『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月27日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十五回
(六十五)
私は早速其家へ引き移りました。私は最初來た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。其處は宅中(うちぢう)で一番好(い)い室でした。本郷邊に高等下宿といつた風の家がぽつ/\建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間(ま)の樣子を心得てゐました。私の新らしく主人となつた室は、それ等よりもずつと立派でした。移つた當座は、學生としての私には過ぎる位(くらゐ)に思はれたのです。
室の廣さは八疊でした。床の橫に違ひ棚があつて、緣と反對の側には一間(けん)の押入が付いてゐました。窓は一つもなかつたのですが、其代り南向の緣に明るい日が能く差しました。
私は移つた日に、其室の床に活けられた花と、其橫に立て懸けられた琴を見ました。何方(どつち)も私の氣に入りませんでした。私は詩や書や煎茶を嗜なむ父の傍(そば)で育つたので、唐(から)めいた趣味を小供のうちから有つてゐました。その爲でもありませうか、斯ういふ艶めかしい裝飾を何時の間にか輕蔑する癖が付いてゐたのです。
私の父が存生(ぞんしやう)中にあつめた道具類は、例の伯父のために滅茶々々にされてしまつたのですが、夫でも多少は殘つてゐました。私は國を立つ時それを中學の舊友に預かつて貰ひました。それから其中で面白さうなものを四五幅裸にして行李の底へ入れて來ました。私は移るや否や、それを取り出して床へ懸けて樂しむ積でゐたのです。所が今いつた琴と活花を見たので、急に勇氣がなくなつて仕舞ひました。後から聞いて始めて此花が私に對する御馳走に活けられたのだといふ事を知つた時、私は心のうちで苦笑しました。尤も琴は前から其處にあつたのですから、是は置き所がないため、己(やむ)を得ず其儘に立て懸けてあつたのでせう。
斯んな話をすると、自然其裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通るでせう。移つた私にも、移らない初からさういふ好奇心が既に動いてゐたのです。斯うした邪氣が豫備的に私の自然を損なつたためか、又は私がまだ人慣れなかつたためか、私は始めて其處の御孃さんに會つた時、へどもどした挨拶をしました。其代り御孃さんの方でも赤い顏をしました。
私はそれ迄未亡人の風采や態度から推して、此御孃さんの凡てを想像してゐたのです。然し其想像は御孃さんに取つてあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからあゝなのだらう、其妻君の娘だから斯うだらうと云つた順序で、私の推測は段々延びて行きました。所が其推測が、御孃さんの顏を見た瞬間に、悉く打ち消されました。さうして私の頭の中へ今迄想像も及ばなかつた異性の匂が新らしく入つて來ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
其花は又規則正しく凋(しほ)れる頃になると活け更へられるのです。琴も度々鍵の手に折れ曲がつた筋違(すぢかひ)の室に運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頰杖を突きながら、其琴の音を聞いてゐました。私には其琴が上手なのか下手なのか能く解らないのです。けれども餘り込み入つた手を彈かない所を見ると、上手なのぢやなからうと考へました。まあ活花の程度位なものだらうと思ひました。花なら私にも好く分るのですが、御孃さんは決して旨い方ではなかつたのです。
それでも臆面なく色々の花が私の床を飾つて吳れました。尤も活方は何時見ても同じ事でした。それから花瓶(くわへい)もついぞ變つた例がありませんでした。然し片方の音樂になると花よりももつと變でした。ぽつん/\糸を鳴らす丈で、一向肉聲を聞かせないのです。唄はないのではありませんが、丸で内所話でもするやうに小さな聲しか出さないのです。しかも叱られると全く出なくなるのです。
私は喜んで此下手な活花(いけはな)を眺めては、まづさうな琴の音に耳を傾(かたぶ)けました。
[♡やぶちゃんの摑み:舞台となる家屋の詳細な推定間取りを以下に公開する。これは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の271ページ、Kを自分の下宿に引き取る「こゝろ」「下 先生と遺書」の「二十三」、「心」第(七十七)回相当の冒頭「私の座敷には控への間といふやうな四疊が附屬して居ました」の「控への間」の注に『間取り例』として画像掲載されている明治43(1910)年12月8日付『朝日新聞』「時代の家屋(十)」掲載の間取りの例を参考に、私が手を加えて作図したものである。私の妻(さい)や建築会社に勤務する知人の助言も参考にした。
なお、上の通り、ここから第(七十一)回迄の7回分の飾罫は明らかに今迄のものとは異なり、有意に痩せたものが用いられている。
♡「高等下宿」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は西山卯三「すまい考今学――現代日本住宅史」(彰国社1989年刊)から引用して「木造二階建で、日露戦争後の一九〇五年の建設、五本の二〇センチ角の大黒柱を上下につらぬく頑丈な建築で、当初は地方の金持ち息子や留学生の泊まる高等下宿であった」「本郷館」という高等下宿の存在を示されている。それは部屋も六畳から九畳と一般的な下宿屋に比べると広く、また明治45(1912)年7月15日付『朝日新聞』の「下宿の四苦八苦」という記事の引用には、「高等下宿を標榜して居るもの」「高等下宿と称して居る処」(これは、「という紛(まが)い下宿が」という含みであろう)が至るところにあったと注されている。この家はこの前者の真正高等下宿よりも、使用されている建具や雰囲気が遙かに高級であることを示している。
♡「私はそれ迄未亡人の風采や態度から推して、此御孃さんの凡てを想像してゐたのです。然し其想像は御孃さんに取つてあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからあゝなのだらう、其妻君の娘だから斯うだらうと云つた順序で、私の推測は段々延びて行きました。所が其推測が、御孃さんの顏を見た瞬間に、悉く打ち消されました。さうして私の頭の中へ今迄想像も及ばなかつた異性の匂が新らしく入つて來ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました」ここは先生が靜に一目惚れを我々に告白するシーンである。如何にも余裕派時代を髣髴とさせる漱石の語りである。若き日の私などはここで失笑してしまった。――だって、これって先生が、
『……ありゃ、悪いけどへちゃむくれの男みたようなオバサンだからな……あの面相を母親に持った娘なんだよな……軍人の娘でさ、この男みたような軍神の妻の人柄の娘でさ……こりゃ、とてもとても、期待は、出来んな……』
と思ってた。ところが! すっごい美人だったからびっくらこいた!……と述べているのだから――。また、ここでは(六十一)という不快な叔父の裏切りの中で喚起された初恋の女の面影が暗に比較されて、申し分なく靜が遙かに美しいという無言の指示がなされているのであろう。しかしそうした言辞が全くないことから、その結果として読者は先生の初恋をここに、靜が初恋の相手であるかの如くに、錯誤してしまうのである。
なお、私はこれを明治31(1898)年頃で、先生は満20歳、靜は16~17歳と推定している。即ち御嬢さんの出生は明治14(1881)年前後となる。
♡「私は喜んで此下手な活花を眺めては、まづさうな琴の音に耳を傾けました」上手い台詞である。この日、大正3(1914)年6月27日土曜日のこの「心」の連載を読んだ男どもの多くは、一日中、多かれ少なかれ心の何処かで、初恋の頃の自分の気持ちを思い出して独り蔭で微苦笑していたに違いない――。]