耳嚢 巻之二 一休和尚道歌の事
「耳嚢 巻之二」に「鼬の呪の事」及び「一休和尚道歌の事」を収載した。
「卷之二」、残す話柄一話のみ。これは明日、二篇纏めて公開しようと思っていたのであるが、内容的にどうみても『夜間限定R指定』の注になったので、急遽、今夜の公開とした。
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一休和尚道歌の事
山村信濃守物がたりに、此ほど一休の墨蹟とて持參の者ありしが、面白きものとて見せ給ひぬ。
老の身の賴べきもの撞木杖鉦をたゝかば後の世の爲
おつや殿へ
此如あり。老女へ一休の贈りし物ならん。面白き文なれば爰に記ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:何やらん効果があるかなきか分からぬ意味不明のまじない歌から何やらん有難い意味があるのやらないのやらよく分からぬ道歌と、四項前の「志す所不思議に屆し事」の登場人物山村十郎右衞門良旺(たかあきら)でも連関する。
・「一休」一休宗純(応永元(1394)年~文明13(1481)年)。室町時代の臨済宗の禅僧。宗純は諱。他に狂雲子とも号した。出自は後小松天皇の落胤という。6歳で臨済五山派の名刹京都安国寺に入って周建と名乗った。以下、平凡社「世界大百科事典」より引用する(一部の記号や文字表記を変更、ルビを省略した)。『周建は才気鋭く、その詩才は15歳のときすでに都で評判をえた。だが、その翌年、周建は権勢におもねる五山派の禅にあきたらず、安国寺を去り、同じ臨済でも在野の立場に立つ林下(りんか)の禅を求めて謙翁宗為(けんのうそうい)、ついで近江堅田の華叟宗曇(けそうそうどん)の門に走った。宗為も宗曇も、林下の禅の主流である大徳寺の開山大灯国師宗峰妙超』の禅をついでいた。一休はこうして大灯の禅門に入った。五山の禅とちがって、権勢に近づかず、清貧と孤高のなかで厳しく座禅工夫し、厳峻枯淡の禅がそこにあった。宗為から宗純なる諱を、宗曇から一休という道号を与えられた。一休なる道号は、煩悩と悟りとのはざまに〈ひとやすみ〉するという意味とされ、自由奔放になにか居直ったような生き方をしたその後の彼の生涯を象徴するようである』。『一休青年期の堅田での修行は、衣食にもことかき、香袋を作り雛人形の絵つけをして糧をえながら弁道に励んだという。そして、27歳のある夜、湖上を渡るカラスの声を聞いたとき、忽然と大悟した。この大悟の内容はいまとなってはだれにもわからない。やがて一休は堅田をはなれ、丹波の山中の庵に、あるいは京都や堺の市中で、真の禅を求め、あるいはその禅を説いた。つねに清貧枯淡、権勢と栄達を嫌い、五山禅はもとより同じ大徳寺派の禅僧らに対しても、名利を求め安逸に流れるその生き方を攻撃した。堺の町では、つねにぼろ衣をまとい、腰に大きな木刀を差し、尺八を吹いて歩いた。木刀も外観は真剣と変わらない。真の禅家は少なく、木刀のごとき偽坊主が世人をあざむいているという一休一流の警鐘である。一休は純粋で潔癖で、虚飾と偽善を嫌いとおした。かわって天衣無縫と反骨で終始した。きわめて人間的で、貴賤貧富や職業身分に差別なき四民平等の禅を説いた。これが彼の禅が庶民禅として、のちに国民的人気を得る理由となった。壮年以後の一休は、公然と酒をのみ、女犯(にょぼん)を行った。戒律きびしい当時の禅宗界では破天荒のことである。いく人かの女性を遍歴し、70歳をすぎた晩年でさえ、彼は森侍者(しんじしゃ)と呼ばれた盲目の美女を愛した。彼の詩集「狂雲集」のなかには、この森侍者への愛情詩が多く見いだされる。1456年(康正2)、一休は山城南部の薪村(たきぎむら)に妙勝寺(のちの酬恩庵)を復興し、以後この庵を拠点に活躍した。この間、74年(文明6)勅命によって大徳寺住持となり、堺の豪商尾和宗臨(おわそうりん)らの援助で、応仁の乱で焼失した大徳寺の復興をなしとげた。酬恩庵の一休のもとへは、その人柄と独特の禅風に傾倒して連歌師の宗長や宗鑑、水墨画の曾我蛇足(そがじゃそく)、猿楽の金春禅竹や音阿弥(おんあみ)、わび茶の村田珠光(むらたじゅこう)らが参禅し、彼の禅は東山文化の形成に大きな影響を与えた。彼自身も詩歌や書画をよくし、とくに洒脱で人間味あふれた墨跡は当時から世人に愛好された』(本文中の「弁道」とは、仏道修行に精進することの謂い)。『「昨日は俗人、今日は僧」「朝(あした)には山中にあり、暮(ゆうべ)には市中にあり」と彼みずからがうそぶくように、一休の行動は自由奔放、外からみると奇行に富み、〈風狂〉と評され、みずからも〈狂雲〉と号した。だが、反骨で洒脱で陽気できわめて庶民的な彼の人間禅は、やがて江戸時代になると、虚像と実像をおりまぜて、とんちに富みつねに庶民の味方である一休像を国民のなかに生みだした。彼自身の著とされるものには「狂雲集」「自戒集」「一休法語」「仏鬼軍(ぶつきぐん)」などがある』(冒頭省略、以上藤井学氏記載部分。)。以下、「一休像の形成」という記載。『一休の洒脱な性格とユーモラスな行状に関する伝承が近世に入ってから多くの逸話を作りあげた。その話は、実話もあろうが創作もあり、他の人の奇行やとんちに関する話を一休の行跡に仮託したものが多い。万人周知の多彩な一休像が世に伝えられる基本になったものは、1668年(寛文8)に刊行された編著者不明の「一休咄」4巻である。この本は刊行後たちまち評判となり、翌年に再版となった。1700年(元禄13)には5冊本があらわれ、さらに版を重ねた。「一休咄」では、高僧としての一休禅師よりも頓智頓才の持主としての一休の〈おどけばなし〉が主体となっている。小僧時代の一休さんのとんち話は巻一の「一休和尚いとけなき時旦那と戯れ問答の事」に記され、有名な一休和尚の奇行譚は各巻に見える。軽口問答や狂歌咄もある。地蔵開眼のときに小便をかけたり、魚に引導をわたしたりする話などは、近世以降広く人々に知られた。かくして一休は問答を得意とする風狂的な禅僧としてのイメージを強くし、江戸時代における人気は絶大なものとなった。「一休咄」以後、「一休関東咄」「二休咄」「続一休咄」「一休諸国ばなし」などが生まれ、ついに60余点にものぼる一休の逸話に関する本が出版されるに至った』(後略。以上関山和夫記載部分。全体の著作権表示(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。
・「道歌」短詩形文学としての短歌ではなく、仏道の教えや禅僧の悟達・修業の摑みを分かり易く詠み込んだ和歌を言う。岩波版では「返歌」とあるが、これはカリフォルニア大学バークレー校版の書写時の誤りか、誤りでないとしたら、以下に注するように根岸が「返歌」として勝手に読んだ内容を筆写者が汲んで変更したものとも思われるが、私は単純な書写時の誤りと見る。
・「山村信濃守」山村十郎右衞門良旺(たかあきら:享保19(1734)年~寛政9(1797)年)。前出「志す所不思議に屆し事」の岩波版長谷川氏注によれば、『宝暦三年西丸御小納戸、同八年本丸御小納戸。明和五年(一七六八)目付、安永二年(一七七三)京都町奉行、同年信濃守、同七年勘定奉行。』とある。勘定奉行は天明4(1784)年までで、同年から寛政元(1789)年まで南町奉行を勤めている(根岸の4代前である)。
・「見せ給ひぬ」底本ではここに注して、『尊経閣本「見せぬ」とあり、次行に』(ここに二段階で折れ曲がる稲妻状の小さな図が入る)『とある。』とする。この図は適切なものと思われない。幸い、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版のものがあるので、当該個所にその図像(一休墨跡)を補った。因みに、既に著作権の消滅した絵画図像等を平面的に撮った写真には著作権は発生しないという文化庁の見解をここに示しておく。
・「老の身の賴べきもの撞木杖鉦をたゝかば後の世の爲」「撞木杖」とは頭部が一休の先の図のように握り手の付いた杖を言う。撞木はT字型をした鉦を叩くための仏具であることから、後生祈願の鐘叩きを引き出すのである。
○やぶちゃんの通釈:とりあえず道歌として解釈しておく。
老いの身の――頼むべきもの――撞木杖……その杖先に何(な)して撞木が付いとるか?……撞木の御座るは鐘叩くため――鐘を叩くは後生のため――
これは撞木杖をその「おつや」なる女に請うているものであろう。根岸は勝手に「老女」としているが、私は老女とは限らぬという気がする。根岸が「老女」としたのは、この歌が撞木杖と一緒に贈られた歌と考えているからかも知れない。但し、それはあくまで解釈の可能性の一つであって、私は採らない。それは先に示した撞木杖のデフォルメと思しい一筆書きがあるからである。これは正に『こんな杖が欲しい』という図示であろうと思われる。
……さらに言えば……私はこの歌や墨痕にはもっと何かセクシャルな意味合いが隠されているように思う……撞木がファルスの象徴で、鐘叩きの音はチンチンで、「鉦をたゝかば」という動作自体がコイッスを言いかけているような……『修行』が足りないために見抜けない。識者の御教授を是非とも願うものである。思い過ごしだって? そう思われる方は……一休のこの手の露骨な一休の表現の凄さをご存じないと言わざるを得ぬ……一休は、「セックス」という語を授業で三回は連呼するといういわれなき伝説の猥褻教師の私でも、お手上げの猛者なんである……一つだけ、ご紹介しておこう……「狂雲集」所収の七絶……
美人陰有水仙花香
楚臺應望更應攀
半夜玉床愁夢顏
花綻一莖梅樹下
凌波仙子繞腰間
○やぶちゃんの書き下し文
美人が陰(ほと)に水仙花の香有り
楚臺應に望むべし さらに應に攀(よ)ずべし
半夜の玉床 愁夢の顏
花は綻(ほころ)ぶ 一莖の梅樹の下(もと)
凌波(りようは)仙子 腰間を繞(めぐ)る
○やぶちゃんの現代語訳
[やぶちゃん注:不許可! 映倫カット! とっても訳せません!]
……題からしてスゴいな。楚は古来、美人の多い国で勿論、「楚臺」は征服すべき女体山…「一莖の梅樹」とは一休禪師、バッキンバッキン怒張の図…「凌波仙子」は水仙の別名で、曹植の「洛神賦」に現れる波上を軽やかに歩む洛水の神女に因む名とされるが、「凌波」は激しく波立つ様を言うから、『その』場面の相応なビジュアル的暗示としても掛詞的に激効果的……そうね、水仙の香り、なんだ……
・「おつや」不詳。前注で示した通り、老女とは限らぬ。山村や根岸が老女としたのは、この撞木杖を一休がおつやなる「老女」にこの杖を授けたという理解からの言であろうが、これはどう見ても一休の杖を呉れろという手紙である。更に、一休の女犯は確信犯で厳然たる事実、老いてなお「一莖の梅樹」としてそそり立っていたであろうことは、40歳の森侍者が一休に近侍した文明3(1471)年頃、彼は既に78歳であったことからも分かる(森侍者の実在と年齢の正当性は大徳寺真珠庵に残る一休の十三回忌及び三十三回忌の奉加帳に森侍者慈栢の名が載ることで証明されている)。
■やぶちゃん現代語訳
一休和尚の道歌の事
山村信濃守と話す内、
「……この程、一休禪師の墨蹟とか申し、持参致いた者が御座った。面白い代物じゃ。……」
と見せて下さった。
老いの身の頼むべきもの撞木杖鉦をたたかば後の世の為
おつや殿へ
かく如くある。知れる老女へ一休が贈った歌らしい。面白い手紙なれば、ここに記しおく。
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