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2010/06/08

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月8日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十七回

Kokoro13_5   先生の遺書

   (四十七)

 斯うした落付のない間にも、私はまだ靜かに坐る餘裕を右(も)つてゐた。偶には書物を開けて十頁(ページ)もつゞけざまに讀む時間さへ出て來た。一旦堅く括られた私の行李は、何時の間にか解かれて仕舞つた。私は要るに任せて、其中から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちで極めた、此夏中の日課を顧みた。私の遣つた事は此日課の三ケ一にも足らなかつた。私は今迄も斯ういふ不愉快を何度となく重ねて來た。然し此夏程思つた通り仕事の運ばない例(ためし)も少なかつた。是が人の世の常だらうと思ひながらも私は厭な氣持に抑え付けられた。

 私は此不快の裏(うち)に坐りながら、一方に父の病氣を考へた。父の死んだ後の事を想像した。さうして夫(それ)と同時に、先生の事を一方に思ひ浮べた。私は此不快な心持の兩端に地位。教育、性格の全然異なつた二人の面影を眺めた。

 私が父の枕元を離れて、獨り取り亂した書物の中に腕組をしてゐる所へ母が顏を出した。

 「少し午眠(ひるね)でもおしよ。御前も嘸(さぞ)草臥(くたび)れるだらう」

 母は私の氣分を了解してゐなかつた。私も母からそれを豫期する程の子供でもなかつた。私は單簡に禮を述べた。母はまだ室の入口に立つてゐた。

 「お父さんは!」と私が聞いた。

 「今よく寢て御出だよ」と母が答へた。

 母は突然這入て來て私の傍に坐(すわつ)た。

 「先生からまだ何とも云つて來ないかい」と聞いた。

 母は其時の私の言葉を信じてゐた。其時の私は先生から屹度返事があると母に保證した。然し父や母の希望するやうな返事が來るとは、其時の私も丸で期待しなかつた。私は心得があつて母を欺いたと同じ結果に陷つた。

 「もう一遍手紙を出して御覽な」と母が云つた。

 役に立たない手紙を何通書かうと、それが母の慰安になるなら、手數(てすう)を厭ふやうな私ではなかつた。けれども斯ういふ用件で先生にせまるのは私の苦痛であつた。私は父に叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下(みさげ)られるのを遙かに恐れてゐた。あの依賴に對して今迄返事の貰へないのも、或はさうした譯からぢやないかしらといふ邪推もあつた。

 「手紙を書くのは譯はないですが、斯ういふ事は郵便ぢやとても埒(らち)は明きませんよ。何うしても自分で東京へ出て、ぢかに賴んで廻らなくつちや」

 「だつて御父さんがあの樣子ぢや、御前、何時東京へ出られるか分らないぢやないか」

 「だから出やしません。癒るとも癒らないとも片付ないうちは、ちやんと斯うしてゐる積です」

 「そりや解り切つに話だね。今にも六づかしいといふ大病人を放(ほう)ちらかして置いて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」

 私は始め心のなかで、何も知らない母を憐れんだ。然し母が何故斯んな問題を此ざわ/\した際に持ち出したのか理解出來なかつた。私が父の病氣を餘所に、靜かに坐つたり書見したりする餘裕のある如くに、母も眼の前の病人を忘れて、外の事を考へる丈、胸に空地(すきま)があるのか知(し)らと疑つた。其時「實はね」と母が云ひ出した。

 「實は御父さんの生きて御出のうちに、御前の口が極つたら嘸安心なさるだらうと思ふんだがね。此樣子ぢや、とても間に合はないかも知れないけれども、夫にしても、まだあゝ遣つて口も慥(たしか)なら氣も慥なんだから、あゝして御出のうちに喜こばして上げるやうに親孝行をおしな」

 憐れな私は親孝行の出來ない境遇にゐた。私は遂に一行の手紙(てかみ)も先生に出さなかつた。

Line_5

 

やぶちゃんの摑み:

 

「右つてゐた」「有」の誤植。

 

♡「地位。」「、」(読点)の誤植。

 

♡「私は此不快の裏に坐りながら、一方に父の病氣を考へた。父の死んだ後の事を想像した。さうして夫と同時に、先生の事を一方に思ひ浮べた。私は此不快な心持の兩端に地位。教育、性格の全然異なつた二人の面影を眺めた」たびたび繰り返される父―先生の二項対立であるが、たとえばここで実父の存在を想起するのに、わざわざ前段の「不快」に引き付けている点に着目したい。それは「私」の無意識に、生物学的遺伝的に自己と言う固体に直結する実父の存在に対する、根源的な生理的嫌悪感が存在することの表象であり(それをエディプス・コンプレクス的なるものとして捉えるかどうかは別として)、そうした「私」の異常な感覚を小出しにすることで、事前に何度も読者の感覚にカンフルを打っておき、そして違和感なく(麻痺状態で)、『父を捨てて先生に走る』「私」を受容させることを目的としている、と私は睨んでいる。

 

♡「お父さんは!」「!」は「?」の誤植と思われる。

 

「私も母からそれを豫期する程の子供でもなかつた」現行原文も同じであるが、私は日本語としておかしい気がする。ここは「私も母にそれを期待する程の子供でもなかつた」の意であろう。

 

「そりや解り切つに話だ」「そりや解り切つた話だ」の誤植。]

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