『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月15日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十四回
(五十四)
病室には何時の間にか醫者が來てゐた。なるべく病人を樂にするといふ主意から又浣膓を試みる所であつた。看護婦は昨夜の疲れを休める爲に別室で寐てゐた。慣れない兄は起つてまご/\してゐた。私の顏を見ると、「一寸手を御貸し」と云つた儘、自分は席に着いた。私は兄に代つて、油紙(あぶらかみ)を父の尻の下に宛てがつたりした。
父の樣子は少しくつろいで來た。三十分程枕元に坐つてゐた醫者は、浣膓の結果を認めた上、また來ると云つて、歸つて行つた。歸り際に、若しもの事があつたら何時でも呼んで吳れるやうにわざ/\斷つてゐた。
私は今にも變がありさうな病室を退いて又先生の手紙を讀まうとした。然し私はすこしも寬(ゆつ)くりした氣分になれなかつた。机の前に坐るや否や、又兄から大きな聲で呼ばれさうでならなかつた。左右して今度呼ばれゝば、それが最後だといふ畏怖が私の手を顫(ふる)はした。私は先生の手紙をたゞ無意味に頁(ページ)丈(だけ)剝繰(はぐ)つて行つた。私の眼は几帳面に枠の中に篏められた字畫(じくわく)を見た。けれどもそれを讀む餘裕はなかつた。拾ひ讀みにする餘裕すら覺束なかつた。私は一番仕舞の頁迄順々に開けて見て、又それを元の通りに疊んで机の上に置かうとした。其時不圖(ふと)結末に近い一句が私の眼に這入つた。
「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう」
私ははつと思つた。今迄ざわ/\と動いてゐた私の胸が一度に凝結したやうに感じた。私は又逆に頁をはぐり返した。さうして一枚に一句位(くらゐ)づゝの割で倒(さかさ)に讀んで行つた。私は咄嗟の間(あひだ)に、私の知らなければならない事を知らうとして、ちら/\する文字(もんじ)を、眼で刺し通さうと試みた。其時私の知らうとするのは、たゞ先生の安否だけであつた。先生の過去、かつて先生が私に話さうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取つて、全く無用であつた。私は倒(さかさ)まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に與へて吳れない此長い手紙を自烈(じれつ)たさうに疊んだ。
私は又父の樣子を見に病室の戶口迄行つた。病人の枕邊は存外靜かであつた。賴りなささうに疲れた顏をして其處に坐つてゐる母を手招ぎして、「何うですか樣子は」と聞いた。母は「今少し持ち合つてるやうだよ」と答へた。私は父の眼の前へ顏を出して、「何うです、浣膓して少しは心持が好(よ)くなりましたか」と尋ねた。父は首肯(うなづ)いた。父ははつきり「有難う」と云つた。父の精神は存外朦朧としてゐなかつた。
私は又病室を退いて自分の部屋に歸つた。其處で時計を見ながら、汽車の發着表を調べた。私は突然立つて帶を締め直して、袂(たもと)の中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で醫者の家へ馳(か)け込んだ。私は醫者から父がもう二三日(にさんち)保(も)つだらうか、其處のところを判然(はつきり)聞かうとした。注射でも何でもして、保たして吳れと賴まうとした。醫者は生憎(あひにく)留守であつた。私には凝として彼の歸るのを待ち受ける時間がなかつた。心の落付もなかつた。私はすぐ俥(くるま)を停車塲(ステーシヨン)へ急がせた。
私は停車塲(ステーシヨン)の壁へ紙片(かみぎれ)を宛てがつて、其上から鉛筆で母と兄あてゞ手紙を書いた。手紙はごく簡單なものであつたが、斷らないで走るよりまだ增しだらうと思つて、それを急いで宅へ屆けるやうに車夫に賴んだ。さうして思ひ切つた勢ひで東京行の汽車に飛び乘つてしまつた。私は轟々(ぐわう/\)鳴る三等(しう)列車の中で、又袂から先生の手紙を出して、漸く始めから仕舞迄眼を通した。
[♡やぶちゃんの摑み:遂に先生の死が先生の手紙の直接話法によって我々の眼に飛び込んでくる。しかし、恐らく多くの読者には、これは実は衝撃ではない。それは既に十二分に伏線として示されてきたからである。だからこそ我々は、先生の単なる死という客観的興味――「どうやって死んだか」――では、なく――「どうして死んだのか」――への暗部へと美事に導かれて、遺書のラビリンスへと導かれて行けるのである。――いや、当時の読者には(……いや、今の読者にとっても実は余り変わらないように私は思う――君は危篤状態の父を置いて、何処でどう死ぬか分かりもしない恋人の家なんぞに、走れるかね?……)十分に衝撃的で意味不明であったのではないか? 危篤状態の実の父を捨てて、赤の他人の、既に死んでいるに違いない、何処で死んでいるかも分からぬ男を求めて、漠然と東京へ旅立ってしまう「私」は――。「私」はこの時、漠然と、この遺書を読めば、先生が何処で死んだかを推察出来るとでも思っていたのかも知れない(因みに、私は先生が最後に示した自死の厳しい条件から、遺書中(省略された部分がある可能性も射程に入れても)から先生の自殺場所は推察することは不可能であると断言する。またそれは、先生ならそれは出来ないように書く、という二重のセキュリティが掛っていると言ってもよい)。
なお、上の通り、この回からタイトル・バックのイラストが変更されている。このイラスト、はっきり言ってミョウにヘン。好きくない。話柄の展開を考えての模様替えでさえない。恐らく、編集者の気分――一定ではないが、月末か月半ば辺りの、季節的な気分の変わる辺りで――恣意的に変更しているのかも知れない。
♡「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう」第(百十)回、遺書の終わりから二つ目の段落の中間部に現われる文章であるが、正確には現物では「此手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう。」と「あなた」が漢字表記となっていて、違いが認められる。
♡「三等(しう)」勿論、「たう」のルビ誤植。この大事なシーンの掉尾に如何にも致命的な情けない誤植である。前章注で示したように、こうした杜撰な校正に対して、漱石の異常な癇癪は相当に昂じて来ていたものと推測される(想像するだにコワイ)。それは半月ほど後の7月9日第七十七回の冒頭の致命的誤植を迎えて、遂に爆発をすることとなる。それはまた、その時に――。
♡「又袂から先生の手紙を出して、漸く始めから仕舞迄眼を通した」やぶちゃんの最後の摑みがここに待っている!……私が「私」だったら、そうして実際に「私」のように「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう」の部分を見て、動転し、こうして汽車に飛び乗ってしまったなら……
――私ならこの長大な遺書を「始めから仕舞迄眼を通」して読む『前に』、必ず最終部分を何とか読みこなして、現在の先生の安否を兎も角知ろうとする! 絶対にする!
――いや! 「私」も恐らくそうしたはずである!
――だとすれば――
――『「私」は遺書の最後をどこから読んだか?』
が大きな問題とならなくてはならぬ。
私は、私がこの学生の「私」なら、「死んだ積で生きて行かうと決心した」という叙述に着目して、以下の「下 先生と遺書」の「五十五」(第(百九)回相当)以下最後までを必死で読み取ろうとしたと思うのである(以下、引用も「心」最終二回分を底本としたが、誤植(と思われる)部分は正した。(百十)の頭の鍵括弧をはずし、(百九)回と敢えて結合した)。
勿論、「心」の連載を読む人間には、これは出来ぬ。しかしどうだろう? 単行本「こゝろ」を読む人にはこれが出来るのだ! 実際、「こゝろ」を読んだことのある人の中には、遺書の最後を先読みしてしまった人は多いはずだ(若き日の私もそうであった。私の後輩で現在の職場の20代の国語の女性教師もだ!)。いや、それは正しいことである!――この先生が心配な「私」である若き日の「私」やその私(藪野)の同僚の女先生は、当然、その最後の部分を読まぬわけには行かなかったのだ! 即ち、作中の「私」の立場に真になってみるためには是が非でも、この作業は必要な仕儀なのだとさえ、私は思うのである。
*
「死んだ積で生きて行かうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。然し私が何の方面かへ切つて出やうと思ひ立つや否や、恐ろしい力が何處からか出て來て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないやうにするのです。さうして其力が私に御前は何をする資格もない男だと抑へ付けるやうに云つて聞かせます。すると私は其一言(げん)で直(すぐ)ぐたりと萎れて仕舞ひます。しばらくして又立ち上がらうとすると、又締め付けられます。私は齒を食ひしばつて、何で他(ひと)の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷かな聲で笑ひます。自分で能く知つてゐる癖にと云ひます。私は又ぐたりとなります。
波瀾も曲折もない單調な生活を續けて來た私の内面には、常に斯(かう)した苦しい戰爭があつたものと思(おもつ)て下さい。妻(さい)が見て齒痒がる前に、私自身が何層倍齒痒い思ひを重ねて來たか知れない位(くらゐ)です。私がこの牢屋の中に凝としてゐる事が何うしても出來なくなつた時、又その牢屋を何うしても突き破る事が出來なくなつた時、必竟私にとつて一番樂な努力で遂行出來るものは自殺より外にないと私は感ずるやうになつたのです。貴方は何故と云つて眼を睜(みは)るかも知れませんが、何時(いつ)も私の心を握り締めに來るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道丈を自由に私のために開けて置くのです。動かずにゐれば兎も角も、少しでも動く以上は、其道を步いて進まなければ私には進みやうがなくなつたのです。
私は今日(こんにち)に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も樂な方向へ進まうとした事があります。然し私は何時でも妻に心を惹(ひ)かされました。さうして其妻を一所に連れて行く勇氣は無論ないのです。妻に凡てを打ち明ける事の出來ない位な私ですから、自分の運命の犧牲として、妻の天壽を奪ふなどゝいふ手荒な所作は、考へてさへ恐ろしかつたのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻(まは)り合せがあります。二人を一束(ひとたば)にして火に燻(く)べるのは、無理といふ點から見ても、痛ましい極端としか私には思へませんでした。
同時に私だけが居なくなつた後(のち)の妻を想像して見ると如何にも不憫でした。母の死んだ時、是から世の中で賴りにするものは私より外になくなつたと云つた彼女の述懷を、私は膓(はらわた)に沁み込むやうに記憶させられてゐたのです。私はいつも躊躇しました。妻の顏を見て、止して可かつたと思ふ事もありました。さうして又凝と竦(すく)んで仕舞ひます。さうして妻から時々物足りなさうな眼で眺めらるのです。
記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散步した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後(うしろ)には何時でも黑い影が括(く)ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を步いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、噓を吐(つ)いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度(きつと)會ふ積でゐたのです。
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな氣がしました。最も强く明治の影響を受けた私どもが、其後(そのあと)に生き殘つてゐるのは必竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可(よ)からうと調戯(からか)ひました。
私は殉死といふ言葉を殆ど忘れてゐました。平生使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談(ぜうだん)を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答へました。私の答も無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持がしたのです。
それから約一ケ月程經ちました。御大葬の夜(よる)私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思はず妻に殉死だ/\と云ひました。
私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪(と)られて以來、申し譯のために死なう/\と思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月(としつき)を勘定して見ました。西南戰爭は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間死なう/\と思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刃(やいば)を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方(どつち)が苦しいだらうと考へました。
それから二三日して、私はとう/\自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己れを盡した積です。
私は妻を殘して行きます。私がゐなくなつても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に殘酷な驚愕を與へる事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬ積です。妻の知らない間に、こつそり此世から居なくなるやうにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思はれたいのです。氣が狂つたと思はれても滿足なのです。
私が死なうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自叙傳の一節を書き殘すために使用されたものと思つて下さい。始めは貴方に會つて話をする氣でゐたのですが、書いて見ると、却(かへつ)て其方が自分を判然(はつきり)描(えが)き出す事が出來たやうな心持がして嬉しいのです。私は醉興(すゐきよう)に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。渡邊華山は邯鄲(かんたん)といふ畫(ゑ)を描(か)くために、死期を一週間繰り延べたといふ話をつい先達(せんだつ)て聞きました。他(ひと)から見たら餘計な事のやうにも解釋できませうが、當人にはまた當人相應の要求が心の中(うち)にあるのだから已むを得ないとも云はれるでせう。私の努力も單に貴方に對する約束を果すためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
然し私は今其要求を果しました。もう何にもする事はありません。此手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世にはゐないでせう。とくに死んでゐるでせう。妻は十日ばかり前から市ケ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病氣で手が足りないといふから私が勸めて遣つたのです。私は妻の留守の間(あひだ)に、この長いものゝ大部分を書きました。時々妻が歸つて來ると、私はすぐそれを隱しました。
私は私の過去を善惡ともに他(ひと)の參考に供する積です。然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何(なん)にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の祕密として、凡てを腹の中(なか)に仕舞つて置いて下さい。」
*
……そうして……そうして、あなたは深い溜息をつく……そして、さあ、徐ろに読み出そう……だんだんに車窓にとばりが下りてくる……暗くなる車内……轟々とけたたましい三等列車の中……硬い座席の、そのぽっと灯った薄暗い裸電球の、その下で……先生の遺書を、始めから…………]
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