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2010/05/11

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月11日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十二回

Kokoro12   先生の遺書

   (二十二)

 父の病氣は思つた程惡くはなかつた。それでも着いた時は、床(とこ)の上に胡坐(あぐら)をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢して斯う凝(ぢつ)としてゐる。なにもう起きても好(い)いのさ」と云つた。然し其翌日からは母が止めるのも聞かずに、とう/\床を上げさせて仕舞つた。母は不承不性(ふしやうぶしやう)に太織(ふとおり)の蒲團を疊みながら、「御父さんは御前が歸つて來たので、急に氣が強くおなりなんだよ」と云つた。私には父の擧動がさして虛勢を張つてゐるやうにも思へなかつた。

 私の兄はある職を帶びて遠い九州にゐた。是は萬一の事がある場合でなければ、容易に父母の顏を見る自由の利かない男であつた。妹は今國(いまくに)へ嫁いだ。是も急場の間に合ふ樣に、おいそれと呼び寄せられる女ではなかつた。兄妹(きやうだい)三人のうちで、一番便利なのは矢張り書生をしてゐる私丈であつた。其私が母の云ひ付け通り學校の課業を放り出して、休み前に歸つて來たといふ事が、父には大きな滿足であつた。

 「是しきの病氣に學校を休ませては氣の毒だ。御母さんがあまり仰山な手紙を書くものだから不可(いけな)い」

 父は口では斯う云つた。斯ういつた許りでなく、今迄敷いてゐた床を上げさせて、何時ものやうな元氣を示した。

 「あんまり輕はずみをして又逆回(ぶりかへ)すと不可ませんよ」

 私の此注意を父は愉快さうに然し極めて輕く受けた。

 「なに大丈夫、是で何時もの樣に要心さへしてゐれば」

 實際父は大丈夫らしかつた。家の中を自由に往來して、息も切れなければ、眩暈(めまひ)も感じなかつた。たゞ顏色丈は普通の人よりも大變惡かつたが、是は又今始まつた症状でもないので、私達(わたしだち)は格別それを氣に留めなかつた。

 私は先生に手紙を書いて恩借(おんしやく)の禮を述べた。正月上京する時に持參するからそれ迄待つてくれるやうにと斷つた。さうして父の病狀の思つた程險惡でない事、此分なら當分安心な事、眩暈も嘔氣も皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪(ふうじや)に就いても一言(ごん)の見舞を附け加へた。私は先生の風邪を實際輕く見てゐたので。

 私は其手紙を出す時に決して先生の返事を豫期してゐなかつた。出した後で父や母と先生の噂などをしながら、遙かに先生の書齋を想像した。

 「こんど東京へ行くときには椎茸でも持つて行つて御上げ」

 「えゝ、然し先生が干した椎茸なぞを食ふかしら」

 「旨くはないが、別に嫌な人もないだらう」

 私には椎茸と先生を結び付けて考へるのが變であつた。

 先生の返事が來た時、私は一寸驚ろかされた。ことにその内容が特別の用件を含んでゐなかつた時、驚ろかされた。先生はたゞ親切づくで、返事を書いてくれたんだと私は思つた。さう思ふと、その簡單な一本(ほん)の手紙が私には大層な喜びになつた。尤も是は私が先生から受取つた第一の手紙に相違なかつたが。

 第一といふと私と先生の間には書信の往復がたび/\あつたやうに思はれるが、事實は決してさうでない事を一寸斷つて置きたい。私は先生の生前にたつた二通の手紙しか貰つてゐない。其一通は今いふ此簡單な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛で書いた大變長いものである。

 父は病氣の性質として、運動を愼しまなければならないので、床を上げてからも、殆んど戶外(そと)へは出なかつた。一度天氣のごく穩やかな日の午後庭へ下りた事があるが、其時は萬一を氣遣つて、私が引き添ふやうに傍(そば)に付いてゐた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせやうとしても、父は笑つて應じなかつた。

Line

 

やぶちゃんの摑み:

 

「太織の蒲團」玉糸や熨斗糸(のしいと)で織った平織りの絹織物を言う。次章で周縁地方都市か医師を往診させたりもしており、「私」の家は豪家とは言わないまでも、相応に暮らす富農であることが窺がわれる。

 

「兄はある職を帶びて遠い九州にゐた」漱石の事蹟(三十代前半に熊本第五高等学校に勤務)を考えれば、熊本がイメージされているか。

 

「今國(いまくに)」奈良県大和郡山市に今国府(いまご)という地名はあるが、著名な地名に「今国」という地名はない。そもそも固有名詞に極めて禁欲的な本作でこのような特異地名を用いるはずはない。「こゝろ」ではご存知の通り、「近國」となっている。単なる誤植である。 

 

「私は先生の風邪を實際輕く見てゐたので。」この一文は奇異な感じを受ける。「實際輕く見てゐた」感冒がそうではなかった、漱石はこの時、ちらと先生に早々に死んでもらうことを考えたのではないか? そんな気がする一文である。

 

♡「私には椎茸と先生を結び付けて考へるのが變であつた」如何にも田舎臭くドン臭い「椎茸」(ドンコ)と、都会的に洗練された先生のギャップを「變」と言っているのであろうが、これはそれこそ「變」な一文と私には映る。漱石が、時々或る漢字を凝っと見ていると、この漢字が何故、そのような読みや意味になるのか分からなく事があると述べているのを何かで読んだことがあるが(これは所謂、「ゲシュタルト崩壊」の一種として一般人にも普通に生ずる現象ではある)、ここも椎茸と先生が別次元の生き物であるかのようなどうしようもない乖離した対象物としての感覚に陥っているような印象を受ける。私は実にここに、漱石の統合失調症或いは重い強迫神経症の後遺症を見る。ただ土産として持って行けと言っているに過ぎない母の言葉を受けて、「私」がわざわざ椎茸と先生を「結び付けて考へ」て、「變」と言うこと自体が「變」=異常である、「變」だという妄想(関係妄想の逆変形の如きもの)の痕跡である。]

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