耳嚢 巻之二 貧窮神の事
「耳嚢 巻之二」に「貧窮神の事」を収載した。【昨夜、ブログ掲載分に誤って既出の章を掲げてしまった。ここに訂正する。なお、本日早朝をもって「卷之二」の全注釈現代語訳作業を無事終了したことを御報告しておく。 5月18日 AM6:21】
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貧窮神の事
近頃牛天神(うしてんじん)境内に社祠出來ぬるを、何の神と尋れば、貧乏神の社の由。彼宮へ詣で貧乏を免れん事を所るに其靈驗ありしとかや。其起立を尋るに、同じ小石川に住む御旗本の、代々貧乏にて家内思ふ事も叶はねば、明暮となく難儀なしけるが、彼人或年の暮に貧乏神を畫像に拵へ神酒(みき)洗米(せんまい)など捧(ささげ)て祈けるは、我等數年貧窮也、思ふ事叶はぬも是非なけれど、年月の内貧なれども又外の愁もなし、偏(ひとへ)に尊神の守り給ふなるべし、數代我等を守り給ふ御神なれば、何卒一社を建立して尊神を崇敬なすぺきの間、少しは貧窮をまぬがれ福分に移り候樣守り給へと、小さき祠を屋敷の内に立て朝夕祈りしかば、右の利益(りやく)にや、少し心の如き事も出來て幸ひもありしかば、牛天神の別當なる者は兼て心安かりければ其譯を語り、境内の隅へ成とも右ほこらを移し度(たし)と談じければ、別當も面白き事に思ひて許諾なしけるにぞ、今は天神境内に有りぬ。此事聞及びて貧しき身は右社倉に詣で祈りけると也。敬して遠(とほざ)くの類面白き事と爰に記ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:老女隠棲の僧坊造立から貧乏神のお祠造立で連関。老女には何だか有り難くない連関だが――。
・「牛天神」現在の東京都文京区春日(後楽園の西方)にある北野神社。北野神社公式サイトによれば、源頼朝が当地にあった岩に腰掛けて休息した際、夢に牛に乗った菅原道真が現われて吉事を予言、翌年、夢言通りとなったことから頼朝がこの岩を祀り牛天神を造立したという縁起を持つ(底本鈴木注では、牛天神は金杉天神とも呼ばれるとあり、頼朝を『北条氏康が夢想によって祀ったもの』という別系統の伝承を掲げる)。境内には牛形の岩があり、これを撫でると願いが叶うと伝えられている。この神社の境内に現在、太田神社及び高木神社と呼称する社があるが、これが本話の貧乏神の祠である。現在は、日本最初のストリッパーであった天鈿女命(あめのうずめのみこと)とその夫とされる荒ぶる神猿田彦命を祭祀しており、芸事上達・開運招福のご利益があるとされる。明治より前は貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ:弁財天の姉。)を祀っていたが、江戸時代にあったとされるさる出来事から、人に憑いている貧乏神を追い払い、福の神を招き入れるとの庶民信仰を集めるようになったという。HP記載の由緒は本話柄とはやや異なるので、そのまま引用する(改行を除去し、記号も変更・追加した)。
《引用開始》
昔々、小石川の三百坂の処に住んでいた清貧旗本の夢枕に一人の老人が立ち、「わしはこの家に住みついている貧乏神じゃが、居心地が良く長い間世話になっておる。そこで、お礼をしたいのでわしの言うことを忘れずに行うのじゃ……」と告げた。正直者の旗本はそのお告げを忘れず、催行した。すると、たちまち運が向き、清貧旗本はお金持ちになる。そのお告げとは――「毎月、1日と15日と25日に赤飯と油揚げを供え、わしを祭れば福を授けよう……」――以来、この「福の神になった貧乏神」の話は江戸中に広まり、今なお、お告げは守られ、多くの人々が参拝に訪れている。
《引用終了》
この「三百坂」は伝通院の南西、松平讃岐守屋敷の東北にあり、牛天神から2㎞も離れていない。この坂の名はこの近くに屋敷を構える松平家に由来すると言われる。松平家では新規召抱えのお徒(かち)の者は、主君が登城の際、玄関で目見えさせた後、衣服を改めさせて、この坂で供の列に加わらせたという。万一、坂を登りきるまでに行列に追いつけなかった場合は、遅刻の罰として三百文を科したことから、という(文京区教育委員会の三百坂標識等による)。なお、根岸の口調から明らかにこの頃――「近頃」という以上は5年以上遡るとは考え難い――安永9(1780)年以降、根岸が江戸にいた佐渡奉行となる天明4(1784)年よりも前に造立されたものではないかと私は考える。
・「洗米」神仏に供えるために洗った米。饌米(せんまい)。
・「牛天神の別當」神仏習合であったことから、牛天神は龍門寺という寺が別当であったことが切絵図の記載から分かるが、当の龍門寺は近辺に見当たらぬ。現存しないらしい。牛天神東隣に接する水戸屋敷の旧地にでもあったものか。
・「敬して遠く」「論語」の「雍也第六」の「二十二」に現われる句。
樊遲問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。
○やぶちゃんの書き下し文
樊遲(はんち)知を問ふ。子曰く、
「民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂ふべし。」
と。
仁を問ふ。曰く、
「仁は難きを先にして獲(と)るを後にす。仁と謂ふべし。」
と。
○やぶちゃんの現代語訳
ある時、樊遅(はんち)が、
「『知』とは?」
と訊ねた。
先生が謂われた。
「人として、当たり前の義を務め、天神地祇神仏神霊祖霊霊鬼を、人を超越した存在の『ようなもの』として謙虚に畏敬して、而もそれを己れの思惟に於いては鮮やかに遠避ける――これが『知』じゃ。」
と。
樊遅は続けて、
「『知』とは?」
と訊ねた。
先生が謂われた。
「仁とは、何事も成し難きことを先ず成し遂げ、後に結果として実を摑む――これが『仁』じゃ。」
と。
樊遅とは孔子の御者にして弟子の一人。
■やぶちゃん現代語訳
貧乏神の事
近頃、牛天神の境内に新しいお祠(やしろ)が出来たので、何の神を祭っておるのかと訊ねてみたところ、これが何と、貧乏神の由。
貧乏を免れんことを祈ると確かな霊験あり、とか。
その起立をも訊ねてみた――。
――同じ小石川に住む御旗本、これ、代々筋金入りの貧乏にて、日々の暮らしも思う通りには叶わぬ体たらく、いやもう、文字通り、明け暮れとなく難儀致いて御座った。
さて、ある年の暮れのこと、この御仁、貧乏神を画像に誂え、お神酒(みき)やらご饌米(せんまい)なんども捧げて祈ったことには、
「……我ら永年、貧窮にて御座る。……思うことも叶わぬのも、この体たらくなれば是非もないこととは存ずるが……永年不断の貧なれど、しかし、それ以外はこれと申して、又、数奇なる愁いのあるわけにても御座らぬ。……これは、偏(ひとえ)に御尊神が我らを守護遊ばされておらるるなればこそのことならんと存じ上げ奉りまする。……幾代にも亙って我ら一族をお守り給うて御座る御神であればこそ、……何卒! 一社を建立致いて尊神を崇敬致さんとする間、……その、も少しばかり、貧乏を免れ、ささやかなる福を受くるる身分へと遷り変わらんよう、……どうか、お守り下されええいぃ!」
と小さなお祠を屋敷内(うち)の隅に建てて、朝夕祈っところが――ああら、不思議! このご利益(りやく)ででもあろうか――少しは願(ねご)うて御座ったことも叶うて、吉事もあった。
そこで、兼ねてより牛天神別当龍門寺役僧とは懇意に致いて御座ったれば、かくかくの霊験を語り、
「……一つ、境内の隅へなりとも、このお祠、移しとう存ずるが……」
と恐る恐る言うてみたところ、その別当も興がって移設を許諾致したによって、今は天神さま境内に安置することと相成った。
これをまた聞き及んで、貧しき者ども雲霞の如く押寄せ、このお祠に詣で祈って御座るとのこと。
『鬼神を敬して之を遠ざく』の類い、面白いことなれば、ここに記しおく。
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