芥川龍之介 青年と死と
「心」連載終了直後に書かれた芥川龍之介の「青年と死と」をやぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。
何故……今……この作品、なのか?
何故……僕がカテゴリ「こゝろ」に、この作品、を入れたのか?
……では一つ……冒頭に記した僕の注から一部引用しておこう。……そうすると、このあなたの知らない芥川の初期作品が……俄然、読みたくなるはずである……
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本作は芥川龍之介の初恋と深い関係を持っている著作である。彼の初恋の相手は同年の幼馴染み(実家新原家の近所)であった吉田弥生である(父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた)。当時、東京帝国大学英吉利文学科1年であった芥川龍之介(23歳・満22歳)は、大正3(1914)年7月20日頃~8月23日 友人らと共に千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して二度目のラブレターを書いており、その後、正式に結婚も申し込んでいる。しかし乍ら、この話は養家芥川家の猛反対にあい、翌年2月頃に破局を迎えることとなる。吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系)、弥生が同年齢であったこと等が主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があった)。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、大正4(1915)年4月20日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来た。丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いた。4月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をしたともある。鷺只雄氏は河出書房新社1992年刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。正にこの弥生への強烈な恋情の炎の只中に書かれたのが、避暑から帰った直後の大正3(1914)年9月1日『新思潮』に発表した、この「青年と死と」なのであった。(中略)
最後に。この「青年と死と」の最後に記された日付に注目されたい。
『(一五・八・一四)』というクレジットは西暦
1914年8月15日
という意である。
夏目漱石の「心」の『東京朝日新聞』の連載終了
は、正にこの4日前、
1914年8月11日
のことであった。
芥川龍之介は当然、「心」を読んでいたと考ええてよい。読まぬはずがない。――とすれば――
――この「青年と死と」という、如何にも意味深長な題名の作品は、一つの――
――芥川の、漱石の「心」への答え――
として読むことが可能、ということである……。