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2010/05/10

耳嚢 巻之二 思はず幸を得し人の事

「耳嚢 巻之二」に「思はず幸を得し人の事」を収載した。

 思はず幸を得し人の事

 予が知れる人に甚(はなはだ)福饒(ふくぜう)の男有り。名は障りあれば爰に記さず。祿も小祿にてありしが、彼人の屋敷のはしを撿挍(けんげう)に貸し置けるが、彼撿挍は金錢に富て、武家町家在方へ夥敷(おびただしき)高利を以貸出しけるに、老後重病を請(うけ)て惱みけるが、最早此代(よ)の便(びん)なしと思ひしにや、地主の男を呼て、扨も我等此度命有(あら)んとも思はず、然るに我等事一族知音(ちいん)もなく、妻子とてもなし、見屆(みとどけ)たる弟子もなければ、是迄貯へし金銀讓るぺき人なし、御身多年の馴染故不殘奉るべき間、跡ねんごろに吊(とむら)ひ給はるべしといひて、證文有金不殘讓りて無程身まかりぬ。夫より彼男一類分にして、右盲人を念頃に吊ひ、扨右證文をも夫々にはたりて金子受取りし故、富饒(ふぜう)ありし由也。其人位ある人にてもなかりしが、おかしき幸德(かうとく)也。

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「撿挍」検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには73の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて719両が必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある(文中の「勾当」(こうとう)とはやはり盲官の一つで検校・別当の下位、座頭の上位を言う)。本件に登場する検校は正にこの最後のグループに属する高利貸の検校である。

・「福饒」終り近くの「富饒」と合わせて、それぞれ好運に富んだこと、後者は実際に裕福なことを言う。「饒」の読みは「にょう」とも読み、岩波版では後半の「富饒」を「ぶにょう」と訓じている。

・「吊(とむら)ひて」「吊」には「弔」の俗字としての用法がある。

・「一類分」家系の一族に準ずる扱い。親類扱い。

・「はたりて」「はたる」は「徴る」と書き、年貢や夫役を取り立てる、催促する、責めるの意。

■やぶちゃん現代語訳

 思わぬ幸運を得た人の事

 私の知人に甚だ運がいい男がいる――名は差し障りがあるのでここには記さない――この男、禄も小禄で御座ったが、自身の大きくもない屋敷の隅を、とある検校に貸しておった。

 この検校、実は多額の金銭を貯えており、武家と言わず町家と言わず農家と言わず、何処へなりと、とんでもない高利でもって貸しておったが、老いて後、重い病いに悩んで御座った。

 ある日――「最早、この世のつてもなし」とでも思うたか――この検校、地主の男を呼び、

「……さても我ら、この命そう長いものとは思わぬ。……なれど、我らこと、一族知音もなく、妻子とてもない。見届けて呉るる弟子も御座らねば……これまで貯えた数多の金銀、これ、譲るべき人も、ない。……御身は永年の馴染みにて御座れば、残らず差奉らんと思う故に……跡を懇ろにお弔らい下されよ……」

と言うや、証文から有り金から残らず出して譲り渡すと――程無く、死んだ。

 それより、男、約束通り親族の扱いで、この検校を懇ろに弔い、さても譲られた証文類も、一つ残らず正当に催促・取り立て怠らずして額面金子悉く請け取った故、勢い猛の者――大金持ちとなった。

 ――失礼乍ら、この人物、たいして人徳ある人にても御座らぬ。……いや、全く以って奇体なる幸運ではある……。

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