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2010/06/10

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月10日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十九回

Kokoro13_8   先生の遺書

   (四十九)

 私の書いた手紙は可なり長いものであつた。母も私も今度こそ先生から何とか云つて來るだらうと考へてゐた。すると手紙(てかみ)を出して二日目にまた電報が私宛で屆いた。それには來ないでもよろしいといふ文句だけしかなかつた。私はそれを母に見せた。

 「大方手紙(てがみ)で何とか云つてきて下さる積だらうよ」

 母は何處迄も先生が私のために衣食の口を周旋して吳れるものと許り解釋してゐるらしかつた。私も或は左右かとも考へたが、先生の平生から推して見ると、何うも變に思はれた。「先生が口を探してくれる」。これは有り得べからざる事のやうに私には見えた。

 「兎に角私の手紙はまだ向ふへ着いてゐない筈だから、此電報は其前に出したものに違ひないですね」

 私は母に向つて斯んな分り切つた事を云つた。母は又尤もらしく思案しながら「左右だね」と答へた。私の手紙を讀まない前に、先生が此電報を打つたといふ事が、先生を解する上に於て、何の役にも立たないのは知れてゐるのに。

 其日は丁度主治醫が町から院長を連れて來る筈になつてゐたので、母と私はそれぎり此事件に就いて話をする機會がなかつた。二人の醫者は立ち合の上、病人に浣腸などをして歸つて行つた。

 父は醫者から安臥を命ぜられて以來、兩便とも寢たまゝ他(ひと)の手で始末して貰つてゐた。潔癖(けつへき)な父は、最初の間こそ甚しくそれを忌み嫌つたが、身體(からだ)が利かないので、己(やむ)を得ずいや/\床の上で用を足した。それが病氣の加減で頭がだん/\鈍くなるのか何だか、日を經るに從つて、無精な排泄を意としないやうになつた。たまには蒲團や敷布を汚(よご)して、傍(はた)のものが眉を寄せるのに、當人は却(かへつ)て平氣でゐたりした。尤も尿の量は病氣の性質として、極めて少なくなつた。醫者はそれを苦にした。食欲も次第に衰へた。たまに何か欲しがつても、舌が欲しがる丈で、咽喉(のど)から下へは極(ごく)僅しか通らなかつた。好な新聞も手に取る氣力がなくなつた。枕の傍(そば)にある老眼鏡は、何時迄も黑い鞘に納められた儘であつた。子供の時分から仲の好かつた作(さく)さんといふ今では一里ばかり隔たつた所に住んでゐる人が見舞に來た時、父は「あゝ作さんか」と云つて、どんよりした眼を作さんの方に向けた。

 「作さんよく來て吳れた。作さんは丈夫で羨ましいね。己(おれ)はもう駄目だ」

 「そんな事はないよ。御前なんか子供は二人とも大學を卒業するし、少し位(くらゐ)病氣になつたつて、申し分はないんだ。おれを御覽よ。かゝあには死なれるしさ、子供はなしさ。たゞ斯うして生きてゐる丈の事だよ。達者だつて何の樂しみもないぢやないか」

 浣腸をしたのは作さんが來てから二三日あとの事であつた。父は醫者の御蔭で大變樂になつたといつて喜んだ。少し自分の壽命に對する度胸が出來たといふ風に機嫌が直つた。傍(そば)にゐる母は、それに釣り込まれたのか、病人に氣力を付けるためか、先生から電報のきた事を、恰も私の位置が父の希望する通り東京にあつたやうに話した。傍にゐる私はむづがゆい心持がしたが、母の言葉を遮る譯にも行かないので、默つて聞いてゐた。病人は嬉しさうな顏をした。

 「そりや結構です」と妹の夫も云つた。

 「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。

 私は今更それを否定する勇氣を失つた。自分にも何とも譯の分らない曖昧な返事をして、わざと席を立つた。

Line_8

 

やぶちゃんの摑み:この回、理由不明であるが、『大阪朝日新聞』は一日ずれて、6月11日(木曜日)掲載となっており、以降、6月12日までその一日のずれが続く(底本には、この遅延現象についての説明はない。失礼ながら、底本は「近代文学初出復刻」と名打っているが、この遅延の理由を注しないのは一級資料としては杜撰であると言わざるを得ない)。しかも、その後もズレは増減を繰り返し、本作の最終章まで続いてしまうのである。

 

「來ないでもよろしい」前章注参照。「私の手紙を讀まない前に、先生が此電報を打つたといふ事が、先生を解する上に於て、何の役にも立たないのは知れてゐる」という語に我々は騙されるのである。明治天皇そして乃木の殉死という極めて象徴的な「事件」の直後に「私」に「來ラレルカ」と打電をした先生は、直接、「私」に過去を語ることを決意したのだということは鈍感な読者にも容易に知れることである。ところが、多くの読者は先生が「私」の時間の中のどの瞬間に自死を決したかを問題にしない。これは片手落ちである(私は「片手落ち」という語を差別用語として認識しない。嫌な方は近松も漱石も皆、焚書にするがよい)。今、読んでいる、この時、先生は確かに自死を決意している!

 

「先生の平生から推して見ると、何うも變に思はれた」漱石のこの二度の「變」の暗示は確信犯である。分かり過ぎるほどの伏線である。しかし、多くの読者はそれに鈍感であった。少なくとも私は、「私」の作中内時間とシンクロさせて先生の自死の問題を扱った論文を見たことがないからである。高校生諸君、まだまだ、面白いぞ! 「こゝろ」は!

 

♡「兎に角私の手紙はまだ向へ着いてゐない筈だから、此電報は其前に出したものに違ひないですね」「私」が何故「母に向つて斯んな分り切つた事を云つた」のか? これこそ「變」ではないのか? 少なくとも私はそう思う。そして、先生の自死の決意の瞬間が、正にこの間にこそ――先生からの二つの「チヨツトコラレルカ」と「コナイデモヨロシイ」の電報の間にこそ――あったことを示すための確信犯である、と私は確信するのである。それは9月14日(土)か15日(日)――即ち、このどちらかこそが『先生自死記念日』(但し、明確な自死決定は少し後の9月16日(月)か17日(火))であると私は思うのである ……ところが!……ところが、残念なことに、この私の見解は、先生の遺書の最初で、あっけなく否定されてしまうのである!……何故なら、これは――「私」の早とちり(!?)であった――という事実があっけらかんと示されるから……なのである。以下、その部分をフライングして確認してみよう。
   ――
その部分は、こう始まる。……
『其後私はあなたに電報を打ちました。有體に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。』
それに対して、「私」は、
『返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ました』
が、それを先生は、
『失望して永らくあの電報を眺めてゐました。』
と言う。そうして付け加えて、
『あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙を寄こして吳れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。』
と続く。その後に、先生は懺悔風に、
『あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。』
と述懐する。そして『私は斯ういふ矛盾な人間なのです』と述べて「私」に深謝するのである。ところがその次に、「私」が父の病状等を仔細に書いた「長い手紙」(=私が先生に送った「最後の手紙」)を『讀んだ時』、
『私は惡い事をした』
と思ったと懺悔し、更に、そういう謝罪を含んだ、
『返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに已めました。』
と書く。その次には、あの印象的な一句、
『何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。』
が綴られる。そうして、
『私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。』
という一文を以って先生の遺書の最初のパート(「こゝろ」の「先生と遺書」の一)は終わる。……まだ判らんかね?

『さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから』だ!

ここには有意なインターミッションが入ってしまうことに気づき給え! 
   ――
……かつて……
……先生じゃないが……「私は失望して永らく」この文章「を眺めてゐました」よ!……
……だって!……これじゃ、あの「私」の「兎に角私の手紙はまだ向へ着いてゐない筈だから、此電報は其前に出したものに違ひないですね」は……トンダ、早トチリのコンコンチキ、それに載せられた私は、トンダ、馬鹿みたチキチキバンバンじゃあねえか!……
……こんなところに意味のない「早トチリ」のお笑いがあっていいんですか?! 漱石先生?! お答あれ!……
……最後に言いたい。
私は、漱石は辻褄合わせが面倒臭くなったのだと思う。
遺書を書き始めてみて、先生の自死の決意の瞬間を、予定していたものから変更してしまったのだと思う。
先程の私の妙な言い方を用いるならば、『先生自死記念日』と明確な自死決定の日付の微妙なズレを漱石は初期設定としていたのであるが、いざ、遺書にとりかかってみたところそのような微妙なズレを分かり易く書くことが不可能だということに気付いた。そこで、辻褄の合うような事実として、遺書のようなシチュエーション――「私」の手紙を読んでから「コナイデモヨロシイ」電報を打った、その後に自死の決意と遺書執筆に取り掛かったという、如何にも分かり易い素直な順列設定――にしてしまったのだと確信するのである。
漱石はこうした見るからに分かるような論理矛盾を問題視しない(単行本化するに際し手を加えない)という妙なところ――自己の生み出した作品の最初の生(ナマ)のものへの執着――があるように思われる。そもそも「私」が「手紙を出して二日目にまた電報が私宛で屆いた」際に、「變」だと感じたのは、それが余りに早い、即ち、二日前に出した手紙は、物理的に考えて絶対にまだ先生の手元についていないと判断出来る短さであったからこそ、「私」は「兎に角私の手紙はまだ向へ着いてゐない筈だから、此電報は其前に出したものに違ひないですね」と言わずもがなの当たり前の「分り切つた事」を母に言っているのである!……
――この矛盾、それがあまりにはっきりし過ぎていて、なおかつ、あっけらかんと書かれているために……実はみんな、それに気付かないんじゃないかな? と、私は密かに思っているぐらいなのである……

 

「主治醫が町から院長を連れて來る筈になつてゐた」この描写から、必ずしもこの「私」の住む村が小規模な山間部にあるものではないということが分かる。即ち、「私」の村には町の大きな病院の出張診療所があり、そこの医師を主治医としているということを示すからである。この出張診療所は巡回式の非常住タイプかも知れないが、父の急変にかなり小まめに往診しているところを見ると、少なくともこの「私」の村の診療所をベースにその他の診療所を巡回している医師と考えられる。

 

「子供の時分から仲の好かつた作さん」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏はここに目から鱗の注を附しておられる。「こゝろ」フリークを自任する私でさえ、ここに気付くことはなかった。著作権の問題から、今まで他者の注を完全に引き写すことはして来ていないのであるが、ここだけは是非とも例外ながら引用させて頂く。


   《引用開始》


二人のやりとりの調子からも、子供の時からの仲好しということからも、父と作さんとが階層的にへだたった関係であったとは考えにくい。つまり、作さんの家もそこそこの地主階級であったと考えられる。興味深いのは、作さんが「今では一里ばかり隔たつた所に住んで居る」=転居していったという点だ。ヒントとなるのは、「かゝあには死なれるし、子供はなしさ」という情報であり、養子もむかえなかったことがこれでわかるが、現在、一人住まいであるとは考えられず、だとしたら分家筋とかの親類の家にでも身を寄せているのだろうか。家族にも恵まれなかったことは確かだが、もう一つ考えられるのは、かつては私の家と肩を並べるくらいの地主であった作さんの家が没落してもいったのではないか、ということだ。そのために、養子を迎えることもできなかったのかもしれないのである。柳田国男の『故郷七十年』には、そのような「村の有志家のうち、ちょっとした蹉跌で失脚するものが少なくなかった」例が多数報告されている。「辻川の村でもどうしても滅びなければならない家というのが、もう早く決まっていた。私の生家の松岡なんかもその一つだったが、この外にも、村の水平より高い考えをもって、気位だけは高いが実力が伴わなかった家が大分あった。やっぱり新しい時代であったから、その波にまき込まれて滅びている。私どもが覚えてからでも、そういう家が三、四軒や、五、六軒はあった。その代りに一方では『ああ、あれが出世しあたか』というような思いがけない人もあった」。もちろん、没落した家も何らかのかたちでは存続していたのである。「そのころはどの家でも資産よりやや豊かな生活、自由な生活をし、本など読むので口ばかり達者になり、人中へ出て酒を飲む機会がふえて、家の財産を失ってしまったという話が多かった。しかし家がまるきり絶えたわけでなく、どこかに移って生活を続けることになる」といったように。

 

   《引用終了》

 

柳田国男(明治8(1875)年~昭和371962)年)は現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川に松岡操・たけの六男として生まれた。以下、ウィキの「柳田国男」から引用する、『父操は姫路藩儒者角田心蔵の娘婿田島家の弟として一時籍を入れ、“田島賢次”という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や好古堂という学校で修行し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任した。明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には、じつに予期せざる家の変動でもあり、父操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという』。『幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を乱読。13歳のときに長男の鼎に引き取られ茨城県の利根川べりに住む。この際に隣家の小川家の蔵書を乱読、また利根川の風物に強い印象を受ける。16歳のときに東京に住んでいた兄、井上通秦と同居、19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎える』という事蹟を持つ。因みに藤井氏はある種の確信犯で柳田を引用している感じがする。藤井氏は「私」の故郷を京阪兵庫辺りに絞っておられるからである。それにしてもこうした前近代的社会の崩落をここに立ち止って見出して下さったのには深く感謝するものである。これは確かに深い設定であり、藤井氏の引用する柳田の言説もこのシーンの地底を的確にディグしているのである。]

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