『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月5日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十六回
(十六)
私の行つたのはまだ灯(ひ)の點くか點かない暮方であつたが、几帳面な先生はもう宅(うち)にゐなかつた。「時間に後れると惡いつて、つい今したが出掛けました」と云つた奧さんは、私を先生の書齋へ案内した。
書齋には洋机(テーブル)と椅子の外に、澤山の書物が美くしい脊皮(せがは)を並べて、硝子越(ガラすごし)に電燈の光で照らされてゐた。奧さんは火鉢の前に敷いた座蒲團の上へ私を坐らせて、「ちつと其處いらにある本でも讀んでゐて下さい」と斷つて出て行つた。私は丁度主人の歸りを待ち受ける客のやうな氣がして濟まなかつた。私は畏(かしこ)まつた儘烟草を飮んでゐた。奧さんが茶の間で何か下女に話してゐる聲が聞こえた。書齋は茶の間の緣側を突き當つて折れ曲つた角にあるので、棟(むね)の位置からいふと、座敷よりも却つて掛け離れた靜かさを領してゐた。一しきりで奧さんの話聲が已(や)むと、後はしんとした。私は泥棒を待ち受ける樣な心持で、凝としながら氣を何處かに配つた。
三十分程すると、奧さんが又書齋の入口へ顏を出した。「おや」と云つて、輕く驚(おどろ)ろいた時の眼(め)を私に向けた。さうして客に來た人のやうに鹿爪(しかつめ)らしく控えてゐる私を可笑しさうに見た。
「それぢや窮屈でせう」
「いえ、窮屈ぢやありません」
「でも退屈でせう」
「いゝえ。泥棒が來るかと思つて緊張してゐるから退屈でもありません」
奧さんは手に紅茶茶碗(こうちやぢやわん)を持つた儘、笑ひながら其處に立つてゐた。
「此處は隅つこだから番をするには好くありませんね」と私が云つた。
「ぢや失禮ですがもつと眞中(まんなか)へ出て來て頂戴(ちやうたい)。御退屈だらうと思つて、御茶を入れて持つて來たんですが、茶の間で宜しければ彼方(あちら)で上げますから」
私は奧さんの後に尾(つい)て書齋を出た。茶の間には綺麗な長火鉢に鐵瓶が鳴つてゐた。私は其處で茶と菓子(くわこ)の御馳走になつた。奧さんは寢られないと不可(いけな)いといつて、茶碗に手を觸れなかつた。
「先生は矢張り時々斯んな會へ御出掛になるんですか」
「いゝえ滅多に出た事はありません。近頃は段々人の顏を見るのが嫌になるやうです」斯ういつた奧さんの樣子に、別段困つたものだといふ風も見えなかつたので、私はつい大膽になつた。
「それぢや奧さん丈が例外なんですか」
「いゝえ私も嫌はれてゐる一人なんです」
「そりや噓です」と私が云つた。「奧さん自身噓と知りながら左右仰やるんでせう」
「何故」
「私に云はせると、奧さんが好きになつたから世間が嫌ひになるんですもの」
「あなたは學問をする方(かた)丈(だけ)あつて、中々御(ご)上手ね。空つぽな理窟を使ひこなす事が。世の中が嫌になつたから、私迄も嫌になつたんだとも云はれるぢやありませんか。それと同なじ理窟で」
「兩方とも云はれる事は云はれますが、此場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白さうに。空(から)の盃(さかづき)でよくあゝ飽きずに獻酬(けんしう)が出來ると思ひますわ」
奧さんの言葉は少し手痛(てひど)かつた。然し其言葉の耳障(みゝざはり)からいふと、決して猛烈なものではなかつた。自分に頭惱のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出す程に奧さんは現代的でなかつた。奧さんはそれよりもつと底の方に沈んだ心を大事にしてゐるらしく見えた。
[♡やぶちゃんの摑み:私はこの留守番のシークエンスを明治44(1911)年「私」22歳の晩秋、十月下旬頃と推定している。
♡「まだ灯の點くか點かない暮方」当時は日没後に電気が一律に供給されて点灯可能となった。
♡「此處は隅つこ」書斎が先生の家作で隅の方に位置することを言う。以下の画像は、恐らく(実は自筆で汚く写した絵があるのだが、これを私自身が何から写したか不思議なことに記憶がないのである)先生の家を想定復元された論文片岡豊氏の「『こゝろ』の〈家〉」(1991年『立教女子学院短大紀要』22)から写したものと思われる(後架や風呂・下女部屋・台所の位置は本文からは導き出せない)先生宅の見取り図を元に、やはり私自身が描き直したものである(方位は(二十一)の書斎の日当たりの良さから私が類推した)。
一応、「1991・片岡原案 2010・藪野(改)」としておく。]
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