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2010/05/16

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月16日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十七回

Kokoro13_6   先生の遺書

   (二十七)

 私はすぐ其帽子を取り上げた。所々に着いてゐる赤土を爪で彈きながら先生を呼んだ。

 「先生帽子が落ちました」

 「ありがたう」

 身體(からだ)を半分起してそれを受取つた先生は、起きるとも寢るとも片付(かたづ)かない其姿勢の儘で、變な事を私に聞いた。

 「突然だが、君の家には財產が餘程あるんですか」

 「あるといふ程ありやしません」

 「まあ何(ど)の位あるのかね。失禮の樣だが」

 「何の位つて、山と田地が少しある限(ぎり)で、金なんか丸で無いんでせう。

 先生が私の家の經濟に就いて、問らしい問を掛けたのはこれが始めてゞあつた。私の方はまだ先生の暮し向に關して、何も聞いた事がなかつた。先生と知合になつた始め、私は先生が何うして遊んでゐられるかを疑ぐつた。其後も此疑ひは絕えず私の胸を去らなかつた。然し私はそんな露骨な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけと許り思つて何時でも控へてゐた。若葉の色で疲れた眼を休ませてゐた私の心は、偶然また其疑ひに觸れた。

 「先生は何うなんです。何の位の財產を有つてゐらつしやるんですか」

 「私は財產家と見えますか」

 先生は平生(へいせい)から寧ろ質素な服裝をしてゐた。それに家内は小人數(こにんず)であつた。從つて住宅も決して廣くはなかつた。けれども其生活の物質的に豐な事は、内輪に這入り込まない私の眼にさへ明らかであつた。要するに先生の暮しは贅澤といへない迄も、あたぢけなく切り詰めた無彈力性のものではなかつた。

 「左右でせう」と私が云つた。

 「そりや其(その)位(くらゐ)の金はあるさ。けれども決して財產家ぢやありせん。財產家ならもつと大きな家でも造るさ」

 此時先生は起き上つて、緣臺の上に胡坐(あぐら)をかいてゐたが、斯う云ひ終ると、竹の杖の先で地面の上へ圓のやうなものを描き始めた。それが濟むと、今度はステツキを突き刺すやうに眞直に立てた。

 「是でも元は財產家なんだがなあ」

 先生の言葉は半分獨言(ひとりごと)のやうであつた。それですぐ後に尾(つ)いて行き損なつた私は、つい默つてゐた。

 「是でも元は財產家なんですよ、君」と云ひ直した先生は、次に私の顏を見て微笑した。私はそれでも何とも答へなかつた。寧ろ不調法で答へられなかつたのである。すると先生が又問題を他へ移した。

 「あなたの御父さんの病氣は其後何うなりました」

 私は父の病氣について正月以後何にも知らなかつた。月々國から送つてくれる爲替(かはせ)と共に來る簡單な手紙は、例の通り父の手蹟であつたが、病氣の訴へはそのうちに殆ど見當らなかつた。其上書體も確であつた。此種の病人に見る顫(ふるへ)が少しも筆の運を亂してゐなかつた。

 「何とも云つて來ませんが、もう好(い)いんでせう」

 「好(よ)ければ結構だが、病症が病症なんだからね」

 「矢張(やつぱ)り駄目ですかね。でも當分(たうふん)は持ち合つてるんでせう。何とも云つて來ませんよ」

 「さうですか」

 私は先生が私のうちの財產を聞いたり、私の父の病氣を尋ねたりするのを、普通の談話―胸に浮かんだ儘を其通り口にする、普通の談話と思つて聞いてゐた。所が先生の言葉の底には兩方を結び付ける大きな意味があつた。先生自身の經驗を持たない私は無論其處に氣が付く筈がなかつた。

Line_7

 

やぶちゃんの摑み:

 

「あたじけない」は「吝嗇(けち)な」「しわい」という意味。元来は悪いことを示す接頭語「あた」+中世・近世かけて用いられた「よくない」「つまらない」の意の形容詞「しげない」がついたもの。如何にも吝嗇臭く生活を切り詰めていることが伝わってくるような守銭奴の如き生活様態ではないという謂い。

 

「竹の杖の先で地面の上へ圓のやうなものを描き始めた。それが濟むと、今度はステツキを突き刺すやうに眞直に立てた。」本作にしばしば現われる円運動、それも先生自身が明確に図形として描き出す円、と中心点への支持のシーン。幾つかの円運動中、最も顕在化されており、漱石の確信犯的謎かけの場面である。私はとりあえずこれを“uroboros”ウロボロス(尾を飲み込む蛇)と見た。それは錬金術に於ける相反する不完全なる二対象の結婚――理想的結合の完全性の象徴に始まり、始原・循環から永劫回帰、死/再生・破壊/創造の両義的意味を探ったりもしたが、未だに納得可能な答えは出ない(本件を素材とした眼から鱗の論文にも出逢ったことはない)。とりあえず複数のシンボルを引き出し得る(闘争としての「蛇」という都合の良い解釈も含めて)点ではウロボロスは都合がよい。勿論、私も最初期に考えたが、「心」という形象――漢字の象形及びその語義からのシンボルととることも可能であるが、それでは他にも現われる総ての円運動を説明することが苦しく感じられる。私は嘗て『秘密を共有することの痛み-「こゝろ」考 書き捨て』で、この円運動を求心力と遠心力の拮抗という象徴で解釈してみた。よろしければそちらも御覧あれ。これは今後も「心」最大の謎であり続けるであろう。【2016年6月16日追記】今回、芥川龍之介の「侏儒の言葉」のオリジナルな全注釈を行っている中で、その一章、

   * 

       死 

 マイレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。實際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圈外に逃れることは出來ない。のみならず同心圓をめぐるやうにぢりぢり死の前へ步み寄るのである。 

   *

を考察するうち(その結果である芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 死をリンクしておく)、森鷗外晩年の知られた随想「妄想」(まうぞう(もうぞう):明治四四(一九一一)年『三田文學』)の後半に(引用は岩波版「鷗外選集」に拠ったが、恣意的に正字化した。「フイリツプ マインレンデル」「ハルトマン」はルビ。下線はやぶちゃん)、

   *

 自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。

 併しその死はこはくはない。人の說に、老年になるに從つて增長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。

 若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に橫はつてゐる謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに橫はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。

 この頃自分は Philipp Mainlaender(フイリツプ マインレンデル)が事を聞いて、その男の書いた救拔の哲學を讀んで見た。

 此男は Hartmann(ハルトマン)の迷の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の𢌞りに大きい圏を畫いて、震慄しながら步いてゐる。その圏が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項(うなじ)に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。

 さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歲で自殺したのである。

 自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬(しようけい)」も無い。

 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。

   *

とあるのに行き当たった。この叙述は、まさにこの「先生」の円運動と異様なほど酷似しているように思われてならない。或いは、漱石は鷗外のこの一節をヒントとして「先生」の円運動を創成したものではあるまいか?

♡「不調法」ルビは「ふてうはう」に見えるが画像のすれの可能性もあり、読みを振らなかった。原義は「行き届かず、手際の悪いこと」で、ここでは「どう応答してよいのか、うまい答えが浮かばなかったので黙っていた」ということを指す。]

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