『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月4日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十五回
先生の遺書
(十五)
其後(そのご)私は奧さんの顏を見るたびに氣になつた。先生は奧さんに對しても始終斯ういふ態度に出るのだらうか。若しさうだとすれば、奧さんはそれで滿足なのだらうか。
奧さんの樣子は滿足とも不滿足とも極(き)めやうがなかつた。私は夫程近く奧さんに接觸する機會がなかつたから。それから奧さんは私に會ふたびに尋常であつたから。最後に先生の居る席でなければ私と奧さんとは滅多に顏を合せなかつたから。
私の疑惑はまだ其上にもあつた。先生の人間に對する此覺悟は何處から來るのだらうか。たゞ冷たい眼で自分を内省したり現代を觀察したりした結果なのだらうか。先生は坐つて考へる質(た)の人であつた。先生の頭さへあれば、斯ういふ態度は坐つて世の中を考へてゐても自然と出て來るものだらうか。私には左右ばかりとは思へなかつた。先生の覺悟は生きた覺悟らしかつた。火に燒けて冷却し切つた石造家屋の輪廓とは違つてゐた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であつた。けれども其思想家の纏め上(あげ)た主義の裏には、强い事實が織り込まれてゐるらしかつた。自分と切り離された他人の事實でなくつて、自分自身が痛切に味はつた事實、血が熱くなつたり脈が止まつたりする程の事實が、疊み込まれてゐるらしかつた。
是は私の胸で推測するがものはない。先生自身既にさうだと告白してゐた。たゞ其告白が雲の峰のやうであつた。私の頭の上に正體の知れない恐ろしいものを蔽ひ被せた。さうして何故それが恐ろしいか私にも解らなかつた。告白はぼうとしてゐた。それでゐて明らかに私の神經を震はせた。
私は先生の此人生觀の基點に、或强烈な戀愛事情を假定して見た。(無論先生と奧さんとの間に起つた)。先生がかつて戀は罪惡だといつた事から照らし合せて見ると、多少それが手掛りにもなつた。然し先生は現に奧さんを愛してゐると私に告げた。すると二人の戀から斯んな厭世に近い覺悟が出やう筈がなかつた。「かつては其人の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとする」と云つた先生の言葉は、現代一般の誰彼(たれかれ)に就いて用ひられるべきで、先生と奧さんの間には當てはまらないものゝやうでもあつた。
雜司ケ谷にある誰だか分らない人の墓、―是も私の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い緣故のある墓だといふ事を知つてゐた。先生の生活に近づきつゝありながら、近づく事の出來ない私は、先生の頭の中にある生命(い ち)の斷片として、其墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取つて其墓は全く死んだものであつた。二人の間にある生命(いのち)の扉を開ける鍵にはならなかつた。寧ろ二人の間に立つて、自由の往來を妨げる魔物のやうであつた。
さう斯うしてゐるうちに、私は又奧さんと差向ひで話しをしなければならない時機が來た。その頃は日の詰つて行くせわしない秋に、誰も注意を惹かれる肌寒の季節であつた。先生の附近で盜難に罹(かゝ)つたものが二三日續いて出た。盜難はいづれも宵の口であつた。大したものを持つて行かれた家は殆んどなかつたけれども、這入られた所では必ず何か取られた。奧さんは氣味をわるくした。そこへ先生がある晩家を空けなければならない事情が出來てきた。先生と同鄕の友人で地方の病院に奉職してゐるものが上京したため、先生は外の二三名と共に、ある所で其友人に飯を喰はせなければならなくなつた。先生は譯を話して、私に歸つてくる間迄の留守番を賴んだ。私はすぐ引受けた。
[♡やぶちゃんの摑み:
♡「推測するがものはない」漱石の好んだ表現で、「~する必要はない」「~する価値はない」の意であるが、私は本当にこんな日本語が普通に存在したのかどうか、永いこと、疑問に思っている。漱石の「二百十日」の「ここが阿蘇なら、あした六時に起きるがものはない。もう二三日逗留して、すぐ熊本へ引き返そうぢやないか」が分かりやすい用例である。『このことは私がぐだぐだと心の内で推測なんどする必要などはない。第一、先生自身がとっくにそうだと告白していた事実であるからだ』という意味である。『先生自身がとっくにそうだと告白していた』というのは直接は先行する第14回の「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」という台詞を指す。それにしてもこの「~がものはない」という言い回し、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の当該注によれば、格助詞「が」に形式名詞「もの」が付いたものとするのであるが、私にはぴったりくる格助詞「が」の用法が見当たらないのだが。この成句、意味だけでなく、ともかく朗読し辛い。朗読では「がもの」とソリッドに発音しない限り、最早、逆接の接続助詞「が」にしか聞えないし、取れないのである。国語学の識者の方、是非とも御教授願いたいものである。
♡「私に取つて其墓は全く死んだものであつた。二人の間にある生命(いのち)の扉を開ける鍵にはならなかつた。寧ろ二人の間に立つて、自由の往來を妨げる魔物のやうであつた」このK(の墓)を「魔物」と表現するこの言葉は、当時の「私」の感想というよりも、執筆時の「私」が先生の遺書に無意識に牽引されて当時の自身の印象を語っているものと私は読む。何故なら、これは全く先生の遺書でのKに対する表現と同一だからである。即ち、あのKの切ない御嬢さんへの恋情の告白が行われた直後の描写に現われる。「つまり私には彼が一種の魔物のやうに思へたからでせう。私は永久彼に祟られたのではなからうかといふ氣さへしました」である。いや、「私」にとってKとは今この時(この執筆時)にあっても『魔物』である、という意識がどこかにあるのかも知れない。
♡「その頃は日の詰つて行くせわしない秋に、誰も注意を惹かれる肌寒の季節であつた。先生の附近で盜難に罹つたものが二三日續いて出た」とは突発的偶発的な盗難という記載ではない。晩秋、冬着にこと欠いている者が盗みに入るという季節的な恒常性を持った盗難であることを示しているのである。]
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