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2010/06/09

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月9日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十八回

Kokoro13_7   先生の遺書

   (四十八)

 兄が歸つて來た時、父は寢ながら新聞を讀んでゐた。父は平生から何を措いても新聞丈には眼を通す習慣であつたが、床についてからは、退屈のため猶更それを讀みたがつた。母も私も强ひては反對せずに、成るべく病人の思ひ通りにさせて置いた。

 「さういふ元氣なら結構なものだ。餘程惡いかと思つて來たら、大變好(い)いやうぢやありませんか」

 兄は斯んな事を云ひながら父と話をした。其賑やか過ぎる調子が私には却つて不調和に聞こえた。それでも父の前を外して私と差し向ひになつた時は、寧ろ沈んでゐた。

 「新聞なんか讀ましちや不可(いけ)なかないか」

 「私もさう思ふんだけれども、讀まないと承知しないんだから、仕樣がない」

 兄は私の辯解を默つて聞いてゐた。やがて、「能く解るのかな」と云つた。兄は父の理解力が病氣のために、平生(へいせい)よりは餘程鈍つてゐるやうに觀察したらしい。

 「そりや慥(たしか)です。私はさつき二十分(ふん)許り枕元に坐つて色々話して見たが、調子の狂つた所は少しもないです。あの樣子ぢやことによると未だ中々持つかも知れませんよ」

 兄と前後して着いた妹の夫の意見は、我々よりもよほど樂觀的であつた。父は彼に向つて妹の事をあれこれと尋ねてゐた。「身體(からだ)が身體だから無暗に汽車になんぞ乘つて搖れない方が好い。無理をして見舞に來られたりすると、却つて此方が心配だから」と云つてゐた。「なに今に治つたら赤ん坊の顏でも見に、久し振に此方から出掛るから差支ない」とも云つてゐた。

 乃木(のき)大將の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知つた。

 「大變だ大變だ」と云つた。

 何事も知らない私達は此突然な言葉に驚ろかされた。

 「あの時は愈(いよ/\)頭が變になつたのかと思つて、ひやりとした」と後で兄が私に云つた。「私も實は驚ろきました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであつた。

 其頃の新聞は實際田舍ものには日每に待ち受けられるやうな記事ばかりあつた。私は父の枕元に坐つて鄭寧(ていねい)にそれを讀んだ。讀む時間のない時は、そつと自分の室へ持つて來て、殘らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木(のき)大將と、それから官女見たやうな服裝をした其夫人の姿を忘れる事が出來なかつた。

 悲痛な風が田舍の隅迄吹いて來て、眠たさうな樹や草を震はせてゐる最中に、突然私は一通の電報を先生から受取つた。洋服を着た人を見ると犬が吠えるやうな所では、一通の電報すら大事件であつた。それを受取つた母は、果して驚ろいたやうな樣子をして、わざ/\私を人のゐない所へ呼び出した。

 「何だい」と云つて、私の封を開くのを傍(そば)に立つて待つてゐた。

 電報には一寸(ちよつと)會ひたいが來られるかといふ意味が簡單に書いてあつた。私は首を傾けた。

 「屹度(きつと)御賴(おたの)もうして置いた口の事だよ」と母が推斷して吳れた。

 私も或は左右かも知れないと思つた。然しそれにしては少し變だとも考へた。兎に角兄や妹の夫迄呼び寄せた私が、父の病氣を打遣(うちや)つて、東京へ行く譯には行かなかつた。私は母と相談(さうたん)して、行かれないといふ返電を打つ事にした。出來る丈簡略な言葉で父の病氣の危篤に陷りつゝある旨も付け加へたが、夫(それ)でも氣が濟まなかつたから、委細手紙(てかみ)として、細かい事情を其日のうちに認(したゝ)めて郵便で出した。賴んだ位地の事とばかり信じ切つた母は、「本當に間の惡い時は仕方のないものだね」と云つて殘念さうな顏をした。

Line_7

 

やぶちゃんの摑み:

 

「乃木大將の死んだ時」乃木希典(嘉永2(1849)年~大正元(1912)年)は9月13日金曜日の明治天皇大葬の夕刻、まず妻靜が乃木の介添えで胸を突き、続いて乃木が割腹、再度、衣服を整えた上、自ら頸動脈(及び気管)を切断して自刃した。以下、ウィキの「乃木希典」より引用する。『遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記されていた。このときに乃木は

 

うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり

 

という辞世を詠んでいる』。『日露戦争時において乃木は子息を無くし、多くの犠牲者を出したことから、責任を取るために切腹を申し出ていたが、明治天皇から制止され、子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと学習院の院長を命ぜられた。その際「自分が死ぬまで死ぬことはまかりならん」と言われた通り、明治天皇崩御に合わせ殉死した』。

 

「私の眼は長い間、軍服を着た乃木大將と、それから官女見たやうな服裝をした其夫人の姿を忘れる事が出來なかつた」しばしば言われることであるが、この新聞掲載の乃木夫妻の遺影(これらは確信犯の遺影である)を「私」が見ているのは御大葬翌日9月14日(日)以降、二三日中といった感じの設定であるけれども、実際にはこれはあり得ないであろうシチュエーションである。例えば『東京朝日新聞』では、洋風客間で新聞を読む乃木と部屋の隅に佇む靜の有名な遺影写真は9月30日(月)附紙面(写真見出し「殉死の朝」)の掲載、同日同誌東京市内版に軍服と女官正装の玄関前での一人一人の個人遺影掲載された。これによっても乃木の写真を「私」がこうして落ち着いて見ることは現実にはあり得ないことになる。何故なら、私の計算では9月28日(土)から遅くとも30日(月)には、先生から遺書が届き、即日「私」は東京へと昼頃には立つことになるからである。

 

「一寸會ひたいが來られるか」この時(御大葬翌日9月14日頃)、先生は「私」に直に秘密の過去を告白するつもりでいたことが分かる。遺書の末尾にも先生はこう書いている。

 

私が死なうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自敍傳の一節を書き殘すために使用されたものと思つて下さい。始めは貴方に會つて話をする氣でゐたのですが、書いて見ると、却つて其方が自分を判然描き出す事が出來たやうな心持がして嬉しいのです。

 

私はこの間の先生の年表を次のように作製している(「こゝろ」マニアックス)。

 

●9月13日(金)   乃木大将殉死の報に触れる。同日、私へ電報を打つ。
            「チヨツトアヒタイガコラレルカ」
●9月14日(土)か  私からの電報を受け取る。同日、再び私へ電報を打つ。

 15日(日)     「コナイデモヨロシイ」
●9月16日(月)か  自殺を決意、遺書の執筆を始める。

 17日(火)

 

「然しそれにしては少し變だとも考へた」諸君! この(四十八)章から(四十九)章の時間こそが、先生が自死を決意した時間であることに気づけ!]

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