漱石の「こゝろ」を髣髴とさせる手紙
イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出來ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出來ない イゴイズムのない愛があるとすれば人の一生程苦しいものはない
周圍は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかもそのまゝに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は惡むべきも嘲弄だ
僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふことがある 何故 こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に對する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある
僕はどうすればいゝのだかわからない(中略)しかし僕にはこのまゝ囘避せずにすゝむべく強ひるものがある そのものは僕に周圍と自己とのすべての醜さを見よと命ずる 僕は勿論亡びる事を恐れる しかも僕は亡びると云ふ豫感をもちながらも此ものの聲に耳をかたむけずにはゐられない。
(中略)何だか皆とあへなくなりさうな氣もする 大へんさびしい
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大正4(1915)年2月28日附
井川恭宛芥川龍之介書簡(旧全集一五一書簡)
井川恭は京都帝国大学学生となっていた一高時代の親友。後に恒藤姓となる。法哲学者。後、大阪市立大学初代学長。
芥川龍之介の初恋の破局後の一通である。
芥川龍之介の初恋の相手は同年の幼馴染み(実家新原家の近所)であった吉田弥生(明治25(1892)~昭和48(1973)年)である(父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた)。当時、東京帝国大学英吉利文学科1年であった芥川龍之介は、大正3(1914)年、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して正式に結婚を申し込んだ。しかし、この話は養家芥川家の猛反対にあい、翌大正4(1915)年2月頃に破局を迎えることとなる。吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系)、弥生が同年齢であったこと等が主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があった)。
井川恭宛同年2月28日附書簡(旧全集一五一書簡)で芥川はその失恋の経緯を語り、「唯かぎりなくさびしい」で擱筆、激しい絶望と寂寥感、人間不信(弥生をも含めた)を告白している。それに次ぐ書簡が表記のものである(底本は岩波版旧全集を用いた)。
芥川龍之介22歳。
前年の夏、発表された「心」がまさかここまで己れに投射されることになろうとは、一年前の芥川自身は、思っていなかったような気がするのである。
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