耳嚢 巻之二 妙鏡庵起立の事
「耳嚢 巻之二」に「妙鏡庵起立の事」を収載した。
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妙鏡庵起立の事
東叡山文珠樓のほとりに妙鏡庵といへるあり。一ツに奉光堂ともいふ。其起立を尋るに、何れの御代にや有し、上がたより御臺樣御下りの折から御供いたしける婦人、後法躰(ほつたい)して妙鏡尼と申、御城大奧にて精心を盡し御奉公なせしが、女中方の縁ありて松平陸奧守奧へも右妙鏡尼參りけるに、或時陸奧守奧に泊りて四方山の咄しの序(ついで)、妙鏡尼は上方出生やと陸奧守尋ける故、其儀に候、上方の生れにて江戸表にてはゆかりの者一人だに無之、年々參向(さんかう)の堂上(とうしやう)にもしるべも有之、附添來る者知れる者もあれど、女の事なれば傳奏屋敷へ參るべき事もならず、奧に罷在ては逢候事も成難し、哀れ上野の内に庵室やうのものを拵へて、衰老の樂みに故郷の者にも逢うて、物語りも承度思ひぬれど、失脚(しつきやく)もかゝる事故もだしぬと、涙と共に語りければ、陸奧守聞て、夫は尤なる事也、我等手傳(てつだい)得(え)させん、相應の庵を建立いたすべし、尼が持參のうつはあると尋に付、傍に有りし女子の、おみやとて御重(おぢゆう)の内を持參りたりとて、右の重を出しければ、日本一の事也、其うつりにとて納戸より納戸金を取寄て、右重へ小判歩判(ぶはん)を手づから入て給ければ、右金子を以て今の妙鏡庵を造立なしける也。其餘風や、今も西丸の御奧女中は時々此庵室へ立寄りし也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。本話柄はこれだけの固有名詞や人物が登場しながら、諸注、誰も人物が特定されていない。また後述するように僧坊の名や別名もわざと近い発音の別字に変えてあるように思われる。将軍家正室と関係があり、大奥勤めの上臈に加えて、外様大名伊達家絡みということで、あえて憚ったものかとも思われる。
・「東叡山」寛永寺。
・「文珠樓」寛永寺山門。黒門と根本中堂の間に元禄11(1698)年に建てられた高さ24mもあった巨大な楼門。同年に建立された根本中堂と共に造営、楼内には文殊菩薩像が安置され、吉祥閣と書いた勅額あった。但し、この門は慶応4(1868)年の上野戦争で焼失して現存しない。
・「妙鏡庵」嘉永年間(1848~1853)の江戸切絵図を見ると、吉祥閣(この絵図ではその後に左右に配された阿弥陀堂と釈迦堂が中央で橋懸かりによって繋がった建築物があり、その直下に「文殊樓」と記して、あたかもこれが「文殊樓」であるかのように読めるが、これは誤りであろう。「江戸名所図会」で言う常行堂及び法華堂である)の右手に入ったところに「明曉菴」という小さな坊がある。岩波版長谷川氏注は享保20(1735)年建立と記す。ここは現在、上野精養軒となっている。現代語訳では実存した「明暁庵」とした。
・「奉光堂」岩波版長谷川氏注では宝光堂の誤りとする。
・「御臺樣」通常は将軍家正室を指す。三代将軍家光以降、正室は五摂家又は宮家の姫君を迎えた。妙鏡庵享保20(1735)年建立というのを、一つのヒントとするなら、例えば八代将軍吉宗の正室理子女王(まさこじょおう 元禄4(1691)年~宝永7(1710)年)の女房を同定候補とするのはどうか。理子女王は伏見宮貞致親王の王女。宝永3(1706)年に吉宗と結婚した。懐妊したが、宝永7(1710)年5月27日に死産、理子も同年6月4日に20歳で死去している。同年代から上で「御下りの折から御供いたしける」女房だったとすれば、享保20(1735)年には45歳を遙かに越えていたと思われる。当時、その年齢なら「衰老の樂みに……」と表現してもおかしくないと私は思うのであるが、如何か?
・「妙鏡尼」不詳。「明曉庵」(この僧坊名は別に「妙教院」という記載も見つけた)と言い、如何にもな発音の相同性から、尼の名も特定を避けるために改変されている可能性がある。現代語訳はそのままとした。
・「松平陸奧守」仙台藩松平伊達家当主のこと。妙鏡庵建立の享保20(1735)年から、これは間違いなく第5代藩主にして伊達家第21代当主松平陸奥守伊達吉村(延宝8(1680)年~宝暦元(1752)年)である。以下、ウィキの「伊達吉村」から引用する。『第4代藩主・伊達綱村の長男・扇千代丸が早世したために養嗣子となり、元禄16年(1703年)、養父・綱村の隠居にともない家督を継いだ。先代の綱村が行なった改革により、この頃になると仙台藩の財政は著しく逼迫していた。このため、吉村は財政再建のために藩政改革を行なう。まず、享保12年(1727年)に幕府の許可を得て「寛永通宝」を石巻で鋳銭し、それを領内で流通させることで利潤を得た。また、買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を強制的に供出させ、それを江戸に廻漕して利益を増大させ、藩財政を潤わせた。このため、18世紀初めから中頃にかけての江戸市中に出回った米のほとんどが、仙台藩の産物であったと言われているほどである』。『吉村自身が書、絵画、和歌などの文学面に優れており、吉村は藩内に学問所を開いて学芸を奨励した。とくに和歌には造詣が深く、京都の公家とも親交をかさねた。寛保3年(1743年)、四男の宗村に家督を譲って隠居し、宝暦元年(1751年)に72歳で死去した』。『吉村は仙台藩の財政を再建したことから、綱村と並んで「中興の名君」と呼ばれている』とある。享保20年当時は56歳であった。正室は久我通誠の養女冬姫で、京繋がりもある。50歳になんなんとする老女の孤独を聞いて、一肌脱ごうと言うて何の厭らしさもない――とするなら、この年の、この高徳なる文人名君伊達吉村はぴったりではないだろうか? 現代語訳では名を出した。
・「傳奏屋敷」武家伝奏の際、江戸に下向した勅使・院使の宿所として作られた屋敷。毎年2月下旬(又は3月上句)の伝奏勅使の滞在中は、伝奏御馳走役を命じられた大名がここに設けられた長屋に引き移り、高家の指導の下、一切の世話をした。例の浅野内匠頭長矩が命じられたものこの役である。現在の東京駅皇居側を見て右向かい角にある千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部のビルがある辺りに評定所と共にあった。
・「堂上」狭義は三位以上及び四位・五位の内、昇殿を許された殿上人を言うが、ここは広義の公家衆の意。
・「失脚もかゝる事故」底本では右に『(用脚)』と注す。「失却」で「却」は失う・尽くす意味の強意の接尾辞と解せば、大方の失費も一方ならずかかる故、の意であろう。
・「もだしぬ」「黙す」で、黙って見過ごす、そのままに捨て置くの意。
・「日本一の事也」天下一、最上、最良の謂いであるが、ここは二重の意味が掛けられているか。『妙鏡尼殿の夜話、これ最上の興趣にて御座ったれば、そのお返しに。』の意と、『これは誠に相応しい入れ物じゃ、妙鏡尼殿への相応の分量のお返しを入るるに。』の意である。
・「うつり」贈物の返礼にその空になった器などに入れて返す品を言う語。
・「納戸」御納戸方。御納戸役。将軍や大名の衣服・調度の管理及び金銀諸物品に関わる事務を管掌した者。
・「納戸金」岩波長谷川氏注に『奥向きの用につかう金』とある。
・「歩判」一分金。公称は一分判(いちぶばん)。ウィキの「一分金」より引用する。『形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている』。『額面は1分。その貨幣価値は1/4両に相当し、また4朱に相当する計数貨幣である。江戸時代を通じて常に小判と伴に鋳造され、品位(金の純度)は同時代に発行された小判金と同じで、量目(重量)は、ちょうど小判金の1/4であり、小判金とともに基軸通貨として流通した』。
・「西丸」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると『兩丸』とある。これだと本丸と西の丸。西丸は文禄元(1592)年から翌文禄2年にかけて創建された。主に将軍世子の住居の他、将軍職を譲った大御所の住居としても使用された。
■やぶちゃん現代語訳
妙鏡庵事始めの事
東叡山文殊楼の傍(そば)に明暁庵という小さな坊がある。一名には奉光堂ともいう。その事始めを尋ねたところ――
……いずれの御代でありましたか、あまり遠くない頃のお話にて御座います……上方より御台様がお下り遊ばされた折りから、その御台さまにお供致いて御座った女人が――後に髪をおろされて妙鏡尼と申す――お城の大奥にて誠心を尽くして御奉公致いて御座いました。
と或る日のこと、仕えておるお女中方の縁にて、仙台藩主松平陸奥守伊達吉村様の奥向きをお訪ね致いた折りのことにて御座います。
陸奥守様もその日は殊の外、興にお乗りになられて奥向きにお泊まりされることとなり、夜の更くるまで四方山話。その序でに陸奥守様が、
「妙鏡尼殿、そなた、上方の生まれか?」
とお訊ねになられたところ、
「はい。仰せの通りにて御座います。上方の生まれにて、江戸表には所縁(ゆかり)の者は、誰(たれ)ひとり、これ、ございませぬ。年毎に江戸へ参上致しまする堂上(とうしょう)家の中にも知り合いもおり、それに付き添うて来る者の中にも知れる者もおるのでは御座いますが、かく女の身なれば、伝奏屋敷に参ることも出来ず、大奥に罷り在っては、そうした方々と逢わせて頂きますことも叶い難(がと)う御座います。……ああっ、上野寛永寺さまお山の内に庵室(あんじつ)ようなるものを拵え、老いらくの楽しみに、故郷の者なんどにも逢(お)うて、物語りなんどもお聴き致したく思おてはおりますものの……それもまた相応の出費のかかることなればこそ、黙然と致いております次第にて御座います……。」
と、妙鏡尼は涙ながらにしんみりと語った。
陸奥守は、それをお聞きになられて、
「……いや、それは尤もなお気持ちじゃ。一つ、我らが手伝い致さんと存ずる。相応の庵を、これ、建立致そうぞ!――尼が持参の器やある?」
とお訊ねになられたので、お傍にあった女房が、
「お土産(みや)とてお重(じゅう)に入れしものをご持参になられました。」
とて、その重箱を差し出し申し上げたところ、
「――今日は妙鏡尼殿の夜話、これ最上の興趣にて御座ったれば、相応のお返しを入れんと思うて御座ったが、うむ! これはまた誠に相応しい入れ物じゃ!――」
と陸奥守は納戸方より納戸金をお取り寄せになられると、その場にて手ずから小判や歩判を重箱にお納めになられ、妙鏡尼に賜われたという――。
実に、この金子を以って現在の妙鏡庵を造立致いたのである。
その経緯もあってのことか、今も江戸城西の丸の大奥の女中たちは、時にこの庵室へ立ち寄ることがあるのである、とのことであった。
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