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2010/05/21

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月21日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十二回

Kokoro13_2   先生の遺書

   (三十二)

 私の論文は自分が評價してゐた程に、敎授の眼にはよく見えなかつたらしい。それでも私は豫定通り及第(きふたい)した。卒業式の日、私は黴臭くなつた古い冬服を行李の中から出して着た。式塲にならぶと、何れもこれもみな暑さうな顏ばかりであつた。私は風の通らない厚羅紗の下に密封された自分の身體(からだ)を持て餘した。しばらく立つてゐるうちに手に持つたハンケチがぐしよ/\になつた。

 私は式が濟むとすく歸つて裸體(はだか)になつた。下宿の二階の窓をあけて、遠目鏡(とほめがね)のやうにぐる/\卷いた卒業證書の穴から、見える丈の世の中を見渡した。それから其卒業證書を机の上に放り出した。さうして大の字になつて、室の眞中に寐そべつた。私は寐ながら自分の過去を顧みた。又自分の未來を想像した。すると其間に立つて一區切を付けてゐる此卒業證書なるものが、意味のあるやうな、又意味のないやうな變な紙に思はれた。

 私は其晩先生の家へ御馳走に招かれて行つた。是はもし卒業したら其日の晩餐は餘所で食はずに、先生の食卓で濟ますといふ前からの約束であつた。

 食卓は約束通り座敷の緣近くに据ゑられてあつた。模樣の織り出された厚い糊の硬(こは)い卓布(テーブルクロース)が美くしく且淸らかに電燈の光を射返してゐた。先生のうちで飯を食ふと、屹度(きつと)此西洋料理店に見るやうな白いリン子ルの上に、箸や茶碗が置かれた。さうしてそれが必ず洗濯したての眞白なものに限られてゐた。

 「カラやカフスと同じ事さ。汚(よご)れたのを用ひる位なら、一層始から色の着いたものを使ふが好(い)い。白ければ純白でなくつちや」

 斯う云はれて見ると、成程先生は潔癖(けつへき)であつた。書齋なども實に整然(きちり)と片付(かたつ)いてゐた。無頓着な私には、先生のさういふ特色が折々著るしく眼に留まつた。

 「先生は癇性ですね」とかつて奧さんに告げた時、奧さんは「でも着物などは、それ程氣にしないやうですよ」と答へた事があつた。それを傍(そば)に聞いてゐた先生は、「本當をいふと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考へると實に馬鹿々々しい性分だ」と云つて笑つた。精神的に癇性といふ意味は、俗に神經質といふ意味か、又は倫理的に潔癖(けつへき)だといふ意味か、私には解らなかつた。奧さんにも能く通じないらしかつた。

 其晩私は先生と向ひ合はせに、例の白い卓布(たくふ)の前に坐つた。奧さんは二人を左右に置いて、獨り庭の方を正面にして席を占めた。

 「御目出たう」と云つて、先生が私のために盃(さかづき)を上げて吳れた。私は此盃に對して夫程嬉しい氣を起さなかつた。無論私自身の心が此言葉に反響するやうに、飛び立つ嬉しさを有つてゐなかつたのが、一つの原因であつた。けれども先生の云ひ方も決して私の嬉しさを唆(そゝ)る浮々した調子を帶びてゐなかつた。先生は笑つて杯(さかづき)を上げた。私は其笑のうちに、些(ちつ)とも意地の惡いアイロエーを認めなかつた。同時に目出たいといふ眞情(しんじやう)も汲み取る事が出來なかつた。先生の笑は、「世間はこんな場合によく御目出たうと云ひたがるものですね」と私に物語つてゐた。

 奧さんは私に「結構ね。嘸(さぞ)御父さんや御母さんは御喜びでせう」と云つて吳れた。私は突然病氣の父の事を考へた。早くあの卒業證書を持つて行つて見せて遣らうと思つた。

 「先生の卒業證書は何うしました」と私が聞いた。

 「何うしたかね、―まだ何處かに仕舞つてあつたかね」と先生が奧さんに聞いた。

 「えゝ、たしか仕舞つてある筈ですが」

 卒業證書の在處(ありどころ)は二人とも能く知らなかつた。

Line_2

 


やぶちゃんの摑み:私の仮に措定する明治45(1912)年の東京帝国大学の卒業式は7月10日(水)であった。但し、この後の郷里での叙述を見てゆくと第(四十一)章(「こゝろ」「中 兩親と私」の「五」相当)に「私が歸つたのは七月の五六日」という叙述が現われるので、漱石は作中設定としては7月1日(月)から3日(水)頃に卒業式を設定しているものと思われる。

 一部の比較的若い教え子の中には、私がこの冒頭2段落分と「こゝろ」「中 両親と私」の「一」の後半分、郷里に持ち帰った卒業証書を父に見せるシーンを併記して、

【○】以下の文章は、[A]が主人公の学生の卒業式の日の場面(上三十二の冒頭)、[B]がその卒業の直後、学生が郷里に帰郷した場面(中一の末尾)である。この二つの卒業証書に描写に象徴させて漱石が示そうとした比喩的な意味について、[A]と[B]を対比しながら、段落を作らずに三百字以上で自由に論ぜよ。[30点+α]

という小論文問題を私の試験で解かされた嫌な思い出を想起した者もいるであろう。いや、この卒業証書の遠眼鏡というのは、それ程に(高校2年生の試験問題に出せる程に)如何にも分かり易い象徴表現であるということである。回答例? よろしい、私の稚拙なそれをお見せしておこう。言っておくが、これは全く私のオリジナルな問題だから、どこかの高校の国語教師に試験問題公開しては困ると文句を言われる筋合いは全くない。私が作成した「こゝろ」の問題の中では結構気に入っている問題でもある。採点基準と返却時に示した回答も添えておく。

【採点基準】

・三百字を越えていないものは×。(段落を作った者は、空欄部を詰めて計算し、二百に満たなければ×、満ちていれば○とする)

・文末不成立はマイナス2点。(文末に赤で×)

・文脈がおかしい部分(意味が通らない)はマイナス2点。(該当部分に赤波線で×)

・記載内容の明確な誤り(学生を先生と取り違えていたり、季節を錯誤した解答等)はマイナス3点。(該当部分に赤波線で×)


【やぶちゃんの回答例】

 帝大卒は、この時代にあっても近代的知識人としてのステイタス・シンボルであった。[B]で、その卒業証書をありがたがる父母を見るまでもなく、それは明白である。[A]で、その証書を遠眼鏡のようにして、世間を見渡すという私の行為は、帝大卒という資格によって、またそこで得たアカデミズムの知識や理論によって、この現実の世界の真実を分析し、見極めることが出来るかどうか、ということを比喩していよう。しかし、私はそれを「放り出し」、「変な紙」としか感じない点で、その有効性に対し、極めて否定的であると言える。それは[B]の、床の間ですぐ倒れる証書にも、薄っぺらい紙のような力のない学問という皮肉としても表現されているようにも見える。しかし、この[B]場面は、寧ろ、もはや「父の自由にはならな」い存在となった――新しいものの見方や考え方を身につけた――私を象徴するものとして、それとは別に読み解く方が自然に思われる。(実字数399字)

♡「裸體になつた」今の私には――これが(二)で先生の連れの外国人が「純粹の日本の浴衣を着てゐた」のを「床几の上にすぽりと放り出し」て「猿股一つの外何物も肌に着けてゐな」い姿で「腕組をして海の方を向て立つてゐ」る姿と妙な相似性を持ってダブって見えて仕方がないのである――。

♡「リン子ル」「リンネル」と読む。

「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用ひる位なら、一層始から色の着いたものを使ふが好い。白ければ純白でなくつちや」言わずもがなの伏線である。「私はたゞ妻の記憶に暗黒な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印氣でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい」という遺書の叙述(「こゝろ」「下 先生と遺書」五十二)への伏線である。漱石は極めて数学的な合理性を尊ぶ人物だったのかも知れない。ここは後に「上 先生と私」となる(三十二)まで数えて5章目に当るが、「こゝろ」五十二から最終章までは――やはり丁度、5章なのである。

♡「癇症」には「ちょっとした刺激にもすぐ怒る性質。激しやすい気質。また、そのさま。」という意味と、「異常に潔癖な性質。また、そのさま。神経質。」という意味がある。「私」は後者の意味を更に二分しているが、その謂いは分からぬではない。漱石は前者であったが、この先生は明らかに後者の性質である。そしてここでの先生自身の言いは勿論、「倫理的に潔癖」であるという謂いである。そして「私には解らなかつた。奧さんにも能く通じないらしかつた」と言う「私」と「私」に観察される靜――その観察が正鵠を射ているとすれば。勿論、射ていると私は思う――は、二人とも致命的に鈍感である、と言わざるを得ない。

♡「アイロエー」「アイロニー」の誤植。

♡「卒業證書の在處は二人とも能く知らなかつた」「私」が卒業証書に象徴される大学卒と言うステイタスに意味を見出していないのと同様に、先生も、そうして靜もさして価値を見出していないことを示している。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」でも、ここに注して、私と同様の解釈をされている。が、藤井氏はその後に、その前に靜が「結構ね。嘸御父さんや御母さんは御喜びでせう」と言っているのは、『おそらく「世間はこんなときに」という先生の愛想なしの発言をとりつくろうためであったろう。これに対して、「早くあの卒業証書を持つて行つて」と考える私のほうは、徐々に先生によって洗脳されつつあったとはいえ、まだまだ世俗的な価値観・常識を保持していた。』と記される。この引用の後半は肯んずるものである(しかし、注するに必要な注釈かと言えば微妙に留保したい)が、前半はとんだ勘違いをなさっている。先生は「お目出たう」と言った後、杯を上げて笑い、その笑いの中に「世間はこんな場合によく御目出たうと云ひたがるものですね」という意味合いを含ませて、黙って笑っていたのであって、こんな文句を直に言ったのではない。また、百歩譲ってそのような意味合いを靜が夫の笑みに中に看取したとしても、そのために、夫のやや醒めた含みの笑みを「とりつくろうため」に「結構ね。嘸御父さんや御母さんは御喜びでせう」と言っているのでも、ない。これは極めて自然で心からの女=母としての心情の発露の表現である。私には藤井氏が妙な拘りの中でこの部分の注をお書きになっているように思われてならない。]

 

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