先生の遺書
(六十一)
「私が三度目に歸國したのは、それから又一年經つた夏の取付(とつつき)でした。私は何時でも學年試驗の濟むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故鄕(ふるさと)がそれ程懷かしかつたからです。貴方にも覺えがあるでせう、生れた所は空氣の色が違ひます、土地の匂も格別です、父や母の記憶も濃かに漂つてゐます。一年のうちで、七八の二月を其中に包まれて、穴に入つた蛇の樣に凝としてゐるのは、私に取つて何よりも温かい好(い)い心持だつたのです。
單純な私は從妹との結婚問題に就いて、左程頭を痛める必要がないと思つてゐました。厭なものは斷る、斷つてさへしまへば後には何も殘らない、私は斯う信じてゐたのです。だから伯父の希望通りに意志を曲げなかつたにも關らず、私は寧ろ平氣でした。過去一年の間いまだかつて其んな事に屈托した覺もなく、相變らずの元氣で國へ歸つたのです。
所が歸つて見ると伯父の態度が違つてゐます。元のやうに好い顏をして私を自分の懷に抱かうとしません。それでも鷹揚に育つた私は、歸つて四五日の間は氣が付かずにゐました。たゞ何かの機會に不圖變に思ひ出したのです。すると妙なのは、伯父ばかりではないのです。叔母も妙なのです。從妹も妙なのです。中學校を出て、是から東京の高等商業へ這入る積だといつて、手紙で其樣子を聞き合せたりした伯父の男の子迄妙なのです。
私の性分として考へずにはゐられなくなりました。何うして私の心持が斯う變つたのでらう。いや何うして向ふが斯う變つたのだらう。私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗つて、急に世の中が判然見えるやうにして吳れたのではないかと疑ひました。私は父や母が此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛して吳れるものと、何處か心の奥で信じてゐたのです。尤も其頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。然し先祖から讓られた迷信の磈(かたまり)も、强い力で私の血の中に潜んでゐたのです。今でも潜んでゐるでせう。
私はたつた一人山へ行つて、父母(ふぼ)の墓の前に跪づきました。半は哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。さうして私の未來の幸福が、此冷たい石の下に橫はる彼等の手にまだ握られてでもゐるやうな氣分で、私の運命を守るべく彼等に祈りました。貴方は笑ふかも知れない。私も笑はれても仕方がないと思ひます。然し私はさうした人間だつたのです。
私の世界は掌(たなごゝろ)を翻へすやうに變りました。尤も是は私に取つて始めての經驗ではなかつたのです。私が十六七の時でしたらう、始めて世の中に美くしいものがあるといふ事實を發見した時には、一度にはつと驚ろきました。何遍も自分の眼を疑つて、何遍も自分の眼を擦(こす)りました。さうして心の中であゝ美しいと叫びました。十六七と云へば、男でも女でも、俗にいふ色氣の付く頃です。色氣の付いた私は世の中にある美しいものゝ代表者として、始めて女を見る事が出來たのです。今迄其存在(ぞんざい)に少しも氣の付かなかつた異性に對して、盲目(めくら)の眼(め)が忽ち開(あ)いたのです。それ以來私の天地は全く新らしいものとなりました。
私が伯父の態度に心づいたのも、全く是と同じなんでせう。俄然として心づいたのです。何の豫感も準備もなく、不意に來たのです。不意に彼と彼の家族が、今迄とは丸で別物のやうに私の眼に映つたのです。私は驚ろきました。さうして此儘にして置いては、自分の行先が何うなるか分らないといふ氣になりました。
[♡やぶちゃんの摑み:ここで先生にはデリカシーのデの字もない、と若き日に「こゝろ」を読んだ私は思ったものである。今もこの一連のシーンの先生が私は嫌いである。従妹との結婚を断った時、せめて先生との結婚を承諾していた従妹の内心を気遣ってやってしかるべきなのに、逆に、断ると「從妹は泣きました。私に添はれないから悲しいのではありません、結婚の申し込を拒絕されたのが、女として辛かつたからです。私が從妹を愛してゐない如く、從妹も私を愛してゐない事は、私によく知れてゐました。私はまたました」なんどと描写し、従妹の心境を一刀両断して平気で「東京へ出」て行く。そして「いまだかつて其んな事に屈托した覺もなく、」一年後に「平氣で」「相變らずの元氣で國へ歸」って来て、何の屈託もないへらへら面(づら)で叔父一家と接しようとしている。そのデリカシーのなさに、先生は『いっちょも』気付いていないのだ。更に(というよりだからこそ)当然起こるべくして起こっている(起こった)叔父一家の当たり前の変容に「歸つて四五日」も「の間」気づかないという先生は――「變」も「變」、とんでもなく「變」だ!
これは先生が「鷹揚に育つた」からでも、世間知らずのとっちゃん坊やだからでもない。――
況や、先生自身が後で言うような、人が良いからとか、「生れたままの姿」の純真無垢な人柄であったから、でも毛頭、ない。――
ただ、何処か妙に『鈍感』なのである。何とも言えぬ部分で『社会的に必要とされるような最低限の共有感覚・思いやりが欠落している』としか思われないのだ。――
実はこれは、この後の成人後や結婚後の先生にも顕著に見られ(「私」や靜を交えた会話中にもしばしば現れた。挙げるまでもないが、とびっきりのものを示すなら第(八)章の「子供は何時迄經つたつて出來つこないよ」「天罰だからさ」であろう。これだけでも十分である)、それを我々はずっとKの事件による人格変容としてのみ捉えて来たのではなかったか。
しかしどうであろう、ここを見ると、
●叔父一家の変容を「不思議」に思い乍ら、その分かりきった理由が分からないばかりか、例の関係妄想を中心とした「考へずにはゐられな」い「私の性分」を先生は起動させてしまう。
そこでは、当然考えねばならない自己側の問題性への心理的なベクトル、
●「何うして私の心持が斯う變つたの」かという自省的で、正しい解答に至れるはずのモーメントが『一応は』示される。
ところが、それは、
●「いや」という理屈抜きの否定辞によって一瞬のうちに鮮やかに逆転させられてしまう。
そして先生は、
●「何うして向ふが斯う變つたのだらう」という言明に置き換えてしまうと同時に、自己側の要因を完全に払拭し去ってしまう。
更にその後は雪崩の如くに、
■「私が伯父の」不審な「態度に心づいた」心の動き
は
□初めて女の美に目覚めた時の心の動き
と全く同じように、
★極めて直感的な作用によるもの
であって、
★「俄然として心づいたので」あって、それは非論理的で主観的なもの
★「何の豫感も準備もなく、」即ち、なんらの根拠もなく「不意に來たの」もの
だとさえ言い放つのだ。その果てに、
×「不意に」訳が分からないうちに叔父と「彼の家族が、今迄とは丸で」人間でないような「別物」に変容してしまった
×「此儘にして置いては、自分の行先が何うなるか分らないといふ氣にな」ってしまった
×「今迄伯父任せにして置いた家の財産に就いて、詳しい知識を得なければ、死んだ父母に對して濟まないと云ふ氣を起した」(次章冒頭)
という心理状態に陥ったと訴えるのである。
以上の先生の心的変成(主訴)は一種の病的なゲシュタルト崩壊に見えてくる。俄然、先生「個人の有つて生れた性格」上の問題として浮かび上がって来はしまいか?
これらの現象は、現在で言うなら、他者と共感出来にくい、コミュニケーション障害若しくはコミュニケーション方法の偏頗性や特殊化が見られる“Asperger syndrome”アスペルガー症候群などの一種の高機能発達障碍に近い反応であるように思われるのである(私のこの謂いは決してアスペルガー症候群を差別するものではない。そもそも私はアスペルガーは人格の一つのパターンであって、病的なものだという認識に立たない。私なども最近、実はそのボーダーと称せられるところに位置しているのではないかとさえ思うこともあるほどである)。
――あなたという演出家・監督が、ある特定の役者に演じさせる以上(それはあなた自身であるのが最もよい)、我々は是が非でも先生という人間の等身大を知らねばならぬ。そのためには――そうした変異的人格・人格障碍や境界例、神経症・精神病的要素までも射程に入れておかなければ(勿論、一部の病跡学的評論のように、そのような障碍を持っているということを証明して作品分析が出来たと思うような、救いようのない解釈学の袋小路に入ることは厳に慎まねばならぬのだが)、先生という謎の人物は何時までたっても私達の前に『姿』として見えてこない、面影のままである、と私は言いたいのである。
なお、私はこの場面をとりあえず、明治31(1898)年の夏、先生21歳の時と仮定している。
♡「生れた所は空氣の色が違ひます、土地の匂も格別です、父や母の記憶も濃かに漂つてゐます。一年のうちで、七八の二月を其中に包まれて、穴に入つた蛇の樣に凝としてゐるのは、私に取つて何よりも温かい好い心持だつたのです」「空氣の色が違」い「格別」な「土地の匂」に満ちた「生れた所」=故郷で何より「父や母の記憶」が「濃かに漂つてゐ」る中で「穴に入つた蛇の樣に凝としてゐる」ことが「私に取つて何よりも」「温かい好い心持」、至福の時であったと語る先生の心性は、極めて分かり易い母体回帰願望である。そしてそれは、すぐ後で先生にして意外な、霊的感懐にまで高められるのである。
♡「東京の高等商業」高等商業学校。現在の一橋大学の前身。この子が「東京の」と言っているのは、まだ校名が「高等商業学校」であったから。明治35(1902)年に神戸高等商業学校(現在の神戸大学)の設置に伴って東京高等商業学校に改称している。その後、東京商科大学から東京産業大学となり、戦後、東京商科大学へ戻してすぐ、学制改革によって一橋大学となった(名称は学生の投票によるそうである)。
♡「私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗つて、急に世の中が判然見えるやうにして吳れたのではないかと疑ひました。私は父や母が此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛して吳れるものと、何處か心の奥で信じてゐたのです。尤も其頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。然し先祖から讓られた迷信の塊も、強い力で私の血の中に潛んでゐたのです。今でも潛んでゐるでせう。」この一連の叙述を問題にしている論文を不勉強にして知らないのだが、これは意外にも理知的に見える先生の中の霊的世界観・祖霊崇拝や『血脈』という神秘主義的霊性――若しくはそのような思想によって代償され正当化され隠蔽され得るような非社会的或いは反社会的心性と言い直してもよい――が表明されているということである。そしてそれは「今でも」先生の心に「潛んでゐる」のである。冒頭「父や母の記憶も濃かに漂つてゐ」ると暗示され、更にこのすぐ後の段落でも示されるように、父母の魂が同じ空間に見えないけれども存在し、自分を生前と同じく守ってくれているという素朴な祖霊崇拝に象徴されるような民俗的心性が西欧近代思想を備えていると自任している先生の内には確かにあった、いや、今も、ある、のである。そしてそれは当然、我々を次のような答えを導く。即ち、「私は」どのような人間であれ、「此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛し」たり、憎んだりし続けてい「るものと、何處か心の奥で信じてゐ」るという命題へである。
『死んだ父母――は今も私の傍におり、私を愛し、守ってくれている、私は信じている。』
『死んだK――は今も私の傍におり、私を愛している或いは憎んでいる、と私は信じている。』
『死んだ奥さん――は今も私の傍におり、私と娘とを愛し、見守っている或いは監視している、と私は信じている。』
『死んだ私――このこの遺書を読む君や妻の傍におり、君や妻を愛し、見守っている或いは監視している、と私は信じている。』
これらの命題が総て真である世界、それが先生の世界、「先生の遺書」という世界なのだ、と先生は言明していると言ってよい――そしてそれは
先生は、この世に実体が無くなった今も、「私」が遺書の最後の約束を破らないかどうか、監視している――
ということをも、意味する。……しかし……しかしそれは、その民俗世界、先生の個人的な「精神」世界に止まるものではないと私は思う。――その「霊性」は、先生が正に最期に語るところの「明治の精神に殉死する」の「精神」という言辞と、ダイレクトに結びついてくるものであるように、私には思われるのである――。
♡「私の世界は掌を翻へすやうに變りました。尤も是は私に取つて始めての經驗ではなかつたのです。私が十六七の時でしたらう、始めて世の中に美くしいものがあるといふ事實を發見した時には、一度にはつと驚ろきました。何遍も自分の眼を疑つて、何遍も自分の眼を擦りました。さうして心の中であゝ美しいと叫びました。十六七と云へば、男でも女でも、俗にいふ色氣の付く頃です。色氣の付いた私は世の中にある美しいものゝ代表者として、始めて女を見る事が出來たのです。今迄其存在に少しも氣の付かなかつた異性に對して、盲目の眼が忽ち開いたのです。それ以來私の天地は全く新らしいものとなりました。」これは先生の初恋のエピソードの記載である。Kとの三角関係ばかりを高校2年生の教科書が抜粋、クロース・アップしてきた結果、我々は先生の初恋をどこかで「御孃さん」とのそれであったかのように錯覚しているが、実際には先生は新潟の地方都市で、満15~16歳の中学校時代(正に現在の高校1~2年)、初恋を既に経験していたのである。そして先生は、特定の個人の女性に向けられた、その憧憬や恋情を、純粋な美へ昇華された感動、人生の鮮烈な一瞬として心に刻んでいたのである。先生の純情な心が垣間見られる美しい映像だ。僕が映画監督なら是非ともこのシーンを膨らまして撮りたい欲求にかられるであろう。
――だが、そんなことはどうでもいいのだ――
実は、問題はその異性への欲求に目覚めた忘れ難い刻印の記憶を、先生が『この場面』で用いている『異常性』にこそ気づかねばならぬのではないか?!
まず、この「掌を翻へすやうに變りました」という語句は極めてねじれた使用がなされていることに着目せねばならぬ。これは普通に
『叔父一家の態度が掌を返したようにがらりと冷たく他人行儀になった』
という謂いでは、『ない』。これは
●『先生の側の世界が非論理的な一瞬の先生の直覚によって掌を返したように変容した』
という謂い『以外のなにものでもない』のである。
即ち、ここで先生は
■叔父一家の外的変容によって、『先生自身の世界を見る目=人間を見る目』が掌を返したようにネガティヴな方向に開示された
のは、その数年前のこと、中学時分の少年であった先生の初恋の経験の時、
□女人の美しさを真に感じた自己側の感性の変容によって、『先生自身の世界を見る目=人間を見る目』がポジティヴな方向に開示された
時の感覚と全く同じであった、と言明しているのである――
これは若き日に読んだ私には一見、感性的にも理性的にも不整合な、そして救いようのない不幸な共時感覚(シンクロニティ)であるように思われてならなかった。この時、先生の心性に何か得体の知れない異常な力が働いて、おぞましい関係妄想による関連付けがなされたのではなかろうか、とさえ思わせた。――しかし、先生=漱石が、『それでも』、冷徹に確信犯的に訴えているようにも、今は思われる――
「同じなのです! それはただ愛憎のベクトルの方向が異なっているだけで、全く同じものなのです!」
――と。
因みに漱石の場合はどうであったか? 25歳の時、明治24(1991)年7月17日には以前から心惹かれていたある女性と行きつけの眼科医で出会い、衝撃と激しい恋情を催したり(当時の正岡子規宛書簡による)、また、同年7月下旬には兄和三郎の妻登世が重い悪阻のために死去したが、彼女への「悼亡」句を実に十三句も残しており、江藤淳は漱石がこの義姉登世に対しても、ある種の恋愛感情を抱いていたとある(以上は主に集英社昭和49(1974)年刊の荒正人「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」等に依った)。しかし、それに遡ること2年前の23歳の折り、この「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」明治22(1889)年2月16日の条に興味深い一節を発見する。
『二月十六日(土)、文部大臣森有礼の葬儀が青山斎場で行われ、それに参列する行列を路傍で見送り、美しい娘を見そめたものと想像される。「其當時は頭の中へ燒付けられた樣に熱い印象を持つてゐた――妙なものだ」(『三四郎』)とも書いている(これは、創作とも事実とも受け取られる)。』
この「三四郎」の叙述は確かにこの「心」の叙述の言い換えのように見受けられる。
……これは「♡やぶちゃんの摑み」であって、思いつきに過ぎぬし、牽強付会であるのかも知れぬ。私自身の関係妄想とも言えよう……しかし……しかし私の中に「こゝろ」の中の謎が、確実にまた一つ、増えた気がしていることは事実である……]