耳囊 卷之二 公家衆狂歌の事
「耳囊 卷之二」に「公家衆狂歌の事」を収載した。
*
公家衆狂歌の事
當世專ら狂歌を翫(もてあそ)びけるに付、堂上(たうしやう)の狂歌の格別又面白きと思ひし事有。近き頃京都にて鍼治(しんち)を業として其功いちじるきものありしに、小川何某といへる町家にて、其妻の煩しきを右針醫の手際にて快氣いたしければ、厚く禮謝なしけるが、折ふし見事成鯉の二口有しを、彼醫師のもとへ送りけるに、絕て珍ら敷(しき)鯉なれば、心なく料理せんも本意(ほい)なしとて、兼て出入せし堂上の薗池(そのいけ)殿へ奉りけるに、薗池殿にても美事成鯉なれば、兼て出入して勝手取り賄ひなどしける小川へ賜りけるに、後に小川并鍼醫の、薗池殿へ落合ひて、かう/\の事也と笑興ぜしに、薗池殿一首の狂歌して兩人へ給りけると也。
針先にかゝれる魚をその池へ放せばもとの小川へぞ行く
實に世の中にて多き事にて、おもしろき狂歌なれば爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:内蔵助の最期のユーモアから狂歌へ軽く連関。先行する「狂歌にて咎をまぬがれし事」等の狂歌・狂歌師絡みのシリーズ。
・「狂歌」「狂歌にて咎をまぬがれし事」の「狂歌」の注を参照されたい。
・「堂上」狭義は三位以上及び四位・五位の内、昇殿を許された殿上人を言うが、。ここは広義の公家衆の意。
・「薗池殿」園池家。藤原北家四条流の流れを汲む公家。「耳嚢」執筆当時の園池家ならば第5代当主園池房季(そのいけふさすえ 正徳3(1713)年~寛政7(1795)年)である。権大納言正二位。「近き頃」とあるので参考までにその前代第4代当主は房季の父園池実守(貞享元(1684)年~享保12(1727)年)で、左近衛権中将正三位である。恐らく房季であろう(岩波版長谷川氏も房季で同定)。
・「針先にかゝれる魚をその池へ放せばもとの小川へぞ行く」釣「針」に鍼医の「鍼」を、「池」に自身の姓である園「池」を、「小川」に当該町屋の姓「小川」を掛詞とした狂歌。訳は不要な程、分かり易い。
■やぶちゃん現代語訳
公家衆の狂歌の事
当世では専ら狂歌が流行して御座るが、堂上(とうしょう)の方々の狂歌には、これまた格別に面白いと思わせるものが御座る。
近き頃のこと、京都にて鍼治療を生業(なりわい)と致いて、その上手、著しきこと、世間にても評判の名医が御座った。
さて小川何某と申す町家にて、その妻が病を煩って御座ったが、この鍼医の、美事なる神技の手際にて快気致いた。
小川某は厚く謝礼致いたが、丁度その折りに、美事な鯉を二口飼うて御座ったれば、
「どうぞ、お口汚しに。」
と、その鍼医の元へ御礼の一つとして贈って御座った。
受け取った鍼医、桶の内にて悠々と泳ぐ美事なる鯉を見る内、
「……か程に珍しき鯉、見たこと、あらしまへん。……こないに立派な鯉、ええ加減に料理してしもうたら、勿体のうおす……」
と、かねて彼が出入りして御座った堂上の御公家薗池様に奉って御座った。
さても薗池家にても、
「これはまた、見事な鯉! 食すなんど、無粋のこと……」
と兼ねて厨御用で出入りして、御勝手方取り賄い御用達で御座った商人の小川家に賜って御座った――。
後日(ごにち)のこと、町家の小川某と針医、この薗池様の御屋敷に落ち逢(お)う機会が御座ったが、その折になって、初めて、
「そういう訳にて、おじゃったか!」
と皆して笑い興じたところが、薗池殿、その場にて一首の狂歌を詠じ、この二人に賜ったとのことでおじゃる――
針先にかゝれる魚をその池へ放せばもとの小川へぞ行く
斯くなる偶然、実に世の中にては多きこと乍ら、面白き狂歌なれば、ここに記しおくものでおじゃる。
« 『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月6日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十七回 | トップページ | 贋作・或阿呆の一生 時代 »