『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月3日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十四回
(十四)
年の若い私は稍(やゝ)ともすると一圖になり易かつた。少なくとも先生の眼にはさう映つてゐたらしい。私には學校の講義よりも先生の談話(たんわ)の方が有益なのであつた。敎授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであつた。とゞの詰りをいへば、敎壇に立つて私を指導して吳れる偉い人々よりも只獨りを守つて多くを語らない先生の方が偉く見えたのであつた。
「あんまり逆上(のぼせ)ちや不可(いけ)ません」と先生がいつた。
「覺めた結果として左右思ふんです」と答へた時の私には充分の自信があつた。其自信を先生は肯(うけ)がつて吳れなかつた。
「あなたは熱に浮かされてゐるのです。熱がさめると厭になります。私は今のあなたから夫程に思はれるのを、苦しく感じてゐます。然し是から先の貴方に起るべき變化を豫想して見ると、猶苦しくなります」
「私はそれ程輕薄に思はれてゐるんですか。それ程不信用なんですか」
「私は御氣の毒に思ふのです」
「氣の毒だが信用されないと仰しやるんですか」
先生は迷惑さうに庭の方を向いた。其庭に、此間迄重さうな赤い强い色をぽた/\點じてゐた椿の花はもう一つも見えなかつた。先生は座敷から此椿の花をよく眺める癖があつた。
「信用しないつて、特にあなたを信用しないんぢやない。人間全體を信用しないんです」
其時生垣の向ふで金魚賣らしい聲がした。其外には何の聞こえるものもなかつた。大通りから二丁も深く折れ込んだ小路(こうぢ)は存外靜かであつた。家(うち)の中(なか)は何時もの通りひつそりしてゐた。私は次の間に奧さんのゐる事を知つてゐた。默つて針仕事か何かしてゐる奧さんの耳に私の話し聲が聞こえるといふ事も知つてゐた。然し私は全くそれを忘れて仕舞つた。
「ぢや奧さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顏をした。さうして直接の答を避けた。
「私は私自身さへ信用してゐないのです。つまり自分で自分が信用出來ないから、人も信用できないやうになつてゐるのです。自分を呪ふより外に仕方がないのです」
「さう六づかしく考へれば、誰だつて確かなものはないでせう」
「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」
私はもう少し先迄同じ道を辿つて行きたかつた。すると襖の陰で「あなた、あなた」といふ奧さんの聲が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といつた。奧さんは「一寸」と先生を次の間へ呼んだ。二人の間に何んな用事が起つたのか、私には解らなかつた。それを想像する餘裕を與へない程早く先生は又座敷へ歸つて來た。
「兎に角あまり私を信用しては不可ませんよ。今に後悔するから。さうして自分が欺むかれた返報に、殘酷な復讐をするやうになるものだから」
「そりや何ういふ意味ですか」
「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未來の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己(おの)れとに充ちた現代に生れた我々は、其犧牲としてみんな此(この)淋(さび)しみを味はわなくてはならないでせう」
私はかういふ覺悟を有つてゐる先生に對して、云ふべき言葉を知らなかつた。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡僕はこのシークエンスが大好きだ。何より僕にはこの「金魚~~~ぇ、金魚~~~……」という声が聴こえてくる……上記の通り、この回には最後に飾罫がない。
♡「あんまり逆上ちや不可ません」この「逆上(のぼせ)る」という動詞は「夢中になる」「入れ込む」「過度に信頼する」といった意味で用いている。面白いのは通常、これは例えば『女にのぼせる』等の恋に夢中になる際にしばしば用いる形容である。
♡「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」先生の黒い光が強烈に一閃するシーンである。朗読が最も難しいところ。抑圧的な陰鬱なる昂奮が肝心。
♡「すると襖の陰で「あなた、あなた」といふ奧さんの聲が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といつた。奧さんは「一寸」と先生を次の間へ呼んだ。二人の間に何んな用事が起つたのか、私には解らなかつた。それを想像する餘裕を與へない程早く先生は又座敷へ歸つて來た」ここで靜は何を言ったのか。勿論、それはこの先生と「私」の談話内容に関わるものではなかったろう。例えば――今夜は「私」も御一緒に御夕食をなさってはいかが? お肉にしましょうか? お魚?――といった生活的な些事であろう。しかし、靜がここの二人の会話に水を差したのは確信犯である。靜は先生の「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」という尋常ならざる言葉と語気を耳にして、女の直感として、先生の心理状態の危さを感じたのだ。このままでは話は尋常ならざる雰囲気に発展するということを、普段の先生の性質から本能的に感じ取った。だからこそ、敢えてこの絶妙なところに水を差した、差せたのである。靜を甘く見てはいけない。
♡「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未來の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」先生は個人的に「未來の侮辱」を生じないようにするために他者からの一切の「今の尊敬を斥け」る、今よりも「一層淋しい未來の私」を我慢するぐらいなら、「淋しい今の私を我慢」する、と言明する。しかしその個人的言説(ディスクール)は即座に普遍的概念に帰納され、「自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた我々」は「自由と獨立と己れ」という欲求を満たした「その犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならない」と言うのである。この「我々」及び「みんな」という語に着目せねばならない。それは先生はもとより、「私」も、そしてこの「私」が一人だけ選んだ現代の読者である「あなた」もそこに含まれるということである。しかし、そこで先生の話柄の微妙な感触を摑む必要があろう。即ち、私はそれがとんでもない地獄の「淋しみ」であることが分かっているが、あなた方(「私」と読者である「あなた」)には、それが一見、大した「淋しみ」に見えない、いや、もしかすると「淋しみ」として実感されることさえないかも知れぬ――しかし、それはあなた方を、その絶対の「淋しみ」=孤独地獄へと導く導火線なのだ、と先生は警告しているのである。「自由と獨立と己れ」に西欧近代的個人の確立・個人の自我の尊重・欲望やエゴイズムという人間性の止揚(アウフヘーベン)……といった如何にも美味そうなフルコースの満漢全席に混入された『絶対の孤独』という致死量の毒薬に気付け! と先生は言っているのである。それにしても余りにも余りなテーマの提示ではある。こんな小説作法の悪いところを芥川龍之介は学んでしまい、その初期には忠実に自作に再現してしまった。漱石が「鼻」を称揚したのがよく分かるというものだ。読者は間違えないものの――その分、読者は教授されなければならぬ馬鹿者として扱われていることに気付かない――。そうして……気づかねばならない――学生の「私」から「今」の尊敬を斥けることで、今から「未來の私」は「一層淋し」くはならないと先生は言明している――という点である。即ち――この時――先生は孤独に生き続けることを望んでいる、死ぬのが厭であった、というこの時点での内実を告白していることに他ならない点に、である。]
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