耳嚢 巻之二 不受不施宗門の事
「耳嚢 巻之二」に「不受不施宗門の事」を収載した。
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不受不施宗門の事
日蓮宗に不受不施といふ事あり。往古御施物(せもつ)を不受事に付御科(とが)を蒙り、夫より一流停止(ちやうじ)の宗派也。理り成事也。右不受不施の派を守るものは飽迄かたましき者也。予評定所留役を勤ける頃、懸りにはあらざりしが聞及びしは、評定所或日立會の日に一人の僧駈込て、不受不施の宗派を保し者也、遠嶋を願ふ由は、遠嶋被仰付けるが、其後上總國南飯塚村にて右宗派を保し者あり。予が懸りにて追々糺(ただ)しけるが、いかにもかたましく思ひ込たるものに有りける。
□やぶちゃん注
○前項連関:日蓮絡みで連関。日蓮宗嫌いダメ押しのダメ押し。まあ、禪天魔、念仏無間と言われた日にゃ、本家禪宗(曹洞宗)で養家浄土宗、本人は神道へシンパシー旺盛の鎭衞、日蓮は、さぞ、お嫌いじゃろうて。
・「不受不施」ウィキの「日蓮宗不受不施派」から引用する。『日蓮を宗祖とし、日奥を派祖とする、日蓮門下の一派で』、『桃山時代に関白豊臣秀吉が亡き母大政所の回向のための千僧供養に日蓮宗の僧侶も出仕を命じる事件が起きた(1595年)。このとき日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派と、出仕を拒み不受不施義の宗規を守ろうとする不受不施派に分裂した。そして京都妙覚寺の日奥がただ一人出仕を拒否して妙覚寺を去った。さらに徳川家康は大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論させ(大阪城対論)、権力に屈しようとしない日奥を対馬に流罪にした(1599年)。日奥は13年後赦免されて妙覚寺に戻った』。『江戸時代に入ると身延山久遠寺(受不施派)の日暹は、武蔵国池上本門寺(不受不施派)日樹が身延山久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え(1630年)、幕府の命により両派が対論する事件が起きた(身池対論)。しかしこのとき身延山久遠寺側は本寺としての特権を与えられるなど、幕府と強いコネクションをもっていたことからそれを活用し、結局政治的に支配者側からは都合の悪い不受不施派側は敗訴し、追放の刑に処されることになった。このとき日奥は再び対馬に配流されることになったが、既になくなっており、遺骨が配流されたとされる』。『そして幕府は、寺領を将軍の寺に対する供養とし、道を歩いて水を飲むのも国主の供養であるという「土水供養論」を展開し不受不施派に対し寺請(寺請制度参照)も認めない(不受不施派寺請禁止令)など、禁制宗派とした(1665年)。このとき安房小湊の誕生寺など一部のグループは寺領を貧者への慈悲と解釈して表向き幕府と妥協する「悲田派」と称する派をたて秘かに不受不施の教義を守っていたが、これも発覚し関係者は流罪に処せられた(1691年)』。『不受不施派の信者は日蓮の地元であった上総国、下総国、安房国や室町期に日蓮宗勢力が拡大した備前国、備中国(岡山藩)に多く潜伏していた。彼らは厳しい摘発を受け、隠れキリシタンのように刑罰を受けるか、改宗の誓約書を取られるかした。不受不施派の信者は、他宗他派に寺請をしてもらうが内心では不受不施派を信仰する「内信」となる者が多く、一部の強信者は他宗他派への寺請を潔しとせず無籍になって不受不施派の「施主(法立)」となった。また不受不施派の僧侶は「法中」と呼ばれ、それを各地の「法燈」が率いた。そして不受不施派では教義上「内信」は不受不施の信者とは一線を画され直接「法中」に供養することが出来ず、「施主」がその間を仲介するという役割を果たした。この信者同士の絆が強固な地下組織を形成し、この時代を生き抜いた。またこの時期岡山の不受不施派では、法立が導師を務めることが出来るか否かをめぐり導師不導師の論争が起こり岡山だけではなく不受不施派全体の問題となった。そして、日向に配流中の日講を中心とする不導師派(講門派)と讃岐に配流中の日堯を中心とする導師派に分かれ、前者が不受不施日蓮講門宗の系統となり後者が日蓮宗不受不施派の系統となった』。近世、『相模国(神奈川県)では鎌倉の妙本寺を中心に広がりを見せ』、『1667年の「不受不施帳」によれば』鎌倉の『本興寺(大町)・妙典寺(腰越)・本竜寺(腰越)・仏行寺(笛田)・妙長寺(乱橋)・円久寺(常盤)』を始めとして相模国だけで26ヶ寺を数えた。『これは1633年の「本末帳」に照らすと末寺の68%にあたるという。(鎌倉市『鎌倉市史・近世通史編』吉川弘文館、1990年、p353参照。)』。『明治維新を迎えると、政府は釈日正を中心とした不受不施派から宗派再興、派名公許の懇願受け、信教の自由の名の下明治9年(1876年4月10日)、不受不施派の宗派再興、派名公許を布達した。これにより同年、釈日正は岡山県岡山市に竜華教院を創建し、その後日奥の京都妙覚寺の名をとり日蓮宗不受不施派の本山とした(1882年)』。――要は純粋に祖師の教えを守らんとするのである。日蓮宗以外の者から施しを受けず、日蓮宗以外の僧侶に施しをしないという、極めて分かり易い、言わば日蓮宗のファンダメンタリズムの一派である。いや、日蓮個人の思想から言えば、彼等こそ正しく宗祖の教えを守っていると言えると私は思う(勘違いされては困るが、私は日蓮宗不受不施派にては、これ御座らぬ)。天皇を日蓮宗化することを下げちゃったり、教団を作ることが本来の信仰を危うくすると明確に考えていた親鸞の教えを語らずにとんでもない教派集団を作って大枚の金を搾取している集団に比べたら、私はずっと共感出来るね。
・「予評定所留役を勤ける頃」根岸が評定所留役であったのは宝暦13(1763)年から明和5(1768)年で26から31歳迄の間であった。
・「書役」評定所で文書の書写・浄書をした書記。現在の裁判所書記官相当であるが、底本の鈴木氏の注によると、文書の草案を作成したり、記録書類の作製は書物方という別職で、その書物方の上役に書類整理の総括者として改方という上席があったとある。
・「評定所或日立會の日」「評定所立合」で評定所の定期会合の一つを指す語である。毎月6・14・25日に三奉行(寺社・町・勘定奉行)と大目付・目付が出席して評議(評定ではない)を行う。式日寄合(彼等による定例日評定)に対する語。
・「由は」底本には右に『(一本「よしにて」)』と注す。これで採る。
・「上総国南飯塚村」現在の千葉県山武(さんぶ)郡大網白里(おおあみしらさと)町南飯塚。九十九里浜から8㎞ほど内陸に入ったところにある。
■やぶちゃん現代語訳
日蓮宗不受不施派の事
日蓮宗に不受不施という教えがある。その昔、頑固に施物を受けようとせぬため、御公儀から厳しく罰せられ、以来、宗派としての活動は禁じられておる。
この御禁制の儀、私は至極尤もなことと存じておる。
何せ、この不受不施の派を守る者、心底、心がねじくれておるからで御座る。
私が評定所留役を勤めて御座った頃――直接の担当ではなかったのであるが――以下のような話を聞いた。
ある日の評定所立合の日、一人の僧が突如駆け込んで来ると、
「不受不施の宗派を信ずる者である。どうか、遠島を、願う!」
と不遜に吐き捨てるように申す。――評定所も、この尊大なる態度に即座に遠島仰せ付けた。
――かく厳しく致すに、またしてもその後、上総国南飯塚村にこの派を信ずる者あること、これ露見致し、その度は私が実際の担当となって時間をかけ、本人の棄教・反省なんどのあればこそと、それなりの思いを以って種々糺問訊問を致いたが、――いや、もう話にならぬ――如何にも幾重(いくえ)にもねじ歪んだ、異様に思い込みの激しい者にて御座った。