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2010/05/12

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月12日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十三回

Kokoro12_2   先生の遺書

   (二十三)

 私は退屈な父の相手としてよく將棋盤に向つた。二人とも無精な性質(たち)なので、炬燵にあたつた儘、盤を櫓(やぐら)の上へ載せて、駒を動かすたびに、わざ/\手を掛蒲團の下から出すやうな事をした。時々持駒を失くして、次の勝負の來る迄雙方(さうはう)とも知らずにゐたりした。それを母が灰の中から見付出して、火箸で挾み上げるといふ滑稽もあつた。

 「碁だと盤が高過ぎる上に、足が着いてゐるから、炬燵の上では打てないが、其處へ來ると將棋盤は好(い)いね、斯うして樂に差せるから。無精者には持つて來いだ。もう一番遣らう」

 父は勝つた時は必ずもう一番遣らうと云つた。其癖負けた時にも、もう一番遣らうと云つた。要するに、勝つても負けても、炬燵にあたつて、將棋を差したがる男であつた。始めのうちは珍らしいので、此隱居じみた娯樂が私にも相當の興味を與へたが、少し時日か經つに伴(つ)れて、若い私の氣力は其位な刺戟で滿足出來なくなつた。私は金や香車(きやうしや)を握つた拳を頭の上へ伸して、時々思ひ切つたあくびをした。

 私は東京の事を考へた。さうして漲(みなぎ)る心臟の血潮の奧に、活動(くわつどう)々々と打ちつゞける鼓動を聞いた。不思議にも其鼓動の音が、ある微妙な意識狀態から、先生の力で强められてゐるやうに感じた。

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。兩方とも世間から見れば、生きてゐるか死んでゐるか分らない程大人しい男であつた。他(ひと)に認められるといふ點からいへば何方(どつち)も零(れい)であつた。それでゐて、此將棋を差したがる父は、單なる娯樂の相手としても私には物足りなかつた。かつて遊興のために往來をした覺のない先生は、歡樂の交際から出る親しみ以上に、何時(いつ)か私の頭に影響を與へてゐた。たゞ頭といふのはあまりに冷か過ぎるから、私は胸と云ひ直したい。肉のなかに先生の力が喰ひ込んでゐると云つても、血のなかに先生の命が流れてゐると云つても、其時の私には少しも誇張でないやうに思はれた。私は父が私の本當の父であり、先生は又いふ迄もなく、あかの他人であるといふ明白な事實を、ことさらに眼の前に並べて見て、始めて大きな眞理でも發見しかたの如くに驚ろいた。

 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今迄珍らしかつた私が段段陳腐になつて來た。是は夏休みなどに國へ歸る誰でもが一樣に經驗する心持だらうと思ふが、當座の一週間位(くらゐ)は下にも置かないやうに、ちやほや歡待されるのに、其峠を定規(ていき)通(とほ)り通り越すと、あとはそろ/\家族の熱が冷めて來て、仕舞には有つても無くつても構はないものゝやうに粗末に取り扱はれ勝になるものである。私も滯在中に其峠を通り越した。其上私は國へ歸るたびに、父にも母にも解らない變な所を東京から持つて歸つた。昔でいふと儒者の家へ切支丹の臭(にほひ)を持ち込むやうに、私の持つて歸るものは父とも母とも調和しなかつた。無論私はそれを隱してゐた。けれども元々身に着いてゐるものだから、出すまいと思つても、何時かそれが父や母の眼に留つた。私はつい面白くなくなつた。早く東京へ歸りたくなつた。

 父の病氣は幸ひ現狀維持の儘で、少しも惡い方へ進む模樣は見えなかつた。念のためにわざ/\遠くから相當の醫者を招いたりして、愼重に診察して貰つても矢張り私の知つてゐる以外に異狀は認められなかつた。私は冬休みの盡きる少し前に國を立つ事にした。立つと云ひ出すと、人情は妙なもので、父も母も反對した。

 「もう歸るのかい、まだ早いぢやないか」と母が云つた。

 「まだ四五日居ても間に合ふんだらう」と父が云つた。

 私は自分の極めた出立(しゆつたつ)の日を動かさなかつた。

Line_2

 


やぶちゃんの摑み:「私」の家族構成が明らかになる。父母と九州に在勤する兄の他に近隣県の他家へ嫁いでいる妹がいる。妹の嫁ぎ先の姓は「關」(せき)である(「こゝろ」「中」十四)。私の「こゝろ」の授業を受けた諸君は、この章を試験の範囲としたはずである。思い出されたい。

「要するに、勝つても負けても、炬燵にあたつて、將棋を差したがる男であつた」「私」の父親に対する失望に近い感情が表明される。それは更に「それでゐて、此將棋を差したがる父は、單なる娯樂の相手としても私には物足りなかつた」と畳み掛けられるテッテ的なものとしてである。それは、私の中で血肉化している赤の他人である先生、肉親である父より遙かに自分に大きな影響を与えている巨人のような存在感のある人物としての先生、人間として父よりも人生上の「父」なる必要不可欠な存在としての先生を読者に印象付け、遂に実父を捨てて最早この世にいない先生を求めて東京行の汽車に飛び乗ってしまう「私」への伏線である。それを読者が殊更に反道徳的なものとして捉えないようにするための希釈的伏線である。が、「始めて大きな眞理でも發見しかたの如くに驚ろいた」等、やや大袈裟過ぎて私には逆に作為的で不自然な印象を与える章でもある。

「のつそつ」元来は伸びたり縮んだりする樣であるが、ここは退屈した様子を言う。その具体的な動作が正に前の「私は金や香車を握つた拳を頭の上へ伸して、時々思ひ切つたあくびをした。」と表わされている。

「變な所」先生や大学で得られた新時代の西洋の学問・知識・文化に基づく新しいものの考え方や都会風の新しい習俗。

「儒者の家へ切支丹の臭を持ち込むやうに」ここも試験問題にしたところ。日本の伝統的道徳観を保持した父母を「儒者」に、外国の目新しい文化を身につけた自分を「切支丹」に比喩する。実はここには更に、後に先生によって表明されるところの、漱石の田舎蔑視の意識、田舎者⇔都会人、前近代的封建主義者⇔近代的知識人という二項対立をも透かし見せてもいる部分なのである。]

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