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2010/06/04

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月4日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十三回

Kokoro13   先生の遺書

   (四十三)

 父は明らかに自分の病氣を恐れてゐた。然し醫者の來るたびに蒼蠅い質問を掛(かけ)て相手を困らす質(たち)でもなかつた。醫者の方でも亦遠慮して何とも云はなかつた。

 父は死後の事を考へてゐるらしかつた。少なくとも自分が居なくなつた後(あと)のわが家を想像して見るらしかつた。

 「小供に學問をさせるのも、好し惡しだね。折角修業をさせると、其小供は決して宅へ歸つて來ない。是ぢや手もなく親子を隔離するために學問させるやうなものだ」

 學問をした結果兄は今遠國にゐた。教育を受けた因果で、私は又東京に住む覺悟を固くした。斯ういふ子を育てた父の愚癡はもとより不合理ではなかつた。永年住み古した田舍家の中(なか)に、たつた一人取り殘されさうな母を描き出す父の想像はもとより淋しいに違ひなかつた。

 わが家(いへ)は動かす事の出來ないものと父は信じ切つてゐた。其中に住む母も亦命のある間は、動かす事の出來ないものと信じてゐた。自分が死んだ後、この孤獨な母を、たつた一人伽藍堂(がらんだう)のわが家に取り殘すのも亦甚だしい不安であつた。それだのに、東京で好(い)い地位を求めろと云つて、私を強ひたがる父の頭には矛盾があつた。私は其矛盾を可笑しく思つたと同時に、其御蔭で又東京へ出られるのを喜こんだ。

 私は父や母の手前、此地位を出來る丈の努力で求めつゝある如くに裝ほはなくてはならなかつた。私は先生に手紙(てかみ)を書いて、家の事情を精しく述べた。もし自分の力で出來る事があつたら何でもするから周旋して吳れと賴んだ。私は先生が私の依賴に取り合ふまいと思ひながら此手紙(てかみ)を書いた。又取り合ふ積でも、世間の狹い先生としては何うする事も出來まいと思ひながら此手紙(てかみ)を書いた。然し私は先生から此手紙(てかみ)に對する返事が屹度來るだらうと思つて書いた。

 私はそれを封じて出す前に母に向かつて云つた。

 「先生に手紙(てかみ)を書きましたよ。あなたの仰しやつた通り。一寸讀んで御覽なさい」

 母は私の想像したごとくそれを讀まなかつた。

 「さうかい、夫ぢや早く御出し。そんな事は他が氣を付けないでも、自分で早く遣るものだよ」

 母は私をまだ子供のやうに思つてゐた。私も實際子供のやうな感じがした。

 「然し手紙ぢや用は足りませんよ。何うせ、九月にでもなつて、私が東京へ出てからでなくつちや」

 「そりや左右かも知れないけれども、又ひよつとして、何んな好(い)い口がないとも限らないんだから、早く賴んで置くに越した事はないよ」

 「えゝ。兎に角返事は來るに極つてますから、さうしたら又御話ししませう」

 私は斯んな事に掛けて几帳面な先生を信じてゐた。私は先生の返事の來るのを心待に待つた。けれども私の豫期はついに外れた。先生からは一週間經つても何の音信もなかつた。

 「大方どこかへ避暑にでも行つてゐるんでせう」

 私は母に向つて云譯らしい言葉を使はなければならなかつた。さうして其言葉は母に對する言譯許りでなく、自分の心に對する言譯でもあつた。私は強ひても何かの事情を假定して先生の態度を辯護しなければ不安になつた。

 私は時々父の病氣を忘れた。いつそ早く東京へ出てしまはうかと思つたりした。其父自身もおのれの病氣を忘れる事があつた。未來を心配(しんはい)しながら、未來に對する處置は一向取らなかつた。私はついに先生の忠告通り財産分配(ぶんはい)の事を父に云ひ出す機會を得ずに過(すぎ)た。

Line

 

[♡やぶちゃんの摑み:

 

♡「先生からは一週間經つても何の音信もなかつた」「私」は淋しい。そして甘い。彼は既に一度、(四十)で先生に「原稿紙へ細字で三枚ばかり國へ歸つてから以後の自分といふやうなものを題目にして書き綴つたのを送」っているが返事は来なかった。次に崩御の直後に「今度の事件に就いて先生に手紙を書かうかと思つて、筆を執りかけた。私はそれを十行ばかり書いて已めた。書いた所は寸々に引き裂いて屑籠へ投げ込んだ。(先生に宛てゝさう云ふ事を書いても仕方がないとも思つたし、前例に徴して見ると、とても返事を吳れさうになかつたから)。私は淋しかつた。それで手紙を書くのであつた。さうして返事が來れば好いと思ふのであつた」が、ここでは結局、音信を認(したた)めていない訳である。天皇の死に感慨など持たぬはずと、何処かで先生の心性を思っている「私」ならば、正にここに言うように「又取り合ふ積でも、世間の狹い先生としては何うする事も出來まいと思ひながら此手紙を書いた」訳で、なおのこと、返事は来そうもないと考えるべきである。「然し私は先生から此手紙に對する返事が屹度來るだらうと思つて書いた」のは「私」が淋しいからである。たとえ中身のない、挨拶の一言であっても『恋人』からの手紙が欲しいのである。

 我々は――最早、知らず知らずのうちに、この学生である「私」に成りきった(成りきらされた)我々は、「私」と同じように、『先生は今日只今、一体何を考えているのか?』そもそも『先生はどうしているのか?』と、不在の先生への激しい恋慕を掻き立てられるのである。そうだ。我々は「私」を通して、先生へ焼け付くような恋情を感じているのである。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は、ここに注して『図式的に言えば、〈上〉が縦軸をつかった過去の真相に向かけてのサスペンス劇であったのに対して、〈中〉は横軸をつかった、いま別の場所への興味をかきたてられていくサスペンス劇であったとみなすこと』が出来よう、という印象的な解説をなさっておられる。激しく同感するものである。

 フライングしよう。先生はこの時、返事をしなかった(出来なかった)心境を遺書冒頭パート(遺書の冒頭ではない。(五十五)=所謂「こゝろ」の「先生と遺書」一の冒頭でである)で次のように語り出すからである。

「‥‥私は此の夏あなたから二三度手紙(てかみ)を受け取りました。東京で相當の地位を得たいから宜しく賴むと書いてあつたのは、たしか二度目に手に入つたものと記憶してゐます。私はそれを讀んだ時何とかしたいと思つたのです。少なくとも返事を上げなければ濟まんとは考へたのです。然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです。御承知の通り、交際區域の狹いといふよりも、世の中にたつた一人で暮してゐるといつた方が適切な位(くらゐ)の私には、さういふ努力を敢てする餘地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。實をいふと、私はこの自分を何うすれば好(い)いのかと思ひ煩つてゐた所なのです。此儘人間の中に取り殘されたミイラの樣に存在して行かうか、それとも…其時分の私は「それとも」といふ言葉を心のうちで繰返すたびにぞつとしました。馳足(かけあし)で絶壁の端迄來て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のやうに。私は卑怯でした。さうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶したのです。遺憾ながら、其時の私には、あなたといふものが殆ど存在してゐなかつたと云つても誇張ではありません。一歩進めていふと、あなたの地位、あなたの糊口の資、そんなものは私にとつて丸で無意味なのでした。何うでも構はなかつたのです。私はそれ所の騷ぎでなかつたのです。私は狀差へ貴方の手紙を差したなり、依然として腕組(うでぐみ)をして考へ込んでゐました。宅(うち)に相應の財產があるものが何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といつて藻搔き廻るのか。私は寧ろ苦々しい氣分で、遠くにゐる貴方に斯んな一瞥を與へた丈でした。私は返事を上げなければ濟まない貴方に對して、言譯のために斯んな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾な言葉を弄するのではありません。私の本意は後を御覧になれば能く解る事と信じます。兎に角私は何とか挨拶すべきところを默つてゐたのですから、私は此怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思ひます。

そうだ、先生は「何とかしたいと思つた」「少なくとも返事を上げなければ濟まんとは考へた」のだった――しかし先生は「それ所の騷ぎでなかつた」、先生の心の中にはその時、「私」(=学生)のという存在が殆んど掻き消えていたのである。その激しい懊悩は何によるものか?――勿論、明治天皇の死というものが象徴するところの何ものか、以外にはあり得ないのである――。]

 

   *

 

 先生の遺書パートに入ると、あれもこれも有象無象皆「摑み」に見えてきて関係妄想のように僕の心に襲いかかって来る。さればこそ遅々として進まぬ。それでもやっと先生の郷里出奔、下宿探しのシーン(六十四)の「摑み」まで辿り着いたよ。

 

 

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