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2010/05/09

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月9日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十回

Kokoro12_13   先生の遺書

   (二十)

 私は私のつらまへた事實の許す限り、奧さんを慰めやうとした。奧さんも亦出來る丈私によつて慰さめられたさうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合つた。けれども私はもともと事の大根(おほね)を攫(つか)んでゐなかつた。奧さんの不安も實は其處に漂よふ薄い雲に似た疑惑から出て來てゐた。事件の眞相になると、奧さん自身にも多くは知れてゐなかつた。知れてゐる所でも悉皆(すつかり)は私に話す事が出來なかつた。從つて慰さめる私も、慰さめられる奧さんも、共に波に浮いて、ゆら/\してゐた。ゆら/\しながら、奧さんは何處迄も手を出して、覺束ない私の判斷に縋(すが)り付かうとした。

 十時頃になつて先生の靴の音が玄關に聞えた時、奧さんは急に今迄の凡てを忘れたやうに、前に坐つてゐる私を其方退(そつちの)けにして立ち上つた。さうして格子を開ける先生を殆んど出合頭に迎へた。私は取り殘されながら、後から奧さんに尾(つ)いて行つた。下女丈は假寐(うたゝね)でもしてゐたと見えて、ついに出て來なかつた。

 先生は寧ろ機嫌(きけん)がよかつた。然し奧さんの調子は更によかつた。今しがた奧さんの美しい眼(め)のうちに溜つた淚の光と、それから黑い眉毛の根に寄せられた八の字を記憶してゐた私は、其變化を異常なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐(いつは)りでなかつたならば、(實際それは詐りとは思へなかつたが)、今迄の奧さんの訴へは感傷(センチメント)を玩(もてあそ)ぶためにとくに私を相手に拵へた、徒(いたづ)らな女性の遊戯と取れない事もなかつた。尤も其時の私には奧さんをそれ程批評的に見る氣は起らなかつた。私は奧さんの態度の急に輝やいて來たのを見て、寧ろ安心した。是ならばさう心配する必要もなかつたんだと考へ直した。

 先生は笑ひながら「どうも御苦勞さま、泥棒は來ませんでしたか」と私に聞いた。それから「來ないんで張合が拔けやしませんか」と云つた。

 歸る時、奧さんは「どうも御氣の毒さま」と會釋した。其調子は忙がしい處を暇を潰させて氣の毒だといふよりも、折角來たのに泥棒が這入らなくつて氣の毒だといふ冗談のやうに聞こえた。奧さんはさう云ひながら、先刻(さつき)出した西洋菓子の殘りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを袂へ入れて、人通りの少ない夜寒(よさむ)の小路(こうぢ)を曲折して賑やかな町の方へ急いだ。

 私は其晩の事を記憶のうちから抽(ひ)き拔いて此處へ詳しく書いた。是(これ)は書く丈の必要があるから書いたのだが、實をいふと、奧さんに菓子を貰つて歸るときの氣分では、それ程當夜の會話を重く見てゐなかつた。私は其翌日午飯を食ひに學校から歸つてきて、昨夜(ゆふべ)机の上に載せて置いた菓子の包を見ると、すぐ其中からチヨコレーを塗つた鳶(とび)色のカステラを出して頰張つた。さうしてそれを食ふ時に、必竟此菓子を私に吳れた二人の男女(なんによ)は、幸福な一對として世の中に存在してゐるのだと自覺しつゝ味はつた。

 秋が暮れて冬が來る迄格別の事もなかつた。私は先生の宅へ出這りをする序に、衣服の洗ひ張や仕立方などを奧さんに賴んだ。それ迄繻絆(じゆばん)といふものを着た事のない私が、シヤツの上に黑い襟のかゝつたものを重ねるやうになつたのは此時からであつた。子供のない奧さんは、さういふ世話を燒くのが却つて退屈凌ぎになつて、結句(けつく)身體(からだ)の藥だ位の事を云つてゐた。

 「こりや手織ね。こんな地の好(い)い着物は今迄縫つた事がないわ。其代り縫ひ惡(にく)いのよそりあ。丸で針が立たないんですもの。御蔭で針を二本折りましたわ」

 斯(こん)な苦情をいふ時ですら、奧さんは別に面倒臭いといふ顏をしなかつた。

Line_19

 

やぶちゃんの摑み:

 

「從つて慰さめる私も、慰さめられる奧さんも、共に波に浮いて、ゆら/\してゐた。ゆら/\しながら、奧さんは何處迄も手を出して、覺束ない私の判斷に縋り付かうとした」本件叙述についてフロイトならば、「私」の無意識下の靜に対する性的願望の象徴表現であると分析するはずである。私もその見解に賛同するものである。しかし言わずもがな乍ら「無意識下の」である。先に述べた通り私は、秦恒平のように靜と「私」を結婚させるなんどということは夢にも百億光年の先にも考えてはいない。

 

「先生は寧ろ機嫌がよかつた」のは何故か? 「同鄕の友人で地方の病院に奉職してゐるものが上京したため、先生は外の二三名と共に、ある所で其友人に飯を喰はせなければならなくなつた」益々人嫌いになりつつある(それは「私」との密接な繋がりが出来た結果として、『逆に』益々激しくなっていたはずだと私は分析する)先生が、その『ねばならない』会で愉快な気分になったとは考え難いではないか! 「私」にとって先生のその様子が如何にも意外だったからこそ「寧ろ」と添えたのではなかったか?――だとすれば――そう、その通り。答えは一つしかない。――先生は、靜と「私」を二人きりにして親しく話させることが出来たことに於いて「機嫌がよかつた」のである。先生のその複雑な心性を、私は私の書いた「こゝろ」のフェイク「こゝろ佚文」でもわせた(実は昨夜、密やかにこの「こゝろ佚文」に写真2枚を追加した。これは総て私がこの作品の設定にした染井墓地の桜の写真である。但し、私の撮影したものではない。但し、撮影者の使用許諾は受けている。本作は拙劣であるが――私にとって――極めて個人的な意味に於いて忘れ難い偏愛する作品なのである)。再三言う。先生の意識は、靜が「私」に、「私」が靜に好感を持つことには確信犯なのである。しかし、靜と「私」が生来、実際の恋愛関係になり、自身亡き後にでも(この時は勿論、自殺を考えている訳ではないが)夫婦になることなどは、考えてはいない。いや、もしかすると遺書を託す決意がこの時点でない以上、この時には何処かに漠然と私の死後そうなってもよい、という考えはあったかも知れぬ(飽くまで可能性の問題である。排除できない、という意味である)。しかし、「私」に遺書を託すことを決意した時点で、それは、ない、のである。そうして、そもそも、「私」には奥さんと結ばれるという希望や意識は、その人生にあって一度として芽生えなかったものと、私は確信する。しかし……私のこのくどい謂いに、誰かは、こう質問するかも知れない……「靜の心の中にあっては「私」への思いはどうであったか? 「私」を男として愛する気持ちは芽生えなかったのか?」と。――それは分からぬ――ないとは言い切れぬ、とだけ、答えておこう。――私は女ではないから、女の気持ちを確信をもって断言する立場にないからでもあり、但しそれはまた、逃げでもなければ、女性の性愛を区別・差別するものでも、決してない。――そもそも『何も知らない』(ここが肝心である。本作で『何も知らない』(はずである)のは彼女だけなのである)靜は、夢魔の如き本作に於いて、誰よりもあらゆる枷から自由なのである。自由な選択をし得るのである。――告白しよう。私はここで、この靜が芥川龍之介が最後に愛した片山廣子であったとしたら……と考えるのだ。私は靜の生年を明治141519811982)年前後と推定している。片山廣子は明治111978)年の生まれである……もう、いいだろう……後は私の片山廣子のテクストや私の考える彼女と芥川と恋愛についての見解をお読み頂ければ、私の言わんとするところはお分かり頂けるものと思う……だから、私には「分からぬ」としか言いようがないのである――。

 

「然し奧さんの調子は更によかつた。今しがた奧さんの美しい眼(め)のうちに溜つた涙の光と、それから黑い眉毛の根に寄せられた八の字を記憶してゐた私は、其變化を異常なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐りでなかつたならば、(實際それは詐りとは思へなかつたが)、今迄の奧さんの訴へは感傷(センチメント)を玩ぶためにとくに私を相手に拵へた、徒らな女性の遊戯と取れない事もなかつた」ここは勿論、「私」が「異常」とまで感ずるほどに豹変した靜に対して、「私」が自分は弄ばれたのではなかろうかと思う、という部分に、靜の中にある、小悪魔的な一面を疑わせるという面白いところではある。しかし勿論、それは直後の「尤も其時の私には奧さんをそれ程批評的に見る氣は起らなかつた。私は奧さんの態度の急に輝やいて來たのを見て、寧ろ安心した。是ならばさう心配する必要もなかつたんだと考へ直した」という叙述によって急激に希釈されてしまうように配慮されている。しかし逆に私は、この「其時の私には」に着目する。但し間違ってはいけない。私は、この「其時の私には」とは、叙述している今の「私」が靜に対してこの時とは相対的な意味に於いて批判的視点を持つようになった、なんどということを問題にしたいのではない。私が言いたいのは、ここが遺書で示される若き日の靜への極めて強い伏線となっているということの確認である。既に読んだ方は思い出すがよい。遺書の中に出現する靜=「御孃さん」の独特な一面を。Kが来る前、先生の部屋に入り込んで何時までも動かない御嬢さん。彼女は「却つて平氣でした。これが琴を浚ふのに聲さへ碌に出せなかつたあの女かしらと疑がはれる位、恥づかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、『はい』と返事をする丈で、容易に腰を上げない事さへありました。それでゐて御孃さんは決して子供ではなかつたのです。私の眼には能くそれが解つてゐました。能く解るやうに振る舞つて見せる痕迹さへ明らかでした。」(単行本「下」十三)という『リードする女』の描写、またある日先生が帰宅するとKと御嬢さんだけが家にいて、奥さんと下女が家にいない。こんなことは今までになかったから「何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした。若い女に共通な點だと云へばそれ迄かも知れませんが、御孃さんも下らない事に能く笑ひたがる女でした。然し御孃さんは私の顏色を見て、すぐ不斷の表情に歸りました。急用ではないが、一寸用があつて出たのだと眞面目に答へました。下宿人の私にはそれ以上問ひ詰める權利はありません。私は沈默」する。そうしてその日の晩飯のシーンで「私は其卓上で奥さんから其日何時もの時刻に肴屋が來なかつたので、私達に食はせるものを買ひに町へ行かなければならなかつたのだといふ説明を聞かされました。成程客を置いてゐる以上、それも尤もな事だと私が考へた時、御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出」すシーン、Kへの決定的な嫉妬心が萌芽する、あの雨上がりの沿道でKと御嬢さんと出逢った日のその晩飯のシーンで、何処へ行ったのかという先生の問いに対して「御孃さんは私の嫌な例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中てゝ見ろと仕舞に云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持でしたから、さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其所に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其所の區別が一寸判然しない點がありました。若い女として御孃さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです」(「下」三十四)という二箇所に現われる靜の『小悪魔のような嫌な笑い』。これらの遺書のそのシーンに至った時、今度は逆に「御孃さん」から靜へと、ここへとフィード・バックする機能を、この(二十)の靜の豹変は持っているように思われるのである。

 

『先生は笑ひながら「どうも御苦勞さま、泥棒は來ませんでしたか」と私に聞いた。それから「來ないんで張合が拔けやしませんか」と云つた』この言葉はつまらぬ冗談として受け流していいのだろうか? 先生がかつてこんな冗談を言ったことがあったか? この後の場面でもいい。ない。わざわざ寡黙な先生の台詞としては、私は大いに気になるのである。単行本の「上」に当る部分の先生の直接話法は、その一句一言、「こゝろ」の核心に至るための珠玉でないものはない。漱石はそうした確信犯的意識の中で「上」を書いているのだ。さすれば、これは『意味』がある。精神分析学的に見てみよう。先に私が示したように、靜と「私」を二人きりにして親しく話させることが出来たことに於いて「機嫌がよかつた」先生の意識と直結するものと私は解釈する。「泥棒は來」ていたのだ。妻を盗むかもしれない「泥棒」が。いや、その「泥棒」は先生自身が呼び込んだ者であった。ところが、その「泥棒」は自身を「泥棒」として全く意識していなかった(無意識下においてはそうではなかったかもしれないことは先の部分で述べた)。そうしてその「泥棒」が自らの役割を意識していないという確信は、実は先生自身のものでもあったのだ。そうしてその想定通り、「泥棒」は「泥棒」らしい行為の痕跡すら残さず、盗まれることのなかった妻と一緒に私を迎えたのであった。「來ないんで張合が拔け」てちょっと残念だったのは先生の内心であったが、しかしそれは同時に先生の「私」への信頼の証しとして先生の大きな安心と結びついたアンビバレントな感情であったのだ。こういう少しだけ危い、しかし、痛快な感覚を、先生は永く味わったことがなかった――Kの自死以来――それが大きな満足の種となって先生の心の「機嫌」の良さと、珍しくも下らぬこの冗談となって現われたのではなかったか? そしてこの無意識は、実に美事に「私」だけでなく、靜にさえ共有されているのである! でなくてどうして「私」が先生の宅を辞するに際して靜の「どうも御氣の毒さま」という挨拶の語感が「折角來たのに泥棒が這入らなくつて氣の毒だといふ冗談のやうに聞こえ」るだろう! ここでは先生と靜と「私」の三人総てが無意識の共同正犯なのである。

♡「午飯を食ひに學校から歸つてきて」これによって「私」の下宿が東京帝国大学に極めて近い位置、本郷周辺にあることが判然とする。(九)では先生が散歩をしようと言ってこの下宿を訪ねていることから考えると、先生の宅も矢張り本郷近辺からそう遠くない位置にあるものと思われるのである。

 

「それ迄繻絆といふものを着た事のない私が、シヤツの上に黑い襟のかゝつたものを重ねるやうになつた」「繻絆」は“gibão”でポルトガル語由来で、肌につけて着る短い衣で汗取りの肌着であるが、襟や袖に外見用のために装飾的な布が付随した。それまで「私」は飾りのない下着のシャツの端を見せたままの格好(それも若者の普通の姿でもあった)だったものを、少し身綺麗にして繻絆を着用するようになったということである。記されていないが、そういうお洒落を促したのは、実は靜ではなかったろうか?]

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