『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月27日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第三十五回
(三十五)
私は立て掛けた腰を又卸(チろ)して、話の區切(くきり)の付く迄二人の相手になつてゐた。
「君は何う思ひます」と先生が聞いた。
先生が先へ死ぬか、奧さんが早く亡くなるか、固より私に判斷のつくべき問題ではなかつた。私はたゞ笑つてゐた。
「壽命は分りませんね。私にも」
「是ばかりは本當に壽命ですからね。生(うまれ)た時にちやんと極つた年數をもらつて來るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同(おん)なじよ、あなた、亡くなつたのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日迄同なじぢやないけれども。でもまあ同なじよ。だつて續いて亡くなつちまつたんですもの」
此知識は私にとつて新らしいものであつた。私は不思議に思つた。
「何うしてさう一度に死なれたんですか」
奧さんは私の問に答へやうとした。先生はそれを遮つた。
「そんな話は御止しよ。つまらないから」
先生は手に持つた團扇(うちわ)をわざとばたばた云はせた。さうして又奧さんを顧みた。
「靜、おれが死んだら此(この)家(うち)を御前に遣らう」
奧さんは笑ひ出した。
「序に地面(ちめん)も下さいよ」
「地面(ちめん)は他(ひと)のものだから仕方がない。其代りおれの持つてるものは皆(みん)な御前に遣るよ」
「何うも有難う。けれども橫文字の本なんか貰つても仕樣がないわね」
「古本屋に賣るさ」
「賣ればいくらになつて」
先生はいくらとも云はなかつた。けれども先生の話は、容易に自分の死といふ遠い問題を離れなかつた。さうして其死は必ず奧さんの前に起るものと假定されてゐた。(無論笑談(ぜうだん)らしい輕味(かるみ)を帶びた口調ではあつたが)。
奧さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答へをしてゐるらしく見えた。それが何時の間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらつて、まあ何遍仰しやるの。後生(ごしやう)だからもう好(い)い加減にして、おれが死んだらは止して頂戴。緣喜(えんぎ)でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思ひ通りにして上げるから、それで好いぢやありませんか」
先生は庭の方を向いて笑つた。然しそれぎり奧さんの厭がる事を云はなくなつた。私もあまり長くなるので、すぐ席を立つた。先生と奧さんは玄關迄送つて出た。
「御病人を御大事に」と奧さんがいつた。
「また九月に」と先生がいつた。
私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄關と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐやうに、夜陰(やいん)のうちに枝を張つてゐた。私は二三步動き出しながら、黑ずんだ葉に被はれてゐる其梢を見て、來るべき秋の花と香を想ひ浮べた。私は先生の宅と此木犀とを、以前から心のうちで、離す事の出來ないものゝやうに、一所に記憶してゐた。私が偶然其樹の前に立つて、再びこの宅の玄關を跨ぐべき次の秋に思を馳せた時、今迄格子の間から射してゐた玄關の電燈がふつと消えた。先生夫婦はそれぎり奧へ這入たらしかつた。私は一人暗い表へ出た。
私はすぐ下宿へは戾らなかなつた。國へ歸る前に調のへる買物もあつたし、御馳走を詰めた胃袋にくつろぎを與へる必要もあつたので、たゞ賑やかな町の方へ步いて行つた。町はまだ宵の口であつた。用事もなささうな男女(なんによ)がぞろ/\動く中に、私は今日私と一所に卒業したなにがしに會つた。彼は私を無理やりにある酒塲へ連れ込んだ。私は其處で麥酒(ビール)の泡のやうな彼の氣焰(きえん)を聞かされた。私の下宿へ歸つたのは十二時過であつた。
[♡やぶちゃんの摑み:先生と「私」の最後の別れのシーンである。木犀の樹下に来るべき秋に思いを馳せる「私」――その瞬間、「今迄格子の間から射してゐた玄關の電燈がふつと消えた」――この映像は一読忘れ難い。そうしてこれは後の(四十一)(=「こゝろ」「中 兩親と私」の五)の明治天皇崩御の直後の叙述、
私は又一人家のなかへ這入つた。自分の机の置いてある所へ來て、新聞を讀みながら、遠い東京の有樣を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、何んなに暗いなかで何んなに動いてゐるだらうかの畫面に集められた。私はその黑いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火の如くに先生の家を見た。私は其時此燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其灯も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控えてゐるのだとは固より氣が付かなかつた。[やぶちゃん注:下線部やぶちゃん。]
という痛恨の心象シークエンスへの強い伏線として機能することになるのである。
♡「卸(チろ)して」ルビ「おろ」の誤植。
♡『「壽命は分りませんね。私にも」/「是ばかりは本當に壽命ですからね。生(うまれ)た時にちやんと極つた年數をもらつて來るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同(おん)なじよ、あなた、亡くなつたのが」』「心」自筆原稿でもこの通り(前者が「私」の、後者が靜の台詞)であるが、単行本「こゝろ」ではこの台詞が、
「壽命は分りませんね。私にも是ばかりは本當に壽命ですからね。生(うまれ)た時にちやんと極つた年數をもらつて來るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同(おん)なじよ、あなた、亡くなつたのが」
と一体になってしまい、すべてを靜の台詞として処理している。確かに、直前で「私はたゞ笑つてゐ」るだけだから、応答しないというのは自然だと言われればそれまでだが(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は「こゝろ」本文の方が適切と思われると注される)、私には「壽命は分りませんね。私にも」は男の台詞に感じられ、また「私にも是ばかりは本當に壽命ですからね」は「私にも」という条件が下位の文脈を規定出来ず、宙ぶらりんにしか読めない。かつて授業で朗読しても、常に間違えるところで、「私」の台詞と思って読んでしまい、読み直したこと、何度あったか知れないのである。私は断固として、この初出形が正しいと思う。
♡「先生の御父さんや御母さんなんか、殆ど同なじよ、あなた、亡くなつたのが」以下によって、先生の父母は流行性伝染病により亡くなったらしいことが類推されるようになっている。(五十七)=「こゝろ」「下 先生と遺書」三で腸チフスであったことが示される。
♡「横文字の本」先生の書斎にある相応な量の蔵書の半数以上(大半かも知れない)が洋書であることが分かる。この辺りは漱石の専門であった英文学を想起させるところであるが、以前の注でも記したように心理学や哲学は、当時、新思想や新学派がみるみる勃興し、その多くは西欧から数多く発信されたものであった。
♡「(無論笑談らしい輕味を帶びた口調ではあつたが)。」これは同日連載であった大坂朝日新聞版では「(無論笑談らしい輕味を帶びた口調であつたが)。」と「は」がなく、更に単行本「こゝろ」では珍しく全部が完全に削除された上、改行せずに次の段落と繋がっている。即ち、
先生はいくらとも云はなかつた。けれども先生の話は、容易に自分の死といふ遠い問題を離れなかつた。さうして其死は必ず奧さんの前に起るものと假定されてゐた。奧さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答へをしてゐるらしく見えた。それが何時の間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
と続いて、靜のセンチメンタルでやや悲壮さを持った強い口調(靜の先生へのものとしては特異点であると言ってよい)が引き出されるのである。確かにこの丸括弧は言わずもがなで、靜の内なる先生へのディレンマを殺いでいるように思われる。
♡『「また九月に」と先生がいつた。』先生の遺書で((百九)=「こゝろ」「下 先生と遺書」五十五)、
記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散步した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後には何時でも黒い影が括ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を步いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、噓を吐いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度會ふ積でゐたのです。
と先生が語る通り、この時点で先生は必ず「私」と逢おうと、逢いたいと思っていたのである。先生は「私」と必ず逢いたかったのである。そこを押えておいて、「私」に逢わずに亡くなった先生の、その「心」を、考えねばならぬのである。
♡「木犀」被子植物門双子葉植物綱ゴマノハグサ目モクセイ科モクセイ属 Osmanthus に属する常緑小高木の総称。中国原産。中国名桂花。本邦ではギンモクセイ(銀木犀) Osmanthus fragrans var. fragrans ・キンモクセイ(金木犀) Osmanthus fragrans var. aurantiacus ・ウスギモクセイ(薄黄木犀) Osmanthus fragrans var. thunbergii 三種の総称であるが、単に「木犀」と言った場合、ギンモクセイを指すことが多く、先生の玄関先のこれもギンモクセイと考えてよいであろう。中秋、香気の強い星形の4弁の小花が数多く咲く。雌雄異株であるが、本邦には雄株しかないと言われている(以上は主にウィキの「モクセイ」に依った)。古来、中国の美女はその花を浸した酒を口に含んで、花の香をさせながら恋人に逢ったという。花言葉はモクセイ全般に「謙遜・真実」、金木犀は「あなたは高潔です」、そして銀木犀は――「初恋」――である。]