。『現在の三重県津市一身田町にある専修寺は、1469~1487年に真慧(しんね)が伊勢国の中心寺院として建立した。当時この寺は「無量寿院」と呼ばれており、文明10年(1478年)には真慧は朝廷の尊崇を得て、「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨(専修寺文書第29号)を得ることに成功した。高田の本寺が戦国時代に兵火によって炎上したことや教団の内部事情から、歴代上人がここへ居住するようになり、しだいにここが「本山専修寺」として定着した。数多い親鸞聖人の真筆類もここへ移され、親鸞の肖像をはじめ、直弟子などの書写聖教など貴重な収蔵品を多数保持している。阿弥陀如来立像を本尊とする。本山専修寺の伽藍は二度の火災に遭ったが再建されている。浄土真宗最大宗派の東西本願寺に匹敵する広大な境内を持ち、周囲は寺内町を形成している。その集落は現在もはっきり見分けることができる。地元では「高田本山」と呼ばれている』。底本注によれば下野国芳賀郡高田にあったものを伊勢国奄芸郡(あんげ・あんき)郡津一身田に真慧が移した年を寛正(かんしょう)6(1465)年とする。この時、真慧が乞うて『後柏原天皇皇子常磐井宮が入室、その後も伏見宮貞致親王の王子が入室して法燈を継い』(底本注)で門跡寺院となっている。最後に以下、ウィキの補足事項の内容が「歎異抄」フリークの私には興味深いので、引用しておきたい。『真宗高田派専修寺(およびその末寺)では歎異抄を聖典として用いていない(否定しているわけではないことに要注意)。これは「専修寺には親鸞聖人の真筆文書が多数伝来しており、弟子の聞き書きである歎異抄をあえて用いる必要性が薄い」との考えによるものである。なお、専修寺は現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、これは東西本願寺よりも多い数である』。なーむ、じゃない、なーるほど、ね。
・「京都藤の森」先行する「小堀家稻荷の事」の注をそのまま引く。現在の京都府京都市伏見区深草鳥居崎町にある藤森(ふじのもり)神社。境内は現在の伏見稲荷大社の社地で、ウィキの「藤森神社」によれば、『その地に稲荷神が祀られることになったため、当社は現在地に遷座した。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した』とある。底本の鈴木氏注には、「雍州府志」(浅野家儒医で歴史家の黒川道祐(?~元禄4(1691)年)が纏めた山城国地誌)によれば、『弘法大師が稲荷神社を山上から今の処へ移した時、それに伴って藤杜社を現在地へ遷したものであるといい、稲荷と関係が深く、伏見稲荷に詣れば藤森にも参詣するのが例であった』と記す。伏見稲荷は正一位稲荷大明神である狐=稲荷神の本所である。
・「官に登る」狐に関わる説話にしばしば現われる狐の官位なるものは、伏見から授けられるという広範な民間伝承があったことが分かる。
・「都(すべ)て」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
「福を授かる」と「福を植える」の謂いの違いについての事
伊勢国は高田門跡の狐が、ある村人に取り憑いて、
「――!――官位を得て昇進致いたによって京都の藤の森に登る! ついてはここに一夜を乞う!――」
と威丈高に家人に口走った。
家人は驚きながら、
「……?!……へえ、それはた易きこと……」
と、とりあえずは奉っておくに若くはなしとて、赤飯や油揚げといったお狐さまの好物を馳走致いた上、ことは序でと、
「お狐さまはお稲荷さまのお使い、福を祈れば福を与えると聞き及んでおりますれば、何卒、福をお与え下さいませ。」
願い出てみる。
すると、その狐が憑いた村人が答えて言うことには、
「……我々が『福を与える』ということは、無知な人間どもが勝手に申しておることじゃ。……我らにあるは『福を植える』ということのみじゃ。一宿一飯の恩義もある。一つ、これを授けて遣わそうぞ。……さてもじゃ……何より万事、人のため世のためになることを心がけて致すが、よい。……しかしじゃ、己(おのれ)はかくかくの良きことを致いた、なんどと、些かもでも鼻にかけることあらば、それは最早、『福を植えた』ことには、ならぬ……何事も、無心に、善事を善事と思わず善事を為すこと、これ、『福を植える』と、いうのじゃて。……且つまた、その方どもの請うところの、そのほうどもの考える『福分』なるものを授くることは、我らには出来ぬ……出来ぬ、が……今、言うた通りに善事善行を積むことの出来た人間へは……或いは、盗人ある時には、我ら来たりて、その方らの枕元に物を落とし、また大きな物音なんどをさせてその方らの眠りを覚ませてその危難を免れしめ、……或いは火災なんどがあらん折りには、遠方の親族・知音(ちいん)へも我らが虫の知らせで伝えては、人を駆けつけさせて家財なんどを運び出させたりなんど、することがある。……まあ、言うなら、これ即ち、その方らが言うところの、『福を与える』ということになろうか、の……」
と語った、とか。
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