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2010/06/06

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月6日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十五回

Kokoro13_3   先生の遺書

   (四十五)

 私が愈(いよ/\)立たうといふ間際になつて、(たしか二日前の夕方の事であつたと思ふが、)父は又突然引つ繰返つた。私は其時書物や衣類を詰めた行李(かうり)をからげてゐた。父は風呂へ入(はい)つた所であつた。父の脊中を流しに行つた母が大きな聲を出して私を呼んだ。私は裸體(はだか)の儘母に後から抱かれてゐる父を見た。それでも座敷へ伴れて戾つた時、父はもう大丈夫だと云つた。念の爲に枕元に坐つて、濡手拭で父の頭を冷してゐた私は、九時頃になつて漸く形ばかりの夜食を濟ました。

 翌日になると父は思つたより元氣が好かつた。留めるのも聞かずに步いて便所へ行つたりした。

 「もう大丈夫」

 父は去年の暮倒れた時に私に向つて云つたと同じ言葉を又繰り返した。其時は果して口で云つた通りまあ大丈夫であつた。私は今度も或は左右なるかも知れないと思つた。然し醫者はたゞ用心が肝要だと注意する丈で、念を押しても判然した事を話して吳れなかつた。私は不安のために、出立の日が來てもついに東京へ立つ氣が起らなかつた。

 「もう少し樣子を見てからにしませうか」と私は母に相談した。

 「さうして御吳れ」と母が賴んだ。

 母は父が庭へ出たり脊戶(せど)ヘ下りたりする元氣を見てゐる間丈は平氣でゐる癖に、斯んな事が起るとまた必要以上に心配したり氣を揉んだりした。

 「御前は今日東京へ行く筈ぢやなかつたか」と父が聞いた。

 「えゝ、少し延ばしました」と私が答へた。

 「おれの爲にかい」と父が聞き返した。

 私は一寸躊躇した。さうだと云へば、父の病氣の重いのを裏書するやうなものであつた。私は父の神經を過敏にしたくなかつた。然し父は私の心をよく見拔いてゐるらしかつた。

 「氣の毒だね」と云つて、庭の方を向いた。

 私は自分の部屋に這入つて、其處に放り出された行李を眺めた。行李は何時持ち出しても差支ないやうに、堅く括(くゝ)られた儘であつた。私はぼんやり其前に立つて、又繩を解かうかと考へた。

 私は坐つた儘腰を浮かした時の落付かない氣分で、又三四日を過ごした。すると父が又卒倒した。醫者は絶對に安臥(あんぐわ)を命じた。

 「何うしたものだらうね」と母が父に聞えないやうな小さな聲に私に云つた。母の顏は如何にも心細さうであつた。私は兄と妹に電報を打つ用意をした。けれども寢てゐる父には、殆ど何の苦悶もなかつた。話をする所などを見ると、風邪でも引いた時と全く同じ事であつた。其上食慾は不斷よりも進んだ。傍(はた)のものが、注意しても容易に云ふ事を聞かなかつた。

 「何うせ死ぬんだから、旨いものでも食つて死ななくつちや」

 私には旨いものといふ父の言葉が滑稽にもにも聞こえた。父は旨いものを口に入れられる都(みやこ)には住んでゐなかつたのである。夜に入つてかき餅などを燒いて貰つてぼり/\嚙んだ。

 「何うして斯う渇くのかね。矢張心に丈夫の所があるのかも知れないよ」

 母は失望していゝ所に却つて賴みを置いた。其癖病氣の時にしか使はない渇くといふ昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用ひてゐた。

 伯父が見舞に來たとき、父は何時迄も引き留めて歸さなかつた。淋しいからもつと居て吳れといふのが重(おも)な理由であつたが、母や私が、食べたい丈物を食べさせないといふ不平を訴たへるのも、其目的の一つであつたらしい。

Line_3

 

[♡やぶちゃんの摑み:

 

♡「脊戶」裏門。裏口。

 

♡『「御前は今日東京へ行く筈ぢやなかつたか」と父が聞いた。/……然し父は私の心をよく見拔いてゐるらしかつた。/「氣の毒だね」と云つて、庭の方を向いた。』私はここで漱石は確信犯で先行する(十四)の先生と「私」の対話のシークエンスと鮮やかに対比させて描いているのだと思う。長くなるが(十四)冒頭からあの極めつけの台詞までを引用しておきたい(附したルビは総て排除した)。


 年の若い私は稍ともすると一圖になり易かつた。少なくとも先生の眼にはさう映つてゐたらしい。私には學校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであつた。敎授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであつた。とゞの詰りをいへば、教壇に立つて私を指導して吳れる偉い人々よりも只獨りを守つて多くを語らない先生の方が偉く見えたのであつた。

 「あんまり逆上ちや不可ません」と先生がいつた。

 「覺めた結果として左右思ふんです」と答へた時の私には充分の自信があつた。其自信を先生は肯がつて吳れなかつた。

 「あなたは熱に浮かされてゐるのです。熱がさめると厭になります。私は今のあなたから夫程に思はれるのを、苦しく感じてゐます。然し是から先の貴方に起るべき變化を豫想して見ると、猶苦しくなります」

 「私はそれ程輕薄に思はれてゐるんですか。それ程不信用なんですか」

 「私は御氣の毒に思ふのです」

 「氣の毒だが信用されないと仰しやるんですか」

 先生は迷惑さうに庭の方を向いた。其庭に、此間迄重さうな赤い强い色をぽた/\點じてゐた椿の花はもう一つも見えなかつた。先生は座敷から此椿の花をよく眺める癖があつた。

 「信用しないつて、特にあなたを信用しないんぢやない。人間全體を信用しないんです」

 其時生垣の向ふで金魚賣らしい聲がした。其外には何の聞こえるものもなかつた。大通りから二丁も深く折れ込んだ小路は存外靜かであつた。家の中は何時もの通りひつそりしてゐた。私は次の間に奧さんのゐる事を知つてゐた。默つて針仕事か何かしてゐる奧さんの耳に私の話し聲が聞こえるといふ事も知つてゐた。然し私は全くそれを忘れて仕舞つた。

 「ぢや奧さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。

 先生は少し不安な顏をした。さうして直接の答を避けた。

 「私は私自身さへ信用してゐないのです。つまり自分で自分が信用出來ないから、人も信用できないやうになつてゐるのです。自分を呪ふより外に仕方がないのです」

 「さう六づかしく考へれば、誰だつて確かなものはないでせう」

 「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」(以下略)

 

♡「悲酸」『大阪朝日新聞』版と単行本「こゝろ」では「悲慘」となっており、そちらが流布形であるが、実は岩波新全集の自筆原稿版を確認すると、ここと同じく「悲酸」となっている。

 

♡「渇く」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は落合直文編になる明治311898)年刊の国語辞典「ことばの泉」を引用して『頻に欲しがる』の意で、『「(特に)病後、食欲、しきりに進む」場合に言う。』と快復期の用語のように示してある。しかし、私にはこの「渇く」という言葉は、私自身も糖尿病(御存知の通り、この病気は古くは飲水病とも言った)の症状として体験したことのある激しい喉の渇きを連想させ、腎臓病を罹患しているこの父にとっては、母が誤って用いた極めて不吉な言葉――母光(みつ)の不吉なる巫女の如き言上げ――として意識してしまう語である。岩波新全集注解で重松泰雄氏は私の見解と同じくここでの「渇く」を、病的な『かわきの病』の意で注されており、肯んずることが出来る。]

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