耳嚢 巻之二 奸智永續にあらざる事
「耳嚢 巻之二」に「奸智永續にあらざる事」を収載した。
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奸智永續にあらざる事
享保元文の比(ころ)、代官を勤し小宮山杢之進(もくのしん)といへるは、學才もあり智惠も多き男也しが、其職分に不束有て御役は被召放て小普請に入りしが、長壽にて予が中年迄存命にて、儒書の講釋などしたりしが、たくましき男にてありし。彼者小普請に入て後、出入町人と咄ける折から、彼下人申けるは、扨々町人も金子用立て返濟なき方へ、幾度も手段もかへはたりせたげども事不行、是に難儀なる事也といひて、古手形四五枚も見せければ、杢之進聞て、其古手形我に賣申間敷哉(うりまうすまじきや)と申ければ、賣迄もなし可差上と言しを、可貰請謂(いはれ)なしとて、禮式として金子五百疋差出し、かく/\の書付せよと印書を受取ければ、かの町人は大きに悦び、捨し金の古紙酒代になりしとて帰りぬ。其後彼謹文名前はさる諸侯也ける故、杢之進儀召連の家來もさはやかに出立て彼諸侯の元へ至り、役人を呼出し申けるは、我等事御代官相勤、御勘定も不相立故御咎を蒙り退役いたしたり。然るに我等は委敷(くはしく)不存候へ共、召仕候者抔の取計にて、公儀の御年貢金を出入町人へ預、町人返濟不致故、彼是金高の不納積りて我等御咎を受し事と成ぬ、此節に至り段々相改候へば、當御屋敷へ用立候由の所、御返金不濟候故勘定不致由を申候て、右手形を其方へ相返し候、元來御年貢金をかゝる町家へ渡置候事、家來の不屆とは申ながら我身の不念(ぶねん)いたし方もなし、右の通御役御免にて當時難儀いたし候我なれば御返金可被下、御承知無之ばせめて此譯をも申立、少しは上(かみ)の御憎みをも免れたしと、いかにも丁寧に申ければ、彼役人も大に驚き、同役と可申談とて家老へも申立、主人へも申ければ、右町人より一向左樣の事も申ざりしが、扱は御年貢金にて右故御旗本の難儀に成しや氣の毒成事也とて、よきに挨拶なして其後右金子調達して杢之進方へ返しける由。恐ろしき工夫也と人の語りぬ。かゝる邪智の謀計も多く、親族の難儀をもかまわぬ男成しが、其身は老衰の後事なく病死せしが、積惡は天誅ゆるさゞる所や、二代目の何某小十人組勤めたりしが、御科を蒙り其家斷絶に及びし也。
□やぶちゃん注
○前項連関:「徴(はた)り」で瓢箪から駒の連関。
・「奸智永續にあらざる事」という標題は適切とは思われない。ここで根岸は小宮山杢之進が悪知恵で私腹を肥やしたが、それは二代目になって因果応報、「御科を蒙り」小宮山家は断絶したというのであるが、「奸智永續にあらざる」=「悪知恵は永くは続かぬという」見本とは言い難いからである。言うなら「奸智応報の事」で十分に思われるのだが、如何?
・「享保元文の比」享保元・正徳6(1716)年から元文元・享保21(1736)年を経て、寛保元・元文6(1741)年迄。小宮山杢之進が実際の代官職を追われるのは享保19(1734)年であるから(後注参照)、ここは「享保の比」でよいところ。現代語訳では「元文」を抜いた。
・「代官」時代劇の影響で、悪代官=代官は大抵が民を苦しめるものという印象が強いが、実際はそうではなかった、ということがウィキの「代官」で目から鱗となるので、少し長いが引用する。『江戸時代、幕府の代官は郡代と共に勘定奉行の支配下におかれ小禄の旗本の知行地と天領を治めていた。初期の代官職は世襲である事が多く、在地の小豪族・地侍も選ばれ、幕臣に取り込まれていった。代官の中で有名な人物として、韮山代官所の江川太郎左衛門や富士川治水の代官古郡孫大夫三代、松崎代官所の宮川智之助佐衛門、天草代官鈴木重成などがいる。寛永(1624年ー1644年)期以降は、吏僚的代官が増え、任期は不定ではあるが数年で交替することが多くなった。概ね代官所の支配地は、他の大名の支配地よりも暮らしやすかったという』。『代官の身分は150俵と旗本としては最下層に属するが、身分の割には支配地域、権限が大きかったため、時代劇で悪代官が登場することが多い。こうしたことから代官とは、百姓を虐げ、商人から賄賂を受け取り、土地の女を好きにする悪代官のイメージが広く浸透した。今日、無理難題を強いる上司や目上を指してお代官様と揶揄するのも、こうしたドラマを通じた悪代官のイメージが強いことに由来する。ジョークで物事を懇願する際に相手をお代官様と呼ぶ場合があるのも、こうした時代劇の影響によるところである』。『しかし、実際には少しでも評判の悪い代官はすぐに罷免される政治体制になっており、私利私欲に走るような悪代官が長期にわたって存在し続けることは困難な社会であった。過酷な年貢の取り立ては農民の逃散につながり、かえって年貢の収量が減少するためである。実際、飢饉の時に餓死者を出した責任で罷免・処罰された代官もいる。そもそも、代官の仕事は非常に多忙で、ほとんどの代官は上に書かれているような悪事を企んでいる暇さえもなかったのが実情らしい。ただし、それでも稀には悪代官と言える人物もいたようであり、文献によると播磨国で8割8分の年貢(正徳の治の時代の天領の年貢の平均が2割7分6厘であったことと比較すると、明らかに法外な取り立てである)を取り立てていた代官がいたそうである』。『通常、代官支配地は数万石位を単位に編成される。代官は支配所に陣屋(代官所)を設置し、統治にあたる。代官の配下には10名程度の手付(武士身分)と数名の手代(武家奉公人)が置かれ、代官を補佐した。特に関東近辺の代官は江戸定府で、支配は手付と連絡を取り行い、代官は検地、検見、巡察、重大事件発生時にのみ支配地に赴いた。遠隔地では代官の在地が原則であった』とある。
・「小宮山杢之進」小宮山昌世(まさよ ?~安永2(1773)年)。幕臣・儒学者。太宰春台門下。水戸の出身で江戸小石川に住した。将軍吉宗の命を受け、検地に関する書物「正生録」を上梓し、農政・経済分野で活躍、享保6(1721)年から佐倉小金・佐倉七牧(現・千葉県佐倉市)両牧の代官職に就き、翌享保7年には牧場管理と共に新田開発が任され、彼は両牧付村領主に対し新田開発を指示、享保13(1728)年には年貢収納良好なるによって年貢の一割を俸禄とは別に報償として与えられているように、両牧経営と新田開発への貢献は計り知れぬもので、幕府の推進した新田開発事業の鑑と言えるものであった。その後、本文にあるように職務等閑・不正の廉で享保19(1734)年に小普請に落とされ、同20年には在任中の不正を遡及して処断され、年賦の返金命令と共に閉門、宝暦9(1759)年に致仕している(罪状や致仕年は底本鈴木氏注等による)。「彼者小普請に入て」の頃のことあるから、この話柄は享保末年、職務怠慢の廉で享保19(1734)年に小普請入りした後、まだそれが人々の記憶にある1735年~1736年頃と推定してよいか。本人の言に「退役」という語があり、これを額面通り受け取るなら長谷川氏の言う致仕であるから、遙か先の宝暦9(1759)年以降のこととなるが、それではこの嘘が通用するはずがない。……それにしてもこの人物、調べれば調べるほど「學才もあり智惠も多き男」どころじゃあない。多数の儒学関連書や農政書、実践的農政者として頗る評価が高い。この話柄にあるような姦計に長けた悪(ワル)がイメージし難い。人間落ちれば落ちるもんだ……事実は小説より奇なり――。
・「予が中年迄存命」小宮山杢之進昌世が逝去した安永2(1773)年の時、根岸は36歳で御勘定組頭であった。
・「はたりせたげども」「はたり」は前項で示した通り「徴る」で、借金の催促をする、取り立てるの意。「せたげ」は「せたぐ」=「虐ぐ」というガ行下二段活用の動詞で、矢張り、急がす・急き立てる・催促する、という意味である。
・「金子五百疋」100疋=1貫文で、1両=4貫文であるから、とりあえず、1両を現在の10万円相当と考えるなら、12万5000円程になるが「捨し金の古紙酒代になりし」程度の喜びようでは、ちと多過ぎる。江戸中期ということで1両を3~5万円程度と見れば、37,500~62,500円で小金持ちの町人の酒代と言うには穏当なところか。
・「かゝる邪智の謀計も多く、親族の難儀をもかまわぬ男成し」とあるが、どうも納得出来ない。こんな奸智にして傍若無人な男の儒教の講釈、誰が聴くんじゃい?!
・「二代目の何某小十人組勤めたりしが、御科を蒙り其豪斷絶に及びし也」底本の鈴木氏注や岩波版長谷川氏注には、小宮山杢之進昌世の子であった二代目の昌国は明和6(1679)年に西丸小十人に列したが、安永6(1777)年に致仕して逐電したとある(どちらの注も理由を記していない)。更に更に因果応報、その子太郎兵衛は不身持を極め、天明2(1782)年に遠流に処せられたとある。この「小十人組」とは若年寄支配の幕府常備軍の中核的組織。戦時には将軍馬廻役として直近の警固保守に当り、平時には小十人番所に勤番して将軍出行時の先駆として供奉することを役目とした。
■やぶちゃん現代語訳
悪知恵は永くは続かぬという事
享保の頃、代官を勤めたこともある小宮山杢之進という者、これ、学才もあり知恵も働く男で御座ったが、その職分に不届きなることありて御役御免とされ、小普請組にまで落されてしもうた。
この杢之進、なかなかの長寿にて、私が中年になった頃まで存命で、時に儒家の書物の講釈なんどをしておったが、いや、これ何とも、肉も胆(きも)も共に逞しき男であった。
この杢之進が小普請となって後のことである。
ある日、出入りの小金持ちの町人と世間話をして御座った折柄、その町人、溜息をつきつつ、
「……やれやれ……我ら町人も様々な御武家衆よりの金子用立てにお応え致し、返済して下さらぬ御方(おんかた)へは、何遍も何遍も、手を変え品を変えては御返済取り立て急度(きっと)の催促致せども……これがまた、一向にはか行かず……いやもう、誠(まっこと)難儀なことにて、御座いまする……」
と言って、手にした不履行の古手形四、五枚も振って見せたところ、杢之進、これを聴いて、
「……その古手形……我に売って呉れはせぬかの?」
と申せば、町人、
「はあ? いや、お売りするまでも御座らぬ。差し上げましょ。」
と答える。杢之進、
「いやさ。無償にて貰い受くる謂われは、ない。」
とて、礼金として金子五百疋を町人にさし遣わして、
「向後一切御構無しといった書付せよ。」
と、手形の売渡し証文を書かせて、それら古手形類と共に請け取ったので、かの町人は大いに喜び、
「捨てた気で御座った古反故(ふるほおぐ)の、酒代になったわ!」
と囃しながら帰って行った。……
……その後、杢之進がかの古証文手形に書き付けられたる名前を見ると、これが相応のさる諸侯の名なればこそ――杢之進、召し連れた家来と共に、颯爽とその諸侯方屋敷へと至り、家役の者を呼び出だいて徐ろに申したこと――
「我ら事、御代官を相勤めて御座ったれど、思いの外の、御勘定方不届きなるに拠って御咎めを蒙り、退役致いて御座った。然るに、我らは詳しいことは存知上げておる訳であらねど、召使って御座った家来等が貨殖に良かれと思い、御公儀御年貢金を出入りの町人へ貸し、その町人がその返済を致さざる故、あれやこれや御用の支出の不払いが積り積もって、我ら御咎めを受くる相成り申した。……さても、この頃になって、追々このことにつきて相改め取り調べ致いたところ、……その町人、当方御屋敷へ金子用立て致いたところ、その御返金滞りたる故、我らへも御勘定合わざることと相成ったる由を申しまして、その手形……この通り……我らが方へ相返して参った。……元来、御年貢金をかかる町家の者に貸したることそれ自体、家来の以ての外の不届きとは申すものの……我が身の無念……如何にも致しようもない……。かくの通り、御役御免にて当座の生計(たつき)にも難儀致いて御座る我なればこそ……何卒、御返金下さるように……。……さても……このこと、御承知頂けぬとなれば……せめても、かくなる訳をお上に申し立て、我らが身に降りかかったお上の御(おん)憎しみを、少しは免れとう存ずる――。」
と、如何にも丁重且つ重々しく申したところ、家役の者、仰天致いて、
「……しっ、しばし!……お待ちを! ど、同役の者と、そ、相談致いた上……」
と当家家老に急報致、御当主御自身へも申し上げた上、窮余の善後策を講ずることと相成った。
「……かの町人よりは……えー、一向左様なこと、申しては御座らなんだ。……さてはー、そのー、それが御年貢金にて……かくなる故に……貴殿、えー、御旗本の、あー、難儀と、成って御座ったか……これは誠(まっこと)、あー、気の毒なことを、致いて御座った……。」
と、戻ってきた家役は腰の落ち着かぬ風ながらも、如何にも丁重に杢之進に挨拶致いて、その後、右金子を調達の上、耳を揃えて返した、由。
「……恐ろしき悪知恵で御座ろう。……」
と、これを語ってくれた私の知人は最後に言い添えた。
かかる邪(よこし)まなる智を駆使した奸計頗る多く、親族の者の迷惑も顧みぬといった男であったが、その後、小宮山杢之進本人は老衰の果て、あっけなく病死致いた。
なれど、かかる積れる悪事悪意は、天誅免るるを許さざるところであったものか、二代目の小宮山某は小十人組を勤めて御座ったものの、後にやはり御咎めを蒙り、小宮山の家、これ、断絶に相成って御座った――。
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